博士のあまりにも残酷であまりにも幸福な晩年
知恵の神と呼ばれたイルド博士がこの世を去ってから二十年後。
イルド博士の最後の弟子が亡くなった。
安楽死あるいは尊厳死と呼ばれる死に方だった。
彼女はその計画を随分と前からしていたようで、自身の友人や弟子(つまり、イルド博士からしたら孫弟子にあたる)達に一人一人丁寧な挨拶をして、細やかな生前葬を行った丁度三日後に師であるイルド博士の下へと旅立った。
死に至る三日の間、多くの学者や博士、そして記者がやってきて口々に彼女へと尋ねた。
「イルド博士の三十二の定理。あなたはそれを証明出来るのでしょうか?」
血走った目で自分を見つめる者達へ彼女は穏やかな口調で告げた。
「私はそれから逃げるのです」
イルド博士の三十二の定理。
平たく言えば『決して証明できない三十二の定理』である。
事実、それはイルド博士が記したものでなければ落書きとして処分されていたかもしれない。
それほどに滑稽なものなのだ。
例えるならばそれは『1』の次に『382』が来て、さらにその次にアルファベットの『f』が来る。
炎が土の中で燃えて、雷が水の中に漂う。
トカゲの卵から熊が生まれて、その熊が今度はカブト虫を生む。
三角の形をした丸があり、涙の代わりに綿が流れる。
つまり、全てが出鱈目で高熱にうなされる幼子が見る夢のように滅茶苦茶なのだ。
しかし、それをイルド博士は。
史上最も知恵のある人間と呼ばれた博士は晩年に狂ったようにその問題に囚われていた。
事実、博士は狂ってしまったのかもしれない。
何せ、品行方正で知られる博士は晩年は些細なことで怒鳴り散らし、暴力を振るい、そして遂には言葉を忘れてしまったかのように口からは音を出して彷徨う存在に成り果ててしまったのだから。
そんな博士を最後まで世話をした弟子が。
その日、三十二の定理の真相と共に深い眠りについた。
涙を流しながら、それでいて必死に笑顔を作る友人たちにイルド博士の最後の弟子は微笑んだ。
「おやすみなさい」
イルド博士が亡くなる十年前。
博士と最も親しい弟子がデスクに転がる奇妙な文字や数字の羅列を発見した。
「博士、これは?」
老博士は「あぁ、それは」と一度言葉を切る。
「落書きですか?」
辛辣な弟子の言葉に博士は苦笑いすると大きくため息をついて言った。
「後の備えだよ」
「備え?」
「あぁ」
イルド博士はそう言うと誰にも伝えていなかった事を告げた。
「脳をやられた」
「脳?」
その言葉を弟子は一瞬理解出来ずオウム返しにする。
そして、次の瞬間には全てを察して声をあげた。
「まさか!」
「残念だが事実だ。診断した医師以外は知らんがね」
そう言うとイルド博士は恥ずかしそうな、まるで悪戯が見つかった子供のような顔をしながらデスクの引き出しを開ける。
「後の備えだよ」
繰り返された言葉を弟子はどうにか飲み込んだ。
「認知症ですか」
「あぁ、まだまだ疑いの段階だがね。医者は楽観的だったよ。年相応のものだとな」
弟子はやや迷い、結局肯定も否定も出来なかった。
博士はペンを取ると落書きにしか見えないようなものをデスクに書き出した。
「人は死を恐れる故に認知症になると聞いたことがある。だが、私は死よりも自分が自分でなくなる事の方がずっと怖い」
無意味な文字と数字の羅列や混沌とした把握出来ない文章を記しながら博士は言った。
「この答えのない問いや証明出来ない定理はきっと」
博士は無垢な子供のような笑顔を作り、夢をあきらめきった大人のようにか細い声で言った。
「私を混沌に誘い、死するその時まで私を私でいさせてくれるだろう」
その会話から一年後。
博士は徐々に狂いだし、やがて人々の交流を避け始めた。
二年もすれば完全に俗世から姿を消し、三年後には暴力や暴言を振るうようになり友人達も近づかなくなり、五年もする頃には存在さえ忘れ去られてしまった。
そんな中、どれだけ暴力や暴言を吐かれようとも一人の弟子だけは生涯イルド博士の傍に付き従った。
噂によれば狂った果てに言葉さえも失ったイルド博士はその弟子の傍でだけは安堵したように大人しかったと言う。
イルド博士が死んだ年。
三十二の定理が世界に晒されることになった。
弟子はそれを「博士が生涯に渡って挑んだもの」と嘯き、狂人と化したイルド博士の評価を僅かばかり回復させた。
イルド博士の三十二の定理は知恵の神と呼ばれた人物でさえも狂わせた魔の定理として今日も多くの博士や学者が挑んでいる。