イブの妄想 はじめまして、一子ちゃんの弟です
「イブの妄想」は、「小説家になろう」のほうで連載していたもので、短編のほうはそのシリーズの続編になります。登場人物の詳しい関係は、本編の第一話を読んでいただけたらわかりやすいかと思います。みんなからイブと呼ばれて愛されている高校二年生の相田伊吹君は、たくさんの友人たちに囲まれて、なぜだかいつもまわりを大変なめにあわせるというお話しです。
「一子ちゃん、本田さんのお宅に持っていく手みやげ、ほんとにこれでよかったのかしら。もっと高価なもののほうがよかったんじゃないかしら」
宝子は何度も言ったことをまた繰り返した。本田青年の両親に会いに行く一子よりずっと緊張している。
「それでだいじょうぶよママ。透さんから、あちらのお父様はお酒を飲まないって聞いているから、甘いものでいいでしょう。透さんもそのほうが喜ぶっていっているし」
一子も何度も同じことを繰り返している。一見いつものようにおっとりしているように見えるが、宝子と同じような会話を繰り返していることに気づかないということは、一子もやはり本田家訪問に緊張しているのだろう。宝子は一子のピンクのスーツの襟元に真珠のネックレスをつけてやってから、一歩下がってうっとりと長女を見つめた。
「一子ちゃん、とってもきれいよ。きっとあちらのご両親にも気に入ってもらえるわ」
「そうだといいんだけど。でも、透さんのお父様とお母様だから、きっといいかたたちだと思うの。透さんも一緒だし、心配しないでママ」
「一子ちゃん。なんてけなげなのかしら」
宝子は感極まったように一子を抱きしめた。
その様子を、ソファで伊吹と万作と三子が無言で眺めていた。二女の二子は先ほど店に出勤していったのでここにはいない。
三女の三子がこそっと隣の万作に顔を寄せた。
「な、万作。彼氏の家に行くのって、そんなに大変なことなのか?」
「まあな、そうなんだろうな」
「だけど、二子なんか、平気で肇の親のところにいって、台所からほしいものなんかあるともらってくるぞ」
「二子はちゃっかりしているからな。でも、一子はおとなしいから」
ふたりのこそこそ話しなど耳から抜けていくような顔つきの伊吹の目つきが変わりはじめた。
――だめだ、油断できないぞ。いくら本田さんが好青年でも、両親まで好両親とは限らない。どうやら一子ちゃんは本田さんと結婚するつもりでいるらしいけど――。
「イブ、つもりじゃなくて、正式に本田さんからプロポーズされてお受けしたんだから、一子は本田さんと結婚するんだよ。きょうは、あちらのご両親に会いに行くんだ」
万作が注釈を入れても伊吹の耳は外界の音をシャットアウトしている。
――本田さんのパパとママの人柄しだいでは一子ちゃんをお嫁にいかせるわけにはいかない。一子ちゃんはおとなしくて優しくて気が弱くて、ちょっと優柔不断なところがあるから、言いたいこともいえないような女の子なんだ。以前も勢実真とのデートを断りきれなくてぼくがついていって、なんとか丸く納めたことがあったぐらいなんだ。こんどだって、なんとなく雰囲気に流されて、本田さんのことをそれほど好きでもないのに、愛しちゃってると思いこんじゃったりして、結婚の妄想をふくらませているだけなんだとおもう。
すっかりその気になって本田さんの恋人気取りで向こうの実家に行ったりして、本田さんといちゃいちゃしたりしたら、赤っ恥をかくのは一子ちゃんだ。そんなかわいそうなことをさせるわけにはいかない。長男のぼくとしては心配で見ていられない。
本田さんのパパとママの性格が、猫をかぶった意地悪ババアとジジイだったりして、一子ちゃんを見て間抜けなお人好しだから、息子と結婚させて、女中代わりに一生こき使ってやろうとたくらんだりするかもしれないじゃないか。
嫁にきたからには、贅沢はさせませんといって、化粧品も買ってもらえなくて、お肌なんてぼろぼろで、美容室にも行かせてもらえないから髪はガバガバの延び放題で、温水はお金がかかるといって真冬の冷たい水で台所をさせられて、指も手の甲もあかぎれだらけの血だらけで、食事も家族の残り物だから栄養失調で痩せこけて、ああ! なんてかわいそうな一子ちゃん。
結婚は女の人生の墓場だってしっかり教えてやらなくちゃ!
一子ちゃんの一人ぐらい、ぼくがブラジルの金山に働きに行って、一生面倒見てあげるよ。だから、結婚したらだめだ、一子ちゃん! ――。
「あいかわらずバカだな、イブは。泣いてるよ。あはは」
伊吹の妄想を横で聞いていた三子が笑った。
「自分の弟をそんなふうに笑うな、三子。イブは真剣に一子のことを思っているんだ」
三子と万作の会話に一子と宝子が顔を見合わせた。
「わたし……」
と、一子がつぶやいてから言葉を続けた。
「行くのやめようかしら……」
「はあ?」
宝子と万作と三子が同時に声を上げた。
「だって、イブちゃんの独り言を聞いていたら、だんだん不安になってきちゃって」
「いや、それは一子」
万作はあわててソファから立ち上がった。
「イブの独り言を真に受けるやつがいるかよ。相手はイブだぞ」
三子もソファから立ち上がってわめく。宝子がおろおろしだした。
「イブちゃんがブラジルに行くって、ほんとなの。ブラジルの金山で働くって、ほんと。そんな大事なこと、ママやパパにも相談しないで、一人で勝手に決めちゃうなんて! ブラジルって、金山なんてあるの? イブちゃんでも働けるのかしら」
伊吹は垂れてきた鼻水を拭くためにティッシュをとって盛大に鼻をかんだ。
「ああすっきりした。一子ちゃん、さ、出かけようか」
ティッシュをぽんとゴミ箱に放って伊吹が立ち上がった。
「行こうって、なに?」
不安そうに一子が伊吹に問いかけると、伊吹は力強くうなずいた。
「ぼくがついていってあげるよ。パパが単身赴任で一生帰ってこないから、パパの代わりに長男のぼくが一子ちゃんに付き添ってあげるよ。ぼくにまかせて。本田さんのパパとママがいい人かどうか、ぼくが確かめてあげるから」
「イブは行かなくていい」
万作が素早く伊吹の腕を掴んだ。
「イブは留守番していろ。大人のことに子供が出しゃばるんじゃない」
三子も伊吹のズボンのベルトを掴む。
「イブちゃん、ママとおいしいおやつを食べましょう。そして、ブラジルのお話を詳しくきかせてちょうだい」
宝子は冷蔵庫にとんでいって、急いで手作りのチーズケーキを取り出した。
「そうしようかしら」
一子がつぶやいた。宝子も万作も三子も、瞬間動きを止めた。
「イブちゃんにも行ってもらうわ。行きましょう」
「うん、行こう! 一子ちゃん」と伊吹。
「一子ちゃん、アタマ、大丈夫か」
三子の目がまん丸になっている。
「アタマはしっかりしています。イブちゃんの存在を軽く見ていたわけじゃなかったんだけど、この際だからイブちゃんをあちらのご両親に紹介しておいたほうがいいかもしれないわ。ありのままのイブちゃんを見ていただいて、それでだめだったら、本田さんとのことはあきらめるわ。なんといっても、わたしのためにブラジルの金山で働いて面倒見てくれるっていってくれてる、たいせつな弟なんだから」
一子は愛おしそうに伊吹を見つめた。
「やめなよ一子ちゃん。イブはふつうじゃないんだから」
三子がたまりかねて悲鳴のような声を出した。しかし、意外と頑固なところのある一子は、伊吹に支度をさせて、本当に出かけてしまった。
「万作、あとをついて行けよ。心配だよ」
三子が盛んに万作を突つくが、さすがに万作も一子がいるのにそこまでできない。いっぽう一子のほうは、ご機嫌で鼻歌を歌って歩いている伊吹の横で、にこにこしながら駅に向かったのだった。
待ち合わせをした駅で本田青年と会ったとき、本田青年は「あれ?」というような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「やあ、伊吹君。一緒にきたんだ」
「うん。本田さんのパパとママがどういう人か、ぼくがちゃんと見てあげないとね」
えらそうな伊吹の態度に腹を立てることもなく、本田青年は笑っている。
「ごめんなさいね透さん。イブちゃんが心配するものだから、つれてきちゃったの。あちらのお父様とお母様に電話していただけないかしら。ご迷惑でしょうけど、お願いします」
「ぜんぜん迷惑じゃないよ。きっと親父もお袋も喜ぶよ」
そういうと本田青年は、横を向いて携帯電話を取り出した。
「あ、母さん、僕だけど、伊吹君も一緒に行くからね。一時間ぐらいでそっちにつくよ。伊吹君の好きなもの? ちょっと待ってね」
電話を耳から離して、本田青年が伊吹に振り向いた。
「伊吹君はなにが好きかきいているよ。和食とか洋食とか、デザートは和菓子がいいかケーキがいいか、どうする?」
「どうぞお気遣いなくとおっしゃってください。イブちゃんは何でも食べますから」
あわてて一子がいった。
「そうそう、ぼくはなんでも食べるよ。お昼は特上のお寿司でしょう。デザートはイチゴがいっぱいのショートケーキを二個かな」
本田青年が、笑いながらそのまま電話の向こうに伝えた。しきりに恐縮する一子とご機嫌な息吹をつれて、本田青年は改札をくぐった。
JRと私鉄を乗り継いで降り立った駅は、閑静なベッドタウンだった。駅前は飲食店が入っているテナントビルや大型スーパーや、広い駐車場をそなえたホームセンターなどが並んでいて、車の流れとともに歩道も人でにぎわっている。しかし、ちょっと駅を離れると戸建ての住宅が広がっていた。
このあたりは東京に出るにしても海老名のほうに出るにしても便利な地の利で、土地開発業者が十年くらい前から宅地開発していた。
「来るたびに駅前の感じが変わっているなあ」
本田青年が駅前を眺めながらいった。
「僕のところは、祖祖父の時代からここに住み着いているから、家なんか古びているけど、まわりはピカピカの庭付き住宅ばかりになっちゃったよ。さ、こっちだよ。歩いて七、八分というところかな」
ブックオフの看板がかかっている大きなビルを回り込んで少し行くと、もとから住んでいる人と、新しく住みはじめた人の家が混在しはじめた。本田青年の実家は、コンビニと酒屋が並んでいる路地を左に曲がった先にあった。青木の生け垣を巡らせた広い庭の平屋の家で、門扉はいまどきめずらしい屋根のついた観音開きの木の扉だ。門柱にかかっている表札は、墨あとも薄くなって、美しい木目が浮き出ている。手入れはよくされていると見えて、本田青年が観音開きの門扉の片側に手をかけて押すと、軋み音もなく開いた。
門から家の玄関まで天然石の踏み石が並んでいる。右手は勝手口になっているようで物干し棹に洗濯物がかかっていた。左側には縁側があって、縁側のそばには木の台を三列並べて、みごとな盆栽がたくさん置かれていた。
玄関に続く敷石を踏みながら、一子は緊張して思わず伊吹の手を握った。
「イブちゃん、おりこうにしてね。ここは透さんのお家だからね」
「わかってるよ一子ちゃん。ぼくは子供じゃないんだよ。いやだな、もう」
伊吹は一子の手をふりほどいた。木の格子戸にベルを取り付けた引き戸の玄関を開けると、取り付けてある金属のベルが澄んだ音をたてた。その音を聞きつけて、本田青年が声をかけるより早く奥の廊下から声がした。
「いらっしゃい、待ってたのよ」
本田青年の母親の房子が、自分とよく似た体型のころらっとした犬を抱いて小走りで現れた。鼻のつぶれたドングリ目玉のパグ犬は、鼻炎のようなせわしない息づかいで舌をひらひらさせている。
「ようポチャ子、元気だったか」
本田青年が犬の頭をなでてやったらポチャ子が房子の腕の中で短いしっぽをせわしなく振った。
「さ、あがってちょうだい。お父さんが首を長くして待っていたのよ」
「おばさん、初めまして。相田伊吹です。一子ちゃんの弟です」
「まあ、こちらこそ初めまして。透の母の房子です。なんてきちんとした弟さんなんでしょう。さあ、あがってくださいな。一子さんもどうぞ」
「あ、はい。おじゃまします」
物怖じせずに、しっかり挨拶した伊吹に驚きながら、一子はかすかな焦りとともに靴を脱いだ。一子が玄関にあがったときには、すでに伊吹が房子にべったりくっついて、ポチャ子をいじくりまわしていた。房子が楽しげに笑い転げている。一子と透は顔を見合わせてしまった。
床の間つきの座敷には、透の父親の明と祖父のそぼ男と祖母のそぼ子が座卓について待っていた。一子は敷居をまたいですぐのところに正座して、折り目正しく畳に指をついて頭を下げた。その横に透も正座する。伊吹はどこかと思って、頭を下げたまま目だけで探すと、そぼ男とそぼ子のあいだにちゃっかり座ってポチャ子を膝に抱き上げてなでまわている。
「はじめまして。相田一子ともうします。このたびは、弟までおじゃまして、申し訳ございません」
「そのこがいつも話している伊吹君だよ。特殊な才能があって、僕も助けられているんだ」
一子が挨拶して透が言葉を添えた。とにかく、そんなところにいないでこちらにきなさいとみんなからいわれて、一子と透は並んで座卓についた。房子が盆でお茶をはこんできた。
「おばさん、ぼく、お手伝いするよ」
ポチャ子を放りだして伊吹が房子のそばにかけよった。
「イブちゃん」
一子はつい大きな声を出しそうになって口を押さえた。
「伊吹くんはお家でもおてつだいしてるのかい」
透の父親の明が訊いてくる。
「してないよ。ぼくが何かしようとすると、ママがしなくていいっていうんだ」
そういいながら茶托にのった湯呑み茶碗を両手に持って、そろそろと祖父のそぼ男のところに運んでいく。
「まず最初はおじいちゃんからだよね。年長者が一番えらいんだからね。次がおばあちゃんだよね」
そぼ男とそぼ子がうれしそうに笑った。
「こぼすなよ、伊吹ちゃん」
そぼ男がにこにこしながら声をかける。
「うん。大丈夫。だってぼく、高校二年生なんだからさ」
「へええ、伊吹ちゃんは高校二年生だったのかい。おばあちゃんは中学二年生かと思ったよ。かわいい高校生だねえ」
「一人前の男の子がかわいいなんて、それ、ほめてないよ」
伊吹が言い返すと一子が身をすくめた。助けを求めるように透に視線を送る。透が一つ咳払いした。
「ええと、父さん、母さん。僕たち、結婚」
明と房子とそぼ男とそぼ子が、ぱっと若い二人に振り向いた。
「あ、ぼく、このお菓子大好き。おじいちゃんのぶんももらっていい? ポチャ子にあげるんだ」
大事なときに伊吹のあっけらかんとした声がさえぎった。
「ポチャ子に甘いものはだめだよ。太りすぎだから」
そぼ男が自分のお菓子を伊吹にわたしながらそういうと、房子がきりっと眉をつり上げた。
「おじいちゃん。わたしがわるいんじゃありませんからね。ポチャ子には動物病院の先生の指導どおりにご飯を与えています。隠れてこっそりおやつを与えているのはおばあちゃんでしょ。ちゃんと知っているんですからね」
そぼ子が顔をしかめた。
「また房子さんはそういうことをいう。たまにじゃありませんか。ちょっとしかご飯をあげないから、ポチャ子はいつもおなかをすかせていて、かわいそうでしかたがないんですよ」
「犬は痩せていていいんです。太らしたら、早死にしちゃうんですよ」
「おや、だから房子さんのお料理はいつも高カロリーなものばかりなんですね。わたしたち年寄りを太らせようと思って」
「お魚を出せば、年寄りだってお肉を食べたいとおっしゃったのはどこのどなたでしたっけ! 人の苦労もしらないで」
「ポチャ子、散歩にでもいくか」
そぼ男がよっこらしょと立ち上がった。
「あ、お父さん、つきあいますよ」
明も立ち上がる。
「そんな、父さん。じいちゃん」
本田青年も腰を浮かせた。
「わあい、散歩、散歩、ポチャ子と散歩」
伊吹も立ち上がって踊り出す。ポチャ子がころころした体で盛んに跳ねてしっぽを振った。
「さあ、男どもはみんなでポチャ子の散歩に行くとしよう。ポチャ子がいてよかったなあ。ポチャ子は家庭円満の神様だな、なあポチャコ」
そぼ男がおおきな声でいいながらポチャ子をつれて庭に降りていく。明もそぼ男のあとに続いて縁側から外に出た。伊吹は素早く玄関に回って外に飛び出していく。
「あ、伊吹君もいっちゃうの」
本田青年が情けない顔をした。
「透、きいておくれよ。あんたの母さんたらね、わたしが年寄りだとおもって、食べ物なんか病院食みたいに、なんでもかんでもごったまぜにしてドロドロに煮込んで出すんだよ。これに栄養が全部入っているから、食べる流動食だとか、いっちゃってさ」と、そぼ子が透ににじり寄ってくる。
「そんなお料理、だしたことありませんよ。知らない人がきいたら本気にするじゃないですか。今日は透が大切な人を連れてくる日だから、おじいちゃんとおばあちゃんは、福祉のデイサービスに行っててくださいってお願いしたのに二人とも、透の結婚する相手の人をどうしても見たいというから我慢したのに、これじゃあダメだわ。もう嫌われる。透が何人娘さんを連れてきても、おじいちゃんとおばあちゃんにじゃまされて逃げられてしまうんだわ」
うわあーん、と房子が泣き出した。
「そんなに年寄りがじゃまかい。くやしいねえ。苦労して、人様には迷惑をかけないように、必死で生きてきたというのに、最後の最後でこんな惨めな思いをしなくちゃならないなんてさ。そうでしょ、一子さん」
味方しろというようにそぼ子に睨まれて、一子は腰が引けた。
「あの、わたしも、ポチャ子のところに行ってみます。イブちゃんのことも気になりますし」
「僕も行くよ」
「ええ」
二人はそそくさと逃げ出した。
「透」
「一子さん」
房子とそぼ子の声が追いかけてきたが、二人は手をつないで庭をかけだしていた。
「おどろいただろ」
「少しね。でも、うちのイブちゃんのほうが、もっとすごいかも」
見つめあう若い二人の未来は、限りなくバラ色だった。
はじめまして。一子ちゃんの弟です 完