⑬タイムマシンは想いに揺れる
拓は恋人の愛美との結婚を考えている。そんなある日、ポコリンと名乗る女の子と出会う。その子はタイムマシンで未来から来た、拓のひ孫だと言う。
ポコリンは誤って過去を変えてしまい、そのせいで二日前に愛美が火事に遭ってしまったことを告げる。
過去を元通りにするため、拓はポコリンを手伝い、時間遡行へと旅立つ。
しかし、タイムマシンは試作品であり、なぜ過去が改変されたのか、どうすれば元に戻せるのか、探りながらの旅をすることになる。
やがて、拓は気づく。このタイムトラベルが、恋人の過去を変えるだけではなく、自分の未来をも変えることを。
水曜日。午後八時。
マンションの外階段を駆け上がり、拓は二階の一室へ向かっている。
愛美は今、肉じゃがを作って自分を待っているだろう。
料理を作る恋人の姿を思い浮かべ、拓の足どりは軽くなる。玄関が見えてきた。
あともう少しで、愛美に会える。
胸の内に温かな想いがあふれそうになったそのとき、突然違和感を覚えた。
立ち止まって、拓は気づく。
匂いがしない。しょうゆやみりんの香ばしさが空気に含まれてやってくるはずなのに。
いつもとの差異は、もうひとつある。
玄関のそばの窓を覗いても、明かりはもれていなかった。
愛美がいない? そんなはずは……。
拓は早足で玄関の前へやってきて、インターホンを鳴らす。夜空に音が谺する。しかし、それが途切れるとまた静けさが戻るだけ。
奥から愛美の声は聞こえず、扉へ向かう足音も響いてこなかった。
もう一度インターホンのボタンを押すが変わりはない。
何度か試みて、次にはスマホで連絡をとってみようとするが、結局通じなかった。
しばらくためらったのち、拓は鞄から茶色の革の財布を取り出す。そこに、合鍵が入っている。
愛美からこの鍵を渡されたときは、とても嬉しかった。
『あの、一本余っているから……持っていてもらってもいい?』
たどたどしく話す愛美が、頬を赤くしていることに気づかないふりをして。
拓は「うん」とだけ返事をした。
それ以上はこちらも照れてしまって、うまく言葉にできなかった。ただ高鳴る自分の心音が愛美に届いていないことを祈ったものだ。
その鍵を使う必要性を感じるのが今日だなんて、思ってもみなかった。
考えると、鼓動が速くなってくる。何とか気持ちを落ち着かせたいところだ。
愛美は買い物にでも行っていて、すぐに帰ってくるに違いない。自分がこの時間にここへ来ることは分かっているはずだから。
でも、もしかしたら具合いが悪いことだってあるのではないか。その可能性は低くても、本当に留守かどうか、覗いて確かめるくらいなら、大丈夫だろう。
うん。きっとそうだ。
自分を納得させて、拓は鍵を取り出す。
持ち替え、鍵穴に差し込もうとしたところで、声がした。
「あの、深川拓さんですか」
反射的に手を止める。振り向くと、その場にそぐわないような女の子の姿があった。ややぽっちゃりとした中学生くらいの子。
癖のある髪をツインテールにしていて、ピンク色の眼鏡をかけている。フリルのついた白いブラウスと水色の、これもフリルのついたミニスカート。
見知らぬ子だが、なぜか自分の名前を知っているようだ。
「僕だけど、何か?」
問いかけると、女の子の顔がふわっとほころんだ。心からほっとした表情に変化する。
「よかった。会いたかったぁ」
「え?」
どこかどきりとする言葉だ。唐突に聞いた意外さに、固まってしまう。
そんな拓の様子にも構わず、女の子は尋ねる。
「愛美さんの家に入るんでしょ。わたしも一緒にいい?」
一緒に家に入る。しかも、本人が留守かもしれないのに。
そんな状況に躊躇する。
自分はともかく、知らない女の子まで。
「あの、きみ……誰?」
その子は、やや考え込むようにしてから応じる。
「うーんと、親戚って言えばいいかな」
「愛美の親戚? 従妹とか姪とか?」
「うん、そんな感じ。詳しくは中で話すよ」
ちゃっかりした子だな。
拓はそう思いつつも、いつまでも夜空の下で話すのもどうかと考える。
十月とはいえ、この時間ともなると、やや肌寒い。
このまま風邪でも引いたりしたら。
女の子の見守る中、拓は愛美の部屋の鍵を回し、扉を開く。
その先は、どこまでも闇が広がっていた。
電気をつけて、拓は冷蔵庫から麦茶を取り出す。自分と女の子の分の、二つのコップも出した。
向かい合って座り、まずは麦茶を飲む。本当は愛美との夕食の予定だったのに。
愛美の姿はなく、テーブルの上に、肉じゃがの用意は微塵もなかった。
「愛美はどこへ行ったんだろう。きみは何か知っている?」
この子のような世代と普段話したことがないので、どこかそわそわしてしまい、話題も見つからない。軽い気持ちで尋ねてみた。
「愛美さんはしばらく帰ってこないよ」
答えが返ってきて、拓は息を吞む。
「何か知っているんだね?」
はやる気持ちを抑えて、念を押す。女の子ははきはきとした調子で答える。
「さっき、わたしは愛美さんの親戚って言ったけど、従妹でも姪でもないの。ひ孫なんだ」
「ひ孫……?」
何の聞き違いだろう。もう一度問い返そうとすると、その子は付け加えた。
「つまり、愛美さんはわたしのひいおばあちゃんなんだよ」
「はぁ?」
理解できないうちに、女の子は拓を指差す。
「拓さんは、ひいおじいちゃん。わたし、タイムマシンに乗って、未来から来たひ孫なんだよ」
拓の頭の中に、この子の話す設定が一瞬だけまともに浮かんで、雲散する。
ばかばかしい。
「あのさ……、おじさんのこと、からかってる?」
拓は今年で三十一歳になった。もうお兄さんと呼んでもらえる年齢でないことくらい自覚している。
「おじさんじゃなくて、ひいおじいさん、だってば。もう、どうやったら信じてもらえるのかなぁ」
女の子は腕を組んで、頬をぷくっと膨らます。拓にはそんな様子もわざとらしく見えてしまう。
おじさんでもショックなのに、ひいおじいさんとは、何だ。
文句も言いたい。けれど、とにかく話を元に戻さなくてはならない。
「何言ってるかよく分からないんだけど。それより、愛美がしばらく帰ってこないって、本当? どこへ行っているのかな?」
拓にとってはそれが重要で、女の子の変な話に付き合うつもりはない。
「それを説明するのに、未来から来たことを信じてほしいの。わたしのパパはタイムマシンの研究者なの。わたしもよく研究所に遊びに行って、使い方を教わっているから、過去へ来られたんだよ」
女の子は続けておかしなことを言い出す。拓は、ため息まじりにぼやいた。
「きみの話はいいから、愛美のことを教えてほしいんだけどな」
「あ、わたしのことはきみ、じゃなくてポコリンって呼んでよ」
「ポコリン……」
拓ははっとした。その名前には聞き覚えがある。
「本当の名前は、教えられないの。未来につけられる名前を過去に教えたら、何か影響が出るかもしれないでしょ」
女の子は真面目な顔で話す。
「でも、ポコリンって……」
拓が言いかけると、女の子は急ににこりと笑って、小さく頷いた。ツインテールの髪が一斉に揺れる。
「拓さんも知っているよね、ポコリン、って愛美さんが子どものときに呼ばれていたこと」
「ああ、うん」
そう、愛美にとっては、中学時代の懐かしいあだ名だったはず。
恋人の愛美は、子どもの頃だいぶ太っていたという。もともとおとなしくて、ほかの子よりテンポも遅く、ひとりで家で過ごすのが好きな子だったと聞いている。
小学校の高学年くらいには容姿や性格からいじめられて、引っ込み思案な性格がますますそうなっていったようだ。
愛美は、あまり自分に自信が持てない人間だった。
ただ、中学のときのあだ名は、太めだとか否定的な意味合いがあっても、むしろ気に入っていたらしい。
『ポコリンって、何だかかわいいなあと思って。友だちもみんなその頃は、わたしのことをそう呼んでいたよ』
愛美は、拓に笑顔で中学時代の思い出を語ったものだ。
そのポコリンという名を、この子は自分の呼び名に指定した。
愛美の過去を、かなり知っているのでは。
ひいおばあちゃん、というのはいくら何でも変だが、やはり知り合いなのだろう。親戚か何か、近親者じゃないだろうか。
自称ポコリンは、口もとが愛美に似ている気がする。
「それじゃ、ポコリン。愛美はどこに行っているんだ?」
何を信じるかはともかく、それだけは確かめたかった。
「……ここ」
ポコリンは、右手でテーブルをとん、と叩く。
「ここ?」
「そう、愛美さんは本当はここにいなければならないの。ここでお料理を作って、拓さんを待っていなければおかしいの」
「おかしいって……」
どういうことか分からず、ただ言葉を繰り返すしかない。
ポコリンは真剣なまなざしをこちらへ向ける。
「わたしのせいなの」




