⑤30まで独身だったら結婚してくれると言った幼馴染みが武田信玄になってしまった。
「はぁぁ……高溝先輩は今日も素敵すぎて言葉が出ないわぁ」
「寒いから窓閉めてもらってもいいかな?」
漫画イラスト部の窓辺に頬杖をついた幼馴染みの相良牧子が、今日もため息を漏らしている。季節は秋、グラウンドでは寒空を気にすること無くサッカー部が性春の汗を流していた。
「……なによ、どうせアンタには高溝先輩の良さなんか分かるもんですか」
「イケメンで勉強が出来て運動神経も抜群。実家は金持ちで生徒会長からの雑誌のモデルもこなす完璧人間」
「分かれば良いのよ。アンタに高溝先輩の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだわ」
「で? 牧子は何故二階の窓から?」
「私にあの中に行けと? 無理無理死ぬわよ」
高溝先輩の追っかけが、大軍をなしてグラウンドを取り囲み、まるでデモ隊か暴動の如くおどろおどろしい圧を放っている。確かにあの中に行けばタダでは済まないだろう。
「行かなきゃ伝わる物も伝わらないかと」
「べ、別に嫌われるのが怖い訳じゃないわよ! 能ある鷹は爪を隠して尻隠さずって言うじゃない……!!」
「女の子が尻とか言わない」
「はいはい差別差別」
「それより部外者は出てって。気が散るから。何より寒い」
「なによ尻の穴の小さい男ね! 高溝先輩の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだわ!」
「女の子が尻の穴とか言わない方が……」
「はいはい差別差別」
文句を言いながら僕のお菓子をボリボリと貪る牧子にため息を漏らし、仕方なくコートを羽織り席に着いた。
「やあ、何やら盛り上がってるね」
「あ、部長お疲れさまです」
ウキウキと現れた漫画イラスト部の部長である吉村先輩は、部外者である牧子ににこやかにも挨拶をし、笑顔でお茶を差し出し自分の席へと座ってノートを広げ始めた。本人曰く、漫画を描くために学校へ来ているらしく勉学は二の次三の次だ。
「で、今日は何を揉めてたんだい? 廊下まで聞こえてたよ。夫婦喧嘩は犬も食わないんだから、仲良くしようね」
「夫婦じゃありません。ただの幼馴染みです」
「別に何でもないですってば……!! コ、コイツに高溝先輩の尻の穴を煎じて飲ませてやりたいって話をしてただけですっ……!!」
「先輩の希少部位になんて事するんだ」
「ハハハ」
「う、うるさいわね! どうせアンタなんか一生童貞なんだから黙ってなさい!!」
「まあ童貞だろうね」
「部長も黙っていて下さい」
「ま、まあ? か、可哀想だから、30まで独身だったら温情で結婚してやらない事もないわ……!!」
「──え?」
牧子は自分でも何を言っているのか既に分からなくなっているのだろう。やたら喚き散らしては僕のお菓子を全て平らげて部室を出て行った。
「大変だねぇ」
「いつもの事ですから……」
「30まで我慢しなきゃね」
「何がですか?」
「いや、その前に押し倒すのかな?」
「知りませんよ……!!」
「どちらにせよ頑張ってね。速くしないと誰かに取られちゃうぞ? あんなに可愛いんだしさ」
「…………」
確かに、牧子は見た目は優れている。
腰まで長いつやつやの黒髪に、パッチリとした二重まぶた。陶器のように白い肌に、出るところはしっかりと出たスタイルの良さ。時折見せる愁いを帯びた瞳に艶のある唇は、見る者全てを引き付ける美しさだ。
口は悪いが、昔から見ている僕としては、好きにならない訳がないわけで…………。
「今度映画にでも誘ってみなよ」
「で、でも……」
「牧子ちゃんも絶対君のこと好きだと思うんだけどな」
「いやいやいやいや」
「じゃなきゃ毎日部室に来てお喋りなんかしないし、あんな約束なんてするわけないじゃない?」
「いやいやいやいやいやいや」
「それに、ココに来ても君が居ない時はすぐ帰るし」
「え?」
「あれ? 知らなかった?」
「──!?」
マ、マジか……!!
マジなのか……!!
えーーーーーーーーーーーーっ!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
「だから今度お茶にでも誘いなさい」
「いや、その……」
「返事はハイかイエスで」
「は、はい……」
「素直で宜しい」
だが牧子は、この後すぐ不慮の事故で武田信玄になってしまった。やけに寒い朝の事だった。
待ち合わせのコンビニの前で三時間待ったが、彼女は現れず連絡も付かずで仕方なく帰ったところで母親から全てを聞いた。
「ただいまー」
アパートのドアを開けるとコトコトと何かが煮える音と、カレーの匂いが漂っていた。
「疾きこと風の如し」
「ああ、ゴメンゴメン。思ったより仕事が早く終わって。驚かそうと……はい、ケーキ」
「侵掠すること火の如し」
「ゴメンゴメン。お風呂沸くまで詠太と遊んでるよ」
「徐かなること林の如し」
「あ……寝てるのか。確かに静かにしないとね」
息子を起こさぬように、そっとソファに座り、経済雑誌を広げた。株価指数だの原油価格だのがいつも通り不安定な動きを見せている。
コンロの火を止めた妻が、そっとエプロンを外し、俺の隣に座りジッと俺を見つめてきた。
「?」
妻は微笑み、つやのある長い髪をかきあげ、俺の脇腹をツンツンと突いた。
「ちょっ、くすぐったいってば」
「キツツキ戦法……!」
「分かった分かったギブ、ギブ」
と、今度は腰に抱き付いてきた。どうやら誕生日のケーキがお気に召したらしい。
「暑いから離しておくれ」
「動かざること山の如し」
「もう~」
そっと妻の肩を抱き寄せ、ギューッと抱き締める。甲冑や軍配が当たり、少しだけ痛かった。
「人は石垣」
「ああ、ゴメンゴメン」
そっとカーテンを閉める。夕焼けが綺麗だった。
「人は城」
「……そうだね」
そっと、彼女を抱き締めた。
「……それで……妻の容態は…………」
「想定よりも速い状態です。キツツキ戦法が現れたのでしたら、それほど長くは……」
「……そう、ですか」
「ワシが死んだら影武者を立て、死を伏せよ……」
「バカ言うな。変わりなんて居るかよ」
息の細くなった妻の手を、ジッと握り締める。僅かな力で握り返したその弱々しさに、思わず涙が浮かんでしまった。
「……人生五十年……一本の矢は容易く……」
「合併症を併発しております。これ以上は持ちません」
傍に控えていた主治医が、そっと呟いた。
「……明日は……」
「?」
小さな声しか出なくなった妻の口元へ、そっと耳を近付ける。
「……明日は瀬田に……旗を…………」
「…………」
無言で妻の手を握る。もう涙で妻の顔が見えない。
「旗を……立てよ……」
「……ありがとうな」
そして、妻は静かに息を引き取った。
俺と、小さな息子を残して。
君が煎じてくれた先輩の爪の垢は、今でも大切にしまってある。