もう一度、食べたかった
港から市場へ向かう坂の途中で、昼を知らせる鐘が鳴った。魚箱を洗った水が道端の溝を流れている。僕はその流れをまたぎ、小さな食堂の窓をのぞいた。入口に写真入りの看板が出ている店もあったが、ここには何もない。窓際の客がパンで皿のソースを拭っているのを見て、入ってみることにした。
タルヴァに着いて三日目だった。この国の文字は読めず、覚えた言葉も挨拶と礼だけだ。それでも今朝は、ホテルでもらった地図を置いて出てきた。迷った道や、食べたものを手帳に書いておけば、帰ってからいい土産話になると思った。
父は足を悪くしてから、旅行番組を見ると宿の階段を数えるようになった。身軽に歩けるうちに行ってこいよ、と送り出してくれた父に、僕は毎晩、短いメールを送っていた。
店員はカウンターの奥から僕を見て、空いた席を示した。隣のテーブルには年配の女性が一人で座り、写真を何枚も広げていた。皿には煮込んだ豆らしいものが残っている。女性は写真の裏を返し、書かれた文字を指でたどっていた。
壁の品書きには、読めない字と小さな料理の絵が並んでいた。僕は黄色い長方形が描かれた札を指し、人差し指を一本立てた。卵料理に見えた。店員はうなずき、水とフォークを運んできた。
手帳に、坂道の食堂、卵料理、と書いたところで、皿が届いた。
四切れの卵焼きと、梅干しが一つ載っていた。
平たいオムレツのようなものを想像していたので、梅干しまで載った皿に戸惑い、店員を見上げた。だが、店員はもう次のテーブルへ水を足しに行っていた。
フォークを刺すと、卵焼きの表面に細かいしわが寄った。一切れを口へ入れた。冷めていた。甘さのあとから、底に薄く残った焦げの苦味がした。続いて梅の酸味が広がった。皿の上でも、潰れた梅干しの汁が卵の下へ流れていた。
この味を知っている、と思ったときには、海の見える食堂の窓が目に浮かんでいた。
小学三年の夏、家族で泊まった民宿だった。朝食の時間になっても父が起きず、母と僕は部屋で待っていた。父がようやく顔を洗い、三人で食堂へ下りたころには、僕の卵焼きまで冷めていた。
「お父さん、ゆでだこみたいだろ」
父は自分の鼻を指した。前の日に釣りをして、鼻の頭と頬が真っ赤に焼けていたのだ。その顔で頬を膨らませるから、僕は笑った。口に入れた卵を飲み込めずにいると、母が背中へ手を添えた。
椅子に引っかかる短パンの裾まで、はっきり思い出せた。
僕はフォークを置き、手帳を開いた。
〈民宿の卵焼き。冷たい。甘い。少し焦げ。梅の汁。父「お父さん、ゆでだこみたいだろ」〉
書いてから、もう一切れ食べた。民宿はずいぶん前に取り壊されている。もう一度食べられるとは思わなかった。どう作ったのか尋ねたくて、店員を捜したが、カウンターの向こうには誰もいなかった。
三切れ目を食べるころ、窓から見えた海が思い出せなくなった。
景色を見ていなかったのかもしれない。そう考えて、部屋の間取りを思い浮かべようとした。父がどこで寝ていたかは覚えている。けれど、さっき見えたはずの食堂の窓が浮かばなかった。
最後の一切れを食べ、梅干しの種を皿へ戻した。口に残った塩気を水で流してから、手帳を読み直した。
父の冗談が、初めて読む言葉のようだった。
もう一度、文章を目で追った。赤い顔で頬を膨らませていた。それも書き加えようとして、ペンが止まった。頬を膨らませた父の顔を思い描けない。父の今の顔なら、目を閉じれば浮かぶ。あの旅行で泊まった部屋も、砂浜で拾った貝も覚えていた。朝食だけが、いくら考えても出てこなかった。
隣の席で紙を重ねる音がした。女性が、写真を一枚ずつ裏返していた。
僕は額を押さえた。朝から歩き通しで、昨夜もよく眠れなかった。思い出そうとして力が入りすぎているのだろう。だが、目の前の皿を見ても、今食べた卵がどんな味だったか、言葉でしか確かめられなくなっていた。
店員が皿を下げに来たとき、僕は呼び止めた。
「これ、もう一つ」
日本語で言ってから、皿を指した。店員は首をかしげた。僕は黄色い絵と空の皿を交互に指し、もう一度、人差し指を立てた。
もう一度食べれば思い出すはずだった。最初の一口で、あれだけ鮮やかによみがえったのだから。
店員は皿を持ってカウンターへ戻り、しばらくして、パンを一つ運んできた。
平たいパンの中央からチーズが溶け出し、縁が少し焦げていた。僕は注文した絵を指してみせたが、店員はパンを示してうなずくばかりだった。
表面を指で押すと、まだ温かかった。その手触りに覚えがあった。半分にちぎると、内側から湯気が上がった。
大学の帰り道にあったパン屋で、閉店前に焼き上がるパンだった。夕方には売り切れることが多く、買えた日は友人の健太と半分ずつ食べた。
一口かじると、あの店の裏口が浮かんだ。箱を運ぶ店主を避けて、二人で軒下へ寄った。健太は就職先が決まったばかりで、ひどく大人びた黒い革靴を履いていた。
「靴ばっかり、先に会社行きそうだな」
僕が言うと、健太は足先を突き出して笑った。薄い革のつま先に、店の明かりが映っていた。
噛んでいるうちに、その靴の色がわからなくなった。黒だったか、茶色だったか。さっきまで浮かんでいた店主の顔も、今は思い描けなかった。
僕はパンを皿へ置いた。
健太が革靴を見せて笑ったことは、まだ思い出せる。雨が降り始め、二人で軒下へ詰めたことも覚えている。けれど、その靴がどんな色だったかは戻らない。
卵焼きのときも、食べるほど食卓の様子がはっきりしなくなった。皿を空にしたあとは、父の言葉まで自分の思い出ではなくなった。
皿に残るパンを見て、僕は手を膝の上に下ろした。
店員が水差しを持って近づいてきた。
「これは何なんですか」
英語でも言ってみたが、店員は僕のグラスへ水を注いだだけだった。手帳を開いて卵焼きの記述を示し、自分の頭を指す。店員は文字を読むためか身をかがめたので、僕は手帳を胸元へ戻した。読ませたところで、食べて忘れたという話が伝わるとは思えなかった。
店員は困ったように手を広げ、別の客に呼ばれて離れていった。
隣の女性が、僕のテーブルを軽くたたいた。
差し出された写真には、大きなテーブルを囲む人々が写っていた。中央に花が飾られ、同じ柄の皿がいくつも並んでいる。若いころの彼女だろうか、端にいる女性は目元がよく似ていた。
彼女は写真の一人一人を指し、何かを話した。そのときは、ほほえんでいた。次にテーブルの料理を指すと、口を閉じ、首を横に振った。皿の豆をスプーンですくいかけたが、口へは運ばずに戻した。
僕は自分の食べかけのパンを示した。女性はうなずいた。それ以上は話さなかった。
写真を返し、手帳を閉じた。手のひらで表紙を押さえていないと、そこに書いた言葉まで消えそうだった。
カウンターで、店員が細長い紙に何かを書いていた。書き終えると、黄色い卵の絵がついた札の下へ貼った。僕の席からも、その文字は読めた。
〈お父さん、ゆでだこみたいだろ〉
黒い太字の日本語だった。
店員が手帳をのぞいたとき、見たのだろうか。僕が開いていたのは、料理の味と父の言葉を書いたページだ。だが、僕の問いには答えないのに、なぜあの一文だけを壁へ貼るのか。
僕は立ち上がり、札の近くまで行った。ほかの札にも、絵の下に短い文章が添えてあった。読めない文字ばかりだと思っていたが、その中には英語もあり、日本語もあった。
〈今日は二人分、食べていいよ〉
その札には、深い鉢に入ったスープの絵が描かれていた。
自分の席に戻ると、隣の女性が写真を鞄へしまっていた。豆はまだ半分ほど残っていた。
僕は店員に支払いの身ぶりをした。見せられた金額を確かめて紙幣を渡し、釣り銭を待った。皿のパンには触らなかった。
入口から、男女の二人連れが入ってきた。二人連れの男が日本語で、ここなら座れるよ、と言った。僕は思わず振り返ったが、話しかける言葉が見つからなかった。
二人は通路を挟んだ空きテーブルへ座った。女性は壁を見上げ、変な名前、と笑った。男が僕の父の言葉を読み上げ、卵の絵を指して注文した。
店員がカウンターから釣り銭を差し出した。僕が受け取っている間に、同じ皿が二人の席へ運ばれた。
男は卵焼きを一切れ食べ、フォークを置いた。
「これ、覚えてる」
連れの女性が、何を、と尋ねた。
「朝飯のとき、親父が真っ赤な顔してて」
僕は受け取った硬貨を握った。
「お父さん、ゆでだこみたいだろ、って。頬を膨らませてさ」
男は笑いながら、口を閉じて両頬を膨らませた。
僕の手帳には、頬のことは書いていなかった。
女性も笑った。男は照れたように顔を戻し、皿へフォークを伸ばした。
僕はその席から離れられなかった。父がどんな顔をしたのか、あの男なら思い出せる。聞けば、僕が書き落としたことも教えてくれるかもしれない。
けれど、尋ねる前に、男は次の一切れを口へ入れた。




