1 業務命令
現代日本とそっくりな世界。でもたったひとつ違っている。それは、「相撲」
この世界では、人びとの生活に相撲が密着。
老いも若きも、子供たちも相撲、相撲、相撲。
サラリーマンにとっても、相撲は不可欠。
そんな世界にあって、相撲は取らないと心に決めていたひとりのサラリーマンが、自分が勤める職場の、相撲コンペに参加せざるを得なくなる。そんなお話です。
中之島販売株式会社衣料事業部営業第二部に所属する岡田は、その日もいつものように出社した。会社の自分の机の前に着席して彼が朝一番に行なう事は決まっている。机の右側手前に張り付けた紙に書き込まれた数字、そこには「9,324」とあったが、彼は一桁目の「4」を消してそこに新たに「3」と書き込んだ。
「定年まであと9,323日か」前途はまだ遼遠たるものがある。しかし、約二年前に「10,000」が「9,999」になった時の感激を彼は思い出した。以前、彼はこの作業を一日の仕事が終わった時に行なっていた。だが、朝の憂鬱を少しでも緩和しようと、去年からは朝一番で実施しているのだ。
「岡田君ちょっと」
部長の田部の彼を呼ぶ声が聞こえた。
「はい」
彼は返事をすると部長の席に着く約5メートルの間にすばやく考えを巡らせた。田部からは何件も仕事を言いつかっている。「あれだろうか。それともあのことだろうか」が、いずれにしても岡田は、そのうちどれも完了してはいなかった。明確な答弁も行えそうになかった。
田部の席の前に着いた。
「いや、仕事の話ではないんだけどね」
ほっとする。しかし、では一体何の話だろう。プライベートでそんなに親しくしてきたつもりはないが。
「今度の部内の相撲コンペだけれど、君また欠席するようだね」
「はあ」
「君はいつも欠席だけど、何故かね」
「相撲は……嫌いなんです」
「嫌いと言ったって、君も去年から管理職になったんだろう」
「はあ」
「サラリーマンにとって、相撲での付き合いがどんなに大事かということは君だってわかっているんだろう」
「はあ、それはまあ」
「君、何かほかにやっているスポーツがあるのかね」
岡田は覚悟を決めた。
「ゴルフをやっております」
「ゴルフだってぇ」
田部は素っ頓狂な声をだした。予想通りの反応だった。
「君はあんな自然を破壊する、反社会的なスポーツをやっているのかね」
「はい」
田部は一瞬、けがらわしいものを見るかのような目つきを岡田の方に向けた。
「とにかく」
田部がきっぱりと決めつけた。
「今度の相撲コンペは出席するように。これは業務命令だと思ってくれ」
その日の仕事は終わった。岡田は帰路についた。雨が降っている。岡田は傘をさして駅に向かった。彼は今朝の田部とのやりとりを思い浮かべていた。
「相撲か」
彼は自分の幼かった頃のことを思い出していた。相撲は……大好きだった。いや、この国に生まれて相撲の嫌いな少年など皆無だろう。小学生時代も、岡田は毎日相撲を取っていた。そして、彼はなかなか強かった。クラスでも一、二を争う強さだった。その彼がなぜ相撲が嫌いになったのか。全ては彼の性格がなせる業だった。岡田の性格を構成する大きな要素に「他人と同じ事をしたくない」ということがあった。長じるにつれて彼は相撲から離れていった。
大学時代、そういう彼の前に現れたのがゴルフだった。友人に初めて誘われた際、その時点では彼はゴルフには何の関心もなかった。友人が余りにも熱心に誘うので断るのに忍びなくなった。
初めてのゴルフコースに出たとき、その広さに岡田は驚嘆した。
「何と贅沢なスポーツなのだろうか」
人口が過密な現在、人々はより小さなスペースで日々の活動を行なおうとする。
「より小さく、より狭く」
それはこの時代に生きる人々の、基本的なモラルだ。所得の多い人ほどこれ以上はどうあっても狭くはできない、という家に住み、その狭い居住空間の中に生活していくためのあらゆる設備が整っていることを誇る。
「スモール イズ グレート」が総意とされる価値観であるこの世界において、遊びのためにこれほど広大な場所が用意されているというのは、空恐ろしいことだった。
世間の人達がゴルフを反社会的なものと評価しているのも当たり前だ。そう思った。しかし、世間の評価とおのれの心中に感じる爽快感、その二つを比較したとき、彼は後者を選択した。その選択をなした一つの理由に、岡田と一緒にコースをまわったメンバーの姿があった。世間に対して公然と反抗しているという印象はなかった。自分たちのやっていることの反社会性を自覚し、そのことで世間に気兼ねしつつも、やりたいことをひっそりと、つつましやかにやる。その態度はそのまま岡田の生きる姿勢でもあった。
駅に着いた。
岡田はホームで電車を待っていた。周りを見渡す。そこにはいつもの見慣れた光景がひろがっていた。サラリーマンたちがそこここで体を動かしている。
ある人は四股をふんでいる。別の人はコンクリートの地面に手をつけて立ち会いの稽古を行なっている。そしてまた別の人はホームの柱に向かって懸命に左右の手を動かしていた。
(鉄砲というそうだ)
いつもの彼なら決してそんなことはしなかった。しかし、今朝のことが彼の頭にひっかかっていた。
「俺だって」
岡田は手に持っていた傘の先をコンクリートにつけた。彼は傘をクラブにみたててパットの型を練習した。
2、30秒も続けただろうか。彼は自分の周囲に異様な雰囲気を感じた。
周りにいる人達がみんな彼の方を見ていた。今朝の田部と同じ目をしていた。岡田にはそれ以上続ける勇気はなかった。彼は目を伏せた。