─ 前日 ─
はじめは日常場面からのスタートですが、徐々に加速していきます。
── 千葉 ──
門扉を開ける。ギイイと軋む音が夜陰に響く。日増しに大きくなっている、ように思う。
まるで「今、帰ってきましたよ」と、ご近所中に触れ回っているようでみっともない。妻の言葉だ。もう何度も聞かされている。
「潤滑剤させば? 売ってるだろう、ホームセンターに」私が言うと、
「お父さんやってよ。こういうのは男の仕事でしょ」妻が言い返してくる。
ちなみに、私たち夫婦は互いのことを、「お父さん」、「お母さん」と呼び合っている。娘がいない時には、「なあ」とか「ねえ」とか、たまに、「君さあ」、「あなたさあ」となることもあるが、名前を呼ぶことだけはない。妻はどうか知らないが、少なくとも私は名を口にすることが照れくさい。
それはそうと、門扉に潤滑剤を注すのは私の仕事ではない。潤滑剤を買ってくることも私の仕事ではない。
だって、家のことは専業主婦の領分だろう。
もちろん、口には出さない。そんなことを言ったら最後、恐ろしい攻撃が数日間続くことは経験上分かっている。
しかし、だ。
私は、会社で働いているんだ。金を稼いでいるんだ。家のことくらいはやってくれよな、主婦なんだから。本音を言えば、これくらいは言ってやりたい。
許されるなら、こうも言いたい。
家事が忙しいと言ったって、洗濯は洗濯機、衣類乾燥機があるから干す手間もない。食器洗いは食洗機がやってくれているんだし、この前、ロボット掃除機だって買ったじゃないか。みんな機械がやってくれるんだから、あとは料理くらいのものだろう。自由時間なんて幾らでもあるじゃないか。
でも、言わない。
二十年の結婚生活で学んできた。これらの主張は、即ち宣戦布告に等しい。今は平和が保てているのだ。何もこっちから紛争をけしかけることはないじゃないか。だから、黙っている。
扉を開ける。
「ただいまー」我ながら疲れた声だ。
居間の扉の向こうから、くぐもった声が聞こえる。おそらく「お帰りなさい」と言ったのだろう。
居間に入ると、ニンニクとニラと胡麻油のいい匂いがした。今日は餃子か。
食卓には、妻と娘が居て、テレビを見ながら箸を動かしている。私を振り返りもしない。
「お風呂? ご飯?」向こうを見たまま、妻がそう尋ねてきた。
「ああ・・・風呂、にしようかな」
「そうそう、今日はシャワーだけね」
「え? 風呂入れてないのか」声に不機嫌が滲んだのが自分でもわかった。
「湯舟洗ってないのよ。忙しかったの、今日」
何が忙しいだよ。風呂くらい洗えよな。
言いそうになるが、もう一人の私が頭の中で叫ぶ。抑えろ、大したことじゃない。
「ああ、いいよ、分かった」少しぶっきらぼうになったが、それでも静かに返して、隣の寝室に入った。
上着を脱ぎ、ネクタイを外し、ズボンを脱いで、それらをハンガーに掛け、パイプ製のラックに戻す。すべての動作が、少々乱暴だった。子供っぽいと自覚しながらも、物に当たっていた。そして、替えの下着とスウェットの上下を手に持って寝室を出る。
「またあ! やめてよ、パンツ一丁でうろつくの!」娘が途端に文句を言ってくる。
何だよ、ずっとテレビの方を向きっぱなしで、振り向きもしなかったくせに。ひとが通る時だけ、こっち向くなよな!
「パンツ一丁じゃない、ワイシャツも着てるし、靴下も履いてる」と足を上げて見せる。
「サイテー!」娘は、フンとテレビの方を向いた。
それが、親に向かって言う台詞か!
思うが、これも言わない。
いまは一番感じやすい年頃なんだから、気を付けてよね。妻から散々言われている。分かっているさ、俺だって。
ついこの前まで、一緒に風呂に入っていたのに。二人で湯船に浸かりながら、ずいずいずっころばし、とやっていた情景が懐かしく思い出される。あの頃は、お父さんっ子だったよなあ。それが、いつの間にか向こう側に付きやがって。まったく、男親なんて、つまらないものだ。
洗面所に入って服を脱ぎ、風呂場の扉を開ける。冷たい空気に、体がブルっと震えた。もう四月だっていうのに、冷えやがるなあ。気を付けないとヒートショックで心臓麻痺なんてこともあるからな。などと考えながら、シャワーの栓を開く。湯気が立ってきたのを確認して、立ったまま温水を浴びる。浴室中に勢いよく水滴が飛び散り、湯気が辺りを白く包んだ。
髪、顔、体と洗うのに十分とかからない。
タオルを掴み、洗ったのと同じ順番に拭いていく。風呂場から出ようと、足を踏み出したところで、足元のタイルに目がいった。目地が黒い。カビだ。改めて浴室内を見回す。排水溝周辺を中心に、少し変色している。
なんだよ、カビ取り剤くらい撒けよな、大した手間じゃないだろうが。
思いはしたが、多分言わない。
ま、もっと目立ってくれば、妻がやるだろう。
スウェットを着込んでから、ドライヤーで髪を乾かし、洗面所を出ると、居間を斜めに横切って真っすぐ冷蔵庫に向かう。扉を開け、缶ビールを取り出すと、突っ立ったままで、プシュッと開け、グビグビと流し込む。
はあー、至福の時だ。
と、「また裸足。靴下履いてよね」対面式キッチンのシンクで食器を洗っている妻が、私の足元を睨みつけている。
居間は全てフローリングである。素足で歩くと、床に足跡が残る。妻はそれが嫌らしく、靴下かスリッパを履くように口うるさく言う。余計な揉め事は起こしたくないので、私も家の中で靴下を履くように気を付けてはいるのだが、しかし、風呂上りは勘弁してくれ。だって、足が蒸れるじゃないか。
思ったが、言わない。
「うん、これ飲んだら・・・」そして、一本飲み干し、二本目を取り出して、それを持って食卓に着く。
食卓には、餃子がフライパンごと載っていた。
もうちょっと、皿に載せるとかさあ。
「なに? 皿に盛れって?」
はっと、右上に顔を向けた。飯を盛った茶碗を手にした妻が、丸みのある顔と同じくらい丸い目をじっと止めて、私の顔を見ている。
しまった。きっと、フライパンを見ながら顔を顰めていたに違いない。昔、まだ若かったころ、上司だった人からも言われたことがある。君は、顔に出やすいから、お客さんの前では気を付けてくれよ。
「いや、この方が冷めなくていいよ」私は急いでそう言うと、フライパンの中の餃子に箸を伸ばした。餃子は冷めていた。
食事を終え、食器とフライパンをシンクまで持っていくと、食器を棚に戻していた妻が振り返って、ゴム手袋をはめた。
「あのさ、食洗機、使わないの?」素朴な疑問を吐く私に、妻は視線すら向けずに皿に水を掛け始めた。
「食べ残し、油汚れ、米、卵みたいなこびりつき、これは下洗いした方がいいの。ざっと水で流しておいてから、仕上げの洗剤洗いを機械がやるってことね」
「そうなんだ・・・二度手間だな」
すると妻はふっと笑った。「二度手間ってことじゃないのよ。手洗いだって、スポンジでこする前に、水で流すんだから。食洗機はスポンジでこするところをやってくれるのよ。それだけで、結構助かるの」そんなことも知らないのね。そんなふうな言葉の切り方だった。
「ふうん」と言い、私は離れた。
「ねえ、靴下」と、妻の声が後ろから飛んでくる。
私は、テレビの前に陣取る前に、靴下を取りに寝室に入った。
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