1.二人の生活
十九世紀のヨーロッパ。ある国のとある地方は、まわりを山に囲まれた、夏でも比較的涼しい所だ。
畑を耕している人もいるが、もっぱら盛んなのは畜産だ。特に羊は、この村の人口の三、四倍の数で、人々はそれらの毛皮や肉をとって他の地方と交易することで生計を立てている。
「マロンッ! はぐれてる羊をこっちへ!」
この地方の一番高い山のふもとで羊飼いをやっているのは、コーギーという少年だ。十五歳ながら、急逝した両親の後を継いでいる。
彼の指示通りに、コーギー犬のマロンが元気よく、小屋の方へ羊を誘導している。マロンはコーギーの一番の相棒で、どちらかが欠けると、この仕事は成り立たない。
「よし、今日の仕事は終わりだよ!」
日が沈みかける頃、最後の一頭が小屋への門をくぐった。彼は、柵を背もたれにして腰をおろし、一息入れる。今日はなぜか羊の様子が騒がしく、なかなか言う事を聞いてくれなかった。
「ワンッ、ワンッ!」
どう、仕事うまく出来たでしょ? と言わんばかりに、主人のもとへ走って来て、辺りをはねるマロン。コーギーは両手を広げた。
「お疲れマロン。ご苦労さま」
彼の胸へマロンが飛びこんだ。主人の口やほっぺたをペロペロなめる。コーギーはくすぐったそうに笑う。
「さて、ぼくはもうちょっと仕事が残ってるんだよなぁ……」
そう。羊用の水の調達と、住居の掃除。なぜか、小屋の方が家の中よりきれいだったりする。汚い食器やほこりのたまる床で過ごすのは、さすがに二週間が限界だ。彼は片づけがすごく苦手なのだ。
「サーヤ、早く来ないかな」
コーギーは、いつも手伝いに来てくれている女の子の家の方を見た。背が高くて長い髪の毛で、彼の一番の好みだった。
その頃、サーヤという女の子は、昼の間手伝いをしていた牧場からの帰り道にいた。
牧場主のおじさんは、とても人づかいが荒い。いくら男勝りな彼女でも、弱音を吐きたくなるほどキツかった。
「もうやめたいな……」
頭に付けている布をとり、ため息をついた。だがそうもいかない。サーヤの家はあまり土地を持っていないために家畜や畑が少なく、それほど利益が出ない。そのため、長女である彼女が働きに行くしかないのだ。
家までもう少しというところで、サーヤは自分の家の前の道に絵を描いて遊んでいる子どもたちを見つけた。「またか」と早歩きになる。
「あんたたち、なにやってるのよ」
いつものように子どもたちを見下ろし、にらむサーヤ。とても怖い顔をしているが、誰一人として恐怖を感じている子はいない。むしろ、
「やーい。おっぱいのお化け! やーいやーい!」
と、彼女の大きな胸のことを笑うのだった。
「うるさい!」
サーヤは玄関の横に立てかけている長い棒を手に取る。そしてブンブン振りまわす。
「ワーワー!」と子どもたちは歓声をあげながら散っていった。
チッと舌打ちすると、棒を投げ捨てて家の中へ入った。
リビングはそれほど広くない。しかし、家族総出でつくったこの家は、彼女のお気に入りだ。
「あ、ママったらこんなところに放り出して……。どこへ行ったのかしら」
テーブルの上に、先週生まれたばかりの赤ん坊が寝かされている。サーヤを見つけると、まだ小さい手を伸ばしてきた。
「おー、よしよし。ママに置いてけぼりにされてかわいそうに。あたしがしっかり抱いててやるからね」
胸で赤ちゃんを抱く。そして匂いを感じ取る。ぬくもりが気持ちいい。
サーヤは子どもは嫌いだが、赤ん坊は大好きだった。五歳になる長男も、昔はママが忙しい時に抱いてあげたものだ。
家を歩き回り、赤ん坊をあやすサーヤ。キスをしようと顔を近づけた時、
「ホンギャー!」
と大声で泣きはじめた。たちまち彼女はあせった。ど、どうしよう。下着は汚れていないから、たぶんお腹が空いたのだろう。ママを探さなければ。辺りを見回す。
その時、ギイという音が裏口の方から聞こえた。ママがあわてて駆け寄ってくる。
「どこ行ってたのよ?」サーヤが口をとがらせる。
「トイレよ。早くよこしなさい」
さすが母親というのは、泣き声だけでその子がなにを求めているのかを理解できるようだ。赤ん坊を受け取ると、迷うことなくそっぽを向いて母乳を与え始めた。
サーヤは授乳の様子を横へまわってじっと見ていた。
一生懸命乳首に吸いつく赤ちゃん。こんな時、人間も自然の中に生きているのだと感じられる。
赤ちゃんが眠ってしまうと、ママはサーヤをうさんくさそうに見た。
「あんた、これからコーギーくんのところで仕事があるんじゃなかったの?」
「分かってるわよ。いいじゃない。少しくらいゆっくりしていたって」
サーヤはバンダナを頭に付けると、飛び出すように家を出た。
親がいなかったら気楽なのになぁ。彼女はそう思いながら、コーギーの家に向かって歩いていった。
今まで、短編連作やショートショート集は書いてきましたが、完全な連載作品は今回が初めてです。気長に更新していくので、温かい目で見守ってくだされば幸いです。