大野慎介 1
九月二十二日。
暑さもだいぶ和らぎ始めた丁度良い日和。大野家の日常は崩壊した。
それは、突然だった。
大野慎介は、妻の亜希子と今年中学三年生になる娘の恵美と一緒に、朝ののんびりとした時間を過ごしていた。
日曜日の九時から始まる新しい番組を三人で見ようと、慎介がチャンネルを変えると、突然TVの画面が切り替わった。
三人ともビクリと驚き、TVを見る。
「番組の途中ですが、緊急のニュース速報です。日本各地で暴動が起きました。現在、警察が対処しているという事ですが、未だ収まらず、多数の死傷者が出ているという事です。」
アナウンサーが深刻な表情でニュースを読み上げる。
そして、現場付近にレポーターがいるということで、画面はそちらに切り替わった。
「現在、私のすぐ後ろで警官隊が必死に暴徒の鎮圧をおこなっております!! 目的は不明、年齢も様々で、目撃証言によればその中には子供もいたという…………えっ?」
突然、男性のレポータが目を丸くして指をさす。
カメラマンも釣られて後ろを振り返ると、そこには数人の男女が立っていた。
「マジかっ」というカメラマンの声が入り、画面がどんどん男たちに寄って行く。
全員が血だらけで、脇腹から内臓が垂れ下がっている者までいた。
妻と娘が小さく悲鳴を上げ、慎介はあまりの映像に口を押える。
「だ、大丈夫ですか!」
レポーターがマイクを持ったまま近づき、先頭の女性に声をかけた。
ぐるりと異様な角度で女性の首が曲がり、虚ろな表情でレポーターを見る。
そして――突然レポーターに襲い掛かった。
「何やってんだっ!!」
カメラマンの怒鳴り声が聞こえ―――そこで、映像が切り替わった。
「たった今、避難勧告が発令されました。該当する地区は―――」
アナウンサーが淡々と読み上げていく。
先程の映像の事で思考が追い付かない慎介だったが、自分たちが住んでいる地区も入っていることに気付く。
避難しよう。考えるのはそれからだ。
「恵美、亜希子、直ぐに準備しなさい」
二人は何も言わず、黙って頷いた。
それぞれが必要な物を取りに行き、準備をして避難所に向かう頃には、人々の混乱の波が押し寄せていた。
家から出ると、至る所から悲鳴や怒号が聞こえる。
日本じゃないみたいだった。
二人の手をぎゅっと握り、車へと急ぐ。
しかし、直ぐに車では無理だと慎介は判断した。
道路には避難所に向かう車が長い列を作り、その横を人々が通り過ぎていた。
歩いて行った方が速い。
そう判断した慎介たちが人の流れに乗ろうして――突然、渋滞で止まっていた一台の車が目の前の列に突っ込んだ。
初め、何が起こったのかわからなかった。
呆然と轢かれた人々をみつめる。
「きゃあっ!!」
しかし、娘の悲鳴で我に返った慎介は、二人を庇うように前に出た。
事故車から血だらけの男が出てきたからだ。
男はそのままフラフラと近くに倒れていた女性に近づく。
そして、突然覆いかぶさった。
何をしているのかわからない。いや、目の前の光景を理解したくないと脳が拒んでいる。
何時の間にか、周囲には血だらけの人たちがおり、次々と倒れている人に群がる。
異常な光景だ。人が人を喰っている。
「家に戻りなさい!」
言いようのない恐怖と危機感を覚えた慎介は、二人を押すように誘導する。
指定された避難所には、とてもじゃないが行けない。
まだ家にいる方が安全だと考えた。
慎介は二人を二階に避難させた後、一階の雨戸を全て閉め、玄関のドアには鍵をかける。
「……救助が来るまで、ここにいよう」
二人が待つ二階の寝室に戻った慎介は、深いため息をついて汗をぬぐう。
そして、水を飲もうと災害バッグからペットボトルを取り出すが、止める。
何時救助が来るかもわからない。なるべく大切に使うべきだろう。
「今の内に水を溜めた方が良いな。俺と亜希子でやってくるから、恵美は宏樹に連絡を取ってみてくれ」
「わかった……ねぇお父さん。これって」
「……考えるのは後にしよう」
恵美の言葉を遮り、慎介と亜希子は一階に行く。
水の入りそうな容器を家中から集め、水を入れていく。
その間も、外では人々の悲鳴が聞こえた。
何度か玄関ドアを叩く音が聞こえたが、モニターを見ると血だらけの男が蒼い目をして立っていたので、慌ててモニターを切る。
自分と家族を守る武器が必要だ。
水の確保を妻に任せ、慎介は武器になる物を探す。
収納スペースに置いてあった登山グッズの中からピッケルを取り出した。
これで一体どうするんだ? 人を殺すのか……?
人が人を喰らう。ありえるのか? 映画の撮影やドッキリだったのでは?
そんな気持ちが、慎介の中に生まれる。
しかし、もしそれが本当だとしたら。
妻や娘たちを、何が何でも守り抜く。
ピッケルの柄をぎゅっと握りしめた慎介は、気持ちを改めた。
一階の窓にはバリケード代わりに家具を置き、それが終わると寝室に向かった。
「兄ちゃんは、野球部の皆と学校にいるって……電話は繋がらなかったけどメールが来た」
「そうか……そうか、良かった。本当に良かった」
部屋に入ると恵美がスマホの画面を見せる。
そこには、長男から無事を知らせるメールが届いていた。
ほっとする慎介だが、それでも心配だ。
何とか長男のいる高校に行かなければならない。
しかし、三人で行くにはリスクが大きすぎる。自分一人で行った方がいいだろう。
だが、ここに娘と妻を残して行くわけにもいかず、どうすればと慎介は考えた。
すると、それを見越したように長男から父宛にメールが届いた。
内容は、「こっちは大丈夫だから、お父さんは二人を守って」というものだった。
長男らしい内容に、慎介は苦笑いする。
今は、息子の言葉を信じるしかない。
「わかった。気を付けるよ」と返信すると、慎介はこれからの事を考えた。
日本各地で起きている暴動が、直ぐに治まる場合。
ネットニュースには自衛隊の派遣が決定という速報が入っている。
普通であれば、近いうちに鎮圧されて元通りの生活に戻れるだろう。
それまで家で立てこもっていればいい。
数日間は余裕で暮らせる程の食料と水はある。
しかし、もし長期化するのならそれも厳しい。
考えたくはないが、慎介は長期化すると思っている。
娘が調べると、どうやら暴動は日本に留まらず、全世界で起きているらしい。
理由は不明だが、全ての暴動に共通する点が存在する。
それは。
人が人を襲い、喰らう。ということだ。
ネットではその存在をゾンビと言って騒いでいる。
本当にそうだとしたら、生き残るのは困難を極めるだろう。
コッソリとカーテン越しに向かいの道路を覗くと、そこにはフラフラと歩いている男女が見える。
しかし、そのどれもが血だらけで、中には片腕がなかったり、ぐちゃぐちゃに折れた足を引きずる者までいた。
表情はわからないが瞳は蒼く光っており、人ならざる者という印象を与えるには十分だった。
「どうなるんだ……これから」
ぽつりと溢した慎介の言葉が、部屋に静かに響いた。
慎介たちが家に籠城してから三日が過ぎた。
暴動が治まる事はなく、救助が来る様子もない。
警察に電話をしても繋がらなかった。
まだ数日分の食料はあるが、それでも決断する時が来たと慎介は思う。
「今夜、近くのホームセンターから食料や必要な物を調達してこようと思う」
二人に話すと、直ぐに反対の声が上がった。
「危険すぎる」と妻が言い。
「きっと食べ物がなくなる前に救助が来るよ!」と娘が言った。
二人の意見は最もだ。慎介だって出来ることならギリギリまでそうしていたい。
しかし、空腹と水不足の状態では、絶対に思うように身体は動かすことは出来ない。
そうなっては、何もかもが遅いのだ。
「この状況で……救助が来るとは思えない。危険は承知だ。でも、今の内に調達しないといけない」
二人も心の中ではわかっていたのか、それ以上は言わなかった。
ただただ、慎介の顔を心配そうに見つめるだけだった。
「身の危険を感じたら、直ぐに戻る」
慎介は二人を強く抱きしめると、ホームセンターへと向かった。
☆
「これは……」
運良く無事にホームセンターの駐車場に着いた慎介は驚く。
駐車場の入り口が、人為的に車で塞がれていたからだ。
もしかしたら、生き残った人が居るのかもしれない。
慎介は期待を胸に膨らませて車を乗り越えるが、直ぐにそれは裏切られた。
駐車場には何台もの車が止まっていたが、その間を数体のゾンビが彷徨っている。
ただ、かなり遠くの方に居るので、問題なく店内まで行けるだろう。
身をかがめて車の間に隠れながら進んでいくと、何事もなくホームセンターの入り口に行けた。
店内の電気が消えているので、慎介はヘッドライトの電気を点ける。
限られた光が、店内の凄惨な状態を断片的に映し出した。
床や壁には血痕が飛び散り、血で染められた物が床に散らばっている。
耳を澄ますと、シーンと静まり返った店内に、ゾンビたちの呻き声や足音が微かに聞こえた。
ゾンビの人数もそうだが、何処にいるのかもわからない。
行きは安全でも、帰りは物資を持って行くので早くは動けない。
慎介は、これ以上は危険だと判断した。
しかし、食料と水が必要だ。生き残るには、必ずどこかで危険を冒さなければいけない。
心の中で二人に謝った慎介は、食品コーナーへとゆっくりと進んでいった。
幸い、ゾンビと遭遇することなく無事に目的の場所に着くことが出来た。
今日は運がいい。
慎介は、物資の調達をする前にもう一度耳を澄ませて、周りをゆっくりと照らす。
何かが居る気配は感じるが、近くにはいない。
暫くは大丈夫だと判断した慎介は、登山用リュックに水や食料を片っ端から詰めていく。
他の人が避難する時に買って行ったのか、それとも床に散らばっているのかはわからないが、陳列棚の空白部分がかなり目立つ。
しかし、慎介たち三人が全力で消費しても半年は持つ程度の物資は残っていた。
慎介は考える。
店内と駐車場のゾンビをどうにかしてしまえば、ここに一旦避難するのも悪くはない。
ゾンビが入って来ないというのもあるが、何より物資が豊富だ。
帰ったら二人と相談しようと思いながら、二リットルのペットボトルを入れようとして。
パキリ――と近くで音が聞こえた。
「っ!?」
慎介の心臓が大きく跳ねる。
命の危険がある場所で、完全に油断していた。
自分を思いっきりぶん殴りたい気持ちなるが、そんな事をしている状況ではない。
咄嗟に頭を下に向けてライトを消した後、意味があるかわからないが口を抑える。
そして、出来るだけ気配を消すようにその場に縮こまった。
パキリ。パキリパキリパキリ――。
何かを踏みしめる音が、慎介にどんどん近づいて来る。
呼吸は荒くなり、震えが止まらない。
逃げなくては。
慎介は急いでリュックを背負い、ピッケルを構える。
そして、ライトを点けると――目の前に、メイド服を着た少女が立っていた。
「っふぉ!?」
誰がホームセンターにメイド服を着た少女が居ると思うだろうか。
慎介は驚きの声を上げるが、直ぐに恐怖に変わった。
少女は、とても可愛らしい顔立ちをしている。
しかし、首元に巻かれた包帯は彼女の血で紅く染まり、仕立ての良いメイド服を紅く汚していた。
虚ろな表情で慎介を見つめるその瞳は、蒼く不気味に輝いている。
「あ……の……」
少女のゾンビが、左手を突き出して近寄ってくる。
動きは他のゾンビと同じで遅く、走れば逃げれそうだった。
ジリジリと寄ってくる少女のゾンビから遠ざかるように後ろに下がる。
ここでリスクを犯す必要はない。
慎介は彼女とは反対へと走る。
限られた光源、床には様々な物が散らばっているので、思ったようには走れない。
二つ三つと陳列棚の間をジグザグに進み、ペット用品が並んでいる陳列棚の間で止まる。
息を整える前にゾンビが居ないか前後を確認した慎介は、ゆっくりと大きく息を吸って吐く。
少し走っただけだが、既に膝がガクガクと震え、額から汗が滲んでいる。
ゾンビは見当たらない。
もう少し休もうとリュックを置こうとして――。
「あ、の…………」
「っ!?」
後ろから、声が聞こえた。
反射的に振り向くと、そこには先程のメイド服を着た少女のゾンビが立っていた。
幸い、少女のゾンビとはまだ距離がある。今の内に歩いて遠ざかれば大丈夫だろう。
直ぐに判断した慎介は、そのまま距離を取りながら前進する。
チラリと後ろを振り返れば、距離が開いて諦めたのか、少女のゾンビは立ち尽くしていた。
これで安心だろう。
ふぅと慎介が安堵のため息をついた瞬間――少女のゾンビが走った。
「おいおいおい!! マジかっ!?」
ゾンビは全員のろのろと歩くだけだと完全に油断していた。
慎介も急いで出口へと向かおうとするが――。
「ぐっ!?」
頭を何かで殴られた慎介は、そのまま気を失ってしまった。
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