デイドリーム
果たされない約束は、二つあった。
「キミちゃん! 明日さ、みんなでカラオケ行かなーい?」
「あー……ごめん。明日はデートなんだ」
昼ご飯にと購買で買ったメロンパンを頬張りながら、伊沢真奈美は私へ上目遣い攻撃をしてきた。マスカラをばっちりしっかりつけた、くりくりした円い黒目が甘えるような視線を送ってくる。
そういう攻撃が効くのは男だけだと思うなぁ、なんて、自分でも妙なところに目がいっていると思いながら見つめ返す。
もしかして私は女友達として認知されていないのか、それとも彼女にとっては自分以外の全ての人間が甘える対象であるのか。
とにかく真奈美は誰彼構わず誘うようね視線を送っている。と、思う。かわいいから、別にかまわないけれど。
そう思っている時点で、私は彼女の作戦にまんまと引っ掛かっているのかもしれない。
「じゃーダブル! ダブルデートで良いからカラオケ行こっ」
「なに、そんなに歌いたいの?」
「そう、もうストレス溜まりまくっててさぁ、叫びたーいっ!」
「わーかったから、ここ教室っ」
手をバタバタと上下に激しく動かし、文字通り叫びだす真奈美。
思い思いの場所で、机をくっつけたり椅子だけ動かしたりして昼休みを教室で過ごしていたクラスメイトが、急に上がった真奈美の声に何事かと注目してくる。集まる視線は痛い。
私は真奈美を適当にあしらって落ち着かせて、一緒に購買へ行った時に買ったペットボトルのお茶を飲む。よく冷えているのか、ボトルは汗をかいていて、喉を通る時にその冷たさがよくわかった。
「ねぇ、ほんとぉに、ダメ?」
「んー、ダメじゃん?」
「なーんでーっ? たまにはみんなで遊んだっていいじゃんかよーっ」
放って置いたらまた騒ぎ出しそうな真奈美から、私は目を逸らした。遊ぶこと自体は、嫌いじゃない。むしろ大勢で行った方が楽しいと思うし、カラオケなら大人数で行った方が歌わなくても誤魔化せる。
基本的に、私は人前で歌うのは好きじゃないのだ。何気なく口ずさむ鼻歌の方が、私には合っている。
でもとにかく、明日はまずいのだ。
「半年だから」
「え、えぇ?」
「だから、付き合って明日で半年経つのっ」
「マジィ?」
明日は四月二十二日。前から何かしようねと話していた。平日だし、学校があるからそうもいかないけれど。
同い年で一年の時クラスが一緒だった千藤尚哉は、今では私の彼氏と呼べる人だ。顔は良くもなく悪くもなく、ただ話すとおもしろく、そのためか男女先輩後輩問わず好かれているらしい。
そんな彼の猛アタックを受けてしまった私。
十月の文化祭が終わったのとほぼ同時に、私達は友達ではなくなった。
「そっかそっか。じゃあ尚更明日はカラオケねっ」
「はぁ? ちょ、どうしてそうなんのさ」
「大丈夫! 私と浪児でお祝いしてあげるー!」
「わー、ありがとー」
「こらっ、気持ちがこもってなーいっ」
片方の頬だけを膨らませて、怒ってみせる真奈美。真奈美には悪いけれど全然怖くないし、とても怒っているようには見えない。こういう表情に、男は騙されるのだろうか。
なんて、私も随分くだらないことを考えている。
「わかったよ、いってみるから」
「やたっ、じゃあ今から行こうっ」
「はいはい」
半分ほど手をつけた弁当箱をしまう。ペットボトルも一緒に、スクールバッグの中へ。
話している間にメロンパンを食べ終えていたらしい真奈美の手には、パン屑が溜まったビニール袋が見えた。
何よりも先に手が出るタイプの人間、つまり、行動派。遊ぶ計画を立てる時に一人は欲しい。真奈美はまさにそれだと思う。私は、そういう真奈美のような人に任せっきりで流されるタイプ。
だから、約束は守れなかった。守られなかった。
私と真奈美は一年のときからクラスが一緒で仲良し。もちろん二年になったばかりの今も、同じA組だ。
廊下の端っこに位置する私達の教室から、これまた端っこにあるE組、尚哉と浪児がいるクラスまで手をつないで歩く。真奈美は楽しそうに鼻歌を歌いながら、つないだ手を大きく振って、少しだけ先を歩いている。ガキっぽいとは思えど、内心嬉しかったりする。私からは絶対にできないことだ。
上目遣い攻撃は効かないけど、真奈美のことはかわいいと思っているし、なんに関してもきっぱりはっきりいう真奈美をすごいな、とも思っている。
私が真奈美だったら。
つい、ずるい考えに逃げるのは私の悪いところだ。
もしも。それは、夢のように幸せな世界。だけど、決して手に入らない空想でしかない。
もしも。
私はもう、約束を果たせないのだろうか。
「失礼しまーす……」
E組の教室に着くと、真奈美は教室のドアからひょっこり顔だけ出すようにのぞきこんだ。
私もそのうしろから教室をのぞく。視線を左右にきょろきょろと動かしていると、窓際の列の席に目標の人物を発見した。
当然ながら、彼等は昼ご飯の最中だ。
「あ、いた。浪児、尚哉くーん!」
私よりも数瞬早く見つけたのであろう真奈美が、私とつないでいない方の手で頭の上から大きく腕をふった。
その声にいち早く反応したのは浪児で、私達、ではなく、真奈美を見ると「あ、マナたん! おはよー」といって手を振り返す。
それを見て、一層嬉しそうに、手を振る真奈美。浪児の背後に犬のような尻尾が見えるのは、私の気のせいだろうか。
私がそんな二人のやり取りを冷めた目で見守っていると、浪児の行動で気付いたらしい今まで背中を向けていた尚哉が、ゆっくり振り返った。
私の視線に気付くと、「中、入れば?」といって笑った。
「だって! キミちゃん、行こっ」
ご機嫌そうな真奈美ににっこりと笑いかけられ、手をひかれてE組に足を踏みいれる。何度やっても、人の教室に入るのには抵抗を感じる。その教室にはその教室の領分みたいなものがあるんだと、思う。きっとそれのせいだ。
「なになに二人して、どうしたのー?」
バカみたいに浪児がはしゃぎ、夏休み前の少年のように目を輝かせながら真奈美の手を取る。真奈美も真奈美で、そんな浪児をいとおしそうに見つめている。
そんな毎度の光景を見ながらいつも思う。こうはなりたくない、と。
ところが尚哉も尚哉で、私があきれた目で二人を見ているとスカートの裾を引っ張ってきた。
「な、なに? 引っ張んないでよっ」
「みーみ、貸して」
「なによ、」いいながら、座っている尚哉にあわせて腰をかがめ、その口元に耳を寄せた。
「うらやましいの? さっきから見過ぎ」
「――っ、ちがう!」
尚哉の発言と、突然低くなった声音に背筋がふるえた。私はあわてて尚哉から離れ、目を見開きながら否定する。
そんな私の顔を、尚哉は新しいおもちゃを見つけた子供のように無邪気に笑って見ていた。そこでやっと、からかわれたのだ、と気付いた。
「もう、やめてよっ!」
「ごめん、つい。で、なんか用あったんでしょ?」
そういってにこりと笑った尚哉の顔を見て、私は言葉に困ってしまう。なんとなく、いいにくい。いつもの約束だったら、こんなにまで困らないのに、私は真奈美へ視線を向ける。
「うん、あのねー、明日カラオケ行こうって誘いに来たの」
「え」
「マジ? 行く行くー、ちょうど部活ないし。なっ、尚哉!」
真奈美がいうと、当然ながら浪児は喜んで、またはしゃぎだした。それとは対照的に、尚哉は私へ困惑した目を向けてきた。当たり前だ、と思う。私は目で『真奈美がどうしてもってうるさいんだよ』と訴えてみた。伝わったかどうかはわからない。
「でもね、マナは行きたいんだけど、キミちゃんたち記念日なんでしょ?」
私が横目で真奈美を見ると、真奈美は浪児をいまだ見つめながらぼそぼそと話しだした。唇をとがらせて、いじけているような様子を見せる。
「えー、デートぉ? えーと……まだ、半年だろ? んなんでごちゃごちゃいうなよー」
「るっせーな、たく。なに、嵐は行きたいの?」
浪児は不満そうに口をとがらせて尚哉を下からにらんでいる。尚哉はそんな浪児をさもうざったそうににらみ返しながら、私へ目を向けた。
真奈美みたいに欲求不満じゃない私は「え、別に」と、真奈美を横目でうかがいながら返した。
私がうつむきがちにそういうと、尚哉はにやりと笑って私の両手を握った。
本音をいえば、記念日もカラオケもどうだっていい。ただ、最近は忙しくて会う時間をあまり取れなかったから、尚哉はそういってほしいのだとわかっていた。だから、望まれたセリフを選んだ。
「えー、キミちゃんひどぉーい!」
「じゃあなし。お前ら二人で行けよ。俺は嵐いればいいし」
私は嬉しそうに笑う尚哉を見ながら、別に尚哉と二人でいたいってわけでもないんだけどなぁと思う。
いう必要はないからいわないけれど。
「付き合いワリぃなあ……」
「マナたちでお祝いしてあげるのにぃーっ」
「そうだよ! 尚哉が付き合えたのだって俺らのおかげなのにぃ」
「恩知らずな人ねっ」
「ぐっ……」
浪児と真奈美はどこからかハンカチを取り出し、うっうっと泣き真似をはじめる。それを見るなり尚哉はどこか居心地悪そうに眉をしかめた。
今にも効果音が聞こえてきそうだな、と思った。よくアニメで使う『どよーん』って感じの音。誰だよ、電気消したの。ここだけ暗いよ。
半年前、尚哉の猛アタックを受けた私。
それ以上に、真奈美に尚哉のことをしつこく問われ、浪児は浪児で聞く気もなかった『千藤尚哉ニュース』なるものを暇さえあれば吹き込まれ、挙句の果てに体育倉庫や更衣室、教室でいつのまにか二人きり、鍵がかけられるとあれば閉じ込められる始末。
きっと片手じゃ足りないくらい、そういう目に合わされてきた。
私が尚哉と付き合ういきさつには、そういう行き過ぎた『恋のキューピッド作戦』があったわけだ。
あそこまで仕込まれちゃ、誰だって気の毒に思う。同情がすべてというわけではないけれど、確かに二人の貢献は大きい。要は私の方が根負けしたのだ。
でもそれは、私のことを思っているからこそ、でもあるのだけれど。
「ホント、どんだけ協力してあげたと思ってるの!」
「あーあ、あの頃の尚哉はまだこんなにちっこくてかーいらしかったのに」
「親かよ……」
確かに真奈美と浪児はそんじょそこらのバカップルよりバカッぷり発揮してるけど、結婚までしてたなんて聞いてない。バカらしい、と思いつつ小さく言葉にした。
「キミちゃんに告白するーっていったときなんかさ、どもりまくって顔真っ赤にしちゃってねー」
「ねーっ」
「お前等いっぺん死ねよ!」
「えー、心中? ヤダよ、尚哉となんて」
「こっちからも願い下げだああっ!」
尚哉の悲痛な叫びが教室中に響き渡った。いや、学校中に。それを見ながら、この二人に恩を売るような真似はするべきじゃないな、と他人事のように思った。
怒りで顔を赤くした尚哉と目が合って、私は困ったように笑いかけた。
***
「なんでだよ……なんでなんだよー」
悲痛な声が、横から聞こえてくる。
いつもどちらかというと周りを仕切る、笑わせる立場にある尚哉だが、どうにも浪児と真奈美の前だと弱くなってしまうらしい。
おそらく、バカップルパワーに負けているのだろう。あと弱みを握られているからか、とひとりで納得する。
「まぁまぁ、デートは他の日にすればいいじゃん。こだわらなくてもいいし。あの二人だって祝ってくれるっていってるんだし」
何を祝うのか、私にはよく理解できないけれど。
いつもの、いい出せない本音が、伝えるつもりもない本音が、私の頭の中だけでそっと呟いた。
「嵐ぃ、お前かわいーなー……」
「なーにいってんの! ほら、帰ろう」
帰宅部の私は、暇さえあればサッカー部の尚哉が終わるのを待っている。教室で文庫本を読みながら、たまに窓の外に広がるグラウンドを見下ろすと、汗を光らせながら走り回っている姿が映る。
青春、だな。
走っている人を見ながら、尚哉を見ながら、つい私の思考は別のところへ飛んでいってしまう。
私は、走る人を見るのが好きだ。スポーツで汗を流す行為というよりも、ただ走っている人を見るのが、好きなのだ。
そこには迷いがないように見えて、たまに羨ましくもなる。
「あ、ちょっと待って」
尚哉がそういって、足を止めた。私も足を止めて、振り返る。
「なに、忘れ物?」
私がそう尋ねている間に、尚哉はしゃがみ込んだ。何かに手を伸ばしている。それを掴むと、立ち上がり手を開いて中身を見せてくれた。
「これ、嵐のじゃない? いっつもケータイについてるやつ」
「あ、ホントだ! 嘘、やだぁー、ストラップのとこ切れてるっ……」
あぁ、やっぱり。約束は守れないのかな。
ふとそう私にささやかれた。尚哉の前なのに、泣きそうになっている自分に気が付いた。
尚哉から受け取ったそれは、小さな小さなドリームキャッチャー。丸い輪の中にクモの巣のように張り巡らされた糸、ちゃちな羽根、鮮やかな色をしたビーズ。ネイティブインディアンのお守りだというそれは、持っていると悪い夢を捕まえて守ってくれるというのだ。
「そんな気に入ってたんか」
「うん……」
私はくちびるを噛み締め、熱くなってきた目頭をごまかす。それからこれ以上壊れないように丁寧に扱い、スクールバックの中につめ込んだ。
「そっか。でもそれくらいなら治せるだろ」
「まぁね。ありがとう尚哉、拾ってくれて」
「どういたしまして」
にこりと尚哉は人懐っこい笑みを浮かべた。彼が周りに好かれる原因はこれだろう。
切れてしまったストラップ部分は、もともと私が手作りでつけたものだった。ビーズや糸がほつれたらもう私にはどうしようもないだろう。なくさなくて良かった、その事実に心底ほっとする。
私はあわてて尚哉に向かってお礼と笑顔を浮かべる。私が笑ったのを見て安心したのか、尚哉はさらに笑みを深くした。
「じゃあさ、今週の日曜とか、どっかいかない? 土曜が遠征だから休みにしてくれるっつーんだよ」
「へー、私は大丈夫だよ。でも、疲れない?」
「平気平気っ、嵐に会えるからだいじょーぶっ」
「ふふ、わかった。空けとくね」
「おうっ、またメールするよ」
私は尚哉の言葉に笑って返した。もうすぐ駅に着く。そうしたら、そこでお別れ。使う電車の路線から違うのだから、しょうがない。
「あー、楽しみだな」
そういって空を仰ぐ尚哉。本当に嬉しそうに、幸せそうに笑うから、私もつられて嬉しくなる。でもどうしたって、その気持ちは自発的には起こらないのだ。
スクールバッグの中に入れたドリームキャッチャーの影を探す。その存在を確認すると、やはり胸が痛んだ。
「じゃね」
「おー、また明日」
手を振って、お別れ。改札を通り抜けたら、そこから私ひとりの時間へと変わる。
スクールバッグを開け、ドリームキャッチャを出した。ごめん、とは思うけれど、少しだけ安心できた。
この気持ちはもう、他の人では得られない。それだけが確かな事実として私の中にあって、それが何より大切で、そう想い続けていられる私の心が最後の希望で。
まさに藁にも縋る思いってやつだ。
そんな風に思う自分がおかしくて、さみしくて、自嘲した。今はもう、そういう不確かなものにしか頼ることができないのだ。
ただ、私は信じているのだ。信じていたい。約束は守られるためにあって、破るためにはないんだと。
《約束は、なにがあってもまもるから。だから――》
そう。私はそう、信じているのだ。
***
「おはよー、嵐ちゃーん」
「うわ、」
その姿を認めた瞬間、私は思い切り眉を寄せた。
いつも通りといわれればそうなのだが、今日もまた浪児がうしろから手を振って声をかけてくる。
「そんなイヤそーな顔すんなよ。今日は一緒に遊ぶ仲じゃーん」
ぷいっとうしろへ向けていた顔をそむけた。「なんならあんたはいなくていいわよ」
「ひっでーな。生理中かよ」
「だから死ねっていわれんだよ……」
駅まで向かう道の途中、私たちはいつもこの曲がり角あたりで会って、一緒に登校する。約束しているわけではない。もうこれが習慣なのだ。
私と、この横島浪児は、小・中・高とずっと同じ学校に通っている。小学校一年生の時からクラスが一緒になることが多く、気心の知れた仲というやつで、頼りがいのない男友達をしてもらっている。
「で、尚哉はどうなったのー?」
私がぼやいたことなどまるっきり聞き流したようで、浪児はそういいながら肩を少し過ぎたあたりまで伸ばした私の髪の毛をつんつんと引っ張った。
「別に、どうにもなってないけど」
「ふーん。あ、今日は楽しみにしてろよーっ! マナと一日で計画立てたから!」
「一日でいったい何ができるんでしょーねぇ」
「ふっふっふ、お前、甘く見てんじゃねーぞ?」
「はいはい」
楽しそうににししと笑う浪児を横目に私は苦笑いをこぼした。なんだかんだいって浪児といるのは楽しいんだと思いながら、となりを歩く。こうして長く友人関係が続いているだけはある。
ホームで電車を待つ間に、携帯が振動した。メールが来たことを告げられ、受信ボックスを開く。いつも通り、いつもの場所で待っているという尚哉からのメッセージだった。
「あれ、お前、外したの?」
私が手にした携帯電話を見ながら、浪児は不思議そうな声を上げた。
「ん? 何を」
「ほら、あの、ドリームキャッチャーだっけ。もう、いいのか?」
「ああ……」言葉に、詰まった。「いや、昨日ストラップ切れて、直したんだけど、」
左のブレザーのポケットに手を突っ込んだ。そこには、お守りがある。
ねぇ、諦め切れない私は馬鹿なのかな。約束は守られるためにあるんだって、信じている方が馬鹿なのかな。
こんなに不安に思ってるのに、もう一度会えるなんて夢みたいなことだってどこかで理解しているのに、私の安息はもう、ここにしかない。
「なくすの、イヤだから」
手の平を広げ、中にあるものを見つめながらそういうと、浪児は目を細めてそれを見た。それは、睨みつけるような視線だ。
「お前、」
「わかってるよ」浪児がいいかけていたのを無視して、口を開いた。
「わかってるけどさ、」
ちょうどよく、電車が滑り込んできた。私が笑うと、浪児は口を噤んだ。もうそれ以上は何もいわず、視線を逸らせた。私はそれを一度ぎゅっと握ると、また元のポケットの中へ押し込んだ。
願ってることは、いつだってひとつしかない。
いつか、ずっと先の未来でも構わない。いつか会える時が来たら、それはどんなときなんだろう。
電車内は、いつもそれほど混んでいない。一応通勤ラッシュの時間帯ではあるが、大方の人が乗り込むのは反対のホームで、始発から二駅目に位置していることもあり、車両によっては座れることもある。
比較的ゆったりした車内で、私と浪児を取り囲む空気はいつもより固くなっていた。
わかってるよ、私にはもう、尚哉がいるのにね。
流れる景色を見つめながら、上っ面だけの会話をぽつりぽつりと続けた。何かを繋ぎ止めるみたいに、私を夢から離すみたいに、しゃべり続けた。その妙に重たい時間は、電車と同じように止まることなく過ぎた。とても、あっという間とはいえない時間だった。
電車を降りる頃には、すっかり満員電車へと変わっていた。押されながら吐き出されるように車外へ出て、階段を昇った。目の前には浪児の背中があった。
改札を過ぎるとすぐに、真奈美と尚哉が私達二人を待っていた。いつも通りに浪児は甘ったるい声で「マナ」と名前を呼び、私はへらりと尚哉を見て笑った。
いつも通り。そうして過ぎていくはずだった。
「そういえば」
私と浪児の空気は、真奈美と尚哉のおかげですっかり元の、いつも通りのものになった。他の生徒に抜かされたり抜かしたりしながら、ゆっくりしゃべりながら登校する。道は住宅街なので、車が通る心配はあまりない。だから道一杯に広がって、歩いていた。
その中で、尚哉は突然思い出したように話題を変えた。
「どうしたの?」
「ほら、あれ、嵐が持ってるさ、昨日落としたヤツ、あるじゃん」
瞬間、私はドキリとしてポケットを服の上から触った。ドリームキャッチャーのことだ。
「それが、どうしたんだよ」浪児が、若干怒ったようにそういった。怒っていると思うのは多分、私ひとりだろう。
「なんかさー、それとまったく同じのつけてる奴にさ、会ったんだ、昨日。男でさ、ちょっと抜けてるっぽい――」
「どこ、」
「へ?」
「どこで見たの! その人、どんな人だった?」
私は思わず取り乱し、声を荒げた。縋るように、私がお守りに縋ってるみたいに、尚哉の腕を掴んだ。
尚哉も、もちろん真奈美が驚いているのにも気付いていたけれど、そんなことに気を取られているような余裕は、私にはなかった。
「ちょ、どうしたんだよ」
「いいから、どんな人だった? 男っていったよね、ねぇ、どんな――」
「やめろ、嵐」
低い声が、前を歩く浪児から発せられた。ぴしゃりといいかけた言葉を押し返すような威圧的なその声に、私は一瞬口を噤んでしまう。
「でもっ」
「聞いてどうすんだよ! それで、お前に何ができるんだよっ」
「そんなのっ――」
まだわからないじゃない、喉まで出かけて、私はまた口を噤んだ。本当だ、どうするんだろう。第一、同じ物を持ってる人なんてたくさんいるんじゃないか? 私の目で見たわけでもないのに。
それきり私達の間はなんだか気まずくなってしまった。
真奈美や尚哉が何か必死にしゃべっていた気がするけれど、それから後はどんな音も私の頭の中では言語として認識されなかった。ふるわされた空気が私の頭の中を通り抜けていくだけ。
風の音が、する。
ああ、やっぱり、私はバカだ。
「ねぇ、キミちゃん、気にすることないよ。浪児、なんであんなに怒ってんのかわかんないけど」
「いいの、わかってるから」
「キミちゃんっ」
教室についてから、真奈美は心配するように私の後ろから必死でしゃべりかけてきた。私は一度振り返り、笑ってみせた。
「いいんだよ、浪児が正しいんだから」
そういって、私は席についた。私が、夢を見ているのが悪いのだ。わかっている。わかっているけれど。
ブレザーのポケットに手を入れた。丸いそれを、そっと掴んだ。いっそのこと、無くしてしまった方が良かったのかもしれない。
安息なんてもう、どこにも見つからなかった。
***
ホームルームが始まって、ざわめきが遠のいた。それは、架流がいなくなった後に似ていた。急に、周りが冷たくなったような気がした。
授業をする先生の声なんて、欠片も耳に入ってこなかった。
思い出せる限りのすべてを、頭の中に描いた。それはあまりにもあたたかい思い出だったから、痛くて、苦しくて、授業中の教室だったにもかかわらず、私は少しだけ泣いた。
「嵐ぃ! ゴムかしてー」
急に現実に引き戻された気がした、それは昼休みになったときのことだった。
「え?」
「マナが持ってないってゆーんだもん。次体育なんだよー」
けろりとした顔で、浪児が私の机の前にしゃがみ込んで、捨てられた子犬みたいな丸い黒目だけを覗かせた。
呆気にとられた私は、それでも条件反射のようにいつも通りの返事を返した。
「あほ……」
「あらしー、」
「邪魔なら、切ればいいじゃん」
「だーってマナが長い方がかっこいーっていうからっ」
「ああ、もう……ちょっと待って」
あまりにもあっけらかんとしている浪児の態度に、私はすっかり今まで溜め込んでいた鬱屈とした想いから思考を離された。
いつのまにか近くに立って会話の成り行きを心配そうに見守っていた尚哉と真奈美に、私はへらりと笑ってみせた。いい友達と彼氏を持ったな、と思う。だから尚更、私の胸は痛む。
浪児はバカだけど、間違ったことなんていわないし、一途だし、バカっていっても愚かなわけじゃない。朝の言葉だって、私を思ってるからこその発言だってわかっている。
「おっ、紫のゴムだって! ヤダ嵐、欲求不満? 尚哉が頑張らないからー」
「……浪児、あんた喧嘩売りに来たわけ?」
「うわ、ちょ、冗談だって! 嵐、落ち着け!」
やっぱり、ただのバカでいい。きっと浪児を睨みつけた。欲求不満なんてあんたのためにある言葉じゃないか、とこっそり思った。
「もう、」
怒ったように浪児にじゃれついて、心配してくれていたんだと気付いて、そんなやさしさが嬉しくて、声を上げて笑った。
だけど自分の気持ちが周りを裏切り続けていると改めて気付いて、喉が塞がれたみたいに苦しくなった。
***
「今日はね、いつもと違うとこ行くのー」
そういって張り切った様子の真奈美。浪児がいるにもかかわらず、私と手をつないで駅までの道をゆったりと歩く。珍しいこともあるな、とにこにこと笑う真奈美の横顔を見つめた。
もしかしたらまだ、心配してくれているのかもしれない。そう考えたら、なんだか苦しくて、握った手に力を込めた。
「最近できた店だから、開店記念で安くなってんだよー」
「お前ら二人に免じて、今日は俺とマナでおごるし」
「マジ!」
「太っ腹じゃん。どういう風の吹き回し?」
「まあまあ、楽しみにしといてー」
連れて行かれるまま、私はいつも乗らない電車、尚哉や真奈美が使う路線の電車に乗り込んだ。真奈美がいうその店は、どうやら電車で二駅行ったところにあるらしかった。
「できたばっかだからキレイでねー、普段も安いんだけど、今は特に安くしてくれてさ、何より店員さんがかっこいーんだよ!」
「マナたん、そんなこと思ってたからあの店に行こうって、」
「あ、やだー! マナには浪児が一番だよっ」
「へへー、そっかそっか」
おい、そこのバカ二人。頼むから止めろ。聞いてる方が恥ずかしいんだよ。
心の中で二人を毒づく私。呆れた目をしているだろうということが、鏡を見なくてもわかった。できることなら、他人のフリをしたい。けれど、制服ですぐにわかってしまうだろうな、と思った。
周りから蔑んだような、いやなものでも見ているような視線を感じている間に目的の駅に着き、浪児と真奈美の二人を急かすようにして駅前ビルの一角にもぐりこんだ。
そこは真奈美がいっていた通り、外から見てもキレイな店だった。
「ここだよー、さ、入ろっ」
中に入ると店員はおらず、代わりに一組のお客さんがいた。私服で、年上であろうことがうかがえる。カップルで来ているらしいその人たちは、待たされているような雰囲気だった。
「混んでる、かな?」
「ダイジョーブ、予約してるから!」
「へー」
計画立てたって、意外としっかりしてるんだなぁ、と私は関心のまなざしを真奈美へ向けた。さすがだ。仕切り屋な性格は伊達じゃない。
「すいませーん、予約してた伊沢です」
真奈美はカウンターの奥に続く扉の向こうへ呼びかける。そうすると若い男の声で「今行きます」と返された。
間延びした、少し高めの声だった。
バタバタと何かを動かすような音がして、黒い扉は勢いよく開いた。そこに現れたのは、とても色が白い、同い年くらいに見える男の子だった。
キレイな顔をしてる、と思った。背も高いけど、尚哉よりは小さい、だろうか。
「あ、昨日の!」
店員を見るや否や、尚哉は驚いたような声を上げた。その声に店員は尚哉を見て「ああ!」と同じように驚いた表情をして声を上げた。
「あの、昨日はありがとうございました!」
「いえ、別に何もしてないっすから」
二人の親しげな様子に、私も真奈美も浪児もすっかり呆気に取られてしまった。しばらく笑いながら話す二人のやり取りを見つめていたが、その間に浪児が割り込んでいった。
「何、昨日のって? この人、誰」
「あ、朝いったじゃん。嵐と同じの持ってる人いたって。この人なんだけどさ、電車降りるときに携帯落としてったの気がつかなくて、それで俺が渡しにいったんだけど、その時ストラップ同じだーって思って」
「え」
「あら、し?」
どうしよう、言葉がうまく整理できない。まさか、あるわけないんだそんなことは。それは私が、一番わかっていたことじゃないか。
夢を夢だって、理解しているのに。
どうしてこんなに喉が乾くんだろう。体が心臓になったみたいだ。耳元でささやかれてるみたいに心臓が動く音が入ってくる。
私は恐る恐る、尚哉へ向けていた視線を店員に移す。そうすると、彼も同じように私を見ていた。
青みがかった瞳があった。こんな偶然、あるわけない。もしも、そんな空想の世界ですら、こんなこと有り得ない。
だって、私は誰とここに来たの?
「あ、き、君島……嵐、なのか?」
何も、いえない。世界が私たちを取り残して真っ暗闇に包まれたみたいに、私の視界には店員しか映らなかった。
あの、綺麗な碧眼が、色素の薄い茶色の髪が、揺れた。
《約束は、なにがあってもまもるから。だから、アラシ――》
違う、違うんだ。これは、違う。
《しんじて。まっててね》
信じてなかったわけじゃない。
ただ、忘れられたのだと思っていたから。
本当はずっと、待っていたのに。
聞こえない言い訳を、喉の奥で必死に叫んでいた。ひどく、寒かった。
「林架流? お前、架流なのか?」
戸惑ったように、浪児が声を上げた。そうじゃなかったら誰がいるんだ。
体は硬直していても、思考までは固まらなかった。頭の中の私が、訳のわからない言葉を喚いていた。そしてそれを冷静に聞いている私が、いた。
頭の中の私は、必死で首を左右に振っていた。今目の前にあるすべてを、否定するみたいだった。
青い瞳が、私を責めているように見えた。
架流には、ずっと、会いたかったはずなのに。
「ああ、そう……え、お前、もしかして浪児?」
「おう、久しぶり……」
浪児はそわそわと、私の様子を気にしながら店員へ笑顔を向けた。
その笑顔の中のいい難い気まずさが、私には感じ取れた。
どうしてこんなことになっているんだ。誰かがそう叫んでいた。信じていなかったわけじゃないんだと、言い訳する声が聞こえた。
ずっと、特別な人はひとりだけだった。
ひとりしかいなかったし、ひとりしかいらなかった。
「え、三人とも知り合いなの?」
「小学校のとき、ちょっとな」
ひざがふるえた。それはもう、自分ではどうしようもできないものだった。そのふるえはだんだんと私の体を登ってきて、最後には全身ががくがくとして、動けそうになかった。
だけど、
「嵐?」
尚哉が固まっている私の顔をのぞき込もうとする。私はそれに気付くと、弾かれるように店から飛び出した。
もう、どうしようもなかった。私の意思は、私の体を制御できないから。
会いたかった。
会いたくなかった。
嬉しかった。
怖かった。
抱きついてしまいたかった。
名前を呼ばないでほしかった。
見つけて。
見ないで。
矛盾する、苛立ちにも似た想い。
だって私は、忘れられたんじゃなかったの?
闇雲に走る、知らない街中。どこにも行くところなんてないはずなのに、どこかへ行きたくて。目的なんてないのに、どこかへ向かっていた。
見られたくなかった。尚哉といるところは。
だってそれは、少なくとも私にとって、裏切りだったから。
待っていると、あの日確かに誓ったはずだった。
元から知らない町を、来た道もわからなくなるまでめちゃくちゃに走った。そのことに気付いて、私はやっと足を止めた。通り過ぎていく人もだんだんと少なくなっていた。
どこか、住宅街に紛れ込んでしまったようだった。右を見ても、左を見ても、覚えのある景色はない。
そこで、私は少しだけ涙を流した。
やっと泣けた、と思った。
それからしばらく、とぼとぼと一人で歩いた。たまに、走り去っていく小学生や自転車に乗ったおばさんとすれ違った。そうして私は、目に付いた公園へ入った。
そこの公園は、意外に広いところだった。見たことのない大きなアスレチックが並び、道はコンクリートで整備され、ベンチがぽつりぽつりとある。
私は泣いたせいからか、渇いてしまった喉をうるおすために、目に付いた自販機でミルクティーを買った。あたたかい方だ。そのまま、公園の端に位置する屋根のあるベンチへ腰をおろした。
ここはどこだろう。どうやって帰ろう。
怯える自分をごまかそうと、頭の中で必死にそんな言葉を並べ立てた。けれど本当はそんなことどうだってよくて、ちらほらと見える楽しそうに走り回っている子供の姿を見ていたら、思い出さないわけにはいかなくなった。
架流は足が速かったな、と思った。
洋館へ行った日のことを、私が架流しか目に入らなくなった日のことを、思い出した。
ドリームキャッチャーに碧眼。私の安息があった、場所。
こんな私には、信じているといったのに尚哉の告白を受け入れた私には、待っていたということなんて、できるのだろうか。そんな風に伝える権利は、私にあるのだろうか。
ドリームキャッチャーに触れるたびに、奇妙な安息感を得られた。
架流がくれたそれは、ずっと私のお守りだった。ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
あの不思議な温かさなんて、そこにはもうなかった。思い出すほど、胸が痛んだ。枯れたと思ったのに、やっぱり涙は溢れた。
果たされない約束は、二つあった。
ひとつは、ずっと未来の話。
もうひとつは、その未来まで私たちを繋ぐもの。
不思議と私はそれを、その約束を、疑うような気持ちなんて少しもなかった。
周りの大人から見たら、どうせいつか忘れる子供の些細な約束だったのだろうけれど、そんな風に不安に思うことなんて少しもなかった。
私が架流のことを忘れることなんて、不可能なことだと思った。
《アラシを、ワルいユメからまもってくれますように。おまもりだよ》
褪せて、掠れて、擦り切れていく思い出。
その中で唯一形を保ってきた、むしろもっと大きく膨らみ続けてきたのは、私が架流を好きだという気持ちだけだ。
甘いはずのミルクティーは、なぜか口に含むたびしょっぱくなっていった。
飲みかけのまま、右側に缶を置いた。狭いベンチの上で、膝を抱き寄せる。なにかを抱き締めていないと、不安で仕方なかった。
「かけ、る……かける、」
縋るように、小さく名前を呟いた。
暴れ出した感情を押さえるみたいに小さく小さく縮こまって、それでも溢れる想いを誤魔化すように、名前を呟いた。
もし、もう一度会えたらそのときは、いいたいことがたくさんあった。
たとえ架流が忘れていたって、笑顔で話がしたいって、本気でそう思っていたのだ。
それなのに、会いたくてたまらなかったはずなのに、私は逃げ出した。
名前、呼んでくれた。
覚えていてくれた。
もしかしたら架流も、忘れないでいてくれたのかもしれない。それなのに、私は。
拒絶が怖かったから。約束も私もすべて、忘れられていたらと思うと、手紙が来なくなった理由を知るのが、怖かった。
私にとって何より大切なことを、否定されたら生きていけないと思った。私にとっての架流はずっとあの頃のままだから。
どれくらいだかはわからなかったが、しばらくそうしてひたすら自問自答を繰り返していた。わからなくなるまで、ずっと。その間に、三回は携帯電話がなった。そのどれもを鬱陶しく感じて、三回目の着信が鳴っている中、私は携帯電話の電源を切った。
あたりは、とても静かだった。
まるで、あの洋館に閉じ込められたときみたいだ、と思った。静かで、寒くて、どこか遠くで葉がこすれる音がさわさわと耳に届く。
ひとりじゃなかったから、架流が一緒にいたから、怖くなかった。
架流がいないところは皆、悪い夢の中みたいだった。だけどお守りが、約束があったから、私と架流を繋ぐものがあったから、いつだって救われていた。いつだって、私の中に架流がいた。そのことに嘘はないのに。
それなのに、どうして私は、彼氏にする人まで流されて決めてしまったんだろう。
「あーらしっ」
ぐっと足首が掴まれて、すとんと地に足をつけた。急に視界がはっきりして、目の前に立っている人が顔を覗き込んでくる。
顔を隠そうと思ったけれど、腕はそのまま取られた。
「どした、嵐。電話出ないって、浪児たちが心配してた」
「か、ける」
「ん?」
にこりと笑った顔が、なんでか悲しそうだったから、また泣きたくなってしまった。
変わらずに、あの頃と変わらない距離で、そこに架流がいる。それだけで、泣きたくなった。
「ごめん、ごめんね、私、」
謝罪の後の言葉が続かなかった。それはもう、意味のないものかもしれなかったからだ。
私がそうだったように、架流だって他の誰かを見ているのかもしれない。私たちの約束は、所詮子供の夢で。
「……最初に約束を破ったのは、俺だよね」
目を逸らせない、伏せた目がさみしげに揺れた。私は、この人に哀しんでほしくない。
「ごめん……嵐」
約束は、守るといってくれた。けれどそれは、途中で途絶えた。来なくなった手紙、変わった住所。もう一度会えるといった、不確定な未来の約束。私にとってすべてだった。架流は絶対だったから。
だからこうしてあの場で会えたことは、もしかしたら必然だったのかもしれない。約束を守るための。
泣かないで、そう思ったときには私の目から涙が流れていた。すっと伸びた架流の指が涙を拭う。
「尚哉くん、呼ぼうか」
「――っ、いいっ」
「嵐?」
離れていこうとした腕を咄嗟に掴んだ。架流が驚いて目を見開いた。
私は架流じゃないとダメなんだと思う。それは魔法みたいで、今もまだとけないまま。
「カケルが、いい。でも……あ、会えないって、みんないうから……っ」
「あらし……」
「ごめんなさぃ」
他の誰とも、やはり違うのだ。どこか残っていた。思い出ではなく、生きていた。私の中で、ずっと。
「とりあえず……行こうか。みんな心配してる」
「カケルは?」
立ち上がることを促すように手を引っ張られた。けれど拒むように振り払ってしまう。
「カケルも、いる?」
「いるよ、一緒に」
架流が笑ってくれる。私はそれにどうしようもなく、ただ安堵した。
今だけでも、いい。この腕を、掴めるなら。
「じゃあ、行こう」
行こう、差し出された手。ぐしぐしと目をこすって、もう一度その手を確認した。それはやっぱり、私へ向けられていた。
それが、ただただ嬉しかった。その事実が、嬉しかった。迷わず、その手を掴んだ。消えなかった、あたたかかった。
この安息は、もう他の誰であろうと得られない。
この幸福感は、架流が側にいてくれるからあるのだ。
今だけでも、かまわない。私と架流の今が確かにあって、繋いでくれている。それだけで、十分だと思った。
夢でも幻覚でもない、これは確かな現実だ。
夜がかすかに輝きはじめた。
=END=