別の日常にシフトするだけなので安心
「あのね、ルナちゃん。お母さん、クビになっちゃうかも」
「え」
二月上旬のある日の夜、晩ごはんを終えてリビングでお気に入りの画集を眺めていたわたしに、おかーさんはそんな話を切り出したのだった。
「だからこの部屋も、出ていかないといけなくなるかなー、なんて……」
この家は社宅だ。
社っていうか、病院に勤めてる人とその家族のためのアパートだ。だから免職と退去がセットになっているという点だけは、わからないでもない。
けどクビって、なんで?
おかーさんはどう考えても悪い人間じゃないし、少しおっとりしてるけど人に迷惑をかけまくるようなドジっ子でもない。
要するに無理やり仕事を辞めさせられるような人じゃない。何よりすごくかわいい。
なのに、どうして。
「それがねぇ」
そうしておかーさんが語ったところによると、なんと派閥争いに巻き込まれたらしい。
今の院長先生が老齢のために引退を表明したのが夏の始めごろ。そしてその直後あたりから病院内は副院長派と院長の息子派に分かれて激しく争い始めたのだという。なんかドラマみたいな話。
で、そこそこ長く勤めてるとはいえ一看護師に過ぎないおかーさんなんだけど、看護学校時代の恩師が院長と親友同士なんて縁が実はあったりするのだ。
その関係で彼や彼の息子さんには昔からいろいろと便宜を図ってもらっていて、例えばわたしがうんと小さなころは院長室でおかーさんの仕事上がりを待たせてもらったことが何度もあるし、小二の誕生日にはそこでサプライズパーティーを開いてもらったなんてことまである。あのときにもらったジグソーパズルは今でも部屋に飾ってある。
あんまり気にしてなかったけど、言われてみれば割と特殊な立場かも、わたしたちって。
だけど状況は変わった。
後継者争いは、まだ確実ではないそうだけど、副院長の方に軍配が上がりそうってことらしい。
息子さん派の人たちは片っ端から辞めさせられたり他の病院に行かされたりしてて、そろそろおかーさんの番になりそう、と。
「できるだけ頑張ってみるつもりだけど……」
「大丈夫なの?」
「うん……」
なんだかあまり、というかかなり、大丈夫ではなさそう。
「無理しなくていいよ、おかーさん。わたしは平気だから」
「でも」
「来年だったら困ってたかもだけど」
うん、さすがに中三の受験シーズンに転校は厳しい。
でも今ならまだそんなに影響は出ないと思う。
友だちとお別れになっちゃうかもなのは残念だけど、まぁ仕方がない。おかーさんには代えられない。
「むしろ今のうち? そんなのに付き合ってないで、ヘンな嫌がらせとかされる前に辞めちゃった方がいいよ」
だけど実際のところわたしのこの忠告は、まったくの手遅れだった。
これはもう少しあとになってから知ったことなんだけど、どうやらわたしの存在がネックになっちゃってたらしい。
つまりわたしの父親が、院長の息子、あるいはもしかしたら院長その人なのではないか、なんて噂を流されちゃったんだって。言われてみれば隣近所の人たちから遠巻きにされてたような覚えもある。大人の権力闘争怖すぎ、醜すぎ。
ただ、わたし自身もそうなんじゃないかって疑ってた時期はあるんだよね。
だけど違った。
父親について尋ねたことは何度かあるけど、そのたびに、このひとは決まってこう言うのだ。
とっても素敵な人よ、って。
そして、わたしを透かして向こう側を見るような、とても遠いところを見るような目をする。
その、優しくもほのかに熱っぽい眼差しが、院長親子に向けられたことは一度もない。だから違う。
「大丈夫。わたしは平気だし、おかーさんだって、おかーさんならすぐに新しい仕事も見つかるよ。なんだったら家のことはしばらくわたしに任せてくれてもいいし」
普段からおかーさんに教わってお手伝いもしてるから、一通りの家事はこなせる。明日からホームヘルパーのバイトを始めろと言われても十分に対応できるレベルだと自負している。わからないけど。
でもおかーさんをしばらく支えるぐらいのことならきっとできるはず。
こういう場合は実家を頼るというのがセオリーかもしれないけれど、わたしたちの場合はちょっと難しい。
嫁入り前の、それも十代の娘が誰とも知れない相手の子を身籠ったということで、ほとんど勘当みたいな扱いになっているからだ。そうでなくともおかーさんのことを犯罪者相手みたいな目で見る彼らのお世話になるのはわたしとしても遠慮したい。
ってゆーか、ちょっと待って?
それってつまり、二人きりで乗り切らないといけないということは。
わたしがおかーさんの奥さんになるということなのでは?
なのではっていうかまさにそうだよ。
すごい、やった。跡目争い万歳だ。
「あ、そういうのは大丈夫だから、心配しなくてもいいの」
「え」
「ルナちゃんはほんと良い子ね~♪」
おかーさんは自分のほっぺたに手を当てて、とっても嬉しそうに笑った。え?
「大丈夫って、どういう……」
「あ、うん。えっとねぇ」
そう言っておかーさんは、とっても嬉しそうなまま言葉を続ける。
「お母さんの高校のときに仲の良かった友だちがね? 相談したら、知り合いの診療所にちょうど空きがあるから紹介してくれるって。あとお家もね、住むところも任せてって言ってくれてるの。すごいよね?」
えっと。
なんていうか、それは確かにすごく頼もしいオトモダチ……だと思うけど。
「あの、おかーさん?」
「ん? なぁに、ルナちゃん?」
あなたはどうしてそんなにも。
「その人って、どんなひと?」
きっとそのひとのことを思い浮かべながら。
「……うふふ。とっても、素敵な人よ?」
優しくも熱っぽい、そんな目をしているんですか?
「……」
「?」
「……そう」
「ええ、そうなの。きっとルナちゃんもすぐに仲良くなれるわ」
「ねぇ」
「ん? どうしたの?」
「そのひとって、もしかしたら」
もしかしたら、わたしの。
「もしかしたら、なぁに?」
「その、もしかしたら……………………男のひと?」
「いいえ、女の子よ?」
「えっ?」
「あ、女の子っていうのは変よね。お母さんと同い年の同級生だから」
「……」
「とっても素敵な、格好いい、女のひとよ?」
……どういうこと?