遅すぎる初恋(著者 エイノ)
「はぁ……」
毎年バレンタインが近付くと、体の底から魂が抜け落ちるくらいの溜め息が出る。何故なら、その日は皮肉にも私の誕生日でもある。
誰に渡すでもない……甘いチョコレートは、私の胃袋に収まる予定だ。
これで二度目――つまり、高校生活で二年間同じことを繰り返そうとしているのだ。
◇◇◇◇◇◇
私は人付き合いがあまり得意じゃなく存在感が薄かったせいか、彼氏どころか友達も少なかった。その辺の自覚はあったが、自分を正当化するために“敢えて人と関わりを持たない人種”なんだと決めつけ、勉強に打ち込んだ。
見た目も眼鏡に黒髪のおさげ。典型的なガリ勉である私は、周りから見ればキモい女だと思われていたかも知れない。
そんな私にも唯一の楽しみがあった。
放課後、校庭の片隅のベンチで読書をしながら、陸上部の片平先輩の練習を見ることだ。
勿論、話したこともなければ、目を合わせたこともない。完全に私の片想いだ。
片平先輩には可愛い彼女がいたし、仮に彼女がいないにしても、私には不釣り合いだと思っていた。
たとえ片平先輩に告白しても、断られるのは明白であったし、この想いは一生告げることなどない――そう思っていた。
◇◇◇◇◇◇
秋も深まり、学園祭の季節がやって来た。
私は人見知りを克服しようと、実行委員会に立候補した。実行委員会と言っても裏方の雑用が主で、地味な私にはピッタリだった。
学園祭当日、私は準備のため三十分早く家を出た。人通りの少ない通学路は新鮮に思えて、気持ちは高ぶった。
『あの路地を曲がれば学校が見えてくる』
そんな矢先、車と何かがぶつかる衝撃音が鼓膜を貫いた。
恐る恐る衝撃音のした場所に近付くと、跳ねた車は逃走し、見覚えのある自転車の車輪が空を切り横たわっていた。
そして、路肩にはウチの学校の制服を着た男子が踞っている。
片平先輩だ――
意識はあるものの、右足からは大量の血が溢れ出ていた。
「誰か! 誰かいませんか? 救急車を呼んでください!」
私は産まれて初めて、腹の底から叫ぶように声を張り上げた。
「これは大変だ。今すぐ救急車を呼ぼう」
泣き叫ぶ私の声に反応をくれた通りすがりの男性は、迅速な対応で救急車を呼んでくれた。
「片平先輩! しっかりしてください」
耳元にそう叫ぶが、片平先輩は虚ろな表情で空を見上げていた。
永遠とも呼べる救急車到着までの時間――不本意ながら、片平先輩との関わりを嬉しく思える自分を疎ましくさえ思った。
やがて到着した救急車に、私は学園祭のことを忘れ、夢中で乗り込み片平先輩の無事を祈った。
病院へ到着すると、私は医者に呼ばれた。
「彼女さんですか?」
彼女という心地好い響き……一瞬戸惑いながらも、首を縦に振り「いえ、同じ学校の者です」と、だけ伝えた。
医者はそれ以上何も語らず、私を部屋から追い出した。当然と言えば当然だが、何だか虚しさだけが心に刻まれた。
病室へ入ると、右足に包帯を巻かれた片平先輩が私に言った。
「世話になったな。えっと……名前は?」
私の名前を知らなくて当然だが、少しショックだったのには間違いない。
いつものように溜め息をついて、私は名乗った。
「二年の水沢……水沢加奈です。足……大丈夫ですか?」
「痛いけど、何とか……」
皮肉にも、これが片平先輩と初めての会話だった。
「これ以上居たら、彼女さんに誤解されますよね? 私、行きます」
片平先輩ともっと会話したかったが、気持ちを抑え病室を後にした。内心、『引き留めてくれるかも?』と、期待はしたが、それはなかった。
◇◇◇◇◇◇
学園祭も無事終え、二日後片平先輩が入院する病院へと赴いた。
病室へ向かう途中、片平先輩の彼女が勢いよく出ていった。私は挨拶する間もなく、その後ろ姿を見送った。
その行為に疑問を抱いたが、見舞いの花束を抱え直し病室へと入った。
「失礼します。片平先輩、調子はどうですか?」
私は彼女のことに触れず、気さくに話し掛けた。片平先輩は、右足を擦りながらベットから体を起こし口角を上げた。
「あぁ、君か。この前はどうも」
普段と変わりのない様子に安堵の表情を浮かべた瞬間、片平先輩は続けて話し始めた。
「彼女に振られたよ……。走れない俺に興味はないんだとよ。俺……足を切断しなくちゃいけないんだ……」
溢れんばかりの涙を目に浮かべながら、片平先輩は窓の外を見つめた。
「…………」
私は返す言葉もなく、花束を花瓶にさした。
これが、あの時医者が伝えようとしたこと……。あまりに受け止められない現実――
私はその場の空気が重くて、一礼して病室を去った。
様々な感情が目まぐるしく脳裏を駆け巡り、気持ちの整理がついた一週間後、また片平先輩のもとを訪れた。
なんて言葉を掛けよう――
病室のドアを開けずあれこれと考えていると、背後から優しい声が私を呼んだ。
「水沢……さん?」
そこには右足を失い、車椅子に乗った片平先輩がいた。
「また来てくれたんだ。この前は取り乱してごめん。見てくれ、右足を切断したんだ」
辛いはずなのに笑顔で切り出す片平先輩を見て、胸が苦しくなった。
胃の中の内容物を、吐き出してしまいそうなほどの圧迫感――意識を他に移さないと溢れそうな涙。
私はそこから逃避するように、花瓶に手を掛けた。
「花……新しいのに替えますね」
手際よく花瓶を洗い、新しい花をさす。こんな形でも、憧れの片平先輩といれるだけで私は幸せだった。
この時が、ずっと続けばいいなと思っていた――
それからは毎日見舞いに訪れ、互いに打ち解けるようになっていった。
『早く元気になってもらいたい』
その一心で、尽くしたのが良くなかったのかもしれない――
放課後、いつものように病室を訪れ花瓶に花をさすと、片平先輩は冷めた声で呟いた。
「ごめん……今日は帰ってくれないか?」
「えっ? 何で? 今……来たばっかりだよ」
私は思わず感情的に言葉を返した。
「重いんだよ……毎日毎日。彼女面するんじゃねぇよ!」
「私、そういうつもりじゃ……」
そう返すと、片平先輩の頬に一筋の涙が流れていた。
確かに私は片平先輩の彼女じゃない――否定もできず私は病室を後にした。
◇◇◇◇◇◇
季節が変わっても、片平先輩が学校に来ることはなかった。
それから数年の月日が流れ、社会人になり、片平先輩のことも忘れかけていたある日のこと。街中で、車椅子を脱輪させ転倒している男性を見掛けた。
無精髭をはやし、頬がこけていたが、紛れもなく片平先輩だった。
私は迷うことなく、そっと手を差し伸べた。
「すみません……」
弱々しい声を私に返す。
「片平先輩ですよね? 私……水沢です」
「あぁ、水沢さん。久し振り……また助けられちゃったね」
私は車椅子を押しながら、あの日のことに触れた。
「あの時はすみません。勝手なことして……迷惑でしたよね?」
「いや、悪いのは俺の方だ。何もかもイヤになって、君に八つ当たりしたんだ。ごめん……そうだ、ウチに寄っていかないか? 御礼がしたい」
私は『はい』とだけ伝えると、無言で車椅子を押した。
何も求めてはいけない――気持ちの何処かにある片平先輩への想いを押し殺して――
◇◇◇◇◇◇
それからまたあの時のように、ちょくちょく連絡を取り合うようになった。
しかし、あの時のことがトラウマとなり、一歩踏み出せず悪戯に時間だけが過ぎていった。
『このままでいい。もう傷付くのはイヤだ』
私は呪文のように何度も唱えた。
そして、私が二十四歳の誕生日を迎える日……つまり、バレンタインディ。珍しく、片平先輩から誘いの電話があった。
「湖が見たい。連れて行ってくれないか?」
私は二つ返事で、片平先輩を迎えに行った。
湖に向かう途中の車内では、何処かよそよそしい感じ。兎に角、会話はどうでもいいものばかりで、途切れ続かなかった。
「着いたよ」
何処までも広がる水面は透明感があり、心が癒される。
「懐かしいな……ここでよく自主連したんだ」
「ふ~ん」
私の知らない過去に、少し膨れっ面になる。
暫し静寂が辺りを包み込み、片平先輩は目を細めた。
「渡したいものがある」
そう言うと、ポケットから小さな箱を取り出した。
「そんなにいいもんじゃないか、チョコの代わりに受け取ってくれないか?」
照れ臭そうに差し出した箱の中身は、眩く光る指輪だった。
「先輩……それって……」
片平先輩は小さく頷いた。
「こんな俺で苦労を掛けるけど、結婚してくれないか?」
私は両手で、涙でぐちゃぐちゃになった顔を塞ぎながら言った。
「はい……」
諦めていた私の初恋……苦い思いもしたけど、やっと……やっと前に進めた。
前向きに生きていけるようになった片平先輩を、心から応援しよう……そう誓った。
やっと掴んだ結婚生活は、一筋縄ではいかなかったけど、夫は今頑張っている。
もう一度陸上を始めたのだ。
義足をつけて走るのは苦労もあったけど、二年後のパラリンピックを見据えて、夫婦二人三脚で歩き出した。
地味な私は地味なりに、縁の下の力持ちになればいい――尽くすことが私の生き方なのだから……。