4 支度部屋にて そして土俵入り
コンペ当日の朝になった。「ついていく」と叫んでいた長男の万澄を振り切って、岡田は中央区立体育館に向った。
集合時間は午前十時、岡田は三十分前に到着した。入り口をくぐった。
中は……狭い。ロビーといえるような空間はなく、すぐに受付があった。しかし、内装は実に豪華だ。檜と杉の区別もつかない岡田だが、そこここに自然の木が使われているらしいこと、そして今日においてはそれは大変贅沢なことであるということはわかった。
受付で鍵を受け取り、岡田は「支度部屋」と書かれたロッカールームに入った。自分としては早めに着いたつもりだったのだが、コンペのメンバーのほとんどが着替えを済ませていた。カラフルな色彩が岡田の目に飛び込む。
「やあ、岡田さん、待っていましたよ」
今日の岡田のパートナーである梶村が岡田に声をかけてきた。相撲の廻しは二人がペアにならなければ締めることが出来ないので、必ずペアが決められる。
「じゃぁ、早速、廻しをお願いします。岡田さんのを先に締めましょうか」
「いや、先に梶村君のを締めましょう」
あの古ぼけた廻しを人目にさらすのは、少しでもあとにしたい。そういう気持ちが岡田の意識のなかに働いた。
「そうですか、ではお願いします」
梶村が嬉しそうな声を出して、相撲専用バッグ(バッグの中に廻しがスッポリと納まるスペースがある)から、廻しを取り出した。
「これが例のサルマーニの廻しかあ」
「そうなんですよ。いいでしょう」
「ううん、何というか、あざやかなものやねえ」
「へへへ。……あれ、岡田さん」
「なあに」
「廻しを締めるの上手じゃないですか」
「そう。長いことやってないけど、子供の時に覚えたことは、結構身についているもんやねえ」
「はい、締めおわりましたよ」
「どうもありがとうございます」
派手な廻しはともかくとして、廻しを締めた梶村にスーツ姿の時の格好よさは感じなかった。細すぎて貧弱な印象を受けた。
「それじゃあ、岡田さんの廻しを締めましょう。さあ廻しを出してください」
事ここにいたっては仕方がない。
岡田は背負ってきたリュックサック(相撲専用バッグなど買う訳が無い)から、父親に借りた紺色の古ぼけた廻しを出した。
「いやあ、随分と年期の入った廻しですねえ」
梶村が遠慮なく言う。
廻しを締めていた梶村の手がとまった。
「あれ、あれれ」
「どうしたの」
岡田の問いには答えず、梶村が周りにいたコンペの参加者に声をかけた。
「ねえみんな、ちょっとちょっと」
たしかにこの中央区立体育館にこんなにみすぼらしい廻しを持ってきたのは世間様に対して申し訳ないことをしたのかもしれない。でも俺だって少しでも世間に折り合おうと最大限の譲歩はしたのだ。それなのにそうやってみんなの注目をわざわざ集めて恥をかかせなくてもいいじゃないか。普投、好意をもっていた梶村だけに岡田は
「梶村よ、お前もか」
と裏切られた思いになった。
「岡田さんの締めてる廻しを見て下さいよ」
梶村が岡田の廻しを指差す。みんなの目が岡田の腰に集中する。
「やっぱり来るんじゃなかった」
岡田は全身を羞恥の思いで熱くした。
「ぼろっちい廻しゃなあ。そんな廻しでこの名門の土俵にあがるんかいな」
谷井が遠慮の無い声を出した.
「ほらここ。この赤い三本のライン」
「お……おお」
「ね。この廻し、あれでしょ」
「おおそうやそうや。あれやんか。へええ」
「ねえねえどうしたの」
騒ぎを聞き付けて、今まで遠くにいた田部がやってきた.その廻しには著作権に厳しい、国際的に有名なネズミのキャラクターの顔がプリントされている。
「部長。岡田さんの廻しを見て下さいよ。あの廻しですよ」
「ん、ああ、あれだ。へえ、岡田くんすごいじゃないか」
みんなの話によれば、岡田の締めている廻しは十年以上前に倒産したメーカーのもので、横に赤い三本のラインの入ったものは生産されたものも少なかったことから、もし新品同様のものであれば、マニアの間では百万円は下らない値段のつくものであり、岡田が今締めているような使い込んだものであっても、ニ、三十万円はするだろうとのことだった。
現役で相撲を取っている人の間ではよく知られている話だそうだが、岡田の父もだいぶ前に相撲をやめているから、そのことは知らなかったのだろう。
このことは勿論岡田の気を良くさせた.「恥ずかしい」という思いが「誇らしい」という気持ちに変わったのだから
「父よあなたは偉かった」てなものだ。
「岡田君」
田部の声が聞こえる。
「いいよ、岡田君いいよ。お腹がポコンと出ているから廻し姿がとてもよく似合っている」
コンペ参加者全員の準備が整った。
「さ、みんな。土俵入りやで.番付順に並んでや」
谷井の呼び掛ける声がする。
これまでの成績を総合して番付は決まっている。地位の下の者から前に並ぶ。初参加である岡田は当然先頭ということになる。
「じゃぁ行司さん.先導をお願いします」
谷井が支度部屋に行司を呼び入れた.
こういったコンペの会場になるような土俵にはそれぞれ専属の行司、呼出しがついている。プロでは完全な男の世界である相撲も、こういったアマチュアの場合は概ね呼出しは女性が行う。中央区立体育館は名門といわれるだけあって呼出しは美人ぞろいであると評判が高い。
大きな大会であれば土俵入りの時には競技用の廻しとは別に化粧廻しを締めるのだが、このような定例的なコンペであれば化粧廻しを締めることはまずない。
何といっても競技用廻しと化粧廻しの二本を持つということになれば持運びが大変になってくる。
もっとも最近では「相撲宅配便」というような商売もあり、前もって申し込んでおけば運送会社が会場まで運んでくれる.
今回谷井などは
「名門の土俵を使うんやし、ここらでうちの部のコンペでも化粧廻しを締めての土俵入りをやりましょうよ」
と事前に相当主張したようだが今回は結局見送られた。何といっても化粧廻しは高い。化粧廻しを所有するということはひとつのステータスであり、部内でも特に若手はまだ持っていない者が何人もいたのだ。
呼出しの析の音が響いた。行司の先導によってコンペ参加者は稽古場に入っていった。
入場した途端、「ウワー」という歓声がこだました.岡田はびっくりした。上がり座敷にびっしりと何十人もの老若男女がひしめきあっていた。
岡田はすぐにそれが参加者のそれぞれの応援にきた家族であることに気付いた。今朝泣き叫んでいた息子の万澄の顔が岡田の頭に浮かんだ。そして、娘の加愛、妻、両親の顔が。
「俺も応援に来させても良かったかな」
そして……相撲コンペが始まる。