【八】
「「「なにとぞ!」」」
敷石に額をこすりつけ、懸命に訴える三人。
近習の陰からそれを見つめる若君。
門をはさんで交錯する複数の思惑。
「会津は訴状を受け取るだろうか?」
「ご大老・ご老中方はみな受け取ったそうだ」
両者の攻防を、無責任にうわさしあう野次馬連中。
「……やはり恐れていたとおりに……」
暗澹とした表情でつぶやく元幕臣。
「恐れて?」
いぶかしむ大野を、椿は悲哀のこもった眼つきで見かえす。
「わからぬか、冬馬?」
「なにを、でしょうか?」
さっきから師の心がまったく読めない。
「あの町人どもは、先ほどおぬしが言ったのと同じことを考えている」
「同じ?」
「そして……それは会津にとって、はなはだ厄介なことになろう」
「厄介?」
「あの者らもおぬし同様、『庄内の百姓は、百姓ながらも領主に忠義だてする義民』と、もてはやしておる。だが……」
「ちがうのですか?」
感動に水をさされ、つい口調がとがる。
「……浅いな」
苦しげに首をふる師。
「いくら無体な沙汰とはいえ、一度公方さまの御名で出された以上、この台命が取り消されることはない。
いま庄内の百姓どもがやっておるのは、分もわきまえず、台命に異を唱えるごとき不届きなふるまい。
また、こたびの御達しにより、在国中の左衛門尉には出府命令が下ったはず。
なれど、すでに三月ちかくなるというに、左衛門尉はいまだ参府しておらぬ。
遅れれば遅れるほど、幕命に対する反抗と見なされ、国替えに根拠を与えてしまう」
昨春、酒井左衛門尉忠器は、将軍家慶から御暇(下向)の許しを得、例年どおり帰国した。
そして、七か月後。
領地替えが通達され、幕府からは江戸にもどるよう命令が下ったが、忠器は神田橋御門内の藩邸にまだ到着していない。
「わかるな、冬馬? ここで会津が訴状を受け取らば、庄内に加勢し、御公儀に逆らったと解釈されかねぬのだ」
「加勢? 逆らう?」
椿はそれには答えず、弟子から門外の群衆に目を転じた。
「とはいえ、いまや江戸の町人どもの同情は、庄内に……いや、このけなげな『義民』に集まっておる。
かような折、御家に類がおよぶを恐れ、この群衆の前で訴状を拒めば、『会津は情けを知らぬ』『義を軽んじる士風』と、世上で謗られるは必定。
どちらに転んでも、会津は難儀な立場に立たされる」
「……まさか……」
大野は自分の浅薄さにめまいがした。
「この越訴が、会津にそれほどの影響を……?」
だが、言われてみれば、会津藩御家訓第一条には、
「一、大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。列国の例をもって自ら處るべからず。もし二心を抱かば、すなわち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」とある。
会津では藩主以下、大君(将軍)に対し、絶対の忠誠をつくすよう、子どものころから教えこまれている。
台命に背くなど、絶対にあってはならないのだ。
万が一、藩主が将軍の意向に逆らう行動をとったときは、家臣は全力でそれを阻み、制止できないときは別の当主を立ててでも将軍に従え、というのが藩祖・保科正之の遺訓。
かといって、門前の群衆は、御家門一の武勇をほこり、代々将軍の諮問にこたえてきた会津侯が、義民の後ろ盾となり、この理不尽な台命に抗することを期待している。
もし、その期待を裏切ったら、百四十年前、松之廊下刃傷事件で、浅野内匠頭をはがい絞めにし、吉良にとどめを差すのを阻止した梶川頼照のように、「情けを知らぬ者」と世間から軽蔑されるのはあきらかだ。
それは、二百年以上、尚武の家として鳴らしてきた会津藩にとって、堪えがたい屈辱。
会津はいま、御家訓と世論の板ばさみになりつつあるのだ。
(……先生はそこまで会津のことを……)
藩士でもない椿が、それほど考えていたのに、自分は目先のことしか見えておらず、義民などと持ちあげ……。
劣等感に打ちのめされ、大野は呆然と視線をさまよわせた。
(では……では、会津藩は……どうすればいいんだ?)
背中がすっと寒くなった。
われに返ると、いままで張りついていた発熱原――金之助が数歩前を歩いている。
「……若さま?」
大野から離れた金之助は、正門の太い鏡柱まで進み、足を止めた。
「これを、ちちうえにわたせば、よいのか?」
言うが早いか、竹棒の先から、『上』と書かれた奉書をさっと抜き取る。
――!!!――
「「「ありがとうございます!」」」
狂喜し、再度平伏する百姓たち。
「「「おお、会津が訴状を受け取ったぞ!」」」
群衆は拍手喝采。
「……ああ、なんと軽率なことを……」
椿は天をあおぎ、絶句。
「若さまっ!」
いつものように、説教を開始する傅役。
「百姓などから、直にものを受け取ってはなりませぬ!
下からの訴状は、供侍が二度拒み、三度目に『しかたなく』と受け取ったものを、上位者に取り次ぐのが作法でございまするっ!
それを、若さま御自ら手に取るとは……お立場をお弁えくだされっ!」
「……いや、山川殿……」
ガミガミ騒ぐ山川に、唖然とする椿。
「ここは作法うんぬんより、父君に諮りもせず、重要な訴状を安易に受け取ってしまった軽挙をこそ、お諫めいたすべきでは?」
「ほう、言われてみれば、そうだな」
おどろいたように目を見はる山川。
「なにを悠長な……山川殿らしゅうもない」
「そういう貴殿こそ、いつもは口数もすくなく泰然と構えておられるに、今日は『らしゅう』ないのう」
ゆったりとほほえみながら、さらりと受け流す老臣。
「赤穂事件になぞらえれば、会津は梶川になって町人どもに侮蔑されるか、吉良邸隣家の土屋主税になり讃えられるか、ここが思案のしどころだな、はははは」
「……山川殿……?」
老臣を見る椿の表情が、微妙に変化した。
「いやいや、これは失礼。椿殿は当家の立場をわがことのように案じ、進言してくだされたのだから」
「当然ではありませぬか。会津侯は、わが師にとって大恩ある御方。その御家がみすみす面倒に巻きこまれるを、座視できませぬ」
「なんともありがたい心づかいなれど、椿殿、貴殿もずいぶんと矛盾しておられるのう」
「矛盾?」
眉をよせ、不審そうに復唱する椿。
「そうではないか。貴殿は当家に、『理不尽を見すごせ』『厄介事にはかかわるな』『御家大事』と、申されておるのだぞ?
だが、わが殿がそれを是とする御方ならば、御公儀から譴責をうけた渡辺殿をお預かりなさったであろうか?」
「……あ……」
盲点をつかれ、椿は固まった。
(……たしかに……)
いくら御家門の名家とはいえ、幕府の正式な裁判で有罪となった罪人を、判決の一部を無理やり変更させ、強引に引き取るというのは相当危険な行為。
実際、この蛮社の獄では、前途を悲観して自害した蘭学者、牢での苛烈な取り調べで獄死する者も多数――ヘタにかかわれば、容敬も嫌疑をうける可能性はじゅうぶんあった。
そんな緊迫した状況下、縁もゆかりもない罪人を庇護した容敬は、一藩を預かる大名としては、無鉄砲すぎる。
だが、その英断おかげで椿の師は助かったのだ。
容敬の性格を考えると、この騒動でも同様のムチャをすることはじゅうぶんありうる……というか、山川の態度から推察すると、すでに動きだしているのかもしれない。
「なるほど……そういうことでしたか」
語られぬ背景を悟った椿は、納得したようにうなずく。
「お諫めしてお聞きになられる御方なら、わしも苦労はせぬわい」
江戸家老はため息まじりにぼやく。
と、そのとき、
「そうじゃ、そなたらに、ほうびをやろう!」
澄んだ子どもの声が周囲にひびきわたった。
庇下の暗がりから透かし見ると、書状を手にした子どもの後ろ姿が光の中に浮かび上がっている。
「わしのざしきで、ちゃをのんでいけ! うまいかしがある!」
「若さまーっ!?」
傅役の悲痛な叫びが、大気をふるわせた。
老人の心労はしばらくつきることはないようだ。
赤穂事件の梶川についての詳細は、拙作・南柯の夢閑話の「元禄赤穂事件 2」をご覧ください。