変化
愛莉が目を覚ますと、そこは知らない場所――かと思いきや廊下に倒れていた。
自分の意識がある事にホッとして立ち上がる。
頭もすっきりとしていて、体が軽い。
何も考えずに足を一歩前に出すと、誰かが落とした眼鏡を割ってしまった。
パキリ――と甲高い音が静まり返った廊下に響く。
愛莉は一瞬びくりと肩を上げ、周囲を見渡す。
廊下にはそこら中に血痕が付いており、何かを引きずった後もある。
見た感じゾンビの姿は見当たらないが、もう少し周りを確認してから行動するべきだと自分を叱咤した。
愛莉は出来るだけ気配殺し、耳を澄ませる。
異様なまでの静けさ。
物音は勿論、あんなに煩かったサイレンの音や人々の叫び声が全く聞こえない。助けを求める友達の声も。
愛莉は、恐る恐る廊下の先を確認する。
大きな血溜まりがあるだけで、誰もいない。友達の姿は勿論、ゾンビの姿も見当たらなかった。
友達はもう彼らの仲間になってしまったのだろう。或いは、骨すら残らず食べられてしまったのか。
一瞬、彼女の最後の瞬間を思い出すが、あの状態では愛莉にはどうすることも出来なかった。
仕方がなかったと愛莉は自分に言い聞かせると、そのまま廊下を進み、更衣室へと入る。
中に誰も居ないことを確認した愛莉は、部屋の内側から鍵を掛けた。
これで、とりあえずは襲われる心配はない。
ふぅ。と安堵のため息をついた愛莉は、自分の私服が入っているロッカーへと向かう。
まずは、この血だらけのメイド服を着替えた方が良いだろう。
そう思った愛莉だが、その前に何処か噛まれていないか確認する必要があった。
見える範囲では噛まれた形跡はない。
残るは首元――スーツ姿のゾンビに噛まれた場所だけだ。
部屋に置かれている姿見の前に立った愛莉は、一度目を閉じて深呼吸する。
大丈夫。意識があるという事は、ゾンビじゃない。
自分に言い聞かせた愛莉は、ゆっくりと目を開けた。
「ッ……」
姿見には、妖しく光る蒼い目をした愛莉が写っていた。
首元にはゾンビに噛まれた傷があり、肉が抉れて血が溢れている。
しかし、どういう訳か傷からくる痛みはない。
それでも、こうして目の当たりにすれば、自分に何が起こったのかは容易に想像出来た。
愛莉はゾンビに噛まれたのだ。
急いで首の頸動脈に手を押し当てるが、脈を感じ取ることが出来ない。
自分の心臓が動いていない事に、悲鳴にもならない声を上げる。
じゃあどうして首元の傷から血が流れてるんだと、半分パニックになりながら止血できるものがないか探す。
周りには使えそうな物はない。
自分のロッカーを開けるが、こんな時に限ってタオルを持ってくるのを忘れた。
そのまま隣のロッカーを開けようとするが、鍵がかかっていて開かない。
少し力を込めて引っ張ると、バキッという音と共に鍵が壊れてロッカーが開いた。
中には友達の私服とバッグが入っており、少し躊躇した後、バッグの中にあったタオルを取り出して首元の傷にあてる。
芳香剤の良い香りと、血の生臭さが混ざった匂いがした。
不快に思いながらも、嗅覚はあることにホッとする愛莉。
少しだけ冷静さを取り戻した愛莉は、自分と世界に起こった異常事態について考える。
スマホの電源をつけると、日付は九月二十五日になっていた。
愛莉が噛まれてから三日も経っており、その間ずっと意識がなかったことがわかる。
スマホのバッテリー残量も赤になっており、直ぐにでも充電しないといけないが、そのままネットを開いた。
幸いにもネットはまだ生きており、ネットニュースやSNS、匿名掲示板を覗いてみると、ゾンビの話題で持ちきりだった。
スマホのバッテリーも心許ないので、愛莉は急いで必要な情報を集める。
限られた時間の中で調べた結果。
やはり、全世界でゾンビが発生しているようだ。
実際に奴らを見た愛莉だが、この事実は少なからずショックを受ける。
そして、ゾンビといえばお馴染みである、噛まれれば死んでゾンビになるというテンプレも、最悪な事に全世界共通であった。
特徴は殆どゲーム等と同じで。
少しでも噛まれれば、最短一時間。最長で一日後には死ぬ。
その後、ゾンビとなって生きた人間に襲い掛かる。
他の生物には襲い掛からず、また人間以外のゾンビはいない。
彼らを倒すには、心臓ではなく頭を破壊するのが有効。
何故こんな事が起きたのか、何が原因なのかは未だ不明。
ネットの情報なので信憑性は薄いが、それでも大方合っているという確信にも似た自信が愛莉にはあった。
ゲームや映画でよくあるゾンビパンデミックが世界中で起きた。これはもう認めるしかない。
しかし、わからない事がある。
自分という存在だ。
愛莉は傷口を抑えていたタオルを外し、もう一度姿見の前に立つ。
情報の中に、ゾンビと人間を簡単に見分ける方法で瞳の色の確認というのがあった。
瞳が蒼く光っていればゾンビ、そうでなければ人間。
そして、姿見に映る愛莉の瞳は蒼く光っていた。
つまり、愛莉は人間ではなくゾンビという事になる。
受け入れがたい事実ではあるが、心臓も停止しているので認めるしかない。
生前の記憶はなくなり、愛する者ですらただひたすらに襲い、喰らう存在。
だが、愛莉には人間としての意識がしっかりと残っている。
「かく……にん……っ!?」
言葉を発しようとした愛莉は、上手く言葉が出ない事に驚く。
どうしてなのかはわからない。
しかし、これもゾンビになった影響だと考えれば、納得できてしまう。
呻き声を挙げる事は出来ても、基本ゾンビは喋れないからだ。喋れるだけ御の字だろう。
まぁ、人間と会っても今の愛莉はゾンビと同じ見た目だ。意思疎通をする前に逃げるか襲われるに違いない。
人間に襲われるのは仕方がないとして、問題はゾンビに襲われるかどうかだ。
直ぐに確認する必要がある。
愛莉はロッカーの上に置いてあった救急箱から包帯を取り出すと、首元の傷を隠すように巻く。
出来上がりを鏡で見てみれば、悪くはない。上手に傷を隠せている。
しかし、早くも包帯は血で紅く塗られていく。
まぁ、視覚的にはグロテクスな傷口を見れなくなっただけでマシだろう。相変わらずメイド服は血で汚れているが。
「あ、れ……?」
何となく鏡にウィンクをして気付く。
微笑むことが出来ない。それどころか、表情が何も変わらない。
その事実に少しだけ慌てて――直ぐに落ち着く。
ゾンビだから仕方がない。
自身の変化は全てそれで納得できる事に、若干納得できないが早々に諦めた。
それに、虚ろな表情でも愛莉は可愛い。
これがゾンビパンデミックじゃなければ、リアルメイドゾンビとしてハロウィンでバカ受け間違いなしだった。
そんな事を思いながら鏡を見ていた愛莉だが、思考がかなり脱線していた事に気付く。
ふるふると頭を振って要らぬ思考を追い出した。
確認するべき事を思い出した愛莉は、更衣室の鍵を開けて廊下に出た。
ヒンヤリとした空気と、死臭漂う静かな空間。
愛莉は出来るだけ音を立てずに、裏口へと向かう。
倒したダンボールを邪魔にならないように移動させると、そのまま外に出た。
「ひど、い……」
自然と声が出る。
大通りに出た愛莉の目の前には、崩壊した街が広がっていたからだ。
道路には乗り捨てられた車両が幾つもあったが、流石日本というべきか、ギリギリ一台は通れる幅を残していた。
しかし、店に突っ込んでいる車もあれば、燃えて黒焦げになったものも少なくない。中には黒焦げになった死体もあり、愛莉は視線を逸らすように立ち並ぶ店に向けた。
店の殆どの入り口が壊されており、何者かが侵入した形跡がある。
中に入ってみると、争った形跡はあるが商品は無事だった。
つまり、侵入した何者かは商品が目当てではない。
十中八九ゾンビだろう。
至る所に血痕が飛び散り、奴らに喰われた死体が幾つも転がっていた。
そして、それに群がるゾンビも。
愛莉は静かに立ち去る。
とりあえず数店舗確認したが生存者は見つからず、ゾンビか死体しかなかった。
そして、やはりというべきか、愛莉はゾンビに襲われなかった。
これで人間側ではなく、ゾンビ側だという事がわかった。
「はぁ……」
今も自分の横を素通りする中年男性のゾンビを横目に、愛莉はため息を漏らす。
死体を見ても食べたいと思わなかった事を喜ぶべきか、ゾンビ側だという事に悲しむべきか。
とりあえずは保留にして、次の検証に移る。
「あの……すみま、せん」
愛莉は、先程横を通り過ぎた中年男性のゾンビに後ろから声をかける。
しかし、反応はない。
愛莉は意を決してゾンビの服を掴み、引っ張る。
すると、ゾンビがその場でゆっくりとぎこちない動きで振り向いた。
「っ……」
愛莉とゾンビの目が合う。
自分が噛まれた時の事を思い出した愛莉は、恐怖で逃げ出したくなった。
しかし、襲ってくる気配はない。
大丈夫だと自分に言い聞かせ、グッと我慢してそのまま視線を合わせていると、ゾンビは愛莉の横を通り過ぎて行った。
ホッと一息つき、胸をなでおろす。
これでわかった。
自分が、特別な存在なのだと。
ゾンビには自我がない。しかし、ゾンビである愛莉には、ちゃんと人間としての意識がある。
しかも、それだけでは無い。
愛莉は近くにあった標識の支柱を片手で持ち、上に持ち上げる。
すると、何の抵抗もなく標識が地中の基礎ごと抜けた。
虚ろな表情でそれを置く。
次に歩道を走ってみる。
体が羽のように軽く、飛ぶように前に進む。
ゾンビや障害物があるにも関わらず、それらを完璧に避けながら百メートル程の距離を数秒で走り抜けた。
そして、交差点に出た愛莉はその場でジャンプをする。
悠々と頭上の信号機にタッチすると、ふわりと着地した。
「ハハ……」
身体能力と反射神経が、一般人からスーパーマン並みに変化している。
これには流石に苦笑いだ。虚ろな表情で。
きっと、この変化は愛莉だけだろう。
そうでなければ、人間など直ぐにゾンビの餌食だ。
愛莉は、確認するように交差点を見渡す。
かなりの数のゾンビがいるが、そのどれもがフラフラと歩いている。
愛莉のように力が強く、走れるゾンビは見つけられなかった。
「これ……から。どうしよ」
愛莉は考える。
ゾンビだが、人間の意識が残っている自分という存在は絶対に稀少だ。
政府、もしくは対策機関に報告すれば、ゾンビに対する何らかの打開策になるかもしれない。
しかし、確実に実験材料にされる。
その前に殺される可能性もあるが、どちらに転んでも良いようにはならない。
実験されて惨たらしく殺されるイメージをした愛莉は、今の考えを却下する。
そもそもこの世界がゲーム、もしくは映画や小説などの世界だとしたら、この世界の主人公がどうにかしてくれるだろう。
まぁ、バッドエンドという可能性もあるが。
そこまで考えた愛莉は、ふるふると頭を振って考えるのを止める。
「まず……住める、場所……探す」
この世界がどうなるにしても、当面の間はここで生活するしかない。
ただ、例え自分がゾンビで襲われなくても、彼らと一緒に彷徨うのはごめんだ。
生前と同じように生活したい。
人間が避難している場所を見つければ、それも可能だろう。
しかし、ゾンビの自分が人間と一緒に暮らすのは絶対に無理だとわかる。
じゃあ、どうするか。
そうだ、拠点を作ろう。
愛莉の考えは、至ってシンプルなものだった。
そうと決まれば早速行動あるのみ。
愛莉は、自分が思い描く拠点の候補地へと真っすぐに走っていった。
読んで頂きありがとうございます!!