令和二年六月二日㈫
おじさんは、死にたい。将来が不安である。母上が死んだらどう生きていけるのか想像もつかない。
兄上は、早々に肺癌になって逝去するだろう。兄弟仲を考える暇も無いのではないのか。
未来に展望が持てない。
日々の生活で困ったことはないが、不服があるとすれば無職であることだろう。
この世の中ではありふれていると友は言う。
確かにワクチンが開発されない限り、終わりは無い。
母上の弟君は言う。このウイルスはRNA型だから変質しやすいと。インフルエンザのように毎年変わるのだろうか。
今日の零時に本屋を徒歩で探しに行き、壱時に迎えが来た。相当怒られた。何故なら、トラックに撥ねられてミンチになりたかったと言ったからである。それとおじさんの命一つ安いものだろうと。
兄上は激怒した。トラック運転手にも人生があり、人を轢いたらおまんま喰っていけないのだと。
兄もトラック運転手想像できるのだろう。
ならどう死ぬべきか。歩いている途中で川に流される選択肢もあった。今も包丁で腕を刺すなり、首を搔き切るなりできるはずなのだが。恐ろしくてできない。
おじさんは、本当は生きたいのである。ただ病気で気分が沈んで思ってもいないことを実行に移そうとするのである。
いや常に死にたいとは考えてはいるが死ねないだけなのかもしれない。
おじさんの原初は「狂い」である欠陥製品である。絶対悪であり、いつか裁きが待っている。そんな気がする。何をしても悪い方向に転がり。成功したと思ったら、転がり落ちる。おじさん一人いないだけで関わってきた全ての人の時間が有効に使われる。
おじさんの願いは人類全ての絶滅であり、新人類ともいうべき種の誕生である。
障害があると言うが、あれは進化の可能性である。耳が聞こえないなら、違う分野の脳が活性化する。退化も進化の一つである。全ての子が才能を開花させることができれば、人類は一歩また前進するであろう。またその子たちが働けるような機材を開発することも課題の一つなのであろう。
動けない、上手く話すことができない。そのようなことで命を奪っていいはずないのである。
ただ不出来なおじさんは失敗作としかいいようがない。趣味に走り、仕事を疎かにして入院。
過去のことは、不運だった事柄は鮮明に思い出せるのに。幸福だった時間は朧気である。不幸に酔っているのか。おじさんにも分からない。突然、楽しい気分から一転して死にたくなるぐらい悪い気持ちになるのだ。先生はこれは脳の病気というよりも性質と仰っていたが、おじさんにはよく違いがわからなかった。
はあ、死にたくねえ。