【十二】
申の下刻(午後五時ころ)
春分前の斜日が、寝所の障子を明々と染めあげる。
ぬるくなった手ぬぐいをゆすぎ、病人の額にもどす。
昼すぎから何度も同じ作業をくりかえしているのに、子どもの熱はなかなか下がらない。
御殿医が傅役になにか小声で耳うちし、部屋を出ていった。
どうやら、薬の調合をしにいったらしい。
それを見送った山川は、手ぬぐいを絞る少年に視線をうつした。
「お熱を出されたは、今年に入って二度目か?」
「いえ、三度目にございます」
「相かわらず、お弱いのう」
老人は憂いのこもった目で、病臥する若君を見下ろした。
いつもは青白い顔が、熱で赤くなっている。
「今日は、よう歩かれたゆえ……」
毎日、奥と学習室の行き来くらいしかしない若君が、今日はいろいろあってふだんの倍以上は歩いている。
山川は過剰な運動が原因で熱を出したと考えているようだ。
「それにしても、この程度で熱が……これでは無事に元服を迎えられるかのう」
「なれど……」
「なんだ?」
「こたびの発熱は、極度の緊張からくるものではございますまいか?」
数刻前に抱き留めた感触がよみがえってきた。
華奢な身体に似あわぬ、異様な熱さ。
意識を失い、ぐったり動かなくなった幼い主。
「若さまは、日ごろ御心に大きな負荷がかかることなどありませぬゆえ」
「なるほど」
親子ほど年の離れた他藩の世子におこなった助命嘆願。
いままで周囲から大切に愛しまれ、気づかわれてきた金之助にとって、あれは相当な精神的負荷だったにちがいない。
「死罪は……まぬがれるでしょうか?」
「どうかのう」
ふたり分の嘆息が、子どもの苦しげな寝息に重なる。
今回の騒動が、どう決着するかはまだわからないが、まちがいなく首謀者数人の命はなくなる。
百姓たちは覚悟のうえだが、金之助の悲嘆を想像すると、ふたりの気持ちは暗くなった。
「……『百姓たりといえども、二君に仕えず』……」
山川がぽつりとつぶやいた。
「のう、大野……庄内の百姓たちは、まことに『義』の心だけで決起したと思うか?」
「と、おっしゃいますと?」
「あの言葉がすべて偽りとは言わぬが、はたして忠義心だけなのか?」
「……は?」
「いや、二百年以上、酒井を領主として仰いできたのだ。
親しみも抱いておろうし、慕ってもいるだろう。
また、過去に苛政はあったとはいえ、先年の大飢饉の折には、大量のお救い米を供出したうえ、藩に対する借財も免除してやったと聞く。
転封の沙汰を聞き、百姓たちが騒ぐのも無理からぬこととは思うが……」
「……山川さま……?」
「だが……転封とならば、いままで善政をしいてきた酒井とて、己の領民でなくなる者に情けはかけまい。
長岡への移転費用を捻出するため、また、先々激減する歳入を補うため、今度は一転して、無慈悲に収奪をはじめるにちがいない。
そして、多額のワイロを使ってようやく庄内を手に入れた松平大和守も同じだ。
目ぼしいものは酒井があらかた持っていってしまうであろうが、大和守は百姓の食い扶持や、村のささやかな備蓄まで、根こそぎ取り上げるだろう」
「地獄……ですね」
相づちを打ちながらも、心にひろがる違和感。
「さよう。そうなると庄内の百姓にとっては、越訴で死罪になるか、飢えて死ぬかの違いのみ。
ならば、まだすこしでも望みのある方に賭けようと考えたとしても不思議ではなかろう」
「……そう言っては、身も蓋もありませぬ」
山川の言には説得力があった。
『義』のために立ちあがったといえば、朱子学を官学と定める幕府は問答無用で叩きつぶすわけにはいかなくなる。
本当は自分たちの死活問題による決起であっても、そう主張した方がはるかに通りがよいことはたしかだ。
(……たしかだが……)
どこよりも濃厚な朱子学思想をもつ会津武士としては、その解釈にはかなり抵抗をおぼえた。
「では、赤穂の件はどうだ?」
混乱する少年を、老人はおもしろそうにながめる。
「あ、赤穂?」
「ふむ、世間では『忠臣』と讃えられる、あの浪人たちだ」
「では……山川さまは、それも違うと?」
「違う。むしろ、大石などは不忠の極み。浪人どもは不義の暴徒だ」
「不忠の極み!? 不義の暴徒!?」
過激な極論に目をむく会津の秀才。
「あの者らは吉良を『主君の敵』と決めつけたが、浅野は吉良に斬殺されたのか?
ちがうであろう?
斬られたのは吉良の方だ。上野介は刀に手すらかけず、傷ひとつつけてはおらぬ。
浅野は己の愚かさ・未熟さによって、自滅しただけではないか。
そう、内匠頭は暗君だった。
当時の記録によると、政をおろそかにし、夜昼かまわず女と戯れ、美女を差しだした者には加増し、また女子の親族は能力・功績がなくとも厚く遇したという。
このような主君を諌めず、見て見ぬふりをつづけた家臣――とくに重役どもは忠義の徒か?」
「いえ、それは……」
「そして、松之廊下での刃傷事件もそうだ。
あれは、明らかに留守居役の手落ち。
留守居役ならば、主君がなんと言おうと、高家の吉良に相応の付け届けを贈るべきであった。
付け届け――世間では、ワイロと言うが、あれはワイロと言うより教授料。
作法を教えてもらうのだ。謝礼を贈るのは、当然ではないか?
ワイロを戒める当家でさえ、高家に指導をあおぐ際は、それなりの礼をしておる」
(……留守居役……)
忠発がとがめても、平伏のまま必死に詫びつづけていた庄内藩留守居役・大山庄太夫。
主君のため、屈辱に耐え、他藩の幼児に頭を下げつづけたあの大山こそ、留守居役のあるべき姿ではないか?
世間知らずの主君の命じるまま、あたりまえの礼儀を欠き、あげく、失敗のゆるされない重大な式典の日に主君を暴発させてしまうなど、留守居役としては絶対にやってはいけない大失態だ。
そして、幼少のころからその資質に問題のあった主君を諫めることなく放置し、結局御家断絶となってしまった赤穂藩の筆頭家老は大石内蔵助だった。
つまり、大石は高禄を食みながら、なにもしなかったのだ。
主君が投げ出した藩政を処理するだけで、内匠頭の不行状を改めさせようとはしなかった。
巷では、事件前からすでに「あの殿さまでは、赤穂は危ない」とささやかれていたにもかかわらず。
さらに、刃傷事件後、幕府の裁定を不服とし、逆恨みのすえ吉良邸に討ち入った浪人の中には小姓あがりの側用人もいた。
側近ならば、なぜ主君の精神の異変に気づけなかったのか?
一番近くにいる者が、日々注意ぶかく観察し、異常を察知してなんらかの手を打っていたら事件は未然に防げたかもしれない。
家臣たちが、それぞれ自分の職責を全うしていたら、あのようなことには……。
それなのに、取り返しのつかないことが起きてしまった後で、再度、事件の被害者を襲うのが忠義か?
――山川はそう言いたいのだろう。
「おぬしはいずれ若さまを輔佐し、藩政にたずさわることとなろう。
そのためには諸事に通じ、また世間の評価・評判に惑わされず物事の本質を見ぬく眼力を養わねばならぬ。おぬしの助言が間違うていたら、上に立つ御方も判断を誤る。
そして、ときには主君に疎まれ憎まれようと、諌言しつづける……それがおぬしの務めだ」
(そこまで冷徹なあなたが、なぜ若さまがからむと……?)という疑問は残ったが、大野はただ黙って頭を下げた。
「……うー……」
下からかすかなうめき声があがった。
「お気がつかれましたか?」
まだ目の焦点が合わない子どもに、やさしく声をかける傅役。
「じいか?」
「はい。大野もおりますぞ」
「……みず……」
「はっ」
大野は抱き起こした身体を支え、湯ざましの入った椀を手渡した。
「ひゃくしょうたちは?」
椀ごしに、うるんだ瞳が問いかける。
「あれから昼餉と酒をふるまい、じゅうぶん休ませてから、庄内藩に引き渡しました」
「ひるげ?」
「時分どきでしたので、山川さまが茶菓だけでは足りぬであろうと申され、用意いたしました」
「さすが、じいじゃ」
赤い顔をほころばせ、ほほえみかける金之助。
だが、その声にいつもの張りはない。
「かしは?」
「ひとつを残し、すべて折箱に入れて、持たせました」
「ひとつ?」
「若さまの分でございます。好物だとお聞きしましたゆえ」
「そうか……」
空になった椀を返し、再度横たわる若君。
「ならば、それは、とうまに、つかわす」
布団を直していた手が思わず止まった。
「なれど、若さまの好物では?」
「ほうびじゃ。いちのしんゆえ……せっつも……ほめて…………」
長い睫がほほに落ち、若君はふたたび寝入ってしまった。