3 父との会話、妻との会話
帰途、両親の家に寄り、居間に入った。
父が廻しを持ってきた.案の定、ほとんど無地で紺色の古めかしい廻しだった。
「捜すのに時間がかかったわ。押し入れの奥の方に放りこんどった」
「ああ、どうもありがとう」
「でもこんな古くて汚い廻しでええんか。会社のコンペやろ。恥ずかしいやろう」
「いえいえ。これで充分ですよ」
「ふうん、で、コンペの会場はどこやねん」
「中央区立体育館」
「なんやてえ」
父の声が引っ繰り返った.最近は相手を驚かすことが多い。こちらにはそんなつもりはないのに。
「そりやまたすごいところでやるんやなあ。さすがに上場会社は違うなあ」
「そういう訳やないねん。たまたま幹事をやっている人にコネがあるんや」
谷井の得意そうな顔が頭に浮かぶ。
「それにしてもすごいやないか。でもそれやったらやっぱりあかんでえ」
「何が」
「こんな廻しで相撲取ったらあかんというこっちゃ。なあ、おまえも相撲を始めるんやったら、これを機会にちゃんとした廻しを買いいや」
「始めたわけやない。今回限りの付き合いや」
そうなんだろうか。岡田の胸に不安がよぎる。一度付き合ったが最後、もうけっして逃れることは出来なくなるのではないだろうか。
「ふうん、ほんまにおまえは相撲を取らんようになったなあ。小さいときは大好きやったのになあ。儂かて腰さえ悪うせなんだら今も現役で取っていたいんやで」
おっと、今日は親父の愚痴に付き合ってあげる心の余裕はない。
「ほなこれで。廻し借りますね」
「コンペは応援に行ってもええんか」
「あきまへん」
岡田はきっぱりと言った。本当は構わないし、みんな結構家族の応援が来るようだが、相撲を取る姿など、家族に見られたくはない。
深夜、岡田は自宅で、ゴルフの世界選手権のビデオをデッキに挿入して再生した。
もう数カ月も前に行われたその選手権は、ゴルフがテレビで放映される唯一の試合だ。
岡田は深夜に録画で放映されたその番組を当然ダビングした。岡田はこのビデオを何度繰り返して見たことだろう。もっとも、たかだか三十分に編集されたダイジェスト版だ。
相撲となれば、小学生の地域の大会でさえテレビ放映されるというのに。ビデオの画面を漫然と眺めていた岡田の胸に不意に画面の中でプレーをしているゴルファーへのいとおしさがこみあげた。
ここにゴルフというスポーツにおける世界最高の技量を有する人たちがいる。しかし、称賛のことばも喝采のことばも彼らには無縁だ。むしろ世間からは反感と蔑視の対象となっている。
今年の世界選手権の優勝者は史上最年少の記録を更新した。さすがに少しは話題になるのでは、と思って、期待に胸をはずませて翌日のスポーツ新聞を購入した岡田の目に入ったのは、いつもどおりに優勝者の名前のみの一行だけの記事だった。
「がんばれ」
岡田は心の中で叫ぶ。
「ばくは応援し続けるから」
「ああ、またゴルフのビデオ見てる。好きねえ」
子供を寝かせながら自分も一緒に寝入っていた妻が起きてきた。岡田の傍らに座る。
「何かほしい」
「うん」
「何が要る」
「我にコーヒーを与えよ。しからずんば死を与えよ」
妻は「またか」といったいささかうんざりした表情を顔に浮かべたが、それでも
「死を与える」
と言いつつ、手刀を作って、岡田の首の後ろに振りおろした。
「ねえ、もういい加減にやめない。コーヒーを作るたびにやらされたんじゃ疲れる」
「日常生活の中にも色々な決まり切った型というものが必要だ」
「あなたも頑固ねえ」
「何言うてんねん。たしかに言い出したのは俺やけど、「死を与える」と応じたのはあんたのオリジナルやないか」
「へえへえ」
妻が台所に向う
「ねえねえ」
コーヒーを喫みながら妻がまた話し掛けてくる。人が熱心にビデオを見ているというのに五月蝿い奴だ。いつものことだが。
「お父さんが相撲を取るって言ったら万澄も加愛も喜んじゃって.特に万澄はやっぱり男の子ねえ。もうはしゃいじゃって。『絶対応援にいく』って張り切ってるわよ」
またか。まったく、どいつもこいつも。
「だめ。相撲を取ってる姿なんか子供に見せられるか」
「そんなあ。万澄が、がっかりするわよ.別に応援したっていいじゃない.ほかのひとのところだって応援に来るんでしょう」
「だめなものはだめ」
「意地っ張り」