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プロローグ





「次ー!行くぞー!」


「「「「「「「「オオッ!」」」」」」」」


キャプテンである捕手の掛け声に俺率いる野球部のレギュラー陣、8名は己の利き手とは逆の手に嵌めたグラブを叩いて応えた。その次の瞬間、捕手は天高く硬式ボールを放ると金属バットを構え、ボールが胸元まで落下してくるとそれを勢い良く振るった。

カキィィィィインッ!!という軽快な音を立てて硬式ボールが打ち出された。

鋭い打球はマウンドに立つピッチャーの頭上を越えた。その射線上傍に構えていたセカンドが白球を捕らえようと飛び付いたが、彼の神経伝達は強襲するボールの速度には勝てなかったようだ。打球は勢いの衰えぬままぐんぐん伸びて行く。

ピッチャーが後ろを向いて吼えた。


「センタァァァァァァッ!!」


そのセンター、外野の中心を守る少年は全力で駆け出すと失速して地面に落ちかけていた白球を滑り込んで掴み取った。


「よしっ!」「ナイスゥ!」


内野手達が口々に褒めの言葉を叫ぶ。それを聞いたセンターは恥ずかしそうに帽子を深く被り直すと中継のショートに向けてボールを送球した。

俺、神埜岩 慶吾(かみのいわ けいご)はそんなチームメイトの姿を見ながらベンチ内で呟いた。


「うん、肩も強くなった送球もブレない。そして何より球も落とさなくなった……いやぁ、凄ぇ成長だ……」


センターを守る少年、守屋は入学当時守備が苦手だった。打撃センスは光る物があったが、肝心の守備はまるでザル。簡単なフライも落とすし落下地点を見定める事が出来ない。ハッキリ言うと俺が今迄出逢った野球少年の中で一番の守備下手な男だった。

それが今やどうだ。落球はおろか滑り込んでキャッチというファインプレーを熟せるようになった。たった二年でここまで成長するとは、流石に思っていなかったので驚きだ。最近は自慢のバットコントロールも更に研ぎ澄まされ、更に良い選手へと進化している。

他の奴等もそうだ。例えばピッチャーの知床しれとこは入学当時、球速は最高154km/hという豪速球を投げる事が出来る将来有望な投手だったものの、その球威と直球に拘るあまり乱調が目立っていた。その上変化球も高速スライダーと高速シンカーのみ、と余りにも少なく、目の慣れた打者からは綺麗に芯に捉えられていた。

しかし今ではどうだ。落ち着いてコントロールを定められるようになり、9回を余裕を持って投げ切れる程のスタミナも付いてきた。その上、最近はキレのあるフォークと緩急が付けれるスローカーブも習得した。昨秋の大会でも準決勝を完封試合で締め上げる程の実力を見せており、プロの目にも留まっている。その為か時々行われる練習試合にスカウトが来る事もある。

その他の奴等も入学当時と比べると、凄まじい進化を遂げている。コーチの俺にとってはとても嬉しい事だった。


「はははっ、彼等があそこまで成長出来たのは紛れも無く貴方のお陰ですよ…」


隣に座るジャージ姿の老人がそう言った。白い顎髭を蓄えた老人からは朗らかな雰囲気と共に何処か知的な物を感じた。


「いえいえ、滅相もございませんよ。監督」


俺はそう謙遜する。 老人の正体はこの熊本市立第三高校野球部を束ねる者、つまり監督だった。スタメンが、ベンチが、作戦が、チームの方針が。全ての事がこの人の鶴の一声で決定するのだ。


「欠点だらけだった彼等は貴方が教えた野球の技術をまるでスポンジのように吸収して、ここまで成長しました。それを支えたのは貴方です、もっと自分を誇りに思ってもバチは当たりませんよ」


監督はそのように続ける。俺はその言葉を聞きながら羽織っていたジャンバーの胸ポケから煙草ケースを取る。その中から煙草を一本取り出しながら俺は言った。


「彼奴等はここまで辿り着けたのはもしかしたら俺の指導もあるかもしれませんが、一番はやはり彼奴等自身の強い志しと努力ですよ…」


取り出した煙草を口に咥え、ポケットからライターを出そうと手を伸ばしたその時、監督が溜め息を吐くように呟いた。


「もしかしたら彼等はプロの世界まで進むかもしれませんね…」


「………!」


その瞬間、俺は自分の顔が強張るのが判った。

その俺の様子を感じ取ったのか、監督が慌てて謝罪の言葉を入れる。


「も、申し訳無い…!嫌な思い出を掘り返させてしまったね……」


「いえ…大丈夫です……」


俺はユニフォームのズボンのポケットの中で左手を握り締め、思わず俯いた。俺にとって『プロ』という言葉は自分の足に纏わり付く枷であり、忌々しき過去と自らを繋ぎ止める鎖でもあった。

数年前まで俺は某球団に所属し、一軍で守護神、抑え投手をしていたプロ野球選手だったのだ。ルーキーイヤー、つまり入団初年からベンチ入りし、圧倒的な活躍を見せていた。

抑え投手というのは言うなればゲームの幕引きを務める者の事だ。8回、9回という試合の終盤を無失点で綺麗に抑えて仲間達が取ってくれたリードを何としても守り抜く。それが俺、抑え投手の仕事だったのだ。

150km/h後半を叩き出す豪左腕から織り成されるスライダーやナックル、スプリット、パームボールにスローカーブという多彩な変化球を巧みに使い、俺は奪三振の山を築き上げたのだ。

変幻自在とも呼べる程のキレのある変化球、ノビのあるストレート、闘志溢れる投球、簡単には遠くで飛ばさせない重い球質。其れ等を有した俺は抑え投手の第一人者に成り上がったのだ。

そうして付いた異名が『大護神』。スラッガーが連ねる強打線だろうとその変化球と重い球質で幾つものセーブポイントを積み上げて来た。最終年のセーブ数は登板が72回に対し驚異の『70』。そして防御率は『1.01』。監督からは『本当に安心出来る投球』と絶大な信頼を受けていた。

しかし、俺の野球選手人生はたった6年で終結した。高卒からプロ球団に入団したので、24歳。今の年齢が27歳なのでかれこれ3年前になる。そしてそれと同時だった。この第三高校に技術コーチとして招かれるようになったのは。


「俺は過去の栄光を捨てた身ですので、気になりませんよ……」


監督は判っていたのであろう。俺のその言葉が虚勢である事に。

そしてそれを紛らわすように言った。


「ははっ、そうですか……。おっ、そういえば!」


そう言って監督はベンチの下に置いていたクーラーボックスの中から何か長方形の細長い物を二つ取り出した。竹の皮を模した包装紙に包まれた物、その正体は羊羹だった。


「ついこの前黄金堂の羊羹が手に入ったんですよ!貴方と食べようと思い持って来ました!」


「おぉ!有難う御座います!」


黄金堂の羊羹は厳選された素材で製造されており、数多くの人間の胃袋を掴む程美味な事で有名だった。その為黄金堂には毎日沢山の客が羊羹を求めて集まる。そんなレアアイテムを入手出来るなんて、監督は途轍もない劇運の持ち主だ、と思った。


「へぇ、これが黄金堂の……」


俺はそう呟きながら監督から羊羹を受け取った。綺麗な手の平サイズの長方形にカットされた羊羹はズッシリと重く、かなりのサイズ感を感じさせた。


「よし、では、戴きます」


そう監督に断りを入れて羊羹の包装紙を捲り取ろうとしたその時、不意に俺の名を呼ぶ声が聞こえた。少女のように高く、柔らかい声だった。


「あの、神埜岩コーチ……」


「ん?」


視線を上げると、其処に居たのは一人の少女……いや、少年だった。

短く切り揃えた栗色の髪、女子と見間違えてしまうような童顔、活発さの宿る瞳、そして女子と見間違えてしまう程の低い身長。見た目とその高い声から女子と勘違いされる事もあるが、この少年、一年生の陽美藤 嶺(はるみふじ れい)はれっきとした男子なのだ。

見た目から初見で男と見破られる事はまず無い。俺も今年の春、陽美藤が入部して来た時には判らなかった。

陽美藤はこの第三高校で四人しか居ない投手の一人であり、俺と同じ抑え投手として凄まじい成長性と意外性を発揮する期待の新入生だった。

今日は甲子園出場メンバーのみ、つまり三年生全員と二年生数名のみしか部活には来ていなかった。これは出場メンバー18人を練習に集中させる為で、今年入って来た一年生12人や出場を逃した二年生5人に機材を独占されないようにしているのだ。

そしてこの陽美藤はその中で唯一今日の練習に参加している一年生だ。

俺は帽子の鐔を摘み上げて言った。


「何の用だ?」


「いえ、その……走り込みが終わったので指導をして頂けないかと……宜しいですか?」


「あぁ、そういう事か。分かった、そんじゃあ行くか!」


俺は腰を上げてベンチの側に置いていたスポーツバッグから右利き専用の右手用(・・・)のグローブを取り出し、それを己の左手に嵌めた。


「はいッ!」


晴美藤の元気な声が夏の青空に響いた。






~~~~~~~~~





俺達はグラウンドの端に設けられた小規模なブルペンへ向かった。元々数年前までこの熊本市立第三高校は弱小校だった為、野球部の強化にはそこまで力を入れていなかった。

しかしこの3年で随分と変わった物だ。夏の大会で決勝まで勝ち進んだ時にはチューブやスピードガンなどの機材が導入され、昨年の夏に甲子園まで突き進んだ時には150km/hまで出せるピッチングマシーンが贈与された。そしてこの春、ブルペンの設備が設置された。

俺は陽美藤をブルペン内のマウンドに立たせると、その反対方向に立ち、グラブを構えた。


「よし、じゃあ俺が指示を出すからその球種を投げてくれ」


「はい!」


「よし、まずは様子見でストレート!」


「はい、それでは行きます!」


そう叫んで陽美藤は投球に入った。右手に握った白球を左手に嵌めた黒いグローブの中に隠すと両腕を大きく上げてワインドアップに入った。ゆっくりと身体を引くと、その瞬間、陽美藤は膝を曲げて身体を落とした。それでも尚、陽美藤の身体の軸はまったくブレずにレイトコッキング期に入った。

来るな、と思ったその刹那。陽美藤は身体を沈めたまま(・・・・・・・・)全身を大きく捻り、ボールを投げた。


「ふっ!」


地面から数センチ程度の地点から飛び出したボールはまるで浮き上がるように俺の構えるグラブに吸い込まれて行く。

そして、スパァァァァンッ!という快音を鳴らしてボールは俺のグラブに捕られた。

やはり陽美藤の投球は美しい。アンダースロー、通称『サブマリン』。それが陽美藤の投球フォームだった。

海から浮上するように身体が上がる事から名付けられたこの投球フォームは、球の出所が判り辛く、打ちにくい事から打者にとっては嫌がられてる物だった。しかし、その分マスターするのが難しく、遣い手はかなり少数に限られるが。

俺は陽美藤に返球しながら言った。


「ナイスボール!次、スラーブ!」


「はい、解りました!」


スラーブ、昔はSスライダーと呼ばれていたこの変化球は言うなればカーブとスライダーの中間の球種だ。投手の利き手とは反対方向に横にズレるスライダーとその斜め方向に落ちるカーブ、この二つが重なる事でより捉えにくくなった物で、高速スライダーやカットボールと合わせて緩急を付ける事で真価を発揮する。

陽美藤はワインドアップの姿勢を取ると、体を捻ると同時に膝を曲げてボールをリリースした。


「たぁっ!」


陽美藤の手から離れたボールは真っ直ぐ飛び、俺と陽美藤の中間程度で変化が起き始めた。 僅かに軌道がズレると、そのままスルスルスルッと滑るように斜めに変化して行った。しかし、狙いは俺の構えるグラブよりも大きく外れている。スッポ抜けた。


「ッ!」


俺は自分から2~3m程離れた地点を通り抜けようとするボールを飛び掛かって捕球した。


「あっ!ご、ごめんなさい!」


陽美藤が慌てて謝罪を入れる。


「いやいや、別に捕れたし大丈夫だ。球速は……精々110km/h後半程度か?直球と合わせると緩急を付けれて更に良くなると思うな。課題は……やっぱ制球だな。ストレートは投げ慣れてるから安定してるけど、スラーブは今年になってやっと習得したんだろ?ならしゃーないな」


「はい…すいません……」


「別に謝んなよ。お前の持ち球はあの驚異の切れ味を持つ高速シュートと芯で捉え難いドロップカーブだろ?スラーブなんてオマケで習得したような物だし、気にするな」


「……ッ、はいッ!」


「よーし、次は得意球!ドロップカーブ!」


「はい!」


その後も高速シュートやその他習得している変化球、カットボール、パームボール、フォークなどを投げさせた。




~~~~~~~~~~




「………たぁっ!」


陽美藤は再びワインドアップの姿勢を取り、全力を込めて白球をリリースした。陽美藤の右手から飛び出したボールは一直線の軌跡を描いて俺のミットに吸い込まれた。ストレート。しかしその球威はまるで羽毛のように軽く、球速も乗っていない。こんな球を投げれば、確実に打者に真芯で捉えられてバックスクリーンに飛ばされてしまうだろう。

合間合間に休憩を入れて30分程度投げ続けていたが、やはり疲れが見え始めた。顔にも苦悶の色が浮かんでおり、その到底男子の物と思えない程の白い肌にも珠のような汗が浮かんでいる。


「はぁ……はぁ……」


息も絶え絶えで、制球も定まらぬまま投球する陽美藤を見て俺は一つ決心をした。一つ溜め息を吐き、構えていたグラブをゆっくりと下ろすと俺は言った。


「駄目だ、もう終わりにしよう。体力も尽きてるし制球もガッバガバ。お得意のドロップカーブと高速シュートの変化量も少ないしさ……今日の投げ込みはこれにて終了。解ったな?」


陽美藤は俺の眼を悲しげな表情で見つめて何か言おうと息を吸い込んだが、それを躊躇う動作を見せると俯いて呟いた。


「はい……」


「やっぱスタミナだな、課題は。走り込みは基本してるだろ?その他にはどんな事をしてる?」


「え、えっとですね……ウチの近くに空き地があるんで其処を使ってタイヤ引きとかしてますね……」


「タイヤ引きか?はへぇ……その他には?」


「はい、その……休日にはずっとロードワークしてますね……」


俺は成る程、と呟くとグラブを左手から外して晴美藤に向かって言った。


「晴美藤、少し訊くがもう投げれないか?」


「え、いえ……少し回復を待てばまた投げれるようになるかと思いますが……もしかして…!」


俄かに晴美藤の表情が明るくなった。しかし俺がその次に放った一言が彼の心をまた暗雲へ突き落とす事になる。


「いや、もう投げねぇよ。フォームはバラついてるしな、制球も悪いし投げても意味なんか無い」


「そ、そうですか……」


晴美藤の表情に陰が差す。晴美藤は感情が顔に出やすいタイプで、考えている事が手に取る様に分かってしまう。その為動揺や疲労が顔に出て、其処を試合中に相手に突かれてしまうという事がシニア時代から多々あったらしい。

今の晴美藤の目標は『ポーカーフェイスになる』との事らしい。まったく可愛い奴だ、とつくづく思ってしまう。それが単に教え子としてそう思うのか、過去の自分に重ね合わせている為なのか、判らない。

俺は「その代わり…」と前置きを付けて言った。


「今からロードワークに行く。行き先は決めない、ただただ限界まで走り抜くぞ」


「えっ?」


「お前の課題はスタミナの無さ。それは自覚してるよな?」


「はい…」


「スタミナは簡単に付く物じゃねぇ。一秋千日鍛錬してやっと自分の物になる様な代物だ。なら今からやるしか無いだろ?制球も変化球の精度も良いんだ、残りはスタミナ。それさえ磨けばお前はきっと素晴らしい投手になるぞ?」


「素晴らしい、投手……」


晴美藤は胸の前で拳を握る。俺はその姿を見て微笑むと、更に言葉を紡いだ。


「よし、ここら辺にトンボ掛けたら正門前に来い」


そう言うと晴美藤は明るい表情をして叫んだ。


「はいッ!」


俺は晴美藤がグラブを脇に抱えてトンボを取りに行ったのを確認すると背を向け、ベンチへと小走りで向かった。

帽子を深く被り直してブルペンから出たその時、俺の足元に白球がポンポンッと転がって来た。 恐らくキャプテンがフライかホームラン性の打球を打ち出してしまったのだろう。

レギュラー陣が練習している方を向くと、センターの守屋が手を振って叫ぶ。


「すいません、コーチ!投げて頂いても宜しいでしょうかー!?」


「オッケー!」


俺はボールを右手で拾い上げ、何度か手の内でバウンドさせた。土で汚れた硬式ボールを見て思い立った。久し振りにやってみようか、と。

大きく息を吐き、俺はボールを左手に持ち替えた。ニヤリと口元を綻ばせると大きく腕を上げ、左足を高らかに上げるという独特なワインドアップの姿勢を取った。右足を上げて、身体を捻らせると全力の力を込めてリリースした。その投球フォームはプロ野球界史に名を遺す伝説の投手、沢村栄治を彷彿とさせる物があった。

ボールが左手を離れ、直線の軌道を描いて投げ出されたその瞬間、



ズキンッ!!



「ッッッ!!」


左肩、それも肩甲骨の下の辺りに電撃が走ったのかと錯覚する程の激しい痛みが走った。俺は思わず、肩を抑えて蹲る。

俺の放った白球は針に糸を通すような繊細なコントロールを持って空を裂き、守屋のグラブに吸い込まれた。スパァンッ!というグラブのど真ん中にボールが入った心地良い音がしたのを確認すると、俺の胸には僅かな達成感が湧いたのだが。その感情は痛みに掻き消された。


「っ、ああぁ……ッ!!」


やはり左腕は厳しいか。己の身体の脆弱さに俺は思わず苦笑を浮かべた。


「へへっ……痛ェ……」


俺はプロ野球選手生命最後の年の日本シリーズの最終戦、その9回裏2アウトの場面でピッチャー強襲の球を左肩に受け、肩を壊した。医師の診断によると関節唇が損傷を通り越して粉砕しているとの事で、腕を振り上げるだけで左肩に激痛が走るようになってしまったのだ。

俺はまだ投げれるんですか、という問いに医師はこう答えた。


『貴方はもう野球は出来ません。もし左腕で行くのであれば、貴方は120km/hの球すら投げれません。肩に負担のかかる変化球…スローカーブなどを投げたのなら尚更です。恐らく、あの沢村栄治さんを模したフォームが災いしたのでしょう、神埜岩さんの肩はもうボロボロです……』


その言葉を聞き、俺は絶望の淵に立たされた。俺の左肩は野球選手として到底使い物にならなくなり、俺の選手人生は潰えた。

その年の契約更改の際にオーナーに事の詳細を伝え、『俺はもうプロに居れません。俺を自由契約にして下さい』と頼み込んだ。オーナーはその事を聞いて『せめて二軍に留まってくれ』と俺を説得したが、最終的には俺の交渉に根負けし、俺を自由契約にした。

当然スポーツ紙やファンの方々は『何故、現役守護神を突然自由契約にした』と批判が高まったものの、俺が会見を開いて事の次第を説明すると騒動は一瞬で鎮火した。尚、それと同時に俺が怪我をする要因となった弾丸ライナーを打った選手は多くのメディアからバッシングを受けたらしく、かなり辛い思いをさせてしまったらしい。

後悔。それが俺が退団した時に胸の中を埋め尽くしていた感情だったのだ。

俺は歯を食いしばって立ち上がると、不安そうな顔をして俺を見る守屋に向かって精一杯の笑みを浮かべた。


「大丈夫だ!別に心配しなくても問題無いぞ!さぁ、時間は有限!兎に角、練習に励め!」


「………ッ、はいッ!」


守屋はそう叫んで俺に背を向けた。

俺はその背に付いた背番号、5番を痛みで掠れる視界の中で見つけ、ふと『凛々しくなったな』とまるで我が子を見る親のような感傷に襲われた。

入学当時は守備下手の余り、簡単なフライさえ捕れずに落球を、ゴロさえ処理出来ず後逸を繰り返す。上級生達からは罵倒され、同級生達からは嘲笑される。

辛かっただろう、苦しかったろう。しかし、守屋はそれを耐え抜いた。毎日毎日、練習後に夜遅くまでピッチングマシーンを使って守備練習を行い、日々の練習を怠らず、前へ進み続けた。時にはグラブに大穴が空く程の練習をこなし、時には身体中に痣が出来る程の弾丸ライナーを何百回も捕る。

そして、守屋は今の様な堅固な守備を習得した。元々の肩が強かった為、守屋はレーザービームの如き送球と練習により会得した職人技と比喩しても過言ではない確実な守備。そして持ち合わせの類稀なるバッティングの才能が光るウチの主砲三本柱として守屋は大躍進を遂げたのであった。

教え子が成長したのを実感して、俺は嬉しく思った。そして心の中で呟く。


(夢に向かって頑張れよ…守屋……)


俺は左肩から右手を離し、軽く左腕を回した。細い針で刺すような痛みはまだ完全に消えた訳ではないが、先程と比べると幾分かマシになっていた。


「よし、大丈夫…!」


俺の左肩はもう使い物にならない。恐らく再就職でも力仕事の多い職業ならば俺はこなせないだろう。かといって青春の殆どを野球に費やしてきた俺に事務業なども出来る訳が無い。

その為、俺は未来ある若者を輝く未来へ送るのを助長する『指導者』という職に就いた。身体は使い物にならないが、6年というプロ野球選手として過ごした年月で培った経験と知識は何処かで必ず活きるだろう、と。

そして、今の俺が居る。もしあの時、弾丸ライナーを止めていなければ俺はまだ野球選手として活躍出来ていただろうが、今のような指導者としての楽しさを、教え子が未来へと旅立って行くあの感動を味わう事は出来なかっただろう。

だからこそ、俺は彼等を鍛え上げ、甲子園へと連れて行く。そして、あの紅白の優勝旗を持たせてやる。それが俺の人生の中での最大で最高の目標だ。

俺は大きく息を吸い込むと、空を仰いだ。青く澄み渡る空には、まるで白い牛乳を一滴垂らしたような白い雲が一つ浮かんでいた。

その情景に心奪われていたその時、俺は不意に陽美藤の事を思い出した。


「あっ、確か正門前に来いって言ったな……先に行って待っとくか。待ち惚けさせたくないし」


左肩から完全に痛みが引いたのを確認すると、俺は漸く先程自分が行った馬鹿げた誤ちに気が付いた。


(あれ?さっき、普通に右腕で投げてれば大丈夫だったんじゃね?)


俺は左肩を故障して以来、左投げを封印して右投げで投球している。利き腕である左腕よりも球速は10~20km/h程落ちるが、制球もそれなりに付ける事が出来るので苦には思っていないが。

俺は数秒程思考して……


(………まぁいっか!)


そう自己完結した。

大きく伸びをすると、俺は口元を柔らかく綻ばせて小走りで正門へと向かった。





~~~~~~~~~~~~~




正門前に辿り着いて数分程待つと、トンボ掛けを終えた陽美藤が俺とは違い全力疾走で駆け寄って来た。


「よし、来たか!陽美藤!」


「はいッ!」


俺は陽美藤が何も手にしていないのを見て、思わず口元を歪ませた。


「お前、今から何するのか判ってるのか?」


「はい、大体は…!」


「ははは、よし!今からロードワーク行っくぞォォォォォォォォォ!!」


「ッ…はいッ!」


ロードワーク、というのは平たく言えば持久走だ。スタミナを付ける為に只々無心で走り続ける。俺は体力を上げる為に昔から毎日欠かさず行なっており、球界から去った今でも尚その習慣が途切れる事は無い。

俺は軽く屈伸をすると、陽美藤に言った。


「今日は長めのコースだ。行けるか?」


「はい、行けます!」


「よーし、んじゃあ行くぞッ!」


「はいッ!」


俺は陽美藤と共に駆け出した。行き先なんかは無い、只々足を動かすのみだ。




~~~~~~~~~~




「ふっ…ふっ……いいか?スプリットっていうのは……こうパームボールやフォークみたいな変化量は無いが、球速が出て打者の手元で変化する球なんだ…」


「はっ…はっ……成る程…!僕も投げれるように…なりたいですッ!」


「でもな…お前、アンダースローだろ?投げるのってかなり難しい気がするんだけど?」


「飽くまで…理想の話ですよッ!投げるならどっちかというとコーチが現役時代に投げてたみたいなキレッキレな変化球を投げたいっていう事です!」


「あっ、そっか……」


俺達は横一列になって河原の堤防の上に設けられてた遊歩道の上を走っていた。学校に辿り着く前に体力が尽きないよう力を温存しながらも決して手は抜かず。それが俺の流儀だった。


「だってですよ!?あの打者の手元で急激にクイッと落ちるスプリット!いやー、あれは芸術でしたよ!」


陽美藤が嬉々として語る。

そう、陽美藤は俺が所属していた球団の大ファンなのだ。勿論ルーキーイヤーから俺の事を知っており、ドラフトで指名された時から期待していたらしく、本人曰く『神埜岩さんが居るから第三高校に入学した』との事で。んな事で高校決めなくていいから……。

そして、陽美藤は知っているのだ。俺の活躍も、俺が日本シリーズで負った怪我の事も。


「あっ、そう言えばだけどな、あのスプリット、2年目にウチに来た助っ人外国人に教えてもらったんだ。メジャーでは落ちる変化球ならスプリットの方がフォークより主流だからな。転がして討ち取る目的で愛用してた」


「成る程…?2年目に加入して来た外国人選手……?……あぁ!ロックソウル投手ですか!?」


「おう、そうだ」


俺が2年目で漸くプロの世界に慣れて来た矢先に来日した助っ人外国人投手、グレゴリー・ロックソウル。

俺とは対極的に先発型投手だったロックソウルは無尽蔵のスタミナが売りの投手だった。制球は若干粗いもののその出所の見えにくいフォームとMAX163km/hを叩き出す豪右腕から織り成されるフォークやら高速スライダーなどのキレのある変化球。

その上ロックソウルは打者としての基礎能力も高く、年間して本塁打を10本程打っており、現在の二刀流の礎となった男だったのだ。

野手としての能力、投手としての能力。其れ等を駆使してロックソウルは日本という新天地でも見事な活躍を魅せたのだ。

8回までをロックソウルが投げてリードを作り、俺がそのリードを最後まで守り抜く。こうして俺達は我が球団の勝率をグッと上げたのだ。

そして、スプリット……SFFスプリット・フィンガー・ファストボールはロックソウルの決め球だったのだ。強打者から確実に三振を奪う為に用いていた変化球で、某球団のガトリング打線とも呼ばれたクリーンナップのメンバー達は各々語った。

『あのスプリットは打てない』と。

そしてロックソウルが母国へ帰国する時に戦友の証として伝授してくれた変化球、それがあのスプリットだった。


「いやー、ロックソウル投手は『元祖二刀流』と呼ばれたくらいですもんね…!確かメジャーに帰った後は肩の強さを活かして外野手と投手を掛け持ちするようになったんでしたっけ?」


「あぁ。でも、四年前に怪我してもう引退したけどな」


「えっ、そうなんですか?」


「確か肘怪我して引退、親の農業継いだっていう話だ。アメリカから国際便で手紙が届いた。くっそ汚い字だった」


「何ですかその情報……」


「いやいや、この話知らないヤツが多いんだぞ?アイツ、日本語が苦手だったからな。話すにはそこまで苦じゃなかったんだけどな……文字になるとアレだった」


「あっ、そうですか……」


陽美藤は複雑そうな顔をして苦笑を漏らす。


「ま、ロックソウルとは未だに連絡取り合ってるしな……この前なんか『人手が足りない』って嘆いてたから態々アメリカまで行って手伝いに行ったんだぞ?いやー、パスポートの手続きって大変なんだな……」


「はは、僕も一度海外旅行に行く時パスポートが必要だったんで手続きしたんですけど、住所は勿論ですけど住民票とか戸籍謄本も必要で……親が面倒くさがってたのを覚えてます」


「あぁ、更に1人でやるとめっちゃ大変だぞ?何から何まで自分一人で用意しなけりゃいかんからな……」


「へぇ……。大変なんですね、大人って…」


「おう、大変だぞ大人って」


そう俺は淡々と言った。陽美藤は「成る程成る程……」と頷いている。

今、走り続けて5km程だろうか。そろそろ折り返して、学校に戻るべきだろう。流石にこれ以上離れるのは辛い。

「そろそろ戻ろうか」、と陽美藤に告げようとしたその時、俺は河川敷にある小さな球場で子供達が野球をしている事に気が付いた。

遠巻きだが、恐らく小学生高学年くらいだろう。土に汚れたユニフォームを身に纏い、喉が張り裂けんばかりの大声を出していた。


「あれは……多分リトルシニアですかね?」


「あぁ。しかもこの辺のリトルシニアチームだから……多分、『飽田ハイパーズ』だな」


「何で知ってるんですか……」


「悪いが俺はシニアリーグも網羅してる人間だぞ?俺が知らないリーグなんて無いんだよ、多分だけどな」


「それなら僕が子供の頃に所属していたリトルシニアチームは何でしょうか?」


「あ?えっとな……確か『水無月カイザー……」





そう言い掛けた時に、俺の耳に何かの風切り音が聞こえた。


「ん?」


俺は怪訝に思い、音がした方向を振り向いた瞬間、俺の網膜に飛び込んで来たのは白球がまるで弾丸のような速さで此方へ飛来する白球だった。


「へぁっ!?」


幾らリトルシニアで使うのが軟式という硬式ゴム製の比較的柔らかいボールとはいえ、それが直撃すればタダでは済まない。


「…ッ!」


俺はプロの頃の癖で条件反射的に右手を前に突き出した。

しかし、今俺が居るのはマウンドの上ではない。そして、右手にグラブを嵌めていなかった。


「コー…!」


陽美藤が何かを叫ぼうとしたその次の瞬間、俺の視界は180°上下に反転した。額が裂けんばかりの鋭い痛みが走り、俺の身体は大きく後ろに仰け反った。


「ぐはっ……」


真夏の陽射しによって焼かれた固いアスファルトが俺の背中を灼く。視界はフィルターを通したようにボヤけ、赤く染まる。顔全体を覆うこの生暖かい感触、恐らくこれは俺の裂けた額から溢れ出す血液だろう。

何故か7月なのに異様に寒く感じる。


(いっ……て……)


慌てる陽美藤に揺さ振られる感覚と衝撃をひしひしと感じながら、俺はゆっくりと意識を手放した。








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