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八時過ぎの光

作者: 渋谷

朝の八時を少し回った時計の文字盤を、私は無表情で見つめていた。うるさく鳴り響く目覚まし時計の音が、部屋の中で虚しく、月曜日の始まりを知らせる。今日からまた長い一週間が始まる。鏡に映る自分の顔は相変わらずの死んだ目をしていて、それを確認して少しだけ安心する。少なくとも、まだ自分は演技をしなくていい時間だ。


窓際に置いたピンクの植木鉢には、母が大切に育てている花が植えられている。つぼみは膨らんでいるのに、なかなか開かない。それを見ていると、自分の心のように思える。


「起きなさい」


母の声が下の階から聞こえてくる。返事をしなければ。でも、どうして返事をしなければならないのだろう。どうして起きなければならないのだろう。


別に、生きてるのが辛いだとか、自殺志願者の様なことを思っているわけじゃない。ただ、学校に行く理由も、友達と会う理由も、生きている理由も、何一つ思いつかなかった。


でも、私は返事をする。「起きてるよ」

完璧な声の調子で、いつもと変わらない朝の挨拶をする。


制服に着替えて、鏡の前に立つ。髪を整え、制服の襟を直す。すべては儀式のように淡々と進められる。笑顔の練習もして、少しだけ口角を上げる。大した取り柄もない私には、せめて愛想だけはよくしておかなければ。


登校途中、親友と出会う。彼女は相変わらず明るく、楽しそうに学校での出来事を話してくれる。私は適度に相づちを打ち、時々笑顔を見せる。これも日課の一つ。心の中は空っぽなのに、表面だけは取り繕っている。


「ねぇ、最近元気ないみたいだけど、大丈夫?」


ふと、親友がそう聞いてきた。一瞬、胸が締め付けられる。でも、すぐに練習通りの笑顔を浮かべる。


「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」


嘘じゃない。本当に疲れている。でも、それは体の疲れじゃない。魂の、心の疲れ。


教室の窓から差し込む西日に、私は無抵抗に当てられていた。周りの子たちは楽しそうに何かを話し合っている。何か明日の約束をしているのだろうか。でも私には、明日がただただ怖く感じた。


明日も、また同じように取り繕わなければならない。同じように笑顔を作らなければならない。同じように「大丈夫」と言わなければならない。それなのに、心の底では底なしの孤独が広がっている。


帰り道、夕暮れの空に虹がかかっていた。きれいだと思いたかった。本当に、心の底からきれいだと感じたかった。でも、それすらも叶わない。その神秘的であろう光景を見ても、私の心が揺れ動く事は一切無かった。


家に帰ると、窓際のピンクの植木鉢に目が留まる。つぼみは相変わらず固く閉じたまま。でも、いつか開くのだろうか。私の心も、いつか開くのだろうか。


鏡に映る自分は、相変わらずの死んだ目をしている。でも、それでいい。少なくとも、この瞬間だけは、本当の自分でいられるから。

部屋に戻り、制服を脱ぐ。明日もまた、同じ日課が始まる。でも今は、誰も見ていない。誰にも取り繕う必要のない、この時間だけが、少しだけ安らぎを与えてくれる。その事実に安堵した私は、無気力にベッドに横たわり、何を考えるでもなく、気が付けば眠りに落ちていた。



-----------------



「大丈夫?」


誰もいない図書館の片隅で、私が一人で本を読んでいる時、いきなりそう言って来た人がいた。私に話しかけてきたその人は、私の無関心な返事にも気にする様子もなく、当たり前のように隣に座った。


「君さ、いつも一人で本読んでるよね」


それは、ただの他愛もない会話から始まった。正直、一人でいられるこの時間が、私の中で比較的心地よかった為、その時間に割り込んでくるこの人に対して最初はかなりの嫌悪感を抱いていた。


でも、私がどんなに無関心で酷い態度を取ってもその人......いや、彼は優しく受け止めてくれた。私のぞんざいな態度に対して、あまりにも穏やかな彼の対応に、逆に私は気味が悪く感じたので、思いきって初めて自分から話しかけてみた。

「どうして私と関わろうとするのか。私と関わっていて何が楽しいのか」

と。すると彼は


「別に楽しくなくていいんだよ。でも、君の隣にいたいんだ」


と、当たり前のように言い放った。


彼の言葉は、いつも真っ直ぐだった。そんな温かい言葉を掛け続けてくれた彼に対して、取り繕う必要もないと感じ、いつもの演技をする事も、次第に辞めていった。少しずつ、でも確実に、私の心は彼に向かって開いていった。図書館に置かれていたピンクの植木鉢のつぼみも、いつの間にか花を咲かせていた。


「大丈夫」


彼と話をしていくうちに、少しずつ、心が温かくなっていく。今まで感じたことのない、幸せな感覚。でも同時に、この幸せを失うことへの恐れも大きくなっていった。


ある時、図書館で彼が私をいきなり抱きしめた。あまりにも優しい腕の中で、私は初めて本当の涙を流した感覚がした。取り繕わない、偽りのない涙を。それからしばらくは、彼の腕の中でひたすら弱音を吐いていた。生きる理由が見つからないこと。どんな物事に対しても関心が持てなくて、自分の感情が揺れ動くことが無かったこと。それら全てを彼の腕の中で吐き出した。



しばらくして彼は


「君の本当の顔、やっと見れたね」


と言った。どういう事か何も分からなかった私は、抱きしめていた手を離してから顔を見上げ、彼の顔を見た....のだが....


「え...?」


どういう事か、彼の顔にモヤモヤがかかっており顔を識別する事が出来なかった。......いや、そもそもとして、今まで私は彼と長い間関わってきたはずだ。...なのに...私は...彼の顔を"知らない"。いや、顔だけじゃない。私は、彼がどんな声なのかも、どんか体格なのかも。...そして、彼の"名前"も......何も"知らない"のだ。


理解が出来なかった。どういう事か分からなかった。段々と視界がぼやけていく。段々と彼が遠ざかっていく。私は、彼を手離したくなくて必死に追いかけた。しかし、どれだけ走っても追いつくことはなくて、最後に私は、泣きながらも今まで発した事の無いほどの大きな声で、こう叫んだ。


「あなたの名前は!?」


すると彼はゆっくり振り返って、いつもの優しい笑顔で答える。


「僕の名前は.......」



------------------



その瞬間、目が覚めた。


朝の八時を少し回った時計の文字盤を、私は無表情で見つめていた。うるさく鳴り響く目覚まし時計の音が、部屋の中で虚しく、火曜日の始まりを知らせる。


窓際のピンクの植木鉢のつぼみは、相変わらず固く閉じたまま。


鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない死んだ目をしている。夢の中で流した涙の跡など、どこにもない。


ただ、胸の奥に、かすかな痛みだけが残っている。夢の中で感じた温もりと、それを失った虚しさが、からかうように心を揺らす。


でも、それもすぐに消えていくだろう。


「起きなさい」


母の声が下の階から聞こえてくる。


私は、いつも通りの声で返事をする。

「起きてるよ」


今日も、変わらない一日が始まる。



[完]

私の好きな曲を元に書いた小説です。

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