【一】
話がちがう。
大野冬馬は慨歎した。
後背にのしかかる熱と重さ。
そして前方からは、間断なく繰り出される小言。
「申しわけございませぬ」
奥歯を噛みしめつつ、本日何度目かの平伏。
平伏の途中、密着していた熱源がずるずるすべり落ち、大野の背から離れていった。
「以後、かような仕儀にいたらぬよう取りはからいますゆえ、こたびはなにとぞご容赦を……」
「大野っ!」
ついに対面にすわる老人――会津藩江戸家老・山川兵衛が爆発した。
「おぬしに用はない! そこをどけ!」
約一間(1.82m)の距離からあびせられる唾まみれの怒号。
うなだれる少年の内部に、どす黒い気持ちがひろがっていく。
(おれとて、好んでここにいるわけではない……)
そう、自ら望んで江戸にいるわけでは。
半年前、突如下された主命。
それさえなければ、いまごろは会津の大学(日新館講釈所)に通い、心ゆくまで学問と武芸に精進していたはず。
寡婦になったばかりの母ひとりを故郷に残し、継いだばかりの家名を背負い、慣れぬ江戸での一人暮らしなどせずにすんだはず。
あの主命さえなければ……。
「わしは若さまに申しあげておるのだ。庇いだていたすな!」
理不尽な叱責が少年の耳朶を打った瞬間、
「お言葉ではございますが!」
大野は昂然と顔をあげ、憤懣にもえる目で重臣をにらんだ。
「それがしが庇うているのではございませぬ! 金之助さまが勝手にそれがしの陰に隠れていらっしゃるのですっ!」
ほぼ日課になっている傅役からの説教。
それがはじまったとたん、小姓の後ろに避難した幼い主。
自分のかわりに小言をくらう家臣の背後で、若君はいつものように眠ってしまったらしい。
対峙するふたりの傍らから、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。
既視感にみちたこの展開に、身体中から一気に力がぬけていく。
少年は力の入らない指先を動かして羽織の黒紐を解き、大野の羽織を握ったまま眠る、そのちいさな身体にそっと掛けてやった。
大野が仕える会津藩は、どこの藩よりも身分秩序がきびしく、その藩士が属する階層は、羽織紐・半襟などの色で明確に峻別され、視覚化されている。
これは立藩以来の習わしではなく、いまから五十余年ほどまえの天明期、ときの家老田中玄宰によって考えだされた制度で、上士・中士は羽織の紐色によって、下士は半襟の色によって区別される。
この制度により、知行取二百石・第二等階級の大野は黒紐、第一等の家老・山川は納戸色の紐を羽織につけている。
「口ごたえいたすな! おぬしが甘やかすゆえこうなるのだ!」
納戸紐の老臣がほえた。
「……山川さま……」
怒りを通り越した感情が少年を襲う。
(そこまで追いつめられておいでか……)
聡明な大野の眼には、焦燥にかられる男の姿が痛々しく映った。
本来、江戸家老の山川はこのような非理を言う人物ではない。
突然江戸詰めを命じられた少年を案じ、公私ともになにかと世話をやき、初出仕で勝手のわからない御家独自の決まりごとなども丁寧に教えてくれるあの山川が……。
(また、西郷さまあたりから、なにか言われたか?)
会津松平家待望の、しかも正室がもうけたはじめての嫡男・金之助君。
その大事な男子を負託されたのが、藩主容敬の純臣・山川兵衛重栄だった。
ところが、家中の期待を一身に背負って誕生した若君は、同年代の子どもにくらべ、かなり残念な御子さまだった。
そのうえ、生来蒲柳の質で武芸の才は望めず、学問も苦手。
なにをやらせても失敗ばかり。
藩内きっての名門・西郷一派は、金之助君がなにかしでかすたび、その失態をことさら大仰に言いたて、扶育役の山川を中傷っている。
そうした心労が、温和なこの老人を追いつめているのだろう。
腹の虫はおさまらないが、山川の苦衷もわかる。
大野は自分の思いを飲みこんだ。
「申しわけ……ございませぬ」
かろうじて謝罪の言葉を絞りだし、またもや平伏。
(話がちがう)
畳目をにらみながら、むなしい繰り言を反芻する。
(……父上……なぜ……)
まったく罪のない父にまで怨嗟の念が湧く。
四十の若さで急死した父。
それが、大野の人生を狂わせる発端だった。
当主の予想外の早逝に、唯一残された男子――当時、数え年十五歳、満十四歳だった大野は、予定を早めて元服をおこなった。
と、同時に、あわただしく家督相続の手続がとられ、たまたま在国中だった主君容敬に新当主としてあいさつをする機会があたえられた。
生まれてはじめての登城。
生まれてはじめて見る自分の主君の貌。
形式的ないくつかの応酬があったあと、容敬は少年に予定外の言葉をかけた。
「そなた、日新館はじまって以来の俊才だそうだな」
理知的なまなざしで問いかける容敬自身、幼いころは家臣たちに交じり、芝の江戸日新館に通学していたという。
「聞くところによると、齢十五にして素読所第一等を修了したというではないか」
会津藩校日新館は上級藩士のための教育機関で、十歳になる上士子弟は全員ここへの入学を義務づけられる。
素読所は第一等から第四等の四階級にわかれ、その多くは十八歳前後で修了するが、勤勉な士風のこの藩では、十六で修了する秀才が毎年二~三人ほど出る。
とはいえ、さすがに十五での第一等合格者は稀だった。
「国許に置くには惜しい逸材よ。どうだ、江戸の昌平黌に留学し、学問を修めたくはないか?」
「昌平黌……」
それは当代一の教授陣と、全国からあつまった秀才たちが切磋琢磨する学問の府。
会津では素読所第一等を卒業すると、日新館講釈所(大学)への進学が許可され、その中の成績優秀者にのみ、昌平黌留学の道が開かれる。
いま容敬の口から出たものは、好学の士にとって垂涎の提案だった。
「できますれば……学んでみとうございます」
刹那、母の面影が脳裡をよぎった。
江戸勤番は単身赴任。
留学すれば、とうぶん故郷には帰れない。
夫を亡くしたばかりの母ひとりを、若松城下の拝領屋敷に残す後ろめたさが大野の心に影をおとした。
そんな少年の葛藤も知らず、上座の貴人はわが意を得たりとばかりにうなずいた。
「さもあろう。なれば、そなたをわが嫡男金之助の小姓見習いに補し、江戸勤番を申しつける。さすれば役料も出るゆえ、諸色高の江戸暮らしの足しにもなろう」
「金之助さまの?」
五年前に生まれた嫡男の名は国許でも周知されている。
「いや、小姓見習いと申しても、ほかの小姓の手伝いをするだけでよい。勉学にはげむことこそがそなたの務めじゃ」
「まことに、それでよろしいのですか?」
「うむ。いずれそなたには金之助の良左(君主を補佐する有能な臣)となってもらいたい。
江戸にて存分に学び、末々のため研鑽を積んでまいれ」
「はっ、ありがたきしあわせ!」
……と、殿はおおせられたではないか。
それが、なぜこんなことに?
背後でうごめく気配がした。
若君が目をさましたようだ。
「む?」
着衣が後ろから引っぱられる。
若君は小姓の背をよじ登るようにして立ちあがると、その肩に手をおいたまま、しばし周囲を見まわした。
「じいに、しかられておるのか?」
質す子どもの眸が、不安そうにゆれる。
幼いながらも、場の険悪な空気を感じ取ったらしい。
そして、おもむろに、
「ゆるしてやれ」
舌足らずの口吻で命じ、大野の前に立ちふさがる。
「とうまが、ふびんじゃ」
「「……金之助さま……」」
((……ちがう……))
室内にながれるふたり分の嘆息。
((いったい、だれのせいだと?))
ところが若君は傅役たちの脱力ぶりなど意にも介さず、小首をかしげニコリ。
「のう、じい?」
「またさような御顔をされて……」
山川の表情がくずれる。
なんだかんだ言いつつ、山川はこのうつくしい若君がいとおしくてたまらないのだ。
「なれば、以後お気をつけくだされよ?」と、あっさり陥落。
「うむ、わかった!」
無邪気な笑顔で師傅に抱きつく金之助。
若君は「わかった」といいながら、「なにについて気をつけ」ればいいのかまったく理解していない。
出仕まもない少年に見てとれることが、長く接している山川にはなぜか見抜けぬらしい。
「さすが、じいじゃ!」
至近から発せられる殺し文句に、
「ほんに困った御方でございまするな」と言いつつ、山川の眼はすっかり愛孫を見るそれになってしまっている。
「……山川さま……」
なんの作為もないこの人たらしぶり。
もしや……この御子は、ひとの心をつかむ才を、特別な術を、生まれながらにお持ちなのか?
案外、長じたら民に慕われ、臣がよろこんで忠誠を誓う藩主になるやもしれぬ。
(……ふっ……まさか)
思わず苦笑がこみあげる。
それは出仕以来、ついぞ考えたこともない妄想。
主君の参府にしたがってきたふた月前。
西の丸下の和田倉屋敷に到着したのは、日脚も短い霜月の末。
そして、旅装を解くまもなく伝えられた急な御召。
あわてて手足と顔を洗い、手早く鬢をととのえて伺候する。
大野が藩邸御座之間の入側まで導かれたとき、すでに上段には容敬が着座していた。
「申しあげます」
「きたか。近う」
「はっ」
そっと下段之間に入室し、平伏。
「かまわぬ、もそっと近う」
「はっ」
さらに膝行し、上段之間との境まで進む。
「面をあげい」
気やすく声をかける主君はいつになく機嫌がいい。
「はっ」
顔をあげた少年の視界に飛びこんできたのは、見たこともないきらびやかな空間。
頭上は精緻な細工がほどこされた格天井。
床框は黒々と漆で塗られ、欄間には菊花の透かし彫り。
襖絵も幕府御用絵師狩野派と思われるみごとなもの。
質実な藩風の会津屋敷は、他家にくらべれば決して贅をこらした造りではないのだが、国許のつましい暮らししか知らぬ者の目には、息をのむほど豪華な御殿だった。
(おれは、今日からこのような所で働くのか……)
晴れがましい自負心で胸がいっぱいになる。
(わが御家の、われらが殿の御威勢の、なんとすばらしきことか)
あらためて会津二十三万石の家中であることを誇りに思った。
「金之助」
夢見ごこちの少年をよそに、容敬は傍らの幼児を見やった。
「これなるは大野冬馬じゃ。こたび小姓のひとりとして、そなたの世話をすることと相なった」
「おおの、とうま?」
たどたどしく復唱する三、四つばかりの童子。
では、この子どもが嫡男金之助君なのだろう。
「さよう。この者は必ずやそなたの助けとなる。よう名をおぼえておくのじゃぞ?」
「わしの、たすけ?」
「そうじゃ。そなたを守る者じゃ」
「わしを、まもる?」
「いかにも」
「とう……ま?」
「そなたの臣ぞ」
そう言いながら、容敬は子どもを抱きあげた。
「ちちうえ~」
「ほう、ずいぶんと大きくなったのう」
愛児との半年ぶりの対面。
内外から賢侯と称される主君も、いまやひとりの若い父親になっていた。
「国許におるあいだ、そなたが熱など出してはおらぬか、悪しき病にかかっておらぬか、つねに案じられてのう。息災そうでなによりじゃ」
とろけるような笑みをうかべ、腕の中の子を愛おしそうに見つめる容敬。
だれの目から見ても、この幼児がこの家にとって大事な存在だとわかる光景だ。
それとともに、自分に寄せられる期待と信頼が並大抵のものではないことが、大野にはわかった。
与えられた使命は、十五の少年には過大すぎる重責だったが、大野はわき上がる歓喜に身ぶるいした。
「頼むぞ、冬馬」
「たのむぞ~」
上座から降る音質も声域もことなるふたつの主命に、大野は「御意」と応え平伏した。