「君を愛することはない」と夫が言うので、念のため"お互いの部屋に立ち入らない"と書面にしておきました ~一年後、私の机から恋文を見つけたのはどなたですか?~
「君を愛することはない」
初夜の寝室で、夫になったばかりの人は、扉の前に立ったままそう言った。
ルーカス・ハルトマン侯爵。
今日の昼、神殿で「互いを敬い、愛する」と誓ったばかりの人だ。
私は、手にしていた寝酒の杯を、そっと卓に戻した。
「父が勝手に決めた結婚だ。私は認めていない。君には、形だけの侯爵夫人でいてもらう。互いに干渉しない。それでいいな?」
「……」
「跡継ぎのことなら心配はいらない。いずれ、ヴェラに産ませる」
ヴェラ。
男爵家のご令嬢で、旦那様の恋人だと、社交界では誰もが知っている名前だった。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
指先から、すうっと熱が引いていく。
それなのに、口は勝手に動いていた。
「承知いたしました。では、念のため書面にいたしましょう」
「……は?」
「互いに干渉しない、とおっしゃいましたわね。ですが『干渉』という言葉は、書類にするとたいへん曖昧ですの。どこからどこまでが干渉なのか、あとで揉めるもとになります。わたくし、書記官室で、曖昧な取り決めのせいで揉めた書類を山ほど見てまいりましたので。紙はこちらに」
私は鏡台の引き出しから紙を取り出して、さらさらとペンを走らせた。
「第一条。夫婦は、互いの私室に立ち入らない。第二条。夫婦は、互いの手紙を開けない。……あ、日付も入れておきますわね。それから、旦那様のご署名と、わたくしの署名を、ここと、ここに」
旦那様は、心底うんざりした顔で私を見下ろした。
「ふん……よくしゃべる女だ」
「よく言われますわ」
旦那様はひったくるようにペンを取ると、紙の端に乱暴に署名した。
中身は、読みもしなかった。
「これで満足か」
「はい。ありがとうございます。旦那様も、どうぞよい夢を」
返事はなかった。
扉が、大きな音を立てて閉まった。
足音が遠ざかっていくのを、私は扉を見つめたまま聞いていた。
「……奥様」
控えの間から、侍女のマリーがそっと顔を出した。
実家の子爵家から、ついてきてくれた子だ。
「聞こえて、いた?」
「全部」
「そう」
私は、署名の入った紙を見下ろした。インクは、もう乾いていた。
「ねえ、マリー。わたくし、少しだけ期待していたのよ。先代様が、ゾフィーなら息子を支えてくれる、っておっしゃってくださったから。旦那様も、いつかはわたくしと、お茶くらいは一緒に飲んでくださるかしらって。……書類なら、何枚でも読めるのに。旦那様のお顔だけは、まったく読めなかったわ」
声が、途中で震えた。
「おかしいわね。泣くつもりなんて、なかったのに。わたくし、こんなときでも、しゃべるのだけは止まらないのね」
マリーが黙って、私の肩を抱いてくれた。
私は紙を胸に抱いたまま、しばらく泣いた。
私は、ほんの少し前まで、王宮の書記官だった。
公文書の書式を整え、届け出られた書類を確かめ、写しを取る仕事だ。
女性の書記官はまだ珍しくて、私は書記官室でいちばん若く、そして、いちばんうるさい書記官だった。
「ヴェーバー君。書類を読み上げるときは、もう少しゆっくり」
書記官長のエーリッヒ様には、何度そう言われたかわからない。
その仕事を辞めたのは、父に頭を下げられたからだ。
先代のハルトマン侯爵は、昔、傾きかけた私の実家の子爵家を救ってくださった恩人だった。
病に倒れた先代様が、最後に父に頼んだのが、私と息子の縁談だった。
「家のことは、ゾフィーに任せたい」
先代様はそう言い残して、婚礼を待たずに亡くなった。
先代様の遺言と、借金を返すための持参金。旦那様がこの結婚を断れなかった理由は、そのふたつだった。
書記官室を去る日、エーリッヒ様は、いつもの無表情のままで言った。
「あなたがいないと、書記官室が静かになってしまうな」
褒め言葉なのかどうか、最後までわからなかった。
婚礼の翌朝、私は署名の入ったあの紙を、書記官室の元同僚に頼んで、王宮の文書庫に届け出た。
書類は、届け出てこそ書類だ。
書記官室で、いちばん最初に教わったことだった。
それからの一年、私は約束をひとつも破らなかった。
旦那様の私室には、一度も足を踏み入れなかった。
旦那様宛ての手紙は、封も切らずに執事に渡した。
そのかわり、帳場には毎日通った。
冬のはじめの、ある晩のことだ。
「奥様、また夜明けまでですか」
老家令のハンスさんが、山積みの帳簿の向こうから、あきれたように笑う。
「だって、ハンスさん、見てくださいな。この葡萄酒の仕入れ値、王都の相場の倍ですのよ。倍。商人に足もとを見られているのですわ。それから、こちらの便箋。家紋入りの特注品だからといって、こんなに高い紙を使う必要はありませんわよね。紙屋に、幅を少し詰めた安いものを注文し直しましたの。家紋の刷りはそのままで。それから東の廊下の燭台。あの廊下の先には、わたくしの部屋しかございませんし、わたくしは夜はたいてい帳場におりますもの。これからは、夜は灯さないことにいたしましょう。蝋燭代だけで、使用人ひとりぶんのお給金が浮きますわ」
「……奥様がいらしてから、この家の帳簿が、初めて黒字になりそうです」
ハンスさんの目尻に、深いしわが寄った。
ハンスさんは毎晩、その日の天気と、灯した蝋燭の数を、几帳面に日誌に書きつける。先代様の頃からの習慣なのだという。
書類の話をしているときだけ、私は、書記官室にいた頃の自分に戻れた。
旦那様の秘書のオットーさんとは、毎日のように書類をやりとりした。
「オットーさん。また、わたくしの名前が『ゾフィ』になっていますわ。最後を、のばしてくださいな。ゾフィー、です」
「は、はあ。申し訳ありません、奥様」
旦那様とは、ほとんど口をきかなかった。
春のはじめ、帳簿に初めて黒字の見込みが立った日のことだ。
私は帳簿を抱えて、旦那様のいる客間の扉を叩いた。私室ではないから、取り決めには触れない。
「旦那様、ご報告がございます。今年の帳簿、このままいけば黒字になりそうですの。葡萄酒の仕入れ先を替えたのと、便箋と蝋燭のぶんと、それから――」
「黙っていろ」
旦那様は長椅子で、ヴェラ様の髪を指に巻きつけたまま、こちらを見もしなかった。
「お前の声を聞くと、頭が痛くなる」
ヴェラ様が、くすりと笑った。
「まあ、怖い。侯爵夫人ったら、帳簿のお話しかなさらないのね」
言いかけた数字が、喉の奥で止まった。
私は帳簿を胸に抱え直して、黙って一礼した。
その晩、客間から旦那様の上機嫌な声が聞こえてきた。
「この一年で、私が家の帳簿を立て直してやったのだ」
来客に向けた、自慢の声だった。
それから私は、屋敷の中では、だんだん口を閉じるようになった。
実家の父には、手紙で「元気にしております」としか書かなかった。
先代様への恩返しのつもりで私を嫁がせた父に、後悔させたくなかったからだ。
その頃には、ヴェラ様は毎日のように屋敷に出入りしていた。
「あら、侯爵夫人。今日も帳場でお勉強? 地味な方ねえ」
すれ違いざまに笑われても、私は会釈だけを返した。
言い返したい言葉は、山ほどあった。でも、口を開けば、また「黙っていろ」と言われるだけだった。
結婚して一年が過ぎた朝。
旦那様から、離縁の審問の呼び出し状が届いた。
訴えの理由は、妻の不貞。
この国では、不貞を働いた妻は、持参金を夫の家に残したまま去らなければならない。
実家が用意してくれた持参金は、この一年、侯爵家の借金を返すのに使われてきた。
それを返さずに私を追い出して、ヴェラ様を正妻に迎える。
帳簿が黒字になった今、私はもう用済みなのだ。
旦那様の考えは、書類を読むより簡単に読めた。
王宮の審問の間は、天井が高く、声がよく響いていた。
正面の高い席には、白い髭の審問官、オスヴァルト様。
傍聴席には、青い顔をした父がいる。その隣には、日誌を抱えたハンスさん。旦那様の後ろの席には、秘書のオットーさんが座っていた。
そして、審問官の脇の小さな机に、見慣れた黒い服の人が座っていた。
書記官長のエーリッヒ様だ。審問に出される書類の真偽を確かめる、鑑定役として呼ばれたのだという。
一年ぶりに見るその人は、ちらりとこちらを見て、ほんの少しだけ眉を上げた。
「では、ハルトマン侯爵。訴えを」
旦那様が立ち上がった。
その後ろの席では、ヴェラ様が勝ち誇ったように扇を揺らしている。
「妻のゾフィーは、私の目を盗んで、ほかの男と通じておりました。これが、その証拠です」
旦那様は、紐でくくった手紙の束を、審問官の前に置いた。
「妻の部屋の机の引き出しから、私がこの手で見つけた恋文です。それから、侯爵家の侍女ベルタが、妻が夜中に男を部屋へ入れるのを見ております」
傍聴席が、ざわついた。
ベルタが、うつむいたまま一歩前に出た。
私の世話を、ほとんどしたことのない侍女だった。
「夫人。何か申し開きは?」
オスヴァルト様が、私を見た。
私は立ち上がった。手のひらに、じっとりと汗がにじんでいた。
「その恋文を、拝見してもよろしいでしょうか」
いちばん上の一通を、手に取る。
右肩がくいと跳ねた文字に、見覚えがあった。けれど、それはあとに取っておくことにする。
紙に指先が触れたとたん、私の口は、一年ぶんの勢いで動きだしていた。
「まず、この紙ですけれど、王都の紙屋で売っている標準の便箋より、幅が指一本ぶん狭うございます。上の端が切り落としてありますわね。わたくし、この幅の紙に見覚えがございます。この冬、わたくしが紙屋に注文し直した、侯爵家の家紋入りの便箋と同じ幅ですの。家紋の部分を切り落とせば、ちょうどこの大きさになります。つまりこの恋文は、外の殿方ではなく、侯爵家の中で、侯爵家の便箋を使って書かれたものですわ。それから、この日付。『花の月の十二日、水曜の夜に』とございますけれど、今年の花の月の十二日は木曜日です。書記官は、日付を書くときに必ず暦を確かめますの。恋文を書く方が暦を確かめないのは構いませんけれど、恋しい方と会う曜日を間違える殿方は、あまりいらっしゃらないと思いますわ。それから、もうひとつ」
「夫人」
オスヴァルト様が、片手を上げた。
「もう少し、ゆっくり……話せますかな?」
傍聴席のどこかで、誰かが吹き出した。
エーリッヒ様の口の端が、かすかに動いたのが見えた。
「……失礼いたしました。人前で書類のお話をするのが、一年ぶりなものですから、つい」
「紙が屋敷のものなら、相手は屋敷の男だということだろう! ベルタが見ているのだ!」
旦那様が、声を張りあげた。
傍聴席の空気が、すっと旦那様のほうへ傾いた。父がうつむくのが見えた。
「では、侍女ベルタ。証言を」
ベルタが、震える声で話しはじめた。
「は、花の月の十二日の夜です。わたし、東の廊下を通りかかったら、奥様のお部屋に、背の高い男の人が入っていくのを見ました」
「顔は見ましたか」
「いえ、暗かったので……でも、廊下の燭台の明かりで、背格好は」
「ベルタさん」
私は、そっと口を挟んだ。
「その燭台は、いくつ灯っていました?」
「え……ふ、二つ、だったと」
「東の廊下の燭台は、この冬から一度も灯しておりませんの。蝋燭代の節約で、わたくしが決めました。家令のハンスさんの日誌にも書いてございます。あの廊下は、夜は真っ暗ですわ」
ベルタの顔が、こわばった。
「つ、月明かりで、見えたんです」
「その夜は、雨でした。夜通し降っていましたわ。それも、ハンスさんの日誌にございます」
「……」
「それに、ベルタさん。その夜、わたくしは自分の部屋におりませんでした。年度の帳簿を締めるために、夜明けまで帳場におりましたの。それも……ハンスさんと一緒に」
オスヴァルト様が、傍聴席を見た。
老家令のハンスさんが、震える足で立ち上がり、抱えていた日誌を差し出した。
エーリッヒ様が頁をめくり、平らな声で読み上げる。
「花の月、十二日。終夜、雨。東廊下、消灯のまま。奥様と帳場にて年度締め、夜明けまで」
「奥様のおっしゃるとおりでございます。あの夜、奥様は夜明けまで、わたくしと帳場で数字を合わせておられました。……この一年、侯爵家の帳簿を立て直してくださったのは、旦那様ではございません。奥様です」
傍聴席が、大きくざわめいた。
旦那様の顔が、みるみる赤くなった。
「たかが家令の日誌だ! 帳簿などどうでもいい。恋文は、現に妻の机から出てきたのだ!」
「では、その恋文をどなたが書いたのか、お話しいたしますわ」
恋文の束をめくる。
右肩がくいと跳ねた文字の上に、わたくしの名前がある。
「この恋文、どれも、わたくしの名前が『ゾフィ』と書いてございますの。最後が、のびておりません。……この一年、わたくしの名前を一度も正しく書けなかった方を、わたくし、お一人だけ存じております」
旦那様の後ろの席で、秘書のオットーさんが、真っ青になって立ち上がった。
「エーリッヒ様。恐れ入りますが、筆跡を」
エーリッヒ様は、恋文と、侯爵家から取り寄せた書類の束を並べて、しばらく黙って見比べた。
「同じ手です。文字の右肩の跳ね方も、日付の書き癖も。この恋文は、秘書のオットー氏が書いたものです」
一瞬の沈黙のあと、旦那様が叫んだ。
「オ、オットー! 貴様が、妻の相手だったのか!」
「ち、違います! わ、わたしは書いただけで……文面は、ヴェラ様が……」
オットーさんは言いかけて、旦那様の顔を見るなり、口をつぐんだ。
後ろの席で、ヴェラ様の扇がぴたりと止まった。
「旦那様」
私は、首をかしげた。
「恋しい女の名前を、一年間一度も正しく書けない恋人なんて、いらっしゃいますかしら」
傍聴席のどこかで、また誰かが吹き出した。
「黙れ!」
旦那様が、机を叩いた。
「誰が書いたかなど、どうでもいい! とにかく恋文は、私がこの手で、妻の机から見つけたのだ!」
私は、旦那様のほうに向き直った。
この一年、黙っていろと言われるたびに、言葉をひとつずつ飲みこんできた。
でも、今日は。
「旦那様。わたくし、この一年、ずっと黙っておりました。旦那様が、わたくしの声を聞くと頭が痛くなるとおっしゃるから。言いたいことは、全部、胸の中にしまっておりました。……でも、今日だけは、全部申し上げます。どうか、頭が痛くても、最後までお聞きくださいませ」
私は、懐から一枚の紙を取り出した。
あの夜の、取り決め書だ。
「審問官様。こちらは、わたくしたちの婚礼の夜に、旦那様とわたくしが署名した取り決め書です。第一条、夫婦は、互いの私室に立ち入らない。第二条、夫婦は、互いの手紙を開けない。翌朝、王宮の文書庫に届け出てございます」
エーリッヒ様が、静かに立ち上がった。
「文書庫の控えと照合しました。届け出の日付、侯爵のご署名、ともに本物です」
旦那様が、審問官の机から取り決め書をひったくった。
目を走らせるうちに、その顔から血の気が引いていく。
「な……なんだ、これは。こんなもの、読んでいない!」
「存じております。旦那様は、お読みにならずにご署名なさいました」
私は、静かに言った。
「けれど、読まずに書いても、署名は署名ですの」
「旦那様。私室に立ち入らない、手紙を開けないと、ご署名なさいましたわね。では、お尋ねします」
私は、旦那様の目をまっすぐに見た。
「わたくしの机から恋文を見つけたのは、どなたですか? わたくしの部屋に入り、引き出しを開け、わたくし宛ての手紙を開いたのは?」
旦那様の口が、ぱくぱくと動いた。
「旦那様ご自身が見つけたのなら、旦那様は、届け出た取り決めをお破りになったことになります。見つけていないのなら、この恋文は、いったいどこから来たのでしょう」
「そ、それは……」
旦那様の目が、泳いだ。
「ベ、ベルタだ! 見つけたのは、ベルタだ!」
ベルタが、ひっと息をのんだ。
「だ、旦那様? わ、わたしは、旦那様に、こう言えと言われて……旦那様が奥様のお部屋の鍵を開けて、わたしに、引き出しに手紙の束を入れておけと……」
審問の間が、しんと静まり返った。
オットーさんが、その場にへたりこんだ。
オスヴァルト様が、長いため息をついた。
「侯爵。夫人の不貞の訴えは、退ける。偽の証拠を作り、侍女に偽りを言わせたこと。加えて、届け出られた夫婦の取り決めを破ったこと。この離縁は、侯爵の有責とする。持参金は全額、子爵家に返すこと。慰謝料も、侯爵家が支払うように。……文書の偽造については、別に王宮の法廷で裁かれることになるでしょう」
旦那様が、膝から崩れ落ちた。
その後ろで、ヴェラ様が扇をぱちりと閉じた。
「偽物の恋文を書かせるような方と一緒になったら、わたくしまで何を書かれるかわかりませんわ。ごきげんよう、侯爵様」
「ヴェラ嬢」
オスヴァルト様の声が、その背中を呼び止めた。
「偽造の件では、あなたにも法廷から呼び出しがあるでしょう。恋文の文面を考えたのがどなたか、秘書が申しかけておりましたからな」
ヴェラ様の背中が、こわばった。
ヴェラ様は扇で顔を隠すようにして、足早に審問の間を出ていった。
「ま、待て、ヴェラ! ……ゾ、ゾフィー!」
旦那様が、すがるように私を見上げた。
「待ってくれ。家計は、帳簿は、これから誰が……」
「帳簿は、全部ハンスさんにお渡ししてございます。どなたが読めるかは、存じませんけれど」
私は、旦那様を見下ろした。
一年ぶんの言いたいことが、喉もとまで来ていた。
でも、口から出たのは、短い言葉だけだった。
「どうぞ、お静かにお過ごしくださいませ。わたくしの声で、頭が痛くならずに済みますように」
審問の間を出ると、父とマリーが待っていた。
「ゾフィー」
父の目が、赤かった。
「すまなかった。先代様への恩返しなどと言って、お前に書記官の仕事を辞めさせて……あんな男のところへ」
「お父様のせいではありませんわ。先代様は、本当にいい方でしたもの。わたくし、先代様との約束は、ちゃんと守りました。侯爵家の帳簿は、黒字にしてまいりましたから。……それに、ほら、持参金もちゃんと取り返しましたし、慰謝料もつきましたし、偽の恋文の悪い見本も、たくさん拝見できましたし」
「ゾフィー」
「それから、それから……」
言葉が、急に詰まった。
「……お父様。わたくし、勝ちました。勝ったのに、どうして涙が止まらないのかしら」
父は、黙って私を抱きしめた。
昔、転んで泣いた私を抱き上げてくれたときと、同じ匂いがした。
私は父の胸で、子どものように泣いた。
泣きながら、やっぱり、まだ何かしゃべっていた。
父の肩ごしに、マリーがハンカチを握りしめて、泣き笑いの顔でうなずいているのが見えた。婚礼のあの晩、黙って寄り添ってくれたときと同じ顔だった。
「ヴェーバー君」
廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
エーリッヒ様だった。
書類の束を小脇に抱えて、いつもの無表情で立っている。
「先ほどは、鑑定をありがとうございました。文書庫の控えも、オットーさんの書類も、いつの間に……」
「審問の書類に、あなたの名前があった」
エーリッヒ様は、こともなげに言った。
「だから先に、文書庫の控えを確かめておいた。オットー氏の書類も、侯爵家に出させてある。あなたが不貞を働くはずがない。あなたの書類は、一度も間違っていなかったからな」
胸の奥が、じんと熱くなった。
この人は、審問が始まるずっと前から、私を信じてくれていたのだ。
「……あの、エーリッヒ様。わたくし、もうヴェーバー君と呼ばれる立場では」
「離縁が成立したのだから、またヴェーバー君だろう」
「書記官室の、窓際の机。あなたの席は、まだ空けてある」
「……一年も、ですか」
「誰も座りたがらなかった。あそこに座ると、静かすぎて落ち着かないそうだ」
私は、思わず笑ってしまった。
涙のあとが、まだ頬に残っていた。
「相変わらず、よくしゃべるな。審問官に止められていた」
「ええ。一年ぶん、たまっておりますので」
エーリッヒ様の口の端が、今度ははっきりと上がった。
「では、明日から聞こう。書記官室は、あなたがいないと静かすぎる。また……戻ってこないか?」
それが書記官室の話なのか、この人自身の話なのか。
書類なら何枚でも読めるのに、この人の気持ちだけは、やっぱり少し読みにくかった。
「……はい。明日から、また、うるさくいたしますわ」
私がそう言うと、エーリッヒ様は小さく咳払いをして、先に歩きだした。
その耳が、ほんの少しだけ赤かった。




