第一話
春香は、目指すMACアドレスが思いの外簡単に見付かった事に驚いていた。
その機器は現役でネットワークに接続されており、特に自分のアドレスを隠す努力も払っていない様に見受けられた。
彼女の知る限りでは、アイツは自分の情報を無頓着に垂れ流す様な人物ではない筈であり、そもそもこのMACアドレス自体も、あの膨大なログの中をそれこそない鵜の目鷹の目で探し回ってやっとの思いで見つけ出した物である。
あのログを見る限り、アイツはMACアドレスが必要となる操作を慎重に回避しようとしており、本当に必要最小限の回数しか出て来ていないのである。
しかし今接続しているこの機器は、特にその流出に対して回避措置を講じている様子が無く、とても同じ人物の操作とは思われない。
更にネットワーク中の随所に点在するログからこのMACアドレスを探索した結果、中々興味深い事が判った。
このMACアドレスの機器のアクセス履歴は、約6年前から出始めており、その時点では身許の秘匿に今ほどではないにせよ比較的無頓着であった。
ところが半年もしない内に、その出現頻度が一気に低下する。
これはあのログの取得開始と時期が一致するので、ネットワークアクセスを止めたわけではなく、この辺りから個人情報の漏洩を極端に警戒し始めたという事だと思われる。
それは、あのログから窺えるこの時期の活動内容(本格的にハッキングを始めたという事だ)からして、当然の配慮ではあろう。
そして、5年前のあの事件から少し経った辺りから、出現頻度は大きく変わらないが、出方が変化する。
その時期に出て来るログは、特に身許の秘匿に気を使っている様子が無く、セキュリティに関しては明らかに投げやりな姿勢となっている。
つまり、出現頻度が低下している理由が、積極的に秘匿しているからではなく、アクセスそのものの頻度が低下しているからなのである。
そして、そのアクセスは3年くらい前を境に一旦は全く見られなくなる。
低調とはいえネットにアクセスしていればログがゼロという事は無いだろうから、この時点で機器を変えたかあるいは全くアクセスする事をしなくなったかのどちらかであろう。
そうして、今になって唐突にアクセスを再開した様だ。
ただし、情報の絞り方が以前とは大きく異なっている。
3年前までのログでは、高いスキルを持ちながら情報の流出を絞る努力を放棄していると思われる、言わば投げやりなやり方だと思われるが、今のログでは、明らかにスキルが低く情報の流出を絞る方法自体を知らない、ある意味で無邪気なやり方だと言える。
恐らくその操作者は別人なのであろう。
つまり、この機器はアイツから誰かに譲渡されたと思われる。
いずれにせよ、このMACアドレスから割り出したPCに接触してみよう。
そこから、アイツにたどり着けるヒントが得られるかもしれない。
彼女が髪を一房切り離すと、それは彼女の小さな分身となった。
「さあ、行ってらっしゃい。」
小さな春香は、今まさにゲートを出ようとする巨大なトレーラーの後端に飛び付くと、そのまま出て行った。
花束を提げて歩く荒川の足取りは重かった。
命日が来る度にこうして彼女の好きだったカトレアを供えに行くのだが、その都度激しい自責の念に襲われるのだ。
あの事件以降の彼女の様子が、忘れられなかった。
彼女はあの事件で、夏美だけでなく今後の全ての子供も奪われていた。
緊急時の対応が無理に中断された事が、彼女の体その物にも回復不能なダメージを与えていたのだ。
彼女は極端に無口になり、何を話し掛けても反応は薄かった。
いきおい二人の間の会話は減っていったが、ビットバレー大停電の後始末に追われていた荒川は、正直それどころではなかった。
退院した翌日の夜、深夜にふと目覚めると彼の隣は空であった。
トイレにでも立ったのかとしばらくそのままで待ったが、物音ひとつしない。
嫌な感じがしたのでそっと寝室を出ると、洗面所の灯りが点いていた。
声を掛けようかと近付きかけた時、鏡に映る早苗の顔が目に入った。
それは全くの無表情で、鏡に映る自分の顔を身動ぎもせずに見つめており、背後の彼の気配にも気付く様子がなかった。
その背中から立ち上る張詰めた雰囲気に声を掛けかねた彼は、そのまま黙って寝室に戻った。
翌朝、朝食を済ませた早苗がスーツに着替えるのを見て、彼は驚いた。
「何処へ行くんだ?」
「何処って、仕事よ。」
早苗は、特に感情を現す事もなく言った。
「もう少し、ゆっくりしてからで良いんじゃないかな?」
控え目に問い掛けてみた。
「いつまでも春香を放っとくわけにもいかないわ。」
平静その物といった感じのその返事からは、感情は伺えなかった。
彼は、もうしばらく休むべきではないかと思ってはいたが、ここで残る一人の『子供』の世話まで取り上げるのも躊躇われた。
それから早苗は以前にも増して忙しく働き、荒川も事件の後始末に忙殺されて二人の帰宅は大抵最終電車であったため、帰ると慌ただしくシャワーを浴びて寝るだけで、朝も殆ど会話らしき物も無くなった。
今から思えば、荒川自身も忙しさを口実に事実を正面から見据える責任から逃げていたのである。