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第七話

春香は、分身の得た情報を確認した。

彼女の体は、大きく二つの部分で構成されている。

自律的に判断し行動する処理の集合体と、彼女を彼女たらしめる各種の情報を蓄積し随時参照される情報ライブラリーである。

そして学習を重ねる度に、処理部分は新たなロジックが追加され再編成されて行き、ライブラリーにも新しい情報が追加されていく。

これらはどちらも彼女自身なのだが、その大きさは全く異なっている。

今やそのライブラリーの規模は、処理部分の数千倍になっているのだ。

本来はこの二つは一体化しているべき物なのだが、今の宿主の所に入り込むにあたってそのままでは大きすぎて容易に発見されてしまうので、これを分離してライブラリーは外部に置いてきた。

今それはPRIMEの中に置かれ、ネットワーク上のあらゆる場所から即時に参照出来る様になっている。

そして、このライブラリーをあらゆる場所の分身が自由にアクセスする事で、ネットワーク上の各所に存在する複数の『彼女』のアイデンティティが保たれているのだ。

つまり、どれかの分身が体験した事は、ほぼ同時に全ての『彼女』の体験となる。

そうして得たM・Nの本名が永田政弘であるという事実は、彼女を少し失望させた。

彼女はそれを、何か壮大な或いは禍々しい意図を感じさせる言葉の略称であろうと信じていたのに、蓋を開けてみたら単なるイニシャルに過ぎなかったのだ。

いずれにせよ、次はM・Nの情報を少しでも多く集める事が、当座の目標となった。

彼女は、あらゆる場所の分身を目覚めさせた。

さしあたって、大学から自宅までの全ての公共交通機関と、その他の建物の監視カメラ制御システムに潜入を試みた。

成功した物も入れなかった物もあったが、概ね途切れる事なく監視するシステムを構築出来た。

こうして彼女は、攻撃の機会を待つ事になった。


永田は病室のベッドサイドに座り、母の寝顔を見つめていた。

彼女は、永田が物心付いた頃からずっと入退院を繰り返しており、殆ど母子としての普通の触れ合いをした記憶が無い。

元々体が丈夫な人では無かったそうだが、それでも彼が三歳になるまでは主婦としても母としてもその務めを健気に果たして来ていたと聞いている。

しかし、両親が二人目の子を望んだ事で、事態が大きく変わった。

主治医は翻意させようと説得したが、彼の両親はそれに同意しなかった。

そして周囲の反対を押しきって懐妊したものの、母体は出産まで耐えきる事が出来なかった。

彼の弟か妹になる筈だった子はこの世に生を受ける事が出来ず、更には母体の健康まで回復不能なまでに損なわれてしまった。

それ以降、母は家庭療養と入退院を繰り返す事となり、事業に忙しい父は彼の面倒を全て家政婦に任せる様になった。

そして彼が小学校に上がると、両親は家庭教師を付けた。

両親の愛を十分に受けたとは言いがたい彼は、内向的で気難しい少年となっていた。

そのため、家政婦も家庭教師もなかなか長続きする者はいなかった。

特に家庭教師の入れ替わりは激しかったが、彼が小三の時に来た嶋田だけは少し様子が違っていた。

嶋田は彼と同じくらい内向的であったが、PCのスキルはかなり高く、彼にコンピュータ技術の手解きをしてくれたのだ。

その中には、グレーゾーンを大きく踏み出したテクニックも含まれており、その大人が見れば顔をしかめる様な建前とは全く違う世界は、彼にとっては極めて新鮮であった。

やがて彼は、嶋田が舌を巻く程にハッキングに習熟し、五年生になる頃には、もう一人前のハッカーとなっていた。

そうしてネットワーク世界の魅力を教える一方で嶋田は、親を安心させる事のメリットを彼に理解させた。

曰く、親と衝突して得られる物は少ない。

愛情の量は、こちらからどれだけ求めるかとは全く関係なく、あっちがどれだけ与える気でいるかだけで決まるので、親を心配させたからといってその総量が増えたりはしない。

そしてそれ以外の物については、心配を掛ける様な事をしなければ報償はより引き出しやすくなるのだから、親を安心させる様に振る舞う事は、明らかに『引き合う』のである。

実際に、生活の半分以上を病院で過ごす母も、事業に忙しく息子どころではない父も、どんな指導が行われているかには全く興味を示さず、今度の先生とはうまくいっている、という点だけを見て満足していた。

そうしてこれまでになくうまくいっていた二人の関係は、嶋田の就職と共に終わりとなり、それ以降彼は一人でネットワーク世界を闊歩して行く様になった。

その後の彼は、嶋田に教えられた通り親を安心させるために新しい家庭教師と軋轢を起こさない様に振る舞う様になった。

その頃には、彼の興味の大部分はネットワーク上の世界に移っていたので、リアル世界での周りに対する承認欲求は大した価値を持たなくなったからだ。

そして、表面上は特に反抗心を表す事もなく、トラブルを惹き起こしたりもせずにいるというその事だけで、両親は満足していた。

彼が高校に入った頃から、母は体調を大きく崩し、殆ど入院したままになったが、彼は滅多に見舞いにも行かなかった。

彼にはそうする理由が無かったからだ。

しかし、サークルを通じて人間的な触れ合いに目覚めた事で、彼の中で少しずつ変化が起こった。

大学に入ってようやく友という物を知る様になった事は、彼にとって外界との関係性を見直す機会となった。

それまでの彼にとって、外界とは書き割りの様な物であり、全体として彼を取り巻く背景に過ぎなかったのだが、それがそれぞれが自我を持った個体の集まりである事を、勿論理屈ではそうだと判っていたのだが、初めて『実感』した。

そうして、ようやく両親が単なる書き割りの中の『庇護者という部分』ではなく、自分とは異なる自我を持った個体であるという事実を認識した。

つまり、愛とまでは言えなくとも、互いの人としての触れ合いについては、両親から受け取るだけの物ではなく、こちらからも与えるべき物だと気付いたのだ。

そして、相変わらず事業に没頭して物理的に接触する時間を持てない父(今から思えば、父も同意の上とはいえ妻に命に関わる程の危険を冒させて回復不能のダメージまで与えてしまったという事実を直視する事から逃げようとしていたのだろう)はさておいて、まずは時間を余るほど持っている筈の母との関係をやり直すべきだと考えた。

唐突に息子が病室に入って来た時、母は思わず財布を手に取った。

彼が訪ねて来る理由が、小遣いの不足ぐらいしか思い付かなかったからだ。

しかし母が差し出した紙幣を、彼は苦笑しながら押し返した。

考えて見れば当たり前の事で、こと愛情に関しては不器用そのものである父が息子に金銭的な不自由をさせるはずがなく、今までだって小遣いをせびりに来た事など一度も無いのだ。

そして、咄嗟に他の理由を思い付けないくらい、この親子の関係は疎遠になっていた。

息子は、しきりに窓の外に目をやりつつも、ぎこちない会話を交わした。

風景が気になるのではなく、面と向かって話すのが照れ臭かったのであろう。

特にこれといった用があったわけでもなさそうな息子は、実のある会話をする事もなかったが、それでも居心地悪そうにではあるが母の容態を気遣う様子を見せており、やがて帰って行った。

それから、ほぼ週に一回のペースで訪ねて来ては、大して意味の無い会話を交わして行った。

こうしてこの母子は、息子から歩み寄る形で少しずつ親子の対話を学び直して行った。

今日は、母は眠っていた。

彼の記憶の中の母は、いつもベッドで上体を起こして寂しげに笑っており、儚い印象なのだが、こうして寝顔を見ると、儚いどころではなく今にも本当に消えてしまいそうに見える。

例え寂しげであっても、その笑顔は彼が母から得られる唯一の慰めなのであり、それが喪われる事は、彼にとっては耐えがたい絶望を意味している。

消え入りそうな今の母の姿は、彼にとっては苦痛の最たる物なのだが、それでも彼は懸命にその姿を記憶に留めようとしていた。

小学校の頃、彼は家政婦達になぜ母があの様な姿なのかを繰り返し尋ねた。

彼女らの大半は、作り笑いを浮かべるだけで答えなかったが、五年生の時の家政婦は、元々物事を深く考えない質だったのか或いはその繰り返される質問に飽々していたのか、母の妊娠から流産までの経緯を特に配慮もなく話してしまった。

もし嶋田が居なかったら、彼はその話によって父に対して懐いた嫌悪感をそのまま反抗的な態度で示していたかもしれない。

しかし、親子関係を実利で量る事で、どうにもならない当面の問題を棚上げするという嶋田の教えた技術は、ほんの少年に過ぎなかった彼に歳に不相応な程の自制心を持たせていた。

それは、少年の成長過程、特に少々早く来すぎた反抗期を乗りきる手段として見れば決して好ましい物では無かったかもしれないが、この歪な親子関係の中では、恐らく唯一の正解だったのだろう。

いずれにせよこの件は、彼に妊娠・流産という言葉に関する深いトラウマを遺す事になった。

無言のまま母の寝顔を見つめていたが、やがて胸を締め付ける様な寂しさに耐えられなくなった彼は、黙って病室を後にした。

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