狼男、ゲイと鯉のぼり
「あなたには私のコレクションをいくつもみせてきましたが、それに対する私の解釈を話したことはなかった。
今度は、私が話しましょう。
私が、コレクションすることのできなかったコレクションについて」
背後の掛け軸を見やりながら、狼男はそう言った。
「これは、ある女装者が持っていたものです。これ自体には、大した価値はない。何処にでもある、量産品の掛け軸です。典型を生み出した偉大な先人の、単なる模倣品に過ぎない」
その掛け軸には、滝を登る鯉が描かれていた。それはいわゆる、登龍門の由来を描いたものだった。滝を登った鯉が龍になったという、あの伝説だ。
「価値があるのは、この持ち主の方です。失恋した男が別れた恋人の持ち物を取っておくように、私は女々しくそれを思い出を思い起こすための縁にしているわけですな」
自嘲げに笑ったあと、狼男は、その黒い唇を開いて続けた。
「…私が初めて彼と出会った時、彼はドラッグの酩酊に沈んでいた。彼は自分自身の部屋の中で、まさに今、死のうとしていた。
私は他人の部屋を覗き見するのが趣味でしてね、それで彼を見つけたわけです。
彼は、私を見てもそう驚きはしませんでしたよ。大抵の人間はそうです。私を見ることができる人間はね。彼らは自分の半分を、こちら側に置いてしまっている。あなたも自覚があるでしょう?自分が半分の人間であるという自覚が。
彼はなんでもないことのように、肩をすくめて話しかけてきました。やあ、とね。まるで今自分がやろうとしていたことなど忘れてしまったかのように。
だが彼は忘れてなどいなかった。ただ彼には確信があった。自分が行き着くところまで行き着いたという確信が。自分が人生の終着点にいて、もはや何が起ころうとかまいはしないという諦めが。だから私という存在が自分が見ている幻覚だろうと、獣の皮を被った狂人であろうと彼にはどうでもよかった。ドラッグの酩酊と絶望に満ちた覚醒の繰り返しの中で、彼はそういう境地に辿り着いた。
彼の見た目はオスカーワイルドに似ていた。『幸福な王子』を書いた作者、宝石で出来た体を他者のために捧げた銅像を書いた作家に。ふくよかで、装飾に満ち、間抜けといえば間抜けで、だが独特の美しさがあった。それは、いくつもの失望を繰り返してきた者が持つ美しさです。沈痛さとそれを埋め合わせようという虚飾。豪奢に身を飾り立てて、しかしそれはどこへ行き着くこともない、そういう空虚さを持つ者の美しさです。
分かるでしょう?天井に向けられた手。自分自身の指に嵌められた、幾つもの指輪。そんなものが自分自身を何も救いはしないということが。
私は、彼の孤独を慰め、共に過ごした。そしてそうする内、やがて私は透明な存在になった。そこに居て居ないものになった。私は、彼の終わりのない自問自答の聞き手となった。
『女になるとはどういうことだろうか?私はいままで男として生きてきたが、私は完全な男であったといえるだろうか?私は何を望んでいるのだろうか?ある日いつか魔法か何かの力で、奇跡みたいなことが起こって、私の体が、女の体になるなんてことを望んでいるのだろうか?たとえばそれが醜く太り老いた女の体であったとして、私は納得できるのだろうか?私はそういうものになりたいと望んでいるのだろうか?いや、ちがうだろう。私がなりたいと望んでいるのは、若く、完全で、美しい肉体を持った女になることだ。私がなりたいと望んでいたのは、たぶん完全な、偶像のような女になるようなことだ。現実の、不完全で、どうしようもなく欠点を抱え込んだ女になりたいのではない。私は神話の女になりたいのだ。神話の存在そのものになりたいのだ。私が望む欲望の行き先は、人間がたどり着くことのできる限界を越えているのだ。私が男として、完全な男になりたいと望んだとして、それは結局可能なことなのだろうか?例えば、ダヴィデ像そのもののような肉体が欲しいと望んだとして、それは可能なことなのだろうか?なるほど、それに限りなく近づくことはできるかもしれない。ある種の条件が整ってさえいれば。だが、生きた芸術品として人生を生きることが、現実の人間に可能だろうか?それは、不可能だよ。人間はその生のレベルにおいて、芸術そのものであることはできない。私が、女になりたいと言いながら望んでいるのは、そういうことだ。だから、私は知ったのだ。私が女になろうとして行うことは生涯、この先どこまで行っても女装的行為に過ぎないということを。この先奇跡が起きて私が、女の肉体を手に入れたとしても、私が行うことは、女装なのだ。だが、生きるとはつまりそういうことなのだ。理想と現実の間でもがき続けることなのだ。他人が私を見る目を、私自身の目にして生きていくことではないのだ。他人の目と私の目は別物なのだ。だから、私は愚鈍にもがき続けるのだ。鯉の滝登りとはつまりそういうことだ。愚鈍に泳ぎ切ったもののみが、龍になることができるのだ』
鯉の滝登りという伝説を知らなければ、これはただの泳ぐ魚の絵に過ぎない。だが知る人が見れば、これは見果てぬ夢を見る者の絵となる。
鯉の滝登りにおいて描かれる姿がなぜいつも鯉なのか、なぜ龍ではないのか、あるいは鯉が龍に変容していく一瞬を描かないのか、分かりますか?
それは、生きることとは、いつも理想と現実の狭間でもがき続けることだからです。力を振り絞り、滝を越えようとする者にとって、つまり真っ只中の生の当事者である私にとって、私自身は、常に鯉だからです。それは永遠に未完のものだからです。泳ぎ続ける者は、自らを外側から眺めることはない。その愚かさも、無様さも、その美しさも、知ることはない。鯉が自らの姿を知るのは立ち止まり、自らを見る者の眼差しを借りる時だけです。だから人は自らの今ここをありのままに眺めることのできる他者を必要とする」
狼男は言葉を続けた。
「私はその男を食ってやりたかった。その男をその高潔さからひきずりおろしてやりたかった。腹の中に収めて、オレの血肉にしてやりたかった。だがいつもすんでのところでその男はそれを拒み、私の部屋から出ていった。
だがそれも当然のことです。なぜなら私は彼にとっての真の理解者などではなかったのだから。私はただ簒奪し、貪り、しゃぶり尽くすことだけを求める獣でしかなかったのですから。自分を貪り尽くす者のために、人は自らを捧げたりはしない。
だが彼は教えてくれました。
ある晴れた日の朝に、天井を見ていた彼のつぶやくように絞り出した言葉が、彼の全てだった。
『こいのぼりがあるだろう。あれは、子どもが、男児が立派な大人になるように、願いを込めて飾られるんだ』
彼は、その言葉の後に言葉を続けようとしました。だが口を閉じてそれ以上何も言うことはなかった。
諦めるように、自嘲げに笑った彼の表情を私は憶えている。言い聞かせるように語られたその言葉のトーンは、私の胸の中で温かさを保ったまま、ずっと残っていた。
彼がいなくなった後、空っぽの部屋の中で、私は気づいた。
あの時、彼が見ようとはしなかった窓の外には、銀色のポールがあった。それは隣家の庭にあった旗竿で、5月には鯉のぼりが飾られるものだった。鯉のぼりの昇らない日でも、そのポールの下では、子供たちが追いかけ合って遊んでいた。あの日も、窓の外からは子供たちが遊ぶ声が聞こえていた。
見守り、身守られるもの。その中で、人は何を望まれ、何に応えようとするのか?
その時、私はようやくはっきり分かった。
ゲイである彼が、その部屋に、鯉の滝登りを飾っていたことの意味。その願いと悲痛さ。
繰り返し、暗闇の中で聞いた嗚咽。誰に謝ろうというのか、狂乱の中で繰り返された謝罪。
何が人を苦しめ、何が人を暗い部屋の中に閉じ込めるのか?
この絵は、彼が抱えていた願いと矛盾の象徴だった。
『私は、かつて望まれたような立派な男になったと言えるだろうか?』
その問いはいつも否定される。ただ、今ここにいる自分自身によって。
彼は、自分が向き合っている願いと苦しみをいつも自分の目の前に突きつけながら生きようとした人だった。
そんな生き方ができる人がどれほどいるでしょうか?
何よりも彼自身が、そんな生き方からこぼれ落ちようとしていたというのに。志のある人は、いつもギリギリのところで生きているものなのです。何度も、自分の生き方から外れようとしながら、いつもいつも自分を立ち上がらせて。
そんな人間を、所有することができるでしょうか。型に嵌め、固定的な理想の中に閉じ込めることが出来るでしょうか?出来るはずがない。それはいつも、形を変え、私の手のひらからはみ出していく。だから私がコレクションできたのは、語られた存在としての彼だけだった。私が感じ、解釈し、輪郭を与えて形作った憧憬だけが、ここに残った。
私はもう彼を連れ戻そうとも思わなかった。私は彼が他人の中で生き抜いていく様をみたかったから。その生き方は、他人の中にあってこそ輝く。この世界にそういう人間がいるということがある種の人間にとって慰めになるのだということを私はよく知っている。
我々は、時に矛盾や相反する性質に引き裂かれている。それは世間から見れば、取るに足らぬ落伍者で、怪物で、道化に過ぎない。それは人であって人でない者。だがその相異なる二つが統合される瞬間が確かにある。
それは人の道を外れ、半分の人間として見做された我々を救う何か。我々はそれを所有することなどない。ただそれが、そこに存在するというだけで、絶望の淵から我々を救い得る何かです。道化師達には、休憩室が必要なのです。我々はそこから来て、やがてそこに帰っていく。あなたは、既にそれを持っている。我々は、あなたにそれを形にして欲しいと願っている。誰もが触れ、見ることができる形で。
それが私があなたに求める、ただ一つの願いです」
*
部屋に帰ったあと、昼下がりの午後を、おれは歩いた。
街の電器屋のテレビが、昼のバラエティ番組を映していた。
テレビの中で、大柄なオカマがしゃべっていた。
「アタシが、救急車で運ばれた時、あたしはひとりきりでいたはずなのよ。でもそばにいた男がはっきりした声で状態と住所を告げたっていうのよ。不思議よねえ」
「それ自分で呼んだんじゃないですか、ははは」
すぐそばを、少年が走り過ぎていった。小さな鯉のぼりを風に泳がせるには、風の中にいるか、手を振るか、走らなければならない。
できるだろうか?俺自身に。形ない想像を形にすることが。
春がやってきていた。日差しは暖かく、風はまだ冷たかった。煤に汚れた雪の残る歩道を歩きながら、身体を吹き抜けていく風が、今はとても心地良かった。
これは、かつて書きたいと思っていた小説の2番目のハイライトで、書き上げられるかどうかもわからないので投稿します。