3-18
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「……なんっ……なのですか……これはっ……!!」
愚かにもタチバナを一人にした下手人らの後を追う為、ガーターベルトの内側に潜ませた小さな金属片を使い縄を解いたタチバナが船の船首にて目にしたものは―――尋常ならざる光景だった。
「……ひぃっ」
全身が総毛立つ。鳥肌が止まらない。悪寒が体中を駆け巡っている。
口から零れ出た悲鳴は無意識の物。それが聞こえて初めて、タチバナは己が心底恐怖しているのだと思い知った。
タイターン・ニック号に取り付いた、悪夢をそのまま具現化したかのような冒涜的なモンスター。あれは人の世にあっていいものではない。深淵から這いずり出てきたかのような姿形と、その身から放たれる圧倒的なまでのオーラ。それらが腕に覚えのあるタチバナをしても、所詮人間ごときが勝てる存在ではないのだと雄弁に伝えてくる。
「い……いや……」
あれに目を付けられたこの船は終わる。タチバナはそう直感した。
厳しい訓練によって鍛えられたタチバナの鉄の魂魄がどろどろに溶け、萎びていく。主の為に命を捨てる事さえ厭わぬ覚悟と誓いを立てたタチバナであったが、その決意さえも挫かれてしまうほどに。
逃げよう。
その一言がタチバナの脳内を占めた時、視界の隅に映るものがあった。
ラミーと、下手人達だった。
「ラミー、さま」
ラミー達はあのおぞましい怪物を前にしても怯える事無く立ち向かっていた。
いや、よくよく見ればラミーだけは微かに震えているようだった。身もだえしそうな恐怖と戦いながらも、それをおくびにも出さずに。
「一体、どうして」
タチバナにとって、それが理解できなかった。
タチバナは実践訓練として凶暴なモンスターと戦う機会は何度もあった。恐ろしくて恐ろしくて、恐怖のあまり失禁しながら、それでも生きる為に、使命を果たすために戦い続けた事など何度もある。
その勇気の源泉は、捨て子のタチバナを拾ってくれたキャバリエ家に対する恩義があってこそだ。
恩、そして忠義。その二つが生きる力たるタチバナをして、心が折れる程の恐怖。そんなものが目の前にあるというのに、ラミーは心折れる事無くそこに立っている。
だからそれが、理解できなかった。
―――そんなタチバナの疑問を解するように、ラミーにそっと寄り添う姿があった。
あの、ヤマブキとかいう、"スケアー・グリーン"だ。
彼女がラミーを抱き寄せ何事かを囁くと、表情を強張らせていたラミーの顔がぱあっと輝く。そして、嬉しそうに抱き着いた。
それはタチバナが初めて見る、ラミーの一面だった。
恋する乙女の顔だった。
「…………」
あれが、ラミーの勇気の源なのだろうか。
あんな顔を向ける相手が、果たして本当にダイトウに与する悪者なのだろうか?
タチバナの中で、言いようのない感情がぽつぽつと湧き上がった。
あれほどまでに心を許したラミーの顔をタチバナは今まで見たことが無い。過去に送った護衛の報告にもなかった事だ。
それが何を意味する事なのか、察しの良いタチバナは気が付きつつあったが―――それを認めるわけにはいかなかった。
「……いえ、違う、違います。そんなわけがない。……アレイスタ様が間違える事なんて、あり得ない」
敬愛するタチバナの主人。"ハチ"の誓いを捧げたアレイスタを疑う事など、タチバナには出来なかったから。
「……あっ、ラミー様っ!?」
タチバナの眼前でモンスターがその触手を躍らせた。それらがラミーと、そして遠く離れた赤髪のミツルギとかいう女に迫る。
慌てて飛び出そうとするタチバナだったが、最早全てが遅かった。
恐怖に萎びた心身は思いと裏腹に一歩を踏み出す事すら碌に出来ず。
次の瞬間には目前の少女達が見るも無残な肉塊へと変貌する姿を幻視して。
「…………ひゅぃっ」
真に恐るべきはあの冒涜的なモンスターではなく。
その前に立つ、あの下手人三人組であると理解したのだった。
―――それから数分後のタチバナの記憶は、ややあいまいである。
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「……ん」
目覚めは最悪。体は気だるく鉛のように重い。典型的なMP欠乏症のそれだ。
ゴーレムの多重召喚によりMPを使い切った私は気絶し、何時間かは知らないが眠り続けたのだろう。
瞼のうらがちかちかして気持ち悪い。だが、そんな中でも吉報がある。私が無事に目覚め、そして雰囲気からして部屋の中で眠れているという事は、すなわちゴーレム達は私の下した命を無事に遂行してくれたという証である。
これでひとまず沈没とかいう笑えないイベントは避けられたというわけだ。
ヘッ! クソッタレの運命の女神とやらめ! ざまあみろ! 私がただ右往左往するだけの薬師もといアルケミストだとおもうてか! なんでもかんでも貴様の思い通りになると思ったら大間違いだぞ!
「……ふふっ」
―――なんて戯言を思い浮かべられる程度には余裕がある。実に素晴らしいことだ。
さぁ、いい加減に起きて状況を把握しよう……と思った矢先、何やら後頭部の感触がまくらのそれと異なる事に気が付く。
「んん?」
そういえば視線が天井よりもやや斜め下に向いている。
はて、今どき珍しい高枕か何かだろうか。それにしてはやけに温かいというかなんというか。
少し不思議に思う私だったが。
「……起きたんですね。師匠?」
優し気な、とても聞き覚えのある、大好きな声が上方から聞こえてきた。
いちいち明文せずともわかる。これはラミーの声だ。
「……ラミー?」
「はい、ラミーです」
ぬっ。と視界の上方、死角から顔を出したのはこちらを見下ろすラミーだった。
と、すれば、つまりこれは。
「……ひざ、まくら?」
「えへへ、そうです。ミツルギさんが言ってました。"きっとあいつは膝枕してやればすぐにでも飛び起きるさ"って。だからやってみたんですけど、本当ですね。師匠ったら、すぐに起きてくれました」
―――しかるに。状況をいったん整理してみる。
後頭部の温かな感触はラミーのふとももで。(ふともも!)
私の頭を愛おし気に撫でるその手はラミーのもので。(よしよしされてる!)
もう、仕方のない人ですね。と言わんばかりの表情は大好きなラミーのもの!(わあああっ! わああっ!)
「……う、うん。そりゃあ、うん、すぐ、起きる、よ? な、なにせ、ラミーの膝枕だし? 飛び起きるのも、やぶさかではない、というか?」
つまり。
かおが。
すごく。
あつい。
「ふふふ。だったらよかったです。……師匠ってば、あれから何時間も眠りっぱなしで、私凄い心配したんですからね……?」
「ご、ごめんなさい」
「師匠……お願いですから、あんな無茶はしないでください。私、師匠が死んじゃうんじゃないかって、不安になります」
「そ、そうだね、気を、つけるね」
「……めっ。ですよ」
私の、熱くて暑くて湯でも沸かせそうな額に、二本揃えられた人差し指と中指が、ぴたり、と触れた。
「めっ」
……あ、ああ。もはやことばもない。
「……うん」
いつからラミーは私のお母さんになったのだろう。
「そ、そろそろ起きるね」
私はむくりと起き上がった。
そして服の皺を整えながら―――ああもう冷静でいられるかなんだよなんですかこのとろとろ甘々な不意打ちときたら!
目覚めは最悪だって!? とんでもない! 最高すぎて死にそうになる! ていうか膝枕って! 膝枕って!
そんなの生まれて初めて体験しましたよ私は! 何さ!? ラミーのふとももってばあんなに柔らかいの!? なんであんなにむにむにしてるの!? 信じられない!
しかも! しかもしかも頭なでなでしながらとか! 慈母みたいな微笑みと共に!
おまけに"めっ"って! 私としたらもうはいすいませんとかしか言えませんとも答えられませんとも!
反則! ラミー選手反則です! これはフェアじゃない! ラフプレーです!
至急作戦会議の為にタイムを要望します! 具体的には私のこのまっかっかであっちんちんな顔が落ち着くまでの間!
「……はい」
ラミーが至極残念そうに答える。
私はといえば、外面だけは師匠らしく冷静に振る舞うそぶりを見せつつ、いかにしてこの爆発しそうな心臓をどうやって落ち着かせようかと苦心するのであった。
……ああもう。惚れた弱みとはいえ、なんだよこれぇ……。
ずるいよぉ……。




