㉗あの頃の風に吹かれて
三十八歳の主婦・栞は年末、十八年ぶりに故郷に旅行に来ている。高校三年生の時の同窓会兼忘年会に出席する為だ。卒業以来切れない関係を続けてきた親友・茉子とも再会し、涙する。そんな栞の胸には、『家族』に関する七年前のある出来事が重くのしかかっていた。
午後四時に予定通り栞は、予約していたホテルにチェックインした。
ホテリエが栞のスーツケースを運び、部屋まで案内する。部屋の使い方を一通り説明し終えると
「何かありましたらフロントまでご連絡下さい」
と言い残し、速やかに辞去した。
空調は26度で部屋の中は適度な温かさを保っている。黒革のブーツを脱ぎ、とりあえず白いウールのコートをクロークのハンガーに掛け、ベッドに座った。
ポットのお湯を沸かして珈琲を飲みたかったが、準備の時間を考えると余裕はない。
栞は浴室でシャワーを浴び、手早く髪を洗った。備え付けのリンスインワンシャンプーではなく、小型の容器に入れて携帯してきた普段愛用している美容院専売品のインカオイル、シャンプーとトリートメントを使った。その方が髪のためにはいい。
そうやって熱いバスタブに浸かると、人心地付く。
十八年ぶりに帰ってきた故郷。
それを思うと感慨深いものが栞の胸に沸き起こる。
到着ロビーには全国的にも有名な地元のゆるキャラのマスコット像が設置されていて、栞を出迎えてくれた。
それをスマホに収めたのは言うまでもない。
一緒に映る写真が欲しかったが、生憎の一人旅だ。
今回の旅行に、夫の志伸が同伴していないことがつくづく恨めしかった。
バスからあがると、ホテル特有の厚手の白いバスタオルでよく体を拭き、髪の湿り気を拭う。
買ったばかりのおろしたてのインナーを身につける。ラベンダー色のそれは肌の滑りが良く、先月、三十八歳になった栞の崩れかけている体のラインも綺麗に拾ってくれる。だから、インナーには特に投資が欠かせない。
基礎化粧を終えると、髪にベース剤を塗布してドライヤーで丁寧に乾かし、持参してきたヘアアイロンで髪を巻いた。
紺のカシミヤのニットワンピースに着替えると、次はメイク。
クリームファンデを厚くならないよう注意して塗り、お粉をはたいて眉を整え、お気に入りのモーブ系のクリームアイシャドウを指で施す。
リキッドアイライナーを引く瞬間は一瞬、緊張する。この日は特に慎重にラインを引き、黒のボリュームマスカラで目力を強調した。
軽くチークを入れて、仕上げのルージュはやはりお気に入りのサンローランのローズピンクを筆で乗せる。
トワレをほのかに香らせたVネックの首元には、あこや真珠のロングネックレスを三連で巻き、シルバーのバングルを左腕に付けると、よそ行き顔の自分が鏡の中で緊張気味に微笑んでいた。
その日の午後六時三十五分。
グーグルマップの示す位置に栞は立っていた。
『グランシャリオ』……メインストリートから一筋入った隠れ家的なカフェレストラン。ここで間違いないはず。
店に入ろうと入り口のドアを開けようとした時
「栞?」
不意に声をかけられた。
同じ齢、栞よりやや背の高いスレンダーな女性が栞をまじまじと見つめていた。
「はい? ……え、茉子?」
「そう! 私よ私! 小川茉子!」
「やだぁ。元気にしてた?」
「元気元気」
栞と茉子は手を取りあって、十八年ぶりの再会を懐かしむ。
その目にはお互い、涙が光っていた。
十八年……。
十八年ぶりに、親友に再会した二人の感慨はひとしおだった。
年の瀬の十二月三十日のこの晩。
午後七時から栞の卒業した高校の学年同窓会が、ここ『グランシャリオ』で開かれるのだ。
それを知ったのは二ヶ月前。
機械音痴の栞がなんとなくFacebookで友人の名前を検索していたら、高校三年生の時のクラスメイトにヒットした。連絡を取ってみると、ここ数年、忘年会を兼ねて学年同窓会が地元で毎年十二月三十日に開かれているという。
熱烈な誘いを受け、高校時代から切れない関係を続けていた茉子にも電話で相談し、この日、同窓会に出席することを決めたのだった。
約束していたとはいえ、再会した同窓生がいきなり茉子だということに何か運命めいたものを栞は感じた。
「それでご主人は? やっぱり来られなかったの?」
「そう。熱が今朝も三十八度から下がらなくて」
「それでよく栞を出してくれたわね」
「私がずっと楽しみにしてたの知ってるからね。私を一人では行かせたくなかったみたいだけど、楽しんでおいで、て。志伸は家事も自分で出来るし」
「優しい~。言うことないわね!」
そう言って無邪気に笑う茉子に栞は一瞬、複雑な思いを抱く。
もし。
もし、七年前のことがなかったら……。
私達『家族』は誰より幸せだった自信がある。
でも……。
「あら、ひょっとして栞ちゃん?」
「由羽ちゃん?!」
店の入り口の受付で声をかけてきたのは、Facebookで最初にヒットした友人・佐藤由羽だった。
「よく来てくれたわねえ。えーと、そちらは」
「旧姓小川で河野茉子です」
「小川さん? 覚えてるわ! 三年六組だったわよね、花道部で」
「そうそう!」
「懐かしい~。っと、とりあえず会費頂戴できる?」
由羽は同窓会の幹事の一人なのだ。
会費七千円を払うと簡易の領収証を渡された。
由羽はiPadで名簿の確認をしながら
「まだ数人しか来てないけど、開始までまだ時間あるから、中でゆっくりしていてね」
と言った。
『グランシャリオ』の店内は、仄暗く落ち着いた広い空間だった。普通のテーブル席ではなく、大きなソファ席があちこちに点在している。
栞は茉子と並んで、奥の壁際のソファに並んで座った。
栞と茉子は普段から週末電話をする間柄だが、会うのは二十歳の同窓会の時以来だ。
栞は高校を卒業すると東京の大学に進んだ。二十歳の時に父も東京に栄転になり、栞の就職も東京。そして夫・久保志伸と出逢い、結婚したのも東京だった。志伸の仕事柄、この先もずっと今の暮らしが続くだろう。
一方、茉子は地元の大学を出て、市役所に就職し、見合い結婚をした。茉子のスナップ写真を見た夫・慎大が仲人を通して熱烈にアプローチをしたということだ。
意気投合した二人は、半年間の交際の後、華燭の典を挙げた。
その時の結婚式を栞は忘れない。
慎大は由緒ある日本舞踊の名門の名取りで、式は神社で執り行われ、茉子は初々しい白無垢姿だった。
披露宴は、栞が今回宿泊しているホテルの飛天の間に二百名が出席し、茉子は見事な金色の色打掛、赤と黒のカクテルドレス二着でお色直しをしたが、それは溜息が出るほど美しく豪奢な式典だった。
茉子の友人代表でスピーチをした栞は、地元の名士お歴々を前にして震えるほど緊張したことを覚えている。
茉子は市役所の仕事に未練を残しながらも、縁の下の力持ちに徹する覚悟で退職し、結婚した翌年の秋には初めての女の子を授かった。
金木犀の香り漂う季節になるとその頃のことを毎年思い出すと、茉子が何気なく言ったことが今でも栞の心に印象深く残っている。
感想は甘口で。




