いつかベネチア食堂で
僕のオカンも栄子という。
そう、それはリリーさんの東京タワーの主人公の母と同じ名だ。 だからこそ、リリーさんのお母さんの最後の物語であった、 その小説を読むために、ぼくは1年以上かかってしまった。
臨終近く、病室で繰り返される「栄子」っていう文字がつらて、 本を買っては捨てて買っては捨てて、 3冊目でようやく最後まで読めた。
なんだか、小説を読み終えたときに、同名の「栄子さん」に、 同じようなことが起こる気がしてならなかったからだ。
誰でも愛の物語を1つくらい持っている。
会社への通勤途中、すれ違う何人かの見知らぬ人だって、 思い出すだけで、胸が熱くなるような、愛の物語を持っている。 相手は初恋の人かもしれないし人生を変えた友人とかもしれないが たいていの人は、同じような日常の中に、それを置き去りにして 僕と同じように、些細なことで誰かを憎んだり、疑ったり、 いつの日か、誰かからもらった素敵な愛の物語に込められた、 やさしい感情をすり減らしてしまうものだ。
それは、数年前のある夏の日のことだった。
前の会社にいたときに患って、転職後に再発した 幾度目かの神経症のために、人知れず人生の淵に僕はいた。 30を手前にして、仕事以外の時間は部屋から出れなくなった 情けない息子のために、初老にしては幾分元気な両親は 毎週変わりばんこに長崎からバスを乗り継いで福岡に出てきて、 洋服や本の散乱した、まるで枯れ果てた僕の心情のような部屋を 黙々と汗をたらして片づけしてくれていた。病院で処方してもらった薬を飲んで、その作用で虚ろな僕は、 その汗を流す両親の姿をたばこをくわえながら、眺めていた。
ある晴れた日のことだった。栄子さんは、僕をじっと見つめて、 ぽそりとこう言った、「もう、こん部屋ば出ようね」と。
自宅の窓からは、闇夜に浮かび上がる転職先の大きな社屋がぽっかりとそびえたっていた。 思考能力が低下する症状だったとはいえ、 朝昼晩と様々なニュースがひっきりになしに飛び込んでは消え、 深夜2時に仕事が終わり、次の日はそのまま会社に泊まり、 朝からまた時間に追われる仕事に、僕は打ちのめされていた。 だからこそ、帰宅してからもその社屋に見下ろされる環境にいた 僕のことを不憫に思っていたようだった。
その時、僕は情けないことに、もういい大人の年齢だった。 しかしながら、昔は出来ていたことが日に日に出来なくなっていく 毎日の中で、僕のプライドや尊厳は、ぽっきりと折れていた。
それから両親は、田舎の実家に近いような環境である 静かな郊外の引っ越し先を、情けない息子のために探し出した。
元気になった今だからこそ、実家に帰ったときに、
ポツリポツリとその時の気持ちを母さんは話してくれる。 「福岡に行くバスば、長崎の停留所で待っとるときに、 そんバスのブレーキの壊れて、こっちに突っ込んできてくれたら 母さん、どげんに楽になれるとやろうかと思ったとよ」と、 小さな茶碗に漬物を乗せながら、ポリッポリッと 心地よい音立てながら。僕は小さい時から、その音が好きだ。
そして何度目かの日曜日。僕と母さんは、けやき通りにある 「ベネチア食堂」っていう、こじんまりしながらも 手入れの行き届いたイタリア料理屋にいた。
今の僕を知っている人や、昔の僕を知っている人は驚くだろうけど、 人目にさらされるだけで手が震えてしまっていた、その時期の僕は、 幸せそうに、食事をする家族やカップルに挟希ていた。なんちゅうか、自分へのすごく情けない気持ちと、 そんな姿を見て、みじめな思いをしているだろう母さんへ、 なんとも堪らない気持ちで打ちひしがれていた。 そして、精一杯微笑みかけながら、 「おいしかね、お父さんにも食べさせてやりたかね」という母が、 自身も更年期という、厳しい症状と闘っていることを、 まだ知らなかった。ただその当時の母さんの写真には、 今見返してみても、目に光がない。 しかしながら、ベネチア食堂で2人で飲んだ、 カボチャのスープはたまらなく美味しかった。 そして何より、周りで楽しそうに団欒をするテーブルの人のように 満ち足りた気持ちで、そのスープで飲んでいないだろう、 母さんのことを思うと、情けなくて仕方なかった。
そして数日後、仕事を終えて、部屋に帰ると、 あと何日かいるはずだった母さんの荷物が消えていた「急用が出来たので帰ります」という置き手紙だけを残して。 母さんへの電話はずっと留守電になっていたので、 気がかりに思った僕は、父さんに電話を入れた。
すると「よかとよかと、なんかちょっと急用のあったけん 別に心配することはなかけん、はよ今日は寝らんね」と。
数日後、僕は長崎行きの長距離バスの中にいた。
当時は、福岡にいるのが厭でしょうがなかったから、 休みともなると、毎度のように帰省しては、ただただ 実家の慣れ親しんだ部屋で眠剤を飲んでは寝て過ごしていた。 しかし、その日は様子が違っていた。
玄関のチャイムを鳴らすと、出迎えてくれるはずの母さんの姿が なかった。リュックにれていた鍵を取り出すと、そのまま入った。
「帰ったよ、、」返事もないので、1階をうろつきまわると、 畳の部屋に布団がしかれ、母さんが気まずい顔で寝ていた。 そして母さんの足には、白いギブスがまかれていた。
「母さん、こないだお友達の田中さんのおばちゃんと 散歩中にちょっとこけたとよ、ごめんね」
電気を消した部屋には、湿布の匂いと畳の匂いが充満していた。 そして、仕事から帰宅した父さんの作ってくれた料理を食べて、 僕はいつものように自分の部屋で休日を過ごし、福岡へと戻った。
バス停までは、普段から口数の少ないオヤジが送ってくれた。 そしていつものように、ドアを閉める時に手を握ってくれた。 そして両親が、おだやかな環境が、 育ってきた長崎の田舎に似てるから という理由で、少しだけ郊外に引っ越しをすることにした。
もちろん手続きもすべて両親まかせで、僕は 業者の人が新居をうろうろしている間 ずっと広めのクローゼットの中に隠れて寝ていた。 そして、新居祝いを小さな居酒屋で行い、 翌日、さすがにいたたまれなくなった僕は 両親に、ありがとう、がんばるけん、本当にごめんと謝りながら 本当に思ってることがあったら正直に話して欲しいと話した。
あふれでた年老いた両親の感情。 心配だし病気のせいだってわかってる。 でも、もっと頑張れることもあるでしょ? わたしたちだって若くはないし、 出来ることと出来ないことだってある。 ほんとうに、どうしてやっていいのか分からないと 泣きながら母は叫んでいた。
受け止められなかった僕は、 なんとか頑張るけん、早く病気治すけんと 何を思ったのか、思いっきりビンタしてくれと頼んだ。 親父からバチン。 こんな時ながら、手加減するものと思っていた甘い僕。 そしてオカンも泣きながら「頼むから、しっかりしてよ」って。
オカンは、一発じゃ足りなかったのか もう一度思いっきり、ビンタしてきた。
僕はあの2発目のビンタするときの オカンの顔を今でも覚えている。 あの痛みは一生忘れないだろうと思う。 そして、あの最低の時期の僕を 見放してくれなかった2人の愛と優しさも。
今僕は、ふとしたきっかけで元気になって、素敵な友達や 愉快な会社の先輩や後輩に囲まれて、楽しく生活している。 6年間の辛い時期を埋め合わせようとしと焦った時期もあったけど 最近になってようやく、それがいかに空しいことだと気づいた。
母さんのギプスの理由を後日、父さんから聞いた。
不慣れな土地で、僕のために夕飯の買い物をしようと 歩き回っていた時に足を滑らせてしまい、骨折したそうだ。 それでも、追い詰められていた僕に、これ以上の心配をかけまいと 我慢してひとりで部屋に戻り、
長崎から父さんに迎えにきてもらい、帰ったそうだ。
本当にクソったれで、思い返すだけで泣きそうになる6年だったけど 自分で勝手に落っこちたどん底で、僕は色んな愛の物語を知った。 三十路近くのオッサンになって、無限の愛を注いでもらった。
「悲しい過去を思い返してもしょうがないじゃない
人は未来にしか生きられないんだから、
頼むから、もう少し前を向いてよ」
僕を救ってくれたオカンとオトンの言葉。 これこそが、あの糞ったれな6年の中で、僕が得た唯一の財産である。 友達も失ったし、もちろん恋人も。 でも、きっとこの言葉は、これからも僕のささやかな人生を照らしてくれる灯台のような気がする。
そして、その当時にオカンから言われた言葉を
作詞させてもらったSMAPの「CRY FOR the SMILE」って 曲の歌詞に散りばめることが出来た。
この曲を聴いて、落ち込んでいる人が少しでも元気になれたら 僕の最低の6年も少しだけ意味があったんだと思えるし
お世辞でも「前を向けました」ってメールをいただいたりして あの時期に少しだけ、落とし前をつけれたような気がした。
しかしながら元気になった僕は、繰り返される日々の生活の中で、 えてして身勝手に生きてしまっている。 そして、ふとしたきっかけでそれに気づき反省しまた繰り返す。
深夜11時、明かりの消えた台所に響く、
母さんの食べる漬物の音。
ポリッポリッ、、、と心地よく。
最後は、お茶を入れて、何粒かのご飯を飲み込んでしまう。 その真上の部屋で、日本酒一杯で上機嫌になって寝てしまう おやじの鳴らすイビキの音。
僕は、そんな家で小さい頃から毎日を過ごし、大学で部屋を離れ、 就職で戻り、転職でまた部屋を出て、たまの休日に戻る。 そんな何気ない光景の中に隠れてる、幸せな記憶を いつしか僕も誰かに与えてあげたらと思いながら、 今日もまた、いろんなことで苛立ちながら、ささくれだったり、 待ち受けの甥っこの写真を眺めて、にんまりしながら、 はたまたエッチな想像なんかしながら、一日が終わる。
そしてたまに、ベネチア食堂の前を自転車で通り過ぎた時に、 はたまた、今の僕の何気ない幸せに気付かされたりするのだ。そして何度か店の前まではいくんだけど まだ、あの頃の情けない僕がいるようで 足がすくんでしまうのも事実だ。 酔った勢いなら入れるかもと、試みたけれど もう少しだけ時間がいるような気がした。
なんて、しょうがない日々と僕だ。