オペラ座の怪人リスペクト
「……どゆこと?」
「えっとね? ルナちゃんは、ほら、お洋服ごと映らなくなっちゃってるでしょ?」
「あぁ、言われてみれば、せやね」
「それと同じで、自転車に乗ると自転車ごと見えなくなっちゃうの。だから危ないの」
「は? マジか」
式野アリスさんは唖然とした顔で、一瞬だけこちらを振り返る。
「そらまた……思ってたより難儀やないの。どういう仕組みなんやろ?」
「だから、ねぇ、アリスちゃん。バスとかは走ってない?」
「バス……いやどやろね? おばぁがたまに使てたみたいやし、ないことないんやろけど……」
首をかしげる。
「あぁそういや、乗り場が遠いとかよぉ愚痴っとった気ぃするわ。まぁ年寄りの言うことやけど」
遠いのか。
いや、近かったとしてもバス通学は気が進まない。朝から大勢の他人に囲まれるのは。
思っていると、彼女が妙なことを言い出した。
「まぁ、大丈夫よ。なんならウチが送り迎えさせてもらうし」
「は?」
「ええっ? 悪いわよ、そんなの」
わたしの疑問符は、おかーさんの驚きにかき消された。
「別にかまへんよ。むしろ朝起きる習慣がついてちょうどえぇし。ウチももう若ぅないんやし、今のうちに規則正しく寝起きするクセつけとかなヤバいかなて思てたとこなんよ」
待ってよ何それ。
そんな不安になるぐらい普段どんな生活をっていうか、そういえばこの人なんの仕事をしているの?
いやそれより朝からこの人と二人きりなんてバスよりよっぽど、なんかアレだし、そもそも毎朝の送り迎えなんて、そんなの普通に考えて無理に決まってる。
「ちょっと――」
「はーい、とうちゃくー」
わたしの声を遮るようにそう言って、彼女はどこかの敷地内に車を滑り込ませた。広い。
ひとことで言って、お屋敷だ。
黒い立派な瓦屋根を背負った飴色の木造建築。多分平屋建てだけど、幅は普通の家の軽く三倍はある。奥行きはわからない。住宅というよりお寺や神社の方が印象が近い。なんだか大きな木が植えられてたりもするし……え、本当にここに住むの?
「うわぁ~、懐かしい~」
おかーさんが朗らかな声を上げる。
「中身はけっこー別モンよ。かなりがっつりリフォームしとるし」
それへの返答なのか何なのか、相応に広い前庭の隅に建てられた車庫に車を停めつつ彼女は言う。三台は止められそうなそのスペースには小さな緑の軽自動車がただ一台収まっているだけだった。
「もったいない話やんねぇ。せっかくバリアフリーとか24時間風呂とかいろいろこだわって手直ししたゆぅのに、ろくに住まんうちに入院してしもぉて、そのまま戻ることなくご臨終ゆぅんやから」
微妙に反応に困る補足が付いた。
とりあえず、三人そろって車を降りる。
「……大きい」
そして改めて見上げて、思わずそうつぶやく。
「ほんとねぇ」
「建てたんはおばぁ――ですらない、ご先祖さまやけどね。ウチは継いだだけやから、別にね」
別にあなたのこと凄いとか言ったわけじゃないんですけど?
なぜか無駄に謙遜したようなことを言いながらトランクを開ける彼女を半眼で睨む。
ってゆーかちょっと待って。
今のってつまり、この家ってやっぱり。
「あの」
何気に一番大きな荷物を担いで玄関の方へ向かう彼女に、わたしも自分のカバンを持って追いかけながら尋ねる。
「ここがわたしたちの住む家……なんですよね?」
「遠慮はいらへんよ、部屋は余っとぅし。あ、部屋割りはこっちで決めさせてもろたけど、ええよね? 届いた荷物、運び込まなあかんかったし」
だからそういうことじゃなくて!
「あたなの家も、ここだって聞こえるんですけど」
「はい? そやけど?」
やっぱり……!
「一緒に住むってことですか!?」
思わず叫ぶ。
彼女はきょとんとした顔で、鍵を開けて引き戸を開いた。
「そやけど……え? 聞いてなかったん?」
ガラガラといういかにもな音とともに、広い土間が姿を現す。構造自体は伝統的だが真新しくモダンな雰囲気もあって、玄関ホールと呼んで差支えのない空間だ。
上がりかまちの背後の壁には大きな額縁が飾られていた。
「聞いて――! ……ませ、ん……」
また叫ぼうとした。
できなかった。我知らず、声が尻すぼみになっていた。
彼女は気付かずおかーさんに向き直る。
「ノリ子? どゆことよ。ちゃんと説明せな」
「ええー? したわよぉ。ちゃんと言った……つもり、だったけど……ルナちゃん?」
「ん? どしたん?」
二人が訊いてくる。わたしは振り返る。
「シバザクラ……」
「え?」
「おっ」
反応が鈍い。
若干苛立ちながら、けれどその何倍も興奮しながら、わたしは額の絵を指さした。
「八ツ橋ネリの『シバザクラ』ですよね、あれ!」
それはわたしの一番好きな画家の絵だった。
「あれって! あの大きさって原寸大ですか!?」
「うん? まぁ原寸……や、どっちかゆぅたら現物やけど」
彼女はなぜだか言いにくそうに答える。
「ゲンブツ?」
「やからつまり、原画、ゆぅか。元絵っちゅうか」
「そっ……それって本物ってことですか!? 近くで見ていいですか!?」
「え、ええよ、もちろん。どうぞ上がって」
「はいっ!」
ダッシュで靴を脱いで、揃えて置くのもカバンを下ろすことすら忘れて、正面に陣取る。
しゃがんだぐらいの高さから見下ろす構図で描かれた、やや紫がかった花の群れ。ところどころにガラスの破片が散乱しており、美しさ、可愛らしさの中に、どこか危うい魅力が忍び込んでいる。
花びらの一枚一枚から、ガラス越しの歪んだ輪郭まで、全てが緻密に描き込まれていて、あちこちに目移りしながらいつまでも眺めていられる。
表面には絵の具の凹凸がある。本当に本物だ。少なくともコピーじゃない。『8-NeRi』のサインもちゃんとある。
うわ、うわぁ……!
「そんな好きなん?」
彼女が訊いてくる。わたしは絵から目を逸らさないままうなずいた。
「大好きです!」
おかーさん関連以外のことで積極的に好きだと思える、ほとんど唯一のもの。
誕生日プレゼントでもらったジグソーパズルがきっかけだったから完全に無関係ではないかもだけど。でも他の出会い方をしていても絶対に好きになってたと確信できる。そのぐらい大好きだ。お小遣いをためて画集も買った。
ただ展覧会など実物を見る機会はなかったし、同好の士に巡り合えたことも一度もない。
……というか、今回が初めて、ということになるわけか。その相手がこの人っていうのはかなり微妙な気分だけど、でももしかしたらお婆さんの方の趣味かもしれないし。
「そぉかぁ」
「はい」
「ま、光栄に思おか。ありがとう」
「どう……」
いたしまし、て?
え? なんで感謝? 光栄?
なんとなくゆっくりと振り返ると、彼女は妙に微笑ましげな顔で私を見下ろしていた。隣ではおかーさんが口元に手を当ててくすくすと笑っていた。
光栄ってなに?
「まぁ、わからへんわな。ウチは顔出しはほとんどしてへんし」
「ちょっと待って……」
見たことある、このパターン。ドラマとかマンガとかで。
でも現実でそんな。
「改めまして――初めまして。織部長谷川美術連所属、本名式野亜梨栖、筆名『八ツ橋ネリ』で、画家、やらしてもろてます」
言った。
うそでしょ。そんなまさか。わたしのネリさんが……
「実家が和菓子屋なんよ」
「そんな由来!? あんこ練ってたから!?」
「ええツッコミ持っとぅやん。ついでにもう一つ言っとこか」
彼女はわたしの首に腕を絡めて、顔を寄せてくる。動揺していて避けられなかった。
「な、なんですか。離してください」
「まぁまぁ。ウチがあんたら母娘の間に割り込もうとしてるからイヤやって、さっき言うたやん? けどそれ勘違い、誤解なんよ。ウチはそんなことしよなんて思てへん」
まるで内緒話でもするみたいに、けれどおかーさんにもちゃんと聞こえるぐらいの声で言う。
「なんせルナちゃんもウチの好みにばっちり合っとぅからね」
「……は?」
「二人まとめてもろてしまおうと思ぅとるから、楽しみにしときな?」
その言葉が終わると同時に――ちゅ、と、頬に熱い何かが触れた。
「ちょ、ちょっとアリスちゃんっ、いきなりなに言い出すの!?」
焦ったようにおかーさんが割って入ってきたけど、その顔はどう見ても怒ってない。控えめに言って、まんざらでもなさそうだった。
「いやそんなマジに受け取らんといてぇな。流石に中学生に手ぇ出したりせぇへんよ」
「あたりまえよっ。そういうことじゃなくて、もうっ! もうっ!」
なんだこれ。
理不尽に職を追われたおかーさんの旧友は割と好きな感じの美人さんで、けどなんか掴みどころのない性格はいまいち印象が良くなくて、その上いつの間にか一緒に住むことになっていて、かと思ったらわたしの大好きな画家の正体だったりして、さらにはおかーさんだけでなくわたしのことも狙っているとか言い出した。
いや待って。
情報が……! 情報が多い……!