3-20
人目を盗み船底へ潜り込むのは、タチバナにとって造作も無い事だった。
明かりも無く暗闇の中、波で揺れる船内であるにも関わらず急こう配の階段に躓きもせず進んでいく。
降りた先には小さな踊り場と一つの扉がある。船底倉庫への扉だ。
掃除道具。日持ちのする食料。予備の寝具。調度品。そういったものが保管されている船底倉庫には本来船員しか入れないように鍵がかけてあった。鋼鉄で出来た錠前が、だ。
―――だが、今やそれは布を手で切り裂いたかのようにして引きちぎられていた。無残な姿となった錠前の名残が恨みがましく扉にへばりついているのを見て、タチバナは自らの常識が音を立てて崩れていくのを感じる。
……だからといって、そんな内情を表に出すわけにもいかない。なにせタチバナはメイドだからだ。
メイドとは、常に冷静でなければならないのだ。
「……私です。タチバナです」
気を取り直したタチバナは扉に向けて声をかけた。
こうしなければ、お前を殺すかもしれないと事前に伝えられていたから。
「合言葉は?」
タチバナを待っていたのだろう。返答は直ぐに訪れた。
漲る活力を感じさせる、美しく、それでいて恐ろしい女の声だった。
「"そんなものはありません"」
「馬鹿を言うな。合言葉はちゃんと決めただろう? ほら、もう一度言ってみろ」
「"そんなものはありません"」
「……そうか。では、お前がここに入る資格は無い。失せろ」
問答が終わる。
それからややあって、タチバナは足のつま先で床を二回タップした。
"周りには誰もいない"という合図である。
ここまでが、タチバナが彼女達と定めた符丁であった。
音も無く扉が開かれる。
タチバナもまた音も無くその隙間に滑り込んだ。
倉庫に足を踏み入れたタチバナをまず初めに出迎えたのは、倉庫に充満する強い酒精の匂いだった。
タチバナは思わず、ほんの少しだが顔を歪める。
「お待たせ致しました。ミツルギ……さんに、タタコ、さん」
「おかえりタチバナ。その様子だと山吹の奴は無事に目覚めたようだな?」
「ぉーぅ。おっかえりぃー」
暗がりで木箱に腰掛け優雅にグラスを傾ける赤髪の少女、ミツルギと。
完全に出来上がった様子の、みすぼらしい恰好をした胡坐をかく少女、タタコ。
彼女達と、彼女達を取り囲む呆れかえる量の酒瓶がその匂いの原因であった。
タチバナはとうとう我慢が出来なくなって、呆れ顔になる。
「あれだけの出来事があってすぐだというのに、まさか本当に酒盛りしだすだなんて……正直に言えば、呆れました」
歯に衣着せぬ物言いもなんのその。ミツルギは何が可笑しいのか笑い声を上げて言った。
「ははははは!まだ宴も始まったばかりなのに中途半端に切り上げられては"むらむら"するというものだ。
許せよ、タチバナ」
「そーらそーら! むらむらすんらよ! おさけがらりないろな!」
呂律の回っていないタタコがそれに続く。顔色は赤ワインのように真っ赤だ。
ぐでんぐでんに酔っぱらったタタコはぐいっと一杯ビールを飲み干すと、子供のような笑みを浮かべて船の揺れに合わせて揺らめいた。
「えへへ。らのしいなー」
事実、言動ですら幼児退行している有様だった。そんなタタコの様子を見てミツルギが笑みを零す。
「おっと。調子に乗って飛ばしすぎたようだな。そろそろタタコも限界と見える……タチバナよ、タタコが寝入る前に本題に入るとしようか?」
「本題、ですか」
「ああ。……率直に言わせてもらおう。私達と協力するつもりはないか?」
試すような瞳がタチバナを貫いた。
「私が、あなた達と? 一体何を協力するというのです?」
何についてなのか凡その見当はついていたが、タチバナはあえて疑問を口にする。
「ダイドウとの接触。及び捉えられたベルカの救出について、だ」
そしてそれは当たっていた。
そしてそれは。タチバナからすれば、当たっていて欲しくなかった事だった。
「……意味が分かりません。あなた達はダイドウめに雇われた人間の筈。それが何故主人に反するような提案をするのですか」
タチバナは主人に命を受けた忠実なるメイドとして、そう答えるしかない。
そう答えなければならなかった。
でなければ。タチバナは主人の命に誤りがあったと、ほんの少しでも認めざるを得なくなる。
「何度でも言わせてもらうが、私達はそのダイドウとやらとは一切関係が無い。ジャポに観光しに行こうと思ったらまんまと騙された"何の罪もない可哀想な少女達"でしか無い。……だがタチバナはどうしても私達を信じてくれないだろう? ならば、共にダイドウの根城まで赴き奴を締め上げ"私達は無実だ"と証言させる他あるまい? そのついでに、ラミーの姉も救おうと言っているだけなのだがな」
―――何かとてつもなく致命的におかしな表現があった気がする。
ともあれ、ミツルギの提案は筋の通った物でありタチバナにとっても悪くない話だった。
船に潜んでいる筈の仲間たちの姿が消え、ベルカ救出に動ける戦力がタチバナ一人しか居ないこの状況を思えばその提案はとても魅力的だ。
先の戦闘で見せた彼女達三人の力は常軌を逸している。恐らく、ミツルギの提案を呑めばタチバナは何の苦も無く主人の命を果たせられるだろう、そんな予感があった。
「……もっともらしい事を仰るようですが―――お断りします」
だが、その手を易々と取れる程タチバナは割り切れている人間ではない。
敵だと。
信頼する主人にそう教えられたタチバナからすれば、彼女達と手を組むという事は主人への背信に他ならなかったから。
「ほう? ……まぁ、タチバナが一人でやる。というのならばそれも構わないがな。敵方の戦力も未知数、期待した援軍は皆無、武器も失い、それでもどうにかできるという自負があるのならば、存分にやると良い。私達はそんなタチバナを幾らでも応援しよう。お望みとあらばジャポの港町にある牢屋でタチバナの仕事が終わるまで待ち続けても良い。……出来るのだろう? なぁ、タチバナよ」
そんなタチバナに、ミツルギの冷徹な言葉の刃が深々と突き刺さる。
「――――――っ」
それは淡々とタチバナの置かれた状況を説明しただけに過ぎなかったが、それ故に、何よりも深くタチバナに突き刺さった。
「それ、は」
否定したい。しかし、全てが事実だ。
タチバナは一人きりだ。相手がどんな戦力を隠し持っているかなんて、少しも分からない。
何より、キャバリエに伝わる父祖伝来のハルバード―――橋守りの戦斧―――も粉々に砕かれてしまった。タチバナはその責を負う為にこの任を終えたら主人に自らの死を以って償う気ですらいたが、それすらも出来るかどうか怪しい。
「…………」
「"出来る"。そう言いたい所だが、それは厳しい。そんなところか」
認めたくない。しかし認めざるを得ないタチバナの内心をミツルギが代弁する。
ミツルギは遊ばせていたグラスを木箱に置くと立ち上がった。
「なぁ、タチバナよ。私達は強制はしない。無理に協力しろとは言わん。―――だが、こちらはこちらで勝手にやらせてもらうぞ?」
「……それは一体、どういう事ですか」
「どうも何も言葉通りだ。山吹の奴はジャポに着いたら当然のようにベルカ救出に向け動き出す。何せ愛しのラミーの為だ、"本気"で事に当たるだろう。そんな山吹を私達は友人として全力で応援する、当然のように。……何せ友達は助けてやるのが当然だからな」
―――無論、後でそれなりの"代価"は頂くつもりだが。
そう続けたミツルギは未だにふらふらしているタタコの元へしゃがみ込むと、タタコの頭を撫でながら更に続けて言った。
「おー? なんらみつるぎ、きもちーぞー? もっろやれー?」
「うむ、うむ……。…………だからタチバナよ。極論を言ってしまえば『お前は何もしなくていい』。後は私達がなんとかする」
「―――なっ」
その一言は、あまりに痛烈だった。タチバナに怒りが満ちた。
「ふ、ふざけないでください! 何もしなくていいですって!? そんな事、どうしてあなたに命令されなければならないのですか! 私にはアレイスタ様から命ぜられた、ラミー様をお守りしベルカ様を救出するという任がある! それをあなたに、あなたたちに止められる謂われも権利も無い!」
「うむ、そうだな」
「……はっ?」
激昂するタチバナだったが、しかし続くミツルギの素直すぎる同意に思わず意識に間が空く。
「だったら、それでいいだろう?」
「……あなたは、何を言っているんですか?」
「だから、お前も好きにやればいいと言ったのだ。私達も勝手に動く。タチバナも私達の近くで勝手に動けばいい。私達が怪しい行動をしないように見張れるように。……そうだな、緩い相互監視のようなものだ。明確な協力関係を組みたくないというのなら、そうすればいい。タチバナ、お前の好きなようにな」
―――タチバナはミツルギの事を、まだよく知らない。
ただ、今のミツルギの発言は。
緑髪の薬師が聞いていたのなら、きっとこう答えたはずだった。
"あれは御剣なりの不器用な優しさだよ。『お前とは敵になりたくない、友達になっておきたい。けどそうはいかない、だから、こうしてお互いにとっての妥協案を提案した。本当は友達になりたいけど』……そんな感じだよ、多分。きっと。恐らく。もしかしたら、だけど"
「ん? どうだ? この辺りが落としどころとしては最適だと思うが?」
タタコの頭を撫でるミツルギがタチバナを見やった。
そこには怒りも敵意も哀れみも何もない。
ただ、穏やかな笑顔があるのみである。
とても、つい先ほどまで失神しそうな殺気を発していた少女とは思えない笑顔だった。
「…………はぁ」
タチバナは溜息をつく。
別に、この笑顔に絆されたわけではない。
別に、その提案が知ってか知らずかタチバナの葛藤を汲んだ物だったからではない。
別に、何でもない事なのだが。
「……わかりました。では、そうさせて頂きます。私も勝手に動きます、ベルカ様救出に向けて」
「そうか。なら、そうすると良い」
ミツルギの、会心の笑み。
それが無性に眩しくてそっぽを向いたタチバナは、ただ一つだけ思った。
―――きっと、天然の人たらしとはこういう人間の事を指すのだな、と。
「さて、話も決まったところで悪いが、タチバナにはもう一つ告げなければならない事がある」
「……なんでしょうか?」
猫のように目を細める上機嫌なタタコの頭を撫で続けるミツルギが続けて言った。
「……いや、謝罪と言ったほうがいいか。タチバナ、お前の武器の事だ」
「……その事ですか」
タチバナの心がずきりと痛んだ。
多大な恩のあるキャバリエ家、その先祖伝来の戦斧を喪ってしまった事に対しては深い悲しみがあった。
戦闘員として最優の成績を持つ者にのみ貸し与えられる橋守りの戦斧は、決して金に換えられるものではない。キャバリエ家からの信頼無くしては、触れる事も許されないのだ。裏を返せばそれは、キャバリエ家から相応の信頼を得ているという証でもある。
つまるところ、橋守りの戦斧は形を変えたタチバナとキャバリエ家の絆に等しかった。
それが粉々に砕かれた事が何を意味するか。ミツルギは当然知る由もない。
「武器を喪い泣いてしまうなど、あれは相当に大事な物らしいな。私も武器を愛する物としてその気持ちはとても良くわかる。あの時は戦いの場だったとはいえ、破壊してしまい本当に済まなかった。ここに伏して詫びる」
そして、ミツルギが頭を下げた。
「……頭を上げて下さい。確かにあのハルバードは大事な……とても大事な物でした、ですが武器は結局のところどこまで行っても武器でしかありません。それが戦いの末砕かれる事もあるのでしょう。―――決して砕けぬという謂われだったのですけれど、ね」
何百人、何千人とアトルガム兵を橋から叩き落したとされる橋守りの戦斧は数百年の時を経てなおその身に錆一つ浮かない、まさに伝説的な武器と称するに相応しい一品だった。突き穿つ力も凄まじく、かつて試しとして最も固いと称される金剛石への攻撃実験では、容易に貫き通してみせ場に立ち会った名うての鍛冶師たちを驚嘆させたとの記録も残っている。
そんなキャバリエ家の家宝。値の付けられぬそれに仮に値を付けたのなら、きっとドーガスタの三分の一が買えるだろう。
それだけの品を細切れにしてみせたミツルギの剣の腕は、きっと神域に達している。
そんな人外の腕を持つミツルギは、頭を上げて。
「確かに、壊れぬと謳われた武器が壊れる事など幾らでもある、タチバナの言う事も尤もだ。だが、だからといってそれでは私の気が済まない。―――だから、修理させてもらおう」
「えっ?」
「まあ、私ではなくここにいるタタコが、だが」
「うにゅぅ?」
タチバナにとっては到底信じられないような事をのたまったのだった。
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活動報告を更新しました(2019/6/17)




