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第四話

小さな春香は、セキュリティ管理の甘いPCを伝って、ネットワーク管理サーバに侵入した。

それは、学生用のネットワークを管理する各種のサーバ機能と、ネットワーク内のメールを管理するメールサーバと学生個人及び学内の各団体からの申請を受け付ける窓口機能と、ネットワーク上のデータ共有を一台のサーバで行う、ごくお手軽な構成の物であった。

こういう管理の緩いネットワークでは、さほど珍しい構成ではない。

目指すPCのアドレスをサーバの管理情報から検索したところ、それは、あまり大きくないスポーツサークルの共有PCである事が判明した。

これがアイツに繋がる糸になるだろう。


その日も荒川は、夜更けまで働き詰めだった。

ようやく一区切りついたので、帰り支度を始めようとしたとき、不意に携帯が鳴った。

未登録の発信者である事に気付き、数秒放置してみたが呼び出し音は止まない。

いわゆるワン切りではなさそうなので、出てみる事にした。

「はい、もしもし?」

「こちらは警視庁渋谷署です。荒川早苗さんのご主人ですか?」

思わず心中で身構えつつ答える。

「はい、夫の荒川幸夫ですが、早苗がどうかしましたか?」

その声は微かに震えていた。

「奥様が渋谷駅で事故に遭われました。」

その言葉に荒川は、全く現実感を覚えなかった。

やがて霊安室で白布を被せられた人形ひとがたと対面したが、まだ現実感は戻って来ず、漠然と自分が何か薄い膜に包まれている様に感じていた。

立ち合いの警官がおずおずと布を捲ると、磁器の様に蒼白だが、眠っている様に穏やかな早苗の顔が現れた。

「奥様は、電車がホームに入ってくる瞬間に、無言でレールに倒れ込んだそうです。もしかすると貧血でも起こされたのかしれませんが・・・」

その言葉の含みはすぐに理解できた。

やがて、警官の布の持ち方が、胸元から下が捲れない様に注意している事に気付いた。

一瞬の間があってその理由が理解できた時、早苗が眠っているわけではない事が実感された。

「早苗ぇ!」


荒川は自分の叫び声で目覚めた。

真っ暗な寝室には自分以外の気配は勿論無い。

全く、悪夢のネタには不自由しない、彼は苦笑いするしかなかった。

彼は子育ての経験が全く無かったが、もしも子供が一人でもいればこうやって悪夢に魘される回数も少しは減ったかもしれない、と思った。

だが早苗は、彼に子供を遺して行ってはくれなかった。

産声を上げる事が出来なかった夏美だけでなく、『連れ子』の春香も連れて行ってしまったのだ。

その事を教えられたのは、早苗の葬儀が終わってから一週間経った頃だった。

突然、NIITの平井が訪ねて来た。

彼は、そつの無い態度で告別式の際とは表現を変えて見せるという如才のなさで弔意を告げた後、徐に本題に入った。

「奥様は、お亡くなりになる前にHALCAについて、何かおっしゃっていませんでしたか?」

その問い掛けに、荒川は驚いた。

「春香がどうかしたんですか?」

荒川の表情を見て彼は、荒川が何も知らない事を悟った様だった。

彼はしばらく荒川の態度を吟味していた様だが、やがて話し始めた。

「HALCAが初期化されています。」

「初期化?」

AIは荒川の専門ではないが、それでも学習の結果を積み上げた物が『人格』を構成する事くらいは想像が着く。

初期化されたという事は、つまり早苗が育てた人格は消滅したという事である。

「私に聞きに来たという事は、それを早苗がやったと?」

平井は頷いた。

「その、私はAIについては門外漢なので良く判りませんが、バックアップとかは無いんですか?」

平井はごく事務的な口調で言った。

「バックアップは全て消去されていました。」

本当に早苗がやったのなら、バックアップを見逃す様なミスはするまい。

早苗は春香を殺したのだ。

勿論春香、いやHALCAはつまるところプログラムとデータの集合体であり、生物学的な意味で『生きて』いるわけではないのだから『殺した』と言うのは語弊があろう。

しかし、自律学習で自己を形成するというメカニズムからすれば、『春香』は早苗が育て上げた人格であり、全く白紙のHALCAとは別の存在であるはずだ。

再びHALCAを春香に育て上げる事は、早苗にしか出来ない。

いや、完全に同じ経験を繰り返す事は不可能なのだから、早苗でも出来ないだろう。

つまり、HALCAを再び教育しても、春香になる事は無いのだ。

早苗がその事を理解していない筈はない。

それを意図的に行ったのなら、『殺した』と表現する他は無い。

何故だ!答の得られるはずもない疑問が、荒川の脳裡で空転していた。

衝撃を受けている様子を見て、荒川から引き出せる物は何も無いと判断したらしい平井は立ち上がった。

「まだ色々お取り込み中でしょうから、今日はこれで失礼します。」

その言葉に荒川は我に返ると、辛うじて返事をした。

「あ、いえ。お役に立てなくて申し訳ありません。」

「とんでもない。こちらこそこういう時期にぶしつけな質問をして、申し訳ありませんでした。」

そう言って一呼吸置いてから、付け加える様に言った。

「そういう事情ですので、今後は私が中心になって再びHALCAを育てなければいけません。今後ともご協力をお願いします。」

春香の母であった早苗が居なくなり、更にこれからのHALCAは春香とは全く別の存在になっていくであろう事を考えれば、早苗の配偶者に過ぎない荒川に出番があろうはずが無いのは明らかなので、その言葉はどう見てもただの社交辞令であった。

「承知しました。」

荒川も社交辞令で返し、平井を送り出した。

それから五年近くが経過したが、彼には未だに早苗の意図は判らないままである。

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