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後編



「この白いフリルが付いたドレスなど如何でしょう、奥様。清楚可憐さが際立って素敵だと思いますが」


 メアリからの進言を吟味し、装いを揃えてゆく。毎日の事ではあるが、この時間が悩みどころだ。

 昼食後のひと時。アリーシャは更衣室に籠り、午後の身支度に追われていた。

 最近では女性用のそれは、婦人の間(ブドワール)などと言われることがあるという。

 アストリアの言語から派生した部屋名のようだが、その呼び方をアリーシャは気に入っていた。

 

 婦人。自分はこの家の一員、女主人なのだと。

 そう、確かな気概が生まれるから。

 

「そうね……セシル様のお好みに合うようにしたいわ。お食事に良く映えるものがいいと、思うの。ほら、最近あの方がお気に入りの色濃いお茶。あれに合わせては、どうかしら」

「まぁまぁ、すっかり旦那様・・・に毒されてしまいましたね。お昼もたくさんお召し上がりになったそうで、ようございます」


 嬉しそうに、メアリが目を細める。細かい皺の浮いた顔が、笑みに合わせてくしゃりと縮んだ。

 陽だまりに咲く花みたいに、柔和そうなこの表情が、アリーシャは大好きである。


 シュトラウス伯爵を、セシルと名で呼ぶようになってから、いつの間にかメアリも『坊ちゃま』という言葉をパタリと使わなくなっていた。

 その、あまりにも自然な移行に、アリーシャも最初は気付かなかった。

 不慣れな結婚生活に戸惑うであろう新妻のために、彼女なりに気を遣ってくれていたのだろう。

 メアリのその優しさを、とても嬉しく思う。

 

(お母様がいらっしゃったら、乳母が傍に居てくれたなら。こんな風に感じるのかしら)


 アリーシャは母を知らない。産後の肥立ちが悪く、儚くなってしまったからだ。

 一般的な貴族は家族間の距離が離れていると聞く。それでも絵本の読み聞かせなど、ふれあう時間はある……らしい。

 男爵家は色んな意味で特殊だったのだと、今更ながらに思う。

 娘への過干渉。乳母も最低限の事務的な事しかせず、アリーシャが物心付くころにはおよそ、人間的な感情から遠ざけられた無機質な家庭環境の出来上がりだ。

 

 それがどれ程に歪なものか、今のアリーシャには理解出来た。


「コックにもお礼を伝えて置いて頂戴ね。それと、いつも通りメニューの詳細も。調理法を聞いておきたいわ」


特にあの、小牛のローストは絶品だった。ソースも素晴らしいが、何よりその焼き加減だ。

噛んだ瞬間に味わう、あのじゅわっと広がる肉汁の感覚がたまらない。本当に美味しかったとアリーシャは述懐する。


「ええ、ええ。料理人たちも励みになりますとも。けれど、頑張り過ぎは禁物ですよ、奥様。これから教師を招いてお勉強もなさるのでしょう? お体に障らないか、メアリは心配でございます」

「大丈夫よ。私は、知らない事が多すぎるのだもの。メアリにも、早く家政婦のお仕事に専念して欲しいし……」

 

 本来、女使用人の責任者たる役割を担うのがメアリだ。その差配は多岐に渡るはず。

 それが、半ばアリーシャ付きのレディースメイドも兼任させてしまっている。

 只でさえ忙しい仕事だ。いくら元気だと言っても、彼女はもう六十近い年齢。無理はさせられない。

 それに、とアリーシャは微笑む。

 

「早く一人前の女主人になって、セシル様のお役に立ちたいの」

 

 それが、アリーシャの本心だ。 

 

 人形で居ることに疑問を抱かなかった、あの日々。

 今でも夢に見る、つめたく冷え切った恐ろしい世界。

 

 もう、決して戻りたくはない。演じることすら無理だ。

  それを想像するだけでも怖くなる。

 

 捨てられる等と考えたくもないし、居場所はきちんと確保しなくてならないと思う。

 何よりも、こんなにも素敵な人生を教えてくれたあの人のために。

 

「私は頑張るわ、メアリ」

「奥様……」


 メアリが、感極まったように目尻をハンカチで拭う。

 それが何だか面映ゆくて、アリーシャは頬が熱くなるのを感じた。

 

 知らない事を知るのが、こんなにも楽しくて素晴らしい事だと、思いもしなかった。

 

 いずれ、社交もこなさなくてはならない。セシルが苦手だと言うそれを、アリーシャが代わりに担うのだ。

 その為にさまざまな知識を覚え、身に付けなくてはならない。

 今はまだ、時期が尚早。正餐会も舞踏会も辞退している。それなりの教養を備えてからでなければ、セシルが恥を掻く。

 

 やがて来るであろうその時を不安に思いつつも、楽しみにするアリーシャ。

 

 だが、機会は意外と早く、思いも付かない所からやってきた。

 

 

 ∴ ∴ ∴ ∴ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



「エヴィン・メルトルードだ。よろしく頼む、レディ・シュトラウス」


 その青年は恭しささえ感じる仕草で、かしこまった紳士の礼を取る。

 

 輝くような金髪と、空のように澄み渡った水色の瞳。

 その顔と名には、覚えがあった。

 舞踏会のあの日、セシルと引っ張り合いをしていた青年である。

 

 彼が名乗ったその称号を受け、アリーシャは最適と思われる言葉を返した。

                    

「お噂はかねがね。お会いできて光栄です、メルトルード卿。主人がお世話になっております。どうぞ、今後ともお付き合いの程、よろしくお願い申し上げますわ」


 ――やった! たどたどしくなく、つっかえずに話せた!

 その事が嬉しくて、アリーシャは心の中で快哉を上げた。

 

 そんな妻の内心を知ってか知らずか、セシルがエヴィンの肩を小突く。

 

「なんだ、そっちで名乗るのか? アリーシャの勉強の成果を見せてやれると思ったのに」

「やめろ、触るな鬱陶しい! 今の私は伯爵位を継いだ身だ。メルトルードを名乗るのが当然であろう」


 変な気を遣わせるのも申し訳ないからな。そう告げるエヴィン卿は正しく理想の紳士、貴族そのもの。

 セシルとは大違いである。アリーシャの旦那様は高貴さよりも食い気が先立つ。

 そこが良い点でもあるのだが。

 

「それに、私の名乗りを受けての応え方。それを聞けば彼女の学び具合も分かるというもの。貴様も見習ったらどうだ。そも、昔から貴様は礼儀というものを知らぬ。大体、この前の正餐会でもだな――」

「正餐会といえば、そうだ! 今日のティーではプティ・フールを用意したぞ! うちのパイ職人自慢の一品でな。正餐の第一メニューとしても良いが、メインとしても美味この上ない! これは匂いの鮮度が肝要だぞ。出来上がり次第に運ばせるから、一緒に食そう!」

「聞け!!」


 紳士な態度もどこへやら、声を荒げて怒鳴りつけるエヴィン伯。

 相当に苦労をなさっているのだと、アリーシャにも理解出来た。


 その気を和らげるよう、もっと何か甘いものを準備した方が良いか。

 アリーシャは頭の中に浮かんだメニューを吟味しつつ、フットマンへとこっそり指示を出すのだった。



 ∴ ∴ ∴ ∴ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

 冬も近いこの頃、日差しの温かさは成りを潜め、ひんやりとした風が肌を凍えさせる。

 そんな体と心を暖めるのは、なんといっても美味しいお茶だ。

 アリーシャ手ずから、ポッドからカップへと熱い液体を注ぐ。

 

 シュトラウス伯爵家の自慢であったこの庭園は、セシルの代になってから大きく様変わりしたという。

 畑や農園が次々と姿を現し、この時代特有の風景式庭園はすっかりと消えてなくなってしまった。

 庭師たちも最初は大いに戸惑ったと聞く。気の毒な話である。

 

 とはいえ、そこは流石の美食伯。茶を取るに最適な空間はしっかりと確保していた。

 色とりどりの花が咲き乱れる花壇を目にしながら、茶を嗜む。

 アリーシャも大好きなひと時だ。

 

「どうぞ、お口に合えばよろしいのですが」

「有難う、レディ・シュトラウス。……うむ、とても美味である」


 静かな賞賛の言葉に、ホッとする。

 アリーシャは続いて、手前に供えられた小皿を勧める。

 

「ありがとうございます。こちら、前菜代わりにどうぞ。キュウリのサンドイッチですわ」


 小さく切り分けられたそれは、アリーシャが自身の手で作ったものだ。

 エヴィン卿の生家ではサンドイッチは特別な意味を持つという。


 百年ほど前、まだ貴族令嬢や夫人が手ずから包丁を手にしていた時代は、招く相手の好物を出すのが礼儀とされていたらしい。

 故事ではあるが、今回アリーシャはそれに倣ってみることにした。

 夫にとって掛け替えのない友人であるという彼を、精一杯もてなしたかったのだ。

 

「ほう、夫人のお手製か。これは光栄なことだな。では、早速頂こ――――何だ貴様、その目は」

「……妻の手料理など、私はまだ食べたことが無いのだぞ。こればかりは金を積もうがどうにもならん。なのに、その記念すべき相手が夫の私でなくお前と言うのはずるいと思うのだが、どうか?」

「セ、セシル様……」


 旦那様は今日もぶれない。

 本当は、もっと早くにお出ししたかったのだが、料理などした事のないアリーシャだ。

 最初に召し上がっていただくものは、彼が本当に美味しいと思う物にしたい。

 

 このサンドイッチも、日夜の練習の末にようやく納得のいく物が間に合ったのだ。

 練習の拙い物をセシルに食べさせるわけにはいかない、出せたのはこの場になってしまったのは申し訳ないが、まさか、そんな子供みたいなことを言い出すとは想像も出来ない――わけでは、なかった。


(……このお屋敷で迎えた初めての朝。あの時に出してくれたスープは、この方のお手製だったのだもの)


 女主人として、曲がりなりにも動き始めた今のアリーシャには、分かる。

 調理に労力を傾けるスープが朝食に供されない理由は単純。レンジに火を入れるのは朝なのだ。

 あの透明なスープは特に手間が掛かる。伯爵家のキッチンは最新式の鋳造式レンジを導入しており、保温用の湯沸し室も別に存在するが、それでも火入れから温度を上げるまで時間が必要だ。

 それに、あの絶妙な味を出すには出来たてでなくてはならない、らしい。

 それでは、アリーシャの起床にはとても間に合わない。

 

 朝に温めたレンジの熱、それを昼夜通して使い、一日の献立を組み立てるのが料理の基本だ。

 人を招く場合は何十人ものキッチンメイドが料理人の指示の元に駆けずり回る。

 キッチンはまさに戦場なのである。

  

 『美食伯』は料理だけでなく、それを作る人間にも敬意を表する。

 みだりに彼女達のペースを崩し、睡眠時間を削るような真似をしたくなかったのだろう。

 彼は料理の腕前も玄人はだしだ。自らまだ朝も明けぬ時間から火を入れ、かの錬金術師直伝という透明スープを拵えた。全ては彼独特の美学によるもの――


 ――というのは建前で。

 本当の所は新妻に食べさせる初めての料理は、自分の手で調理して反応を見たかったから、らしい。

 実際の所、スープストック用の鍋を温めるだけでも事足りる話ではあったのだが。


『こんな機会は一生に一度だ! そう言って張り切ってましたよ』


 メアリを問い詰めたら、あっさりと白状したから間違いない。

それが、アリーシャの旦那様。セシル・シュトラウスという男なのだ。

 

「わかった、先に貴様が喰え。だからその恨めしそうな顔を止めろ」

「そうか、悪いな! 流石はエヴィン! 話せる男だ!」


 嬉々としてサンドイッチを口へと運ぶセシル。

 彼の我儘に振り回されるエヴィン、彼には本当に申し訳ないとアリーシャは思う。

 けれど、美味い、美味いと次々食するその様は、見ていて気持ちが良かった。

 

「我が素晴らしき妻と、この料理を考案したとされるウィッチ伯爵に感謝だな! 後世にも伝わる良き軽食だ! 我が家でも伝統にしたいな!」」

「……う、む?」

「なんだ? どうしたエヴィン。お前も遠慮せずに食せ」

「どの面を下げて言うのだ、貴様……」


 憤慨した口調だが、その態度にはどことなく諦めの気配が漂っている。哀愁だ。

 ……本当に苦労なされているのだと、改めてアリーシャは申し訳なくなる。

 どうか、見捨てずに夫と付き合っていって欲しいと切に願う。


「ふむ、口当たりも良くキュウリも瑞々しい。塗られたバターと香辛料のバランスも良いセンスだ。茶の給仕ならともかく、昨今では廃れかけた風習を我が家に合わせて執り行ってくれたのも、嬉しく思う。これは、貴様が指示――したわけでは、ないか」

「お前の家の事情は話したがな! その他は全てアリーシャの提案だ」


 どうだ、と誇らしげにセシルが胸を張る。

 

「アリーシャの誠実さと向上心は驚嘆に値する。日々、自身に足りない物を埋めようと頑張っているのをお前は知らんだろう。学院の元教師を招き、勉強にも励むほどだ! ほれ、レディ・エイリルを覚えているだろう。あのお堅い淑女が褒めたたえるほどの熱心さ! 本当に、私には勿体の無い妻だとも!」」


 頬がかぁっと熱くなり、思わずアリーシャは俯いてしまいそうになる。

 こんなにも実直に褒められることなど、男爵家では考えられなかった。


「……貴様も、女性を褒める事があるのか」


 どこか呆然とした様子で、エヴィンがそう呟く。

 

「努力する者を褒めるのに、男も女も関係あるまい。なんだ、らしくないぞエヴィン」

「いや、そういう事ではなくて、だな……気付いておらんのか。らしくないのは貴様の方だ」


 そう断ずると、エヴィンはため息を吐きながら首を横に振った。

 

「貴女も苦労なされているだろう。そも、この男が相手ではな。一般的な貴族女性としての幸せを掴む事すら、困難ではないか」

 

 同情が籠った眼差しで水を向けてくるが、しかしアリーシャは微笑みと共に否定する。

 

「いいえ、メルトルード卿。私はこちらに嫁いでより今日に至るまで、とても充実した日々を送っております」


 美味しい物を食べ、見たことのない物を目にし、知識を学ぶ機会を得た。

 それは、とても素晴らしくて素敵な毎日。

 

「――主人にとっての幸せが食べることならば、私にとってのそれはこの家に嫁げたこと」


 誰が何と言おうと、それだけは間違いない。そう、アリーシャは心から信じていた。

 冬の冷気さえ跳ね除ける、暖かな気持ちを胸に抱きながら、万感の想いを込めて告げる。

 

「私の幸せの全ては、セシル様に出会えたことです」

「――ッ!?」


 そう言葉にした途端に、セシルがむせ始めた。

 せき込みそうになりつつも茶を吐き出しもしないのは流石だが、こんな事は初めてである。

 アリーシャは淑女の慎みも忘れ、慌てて駆け寄った。

 

「セシル様……!? どうなさったのですか……!?」

「いや、なんでも、なんでも、ない……」


 心配するアリーシャを手で制し、セシルは胸を押さえた。

 心なしか、その頬が赤らんで見えた。

 

「大丈夫、大丈夫だとも。あぁ、私は大丈夫だ。そんな事を言われたのは初めて、でな……いや、びっくりしてしまったのだ」

「本当、ですか……? ご無理をなさらないでくださいね。そうだ、少し横になられては――」


 と、そこで。漏れ聞こえる笑い声にアリーシャはそちらを振り向く。

 

「メルトルード卿……?」

「いや、すまぬ。余りにも珍しい物を見たので、思わず笑ってしまった。そうか、貴様にも人並みの感性があったのだな」


 どことなく嬉しそうなその声に、アリーシャは内心で首を傾げた。

 

「レディ・シュトラウス。今日のこの日に招き入れてくれた礼をしたい。さて、何が良いものか」

「なら、何か珍しい食物を――」

「貴様は黙っていろ。……そうだな、貴女の事情を省みるに、やはり社交の相手を紹介するが良かろう。それをこの男も望んでいたようであるし、な」

「え……?」


 知らなかった。ただ、旧知の友人が訪ねてくるから準備と相手を、としかアリーシャは聞いていない。

 思わずセシルの方を振り向くと、彼はにっこりと笑って頷いてくれた。


 ――ああ、本当に彼は。


 何とも言えない気持ちがアリーシャの胸を突き、溢れ出してしまいそうになる。

 

「本来なら、我が妻を引き合わせるのが礼儀であるが、あいにく身重でな。今は屋敷から動かせぬのだ。だが、当家の縁者に相応の相手はいない。とすると――そうだな。あの娘が良いか」


 エヴィンは一人納得したように頷くと、アリーシャに向き直った。

 

「我が妹を紹介させてくれ。今年デビュタントを済ませたばかりでやや小生意気だが、愛嬌があるし方々に顔も利く。練習相手には最適だと思うが、どうか?」

「リリアナ嬢か。それはこちらとしても有難いな。アリーシャとは四つ違いか。それくらいなら年もそう離れてはいないし、確かに丁度良いお相手だ」


 その口ぶりから察するに、セシルも知っている相手のようだ。

 どんな令嬢なのだろうと、アリーシャは想像を膨らませてゆく。

 

「私はどうも嫌われてしまっているようだが、君なら恐らく大丈夫だと思う」


 流石旦那様。既に何かをやらかしたらしい。

 広がった想像の翼が、不安の風を引っ掛けた。

 

 けれど、これも確かに良い機会だ。

 セシルとエヴィンの変わらぬ友情の為にも、妹君との縁を繋いでおかねばなるまい。

 アリーシャは密かに決意する。

 

 そんな妻の内心なぞどこ吹く風、旦那様の視線はようやく運ばれてきた焼き菓子に釘付けだ。

 その目を爛々と輝かせている。

 

「お、きたきた! これが美味いのだ! このプティ・フールが絶品でな! さぁ熱い内に頂いてくれ」


 給仕のナイフを入れるのは主人の務めだ。

 香ばしい匂いを漂わせる熱々のパイを、セシルが嬉しそうに切り分けてゆく。

 しばし、三人でその味の素晴らしさに舌鼓を打つ。本当に美味しい料理は幸福、生きる悦びだとアリーシャは思う。

 

「そういえば少し前にアストリアへ外遊した際、パイ包みの話を聞いたな。見たこともないような大きなヒラメの包み焼きに、参列者は興奮を隠せなかったという。だが、皆の注目する中、ホールボーイがそれを床に落としてしまった」

 

 プティ・フールを優雅に食しながら、エヴィン伯がパイに纏わるエピソードを話してくれる。

 アリーシャは、国の外へ出た経験などない。実に興味をそそられる語り口に、興奮して耳を寄せた。


「まぁ……! それは大変……」

「だが、驚くのはここからだ。その正餐会の主催者は、動揺もせずに指示を出す。すると、どうだ。一枚目に負けず劣らずの見事なヒラメがすぐさま出されたではないか」


 全ては、落胆させた気持ちを引き上げるための仕掛けだったのだと、エヴィンは話す。

 それも外交の手段のひとつ。落差による衝撃は、人の心を動かし得る、らしい。


「これには皆が口々に賞賛の声を上げた。その仕掛けと、こんなにも見事な魚を二匹も用意できた周到さ、財の素晴らしさを褒め称え――何だ、どうした貴様」

「いや、その話は私も耳にしたことがある。床に落ちたその後、パイはどうなったのかと気になってしまってな。わが国でも昔、王室の残飯を民に分け与えたことがある。そうしてちゃんと食べてもらえたのか、それとも無惨に捨てられてしまったのか。考えている内に夜が明け、いつの間にか朝が来ていた」

「……貴様という奴は」


 そういえば、目に隈を作って眠たそうにしていた日があったとアリーシャは思い出す。

 勿体ない、勿体ない……と呟いていたのはこういう事だったのか。

 

 やがて互いに交わす言葉は白熱を帯び、紳士達は丁々発止のやり取りを繰り広げ始めた。

 恐らく、これが二人の日常なのだろう。

 それを何処となく羨ましいと感じる自分に気付き、アリーシャは軽い驚きを覚えた。

 

 エヴィン卿の妹君と出会えるその日が、ますます楽しみになる。

 

 世界が段々と広がってゆく喜び。セシルによって開かれた道標。

 それは、目も眩むような光となって、アリーシャの行く未来を照らし出していた。

 

 

 ∴ ∴ ∴ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 


「このサンドイッチ、本当に美味しいですわ。アリーシャさんのお料理の腕もあるのでしょうが、あの御方がご用意なさる野菜はどれも新鮮で瑞々しく、悔しいけれど絶品! こと、食に関しては有能極まりないというのに」


 どうしてあぁも、その他に関心が無いのか。

 そう言って彼女はため息を吐いた。

 

 その仕草に揺られ、ふわふわとしたストロベリーブロンドの髪が陽光に煌めく。

 

紳士社交場クラブにもろくに顔をお出しにならないようですし、もう少し人との繋がりを重視した方が良いと思いますのよ。どうせ、面倒くさがっているのでしょうけど」


 ズバズバと切り込んでくるような遠慮の無い物言いに、アリーシャは苦笑した。正論である。

 彼女の舌鋒の鋭さに始めは戸惑ったものだが、最近ではもう慣れ始めていた。 

 

 目の前の少女、エヴィン卿の妹君――リリアナ嬢は確かに気が強く、ハッキリと自分の意志を示す。

 家格の違いもあるのだろうが、その在りようをアリーシャは眩しく感じていた。

 

 ぱっちりとした瞳は、兄のそれよりも深い蒼。美しい、というよりは可憐と評した方が似合う愛らしい顔立ち。

 ころころと変わる表情は他人の目を愉しませ、語彙の豊富さから来る軽快なお喋りは相手を飽きさせない。

 デビューして間もなく、社交界の花と呼ばれるようになったのも頷けるというものだ。

 

 彼女と違い、以前のアリーシャはあちらこちらの社交場で壁の花ならぬ飾り人形と化していた。

 その顔を見かけた事はあったが、実際に言葉を交わす機会など、当然無い。

 

 けれど、彼女と知り合うきっかけを得たことを、アリーシャは心の底から有難く思っていた。

 芯が一本通った性格は非常に好ましい物であったし、年の近い同性とのお喋りがこんなにも楽しいものだとは知らなかった。

 

「ごめんなさい、少し言い過ぎましたわ。 アリーシャさんがお相手だと、話しやすくてお喋りが止まりませんの。もしかしたら、このバターのお蔭もあるのかしら。口が滑りやすくなって困りますわね」

 

 そう言って、リリアナはくすくすと微笑む。そんな仕草も可愛らしくて、アリーシャもつられて笑ってしまった。

 彼女の方もアリーシャを気に入ってくれたらしく、事あるごとに伯爵家を訪れては、こうしてお茶のお相手をしてくれる。


「ありがとうございます、レディ――」

「ほら、また。私相手に遠慮なんて要りませんのよ。継嗣でもない娘ですもの。アリーシャさんには申し訳ないけれど、ここでのお茶会は気兼ねなくのびのびと過ごしたいんですの」


 そう。ややこしい敬称も付けず、ファーストネームで呼び合うように提案してくれたのもリリアナだ。

 公のお茶会ならともかく、個人でのお楽しみの場に余計な物を持ちこみたくない、らしい。

 本当に破天荒でお茶目なお姫様だ。


 大体、と。リリアナは口を尖らせる。


「百年ちょっと前までは、呼び方もそうかしこまっていなかったらしいのに。相手を爵位で呼んでいた時代もあったそうですわ。なになに侯爵、これこれ男爵、とか。今はそれもエチケットとやらで禁じられつつありますものね。夫人もそうです。呼称するのは侯爵以下ならレディ、公爵の妻なら公爵夫人ダッチェス。場所と人に合わせ、時節の空気を読むこと。それが貴族社会での常識なのだとか」


 愚痴を言うふりをして、こうやってさり気なくアリーシャに最新マナーの手ほどきをしてくれる。

 その気遣いが本当に有難いと思う。


「他人の足を引っ張る。それを楽しみになさる方々は少なくないのですもの。隙を見せないことが肝要ですわ。まぁ、それでも失敗はあるもの。つい、間違えてしまうことは私もあります」

「そういう時は、どうなさるのですか?」

「笑って誤魔化しますわ。失敗を失敗だと思わせないこと。有無を言わせない強引さも大事ですわね。時にはマナーやエチケットよりも優先せねばならないことはあります。大切なのは、相手の面目を潰さぬこと。それさえ出来れば、大抵は上手くいきます」


 これが本当にデビュタントを迎えて半年かそこらの少女なのだろうか。

 すでに百戦錬磨の兵の雰囲気さえ漂わせている。

 

「なる、ほど……」

「とは言え、私は生家のお蔭でその辺は楽をさせて貰っておりますわ。多少の間違いなど意に介しません。なにせマナーとは、私達が動いた後に出来るものですから」

 

 聞きようによっては傲慢極まりない言葉。けれど、彼女がそれを口に出せばそれはそうだと納得してしまう。

 確かな自信に満ちたその姿は、まさしく上位貴族の令嬢の鑑。

 圧倒されてこくこくと頷いていると、リリアナが頬を染めて苦笑する。


「……本当に、アリーシャさんは今時珍しい方ですのね。そんなに純粋な目で見られたことなんて、今までありませんでした。シュトラウス卿は本当に得難い妻を娶りなさいましたね」


 そうなの、だろうか。アリーシャとしては疑問符が浮かぶ。

 リリアナのように如才の無い令嬢の方が、もっとあの方に相応しいのでは。

 

「おやめくださいませ。アリーシャさんの夫を悪く言いたくはありませんが、私とあの方がどうこう、なんてあり得ません。天地が引っくり返っても無理。神が定めた運命だとしても御免こうむりますわ」


 どうやら、口に出していたらしい。

 リリアナの口調に段々と熱がこもっていく。恨み骨髄、というありさまだ。

 

「あれは、私が十二かそこらの頃かしら。お兄様にくっついて、このお屋敷を初めて訪問しましたの。兄の大切なご友人と聞いていたから、それはもう私も楽しみで楽しみで。とびきりのおめかしもして、我が家に代々伝わる銀細工を用意しましたのよ。初代の夫人から伝わる髪飾り。それを身に付けて淑女の挨拶をした私に対し、あの方はなんて言ったと思います?」


 矢継ぎ早に捲し立てられる言葉の嵐。

 リリアナの顔は笑っているが、目がそうではない。

 アリーシャは、どうにも嫌な予感がしてきた。


「『美味そうだな!』って、そう言いやがったのですわ! よりにもよって、あの家宝の髪飾りを見て! 満面の笑顔でそう御言葉を放ったのですあんちくしょうめ!」


 

 怒りのあまりか、リリアナの口から淑女に似つかわしくない叫びが飛び出す。

 どうやらアリーシャの旦那様は、幼き日の少女の淡い想いとか憧れとか、そういうものを根こそぎ破壊してしまったらしい。

 

「その後も、事あるたびに食、食、食事のことばかり! ドレスを褒めろ! 髪型を変えたのに気付け! 手土産の菓子に目を奪われるな! なんなの、本当になんなんですの!?」


 わなわなと震え出すリリアナ嬢。

 申し訳なさ過ぎてアリーシャは縮こまってしまう。

 その様子から、兄の親友に懸想をする、とかそういった展開にはならなさそうだった。


(リリアナ様からお借りした恋愛小説みたいに、三角関係というものには発展しなさそう。それなら――)



 ――良かった。


 

 ……あれ? アリーシャは戸惑う。何故だか、自分はホッとしている。

 セシルの所業のせいでリリアナが彼と縁を結ぶ、その芽が摘まれたというのに。

 心の何処かで、それを喜んでいるように思うのだ。

 

 こんな気持ちは、初めてだった。

 

「……失礼。私に限らず当家に生まれた女性はどうも、興奮すると口調が荒れてしまいますの。血筋、というものでしょうか。お恥ずかしい限り……って、どうなさいましたの?」

「え、いえ。その――」


 なんと言っていいのか。返答に窮していると、リリアナの背の向こう。

 見覚えのある人影が目に留まる。

 

(セシル様……)


 あの方角には伯爵家自慢の温室がある。もちろん、草花を愛でる為のものではない。野菜の栽培専用だ。

 南国から取り寄せたという、珍しい果物の飼育具合を見に行ったのだろうか。


 けれど、その表情は苦々しそうなものが混じり、何やら気難しそうな顔をしている。どうかしたのだろうか。

 セシルが笑っていないと、アリーシャはどうにも不安になる。

 

 出会った時は色褪せた世界に生きていたせいか、セシルの顔立ちもその色合いもぼやけていた。

 しかし、今でははっきりと視える。

 濃いブラウンの髪は彼の優しげな風貌に良く似合っているし、涼しげな目元は食の喜びに出会うたびに千差万別に変化し、いつもアリーシャの気持ちを明るくさせてくれていた。

 

 いつまで見ていても飽きない。いや、時間が許すならいつまでも見ていたい。

 けれど、最近はどうも変だ。

 彼を眺めていると、胸の奥が苦しくなる。何かの病気なのだろうか。アリーシャは時折、不安に駆られた。

 

 胸の内に湧き上がる暖かい想いと、相反する切なさ。

 それに振り回され始めていた。

 

「アリーシャ、さん……?」

「あ……申し訳ありません。つい、よそ見を――」


 お茶の場で、他に気を取られ過ぎた。

 失礼を詫びようと向き直り、アリーシャはそこで目を瞬かせた。

 リリアナは驚愕に眼を見開き、体を震わせていたのだ。

 

「な、何ですのそのお顔! その悩ましげに潤んだ瞳と、赤らんだ頬は! 破壊力が強すぎますわ!」

「はかいりょく」


 今一つ、意味がよく分からない。どういうことなのだろうか。

 

「同性の私でもどうにかなってしまいそうでしたわ! そのお顔、絶対に余所で見せてはいけません! 飢えた狼共に餌を与えかねませんもの!」

「どういう、ことでしょう?」


 やはり、自分は何処かおかしいのか。

 アリーシャの中で、どんどんと不安が募っていく。

 

「私は、病気なのでしょうか……? セシル様を見ていると、時折とても心の臓が苦しくなるのです。とくとくと、胸の音が強く響くこともあって。そうした時、決まって顔も熱を持ち始めるのです。あの、お医者様に相談した方が良いのでしょうか……」

「されたら医者も困り果てるでしょうね。気付いていらっしゃいませんの? これは重症、ですわね……」

「じゅうしょう」


 リリアナがそう言うのだ。もしや不治の病なのだろうか。

 せっかく、セシルのお役に立ちたいと思うようになったのに。

 これでは立派な女主人の役割も果たせない。セシルに相応しい妻になれない。

 アリーシャは涙が零れそうになる哀しみを堪え、何とか治療できないかと想いを巡らす。

 

「いえそんな、余命幾ばくも無いけど残りの人生頑張って生きるわ! みたいに振り切った笑顔をされても……勘違いをなさってますわ、アリーシャさん」

「え、治るのですか!?」

「治るというか、なんといいますか。私が貸した小説もお読みになったのでしょう? 話の内容も理解されていらっしゃるはずなのに、どうして自分のことになるとそう、そんなにも鈍感になってしまわれるのか。本当に、今どき珍しい方ですわ……」


 現実にもこんな乙女が存在するとは、等と呟きリリアナは目線を宙に彷徨わせる。

 

「まさか、卿に想いを寄せる女性がこの世に居るだなんて。世の中は不思議で満ちておりますのね。どうしましょう、私が教えて良いものか。変にこじれたらお可哀想な……ううん……」


 リリアナは何やらそう、ぶつぶつと独り言を述べ始めた。

 その内容はアリーシャには良く聞き取れない。どういう意味だろうか。

 

「アリーシャさん」

「は、はいっ」

「貴女のその想いがなんなのか、私から言うのは簡単です。けれど、それではいけないと思うのです」


 リリアナは、お茶が注がれたカップを指で突いて揺らし、水面に描かれた波紋を見つめている。

 

「その心に芽生えた暖かなものを育み、今日まで大事になさってきたのは、貴女。ならば、それに名を付けるのもアリーシャさんでなくてはいけません。他人から言われて決めてしまうのは、あまりにも勿体ないですわ。ご自分で気づかなくては、ね」


 どういうことなのだろうか。

 この胸を疼かせる気持ちに、名前を付ける……?

 今のアリーシャには良く理解が出来ない。だから、知りたいと、そう思った。

 

 この感情が病から来るものではないのなら。自分は分からなくてはならない。そんな気がした。


 リリアナにそう頷くと、彼女はどこか羨ましそうな顔でこちらを見た。


「寝ぼけ花が咲きましたのね。冬に囚われたお姫様を助け出すのは、遅い春の王子様。私としては、彼の方こそ鈍感・鈍足だと、寝ぼけているのはどちらなのかと思いますが……こうして目の当たりにすると、眩しいものですね。まるで物語のように素敵なお話ですわ」

「寝ぼけ、花……?」


 スノウ・フラワーの事だろうか。あの白い花弁を思い浮かべ、そこでアリーシャはふと気付く。

 かつて感じていたその花への焦燥感が、綺麗さっぱりなくなっている。

 どうして、だろうか。アリーシャは今こそ、あの純白の雪を見てみたいと、そう思うのだ。

 

「あぁ、良いですわ、本当に良いですわね。私も素敵な殿方と出会って、ご先祖様のように後世へ謳われるような運命的な恋がしたいですわ。来期はもっと社交に励まねば……」


 このうえまだ頑張るのか。本当に努力家な方だと、アリーシャは感嘆の声を上げてしまった。

 リリアナを娶れる男性は幸せ者だと、心からそう思う。

 自分も、セシルにそう認識してもらえるよう、努力せねば。改めてそう、決意を固める。


 そんなアリーシャを見て、リリアナは優しく微笑んでくれたのだった。

 

 

 ∴ ∴ ∴ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

 厳しい冬が過ぎ、やがて春が訪れる。

 三の月を過ぎれば、王都での社交シーズンはもうすぐそこだ。

 

 今までのように何も考えず、流されるままに社交界の見世物となるわけにはいかない。

 『人形令嬢』の名を返上し、伯爵夫人としてつつがなくお務めを果たすのだ。

 アリーシャは密かに闘志を燃やす。大いに燃やす。

 

 貴族社会は閉鎖的な世界だ。内輪と認めたもの達にしか開かれない場が存在する。

 

 近年では他国間での貿易が大いに盛り上がっているのだという。その加熱ぶりは年を越すごとに飛躍し、大きなうねりとなってこの国の在り方そのものに変革をもたらそうとしていた。そして、その担い手となるのが中流階級者たちだ。

 商売において大成功を収めた彼らが土地を購入して地主に転化し、上流階級層に食い込み始めているのだ。

 

 すると、そういった新興の勢力を認めたくないと考える者達――古くからの貴族や地主たちとの間に軋轢が生まれる。

 その為、上に取り込みたい、入り込みたいと考える中流階級者たちは、その土地の有力者たちに顔つなぎを求める事が多い。

 

 そういった繋がりを望めない者たちは、他領に顔の利く領主に近付き、その機会を得ようと必死だ。

 言葉巧みに擦り寄って来る者達を受け入れるか弾くか、そこに貴族としての度量が求められる。

 

 誰が誰と結び、どんな力関係を持っているのか。それを把握し情報を集め、可能ならば縁を広げてゆくこと。

 その為に社交は必須だ。暇を持て余したお金持ちのお遊びというだけではない。

 特に、食を愛するアリーシャの旦那様は、新たな種子や農法を得る為に人との繋がりは出来うる限り持ち得たい。

 そもそもセルデバーグ家との政略結婚もそれが大きな理由なのだ。

 

 その方面が苦手なセシルに代わって、伯爵家の女主人として自分が担う。

 それが彼へのせめてもの恩返しだと、そうアリーシャは決意していた。

 

 この時のために勉強も重ねたし、リリアナとのお茶会で場の雰囲気に慣れる訓練も積んだ。

 後は、実践あるのみ。

 

 来たるべき社交期に向け、誰を招くか、どんな場を提供するか。

 招待予定客を並べたリストと睨めっこをする日々。

 慣れない新米夫人にとって大きな負担と苦労を伴うものであったが、それが楽しいとも感じていた。

 そんな充実した毎日を送っていたアリーシャだったが、不安の種が無いわけでは無かった。

 

 ――――セシルである。

 

 冬頃から時折見始めた彼の落ち込み具合が、ここ最近は更にひどくなっていた。

 

 その原因は、例のイモにあるらしい。

 アリーシャの頑張りに触発されたか、彼も彼なりにそういった場に出向くことが多くなった。

 大抵は紳士の集うクラブであるが、どうもそこでイモを宣伝しても芳しい反応が得られなかったらしい。

 

 自慢のレシピを披露しても取り合ってすらくれず、セシルは大いに悔しがっていた。

 何故、どうしてこんなに美味しい物が受け入れられないのか。

 そう言って、情熱に潤んだ瞳でイモを見る。じっと見る。

 

 それがアリーシャはどうにも羨ましくて羨ましくて、しょうがなかった。

 

(あんなにもセシル様の御心を奪うなんて……まさに悪魔の実ね。その名に相応しいわ……!)


 最近では寝室に持ちこんで添い寝すら始める始末。このままでは妻の座すら奪われかねない。

 

 突如として巻き起こった夫婦間の危機に対し、アリーシャは人生で初となる、暗い嫉妬の炎を燃え上がらせるのだった。

 

 

 ∴ ∴ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 まずは相手を知る所から始めねば。刑を執行するのはその後だ。

 アリーシャは熟練の尋問官になった心持ちで、敵と向かい合った。

 

 目の前のテーブルには憎々しき悪魔が一個。ふてぶてしい面構えで転がっている。

 

(まずは……そうね。戦力の分析だわ。リリアナ様から借りた小説にもそう書かれていたもの)


 戦力、戦力……強さ、だろうか。 このイモの芽には毒があると言う。毒は凄い、強い。

 それに何よりこの凸凹とした表面。異様な風体だ。歴戦の兵感がある。強そう。

 

(……見た目では勝てないわ。容姿の勝負では向こうが上ね)


 だがこれで終わったと思うな。まだまだ比べる所は存在する。

 

(そう、能力よ。人は見た目が全てでは無いもの)


 能力……確かイモは、小麦の三倍の収穫量があったはず。

 加えて冷えにも強いらしい。冷たい水が苦手で、触ったらぶるりと震えるアリーシャでは分が悪い。

 

(まずいわ……能力でも完敗した。後は、そうね。器量だけど――)


 イモは体の滋養となる成分が豊富で、身もたっぷり。

 未だにお肉が付きにくいアリーシャとは雲泥の差だ。

 

(このままでは……イモが先にセシル様のお子を孕んでしまう……!)


 セシルと閨での行為を行ったのは初夜の時だけ。

 それもひとえに、彼がアリーシャの体を心配したからだ。

 

 

『女性が子を産むのは、大変な行為だ。時として命を損なうこともある。君はまだ……その、体が細すぎる。健康面でも十分とは言えない。体調が十分に整うまで、子を為すような行為は控えよう』


 彼の言葉が正しいであろうことは、メアリからも言い含められた。

 何でも、アリーシャは異様な程にやせ過ぎなのだと言う。

 下手に出産すれば母子ともに危うい。なるほど、それは確かに避けたい。

 

 アリーシャが喉から手が出るほどに欲しいお肉を、この悪魔は天然で身に付けている。

 恐ろしい。恐ろしいが過ぎる。

 

(かて、ない……)


 アリーシャはがくり、と肩を落とした。どうしよう、このままでは、

 このお野菜に、セシルが奪われてしまう。

 

 あまりの衝撃に、震えて怯えるアリーシャ。

 頭の中で、イモとセシルが婚礼を上げる様が鮮明に浮かび始める。

 

 晴れやかな空の下。参列客に祝福され、空から賛美歌が響くその花道を彼とイモが征く。

 セシルの顔は満足気な微笑みに彩られ、新たな花嫁をその手に抱きしめる。

 まさに神に祝福されたが如き、理想的な夫婦の姿だ。

 

 あまりの無念さと己の不甲斐なさに、アリーシャの口からため息が漏れる。

 

「奥様、そんな風にため息をなさっては、幸せが逃げてしまいますよ」

「メアリ……」


 部屋の隅で攻防を見守ってくれていた熟練家政婦の言葉に、アリーシャは顔を上げた。

 

「……イモの花嫁衣装には、何が相応しいかしら……?」


 返って来たのは沈黙。しばしの間のあと、メアリが口を開く。

 

「そうですねぇ、小麦の粉をまぶして揚げて、こんがりキツネ色の衣にしちまいましょう」

「良いわね……じゃあ、ヴェールはイモの花を使いましょうか……」

「ええ、ええ。こいつにはもったないほどの装いですよ。ついでに胡椒でも掛けてやれば十分でございましょうとも」

「そうしたら、セシル様はお喜びになるかしら……」

「喜び勇んで頭からがぶりといくでしょうね。皮も残しませんよ、きっと」


 そう言いながら、メアリはテーブルの上にカップを置く。

 その中からは甘い香りと、沸き立つような湯気があがっている。


「たっぷりとお砂糖を入れておきましたよ。疲れた時は甘い物が一番ですからねえ」

「ありがとう、頂くわ……」


 茶を口に含んだ瞬間、じんわりとした熱さと共に甘美な味が広がり、馥郁たる香りが鼻腔を通り抜けていく。

 セシルもお気に入りの濃い色の茶だ。最近では『紅茶』と呼ばれているらしい。


 

『君の瞳と同じ、紅の色だ。こんなにも味が深く感じるのは、だからだろうか』



「セシル様……」


 いつだか、彼がそう言って笑ってくれたのを思い出す。


「本当に、『坊ちゃま』は幸せ者ですねぇ。こんなにも愛らしい奥様に慕われていらっしゃるのですから」


 その呼び方は久しぶりに聞く。アリーシャは何だかくすぐったい気持ちでメアリの言葉に耳を傾けた。

 

「だというのに、ここの所は不景気な顔ばかりして。口を開けばイモ、イモ、イモばかり。しょうがない旦那様ですこと」


 それでも、奥様を忘れず気遣う辺りは子供の頃より成長している。そうメアリは寸評を下す。

 

 彼女の言う通り、セシルは変わらず優しい。

 食事時など、いつもニコニコとしてアリーシャのそれを見守ってくれている。

 

 だからこそ彼の悩みを深めさせるイモが憎かった。

 

「本当にこのイモが貧しい者達へのパン代わりになるというなら、こんなに素晴らしいことは無いんでしょうがねぇ。今さら、誰も口にしたがりませんよ」

「……そう、かもね」


 アリーシャを完膚無きまでに叩きのめすほど、能力が優れているのに。

 風評被害のせいで正当に評価されない。それは何だか悲しい事のように思えた。


「イモ自体は先代メアリの頃には既にあったらしいですけど、花が綺麗だってそれくらいでしたからねぇ。食べるなんて考えもしませんでしたよ」

「……先代?」


 あぁ、と。メアリが笑う。

 

「お貴族様は、使用人の名前を覚えるのも億劫な方が居ますからねえ。世間様に良くある呼びやすい名前を付けられる事も多いんですよ。聞いた限りでは、私は四人目のメアリでございますねぇ」

「……そういえば、男爵家にも居た、気がする……」


 粗相をするたびに入れ替わるので、アリーシャが物心ついてから嫁ぐまで、『メアリ』は十人くらい存在した。

 当時は気にする余裕も無かったが、あれはそういうことだったのかと得心する。

 

「でも、雇い主の都合で名前を変えてしまうなんて……」

「よくある事でございますよ。別に大した事じゃあありませんとも。お仕事名みたいなもんです。慣れれば、本名と変わりませんねえ」

「でも、それに慣れちゃうと、例えば実家に帰って家族に名前を呼ばれる時、変な気持ちになったりしない?」

「もう、居ませんから。平気ですよ」

「――え?」


 何でもないように告げられたその言葉に、アリーシャは目を見開く。

 

「もう、どれくらい前でしたかねぇ。地元の方で飢饉が発生したことがありまして。それだけならまだマシだったんですが、疫病まではやっちまってねえ。食べる物もなく栄養も取れず、旦那や息子夫婦に孫も、みんな神さまの所にいっちまいましたよ」


 寂しそうな顔でメアリが笑う。

 彼女はその時、ちょうど奉公に出ていたお蔭で難を逃れていたのだという。

 

「ご、ごめんなさ――」

「奥様、使用人相手にそうみだりに謝るものじゃありませんよ。そもそも、余計な話をしちまったのは私なんですからね。逆になんて縁起の悪い話を聞かせるんだ、って怒ってもいいんです」


 茶目っ気を利かせた仕草で、メアリが肩を竦める。

 アリーシャはどう答えていいものか分からず、無意識的に紅茶を口へと運んだ。

 甘味の中に感じる微かな渋みが、妙に舌を痺れさせた。

 

「……時々、考えちまうことはありますよ。もし、本当にこのイモがそんなに凄いものなら、どうしてあの時にそれが無かったのかってね。あの子だけでも、食べさせてやれなかったものかって……」 

「メアリ……」

「『旦那様』は確かに筋金入りの食馬鹿ですが、だからこそ何かやってくれるんじゃないかって、そう思うんです。小さな子が飢えに苦しむことのない世界。そんな夢みたいなことだって、いつか実現させちまうんじゃないかって――」


 かつて味わった苦しみと不幸を、断ち切る。メアリの『復讐』を彼が代わりに果たしてくれる。

 それを、彼女もまた期待しているのだろうか。

 アリーシャを見つめる老使用人の目は、何処までも優しさに満ちていた。


「奥様はきっと素晴らしいレディになれますとも。立派な伯爵家の女主人にね。だから、どうかあの方を見捨てずに最後まで付き添ってくださいませ。旦那様はその、生まれが特異でございましたから……」


 その言葉に、彼女もまたセシルの秘密を知っているのだと、アリーシャは悟る。

 

「先代様――実のご両親でさえ、理解が出来なかった。誰もあの方と同じ目線で物を見れず、味わえない。あの方に一番近しかったと自負する私でも、それは叶わなかったのですから」


 それでも奥様なら、と。メアリは微笑む。

 その目尻に浮かぶ透明な水滴が、窓から差し込む陽の光に照らされてきらりと光った。

 

「あの方は、私の話を聞いて泣いてくださったのです。悔しがってくださったのです。本当に、本当にお優しい方なのです。ですから……どうか、どうか――」


 それ以上は言葉にならなかった。メアリは背を縮めてゆっくりと頭を下げる。

 けれど、アリーシャには彼女が何を言いたいのか、はっきりと理解出来た。

 

「……ええ。わかったわ、メアリ」 

 

 震えそうになる声を努めて律し、そう答える。

 テーブルの上に転がる『悪魔』に目を落とし、アリーシャは静かに拳を握りしめた。




 ∴ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

「……収穫時、か」


 緑の葉が茂る畑を見つめ、セシルは呟いた。

 いつぞやの視察の際に訪れたあの場所。アリーシャの生家から仕入れた種イモが埋められた地。

 赤茶けた土だけが広がっていたそこは、年を経て見事な実りを迎えていた。

 

 しかし、その顔は晴れない。いつもならば、収穫を前にした食物を見て祝福しない筈が無いのに。

 そのわけをしかし、アリーシャは知っていた。

 

「やはり、皆様はお召し上がりになりませんか」

「うむ、難しいな。自国産と称することで、教会側には何とか認定させる所まで話を持っていけそうなのだが、 肝心要の人の口へと入る事が叶わぬのでは……」


 セシルの必死の宣伝も、今ひとつ効果を発揮しなかったようだ。

 それが無念で仕方がないと、彼は俯き跪く。

 地面に芽吹いた葉を手に取り、愛おしそうに撫でるその背はどこか痛々しく見えて、アリーシャは目を伏せた。

 

「何故、分かってくれないのだ。周期的には、じきにまた不作が来る。私にはそれが分かるのだ。他国からの輸入だけでは賄えん。国力も落ちる。飢えで苦しむ者がまた増えるというのに……木の皮を喰うほどに追い詰められたトムでさえ、口にする事を躊躇ってしまう」

「セシル様……」

「何より、こいつの美味さを知ってもらえんのが無念でならぬ! 美味いのに、こいつはこんなにも美味いのに……」

「セシル様……」


 本当に、アリーシャの旦那様はぶれる事が無い。

 その全身全霊はいつだって食べる事に向けられている。

 イモ畑を見つめるその瞳は潤み、今にも泣き出してしまいそうで――

 

「う、うぅ……!」


 ――泣いた。

 大の大人が、伯爵家の当主が大粒の涙を溢している。

 

「可哀想になぁ、可哀想になぁ……」


 イモからすれば、食べられない方がよほど幸福なのだろうが、彼にそんな理屈は通用しない。

 ここまで食に全てをかけた人が、他に存在するだろうか?

 

 

『……坊ちゃまはね、お寂しい方なのですよ』



 いつか、メアリが呟いたその言葉が耳朶を打つ。

 そうか、と。アリーシャはようやく理解出来た。

 飢える人を許さないと言った彼。アリーシャを飢えから救い出す事に全力を傾けてくれた彼。

 

 それは、セシルが飢えを知っていたから、だけではない。

 

 彼はおそらく、今もまだ飢えているのだ。

 

 セシルの背中がぼんやりと霞み、一回り小さな少年のそれが重なる。

 一度も見たことが無い筈なのに、何故かアリーシャの目には、それが見えた。

 誰にも理解されずに苦しむ子供の姿。わかってくれ、聞いてくれ。そう叫び声をあげる小さな背中が。

 

「……セシル様は、諦めてしまわれるのですか?」

「いや、それは無い。皆に分かってもらえるその日まで、私は屈さない。いつか老いさらばえ腰が曲がろうとも、生涯を掛けて訴えてゆく。それが私の変わらぬ意志だ」


 ――たとえ、一人でも。

 セシルの目は、言外にそう語っているように思えた。

 

 ああ、と。アリーシャはその瞳の輝きを見て、ようやく気付いた。

 

(そうか、私はこの方をお慕いしているのだわ)


 もしかしたら、気付かないふりをしていたのかもしれない。

 どんなに想いを傾けても、自分はこの人に愛される事は無いのだから。

 


『君を異性として愛する事は難しい……いや、恐らく無いと思う。うん、君を愛する事が出来ない』



 この感情を認めれば、欲しがりで飢えたアリーシャの事だ。彼にそれを求めてしまう。

 だから、今までその気持ちに蓋をしてきたのだろう。

 けれど、この胸を焦がす熱い衝動は、荒れ狂うほどの愛おしさは。アリーシャの欲望さえも押さえ込む程に大きくなっていた。

 微かに感じた痛みを心の中へとしまい込み、そっと目を閉じる。

 

(……愛されなくても構わない。私はこの御方に全てを貰った。それだけで、十分に過ぎる)



 ――どうか、坊ちゃまをよろしくお願いいたします。

 

 

 母のように慕うメアリが呟いた、声にならぬ無言の想い。

 それを、アリーシャは分かったと頷き受け取ったのだから。

 

 目を閉じ、考える。何をすれば彼の切望を叶えられるのか。

 自分に、何が出来るか。どうすれば、この御方の夢の手伝いが出来るのか。


 考えて、考えて、考えて……そうしてアリーシャは一つの答えに辿り着く。



『そうはいかん! 意外と大事なものだぞ、これは。名前だけでは無い、見た目もそうだ。馴染みの無い食べ物を食すにあたって、その心理的障壁を取っ払うことも重要でな。これが中々に馬鹿に出来ぬ』


『ウマい物を喰えば、元気になる。難しい事じゃねえ』


『だが、驚くのはここからだ。その正餐会の主催者は、動揺もせずに指示を出す。すると、どうだ。一枚目に負けず劣らずの見事なヒラメがすぐさま出されたではないか』


『そのお顔、絶対に余所で見せてはいけません! 飢えた狼共に餌を与えかねませんもの!』


『料理の味わいとは、五感の味わいだ。目で見て耳で聞き匂いを嗅いで、その舌触りを愉しむ。この夕日は、最高のシチュエーションだ』

 


 今日までに体験したこと、見聞きした会話に言葉。

 それらが今、一つに繋がる。

 

 あの時、夕焼け空で得た人の心。それに勝るとも劣らぬ衝撃が、アリーシャの脳を貫いた。

 

(……やっぱり、セシル様は凄いわ。いつだって、私に道を示してくださるのね)


 知識も少なく未熟なアリーシャが、こんな考えに至れたのも。

 素敵な出会いに恵まれたのも、全ては彼が導いてくれたから。


 この家に嫁いで、本当に良かった。心からそう思う。

 

「セシル様、私に考えがございます。どうか、聞いてくださいませんか?」

「アリーシャ……?」


 そうして、アリーシャはセシルにそれを告げる。『計画』の全貌を。

 微かに彼は目を見開くも、躊躇いもせずに首を横へ振った。

 

「駄目だ、君が晒し者になる。言っていたじゃないか、あの頃には戻りたくないと。そんな残酷な事はさせられん」


 あぁ、と。アリーシャは感極まって泣きそうになる。

 

 愚かな程にどこまでもひたむきで――本当に、優しい人。

 だから、自分はこの人を好きになったのだ。

 

「セシル様、覚えていらっしゃいますか? 私のしたいことをゆっくり探して見つければ良いと、そう言ってくださった事を」

「ああ、そうだ。もちろん、忘れはしない。君は、君の好きなように――」

「――見付けました」


 アリーシャは、にっこりと笑う。


「私のしたいこと、すべきこと。ようやく今はっきりと、分かったのです。私は、セシル様のように不思議な力も知識もありません。完全に同じものを見て、味わう事は出来ないでしょう。それは当然ではあります。人は人形じゃない。誰もが違う個性を持っている。だからこそ、命は尊いのだと知りました」


 そう、違う人間だからこそ、時には意見をぶつけ、対立しながらも今日まで文明は発展してきた。

 食もそうだろう。一握りの天才が時代を動かすのではない。

 多種多様な人々が試行錯誤を重ねてきた先に、今があるのだ。

 そして、人と人が完全に分かり合う事が出来ないと誰もが分かっている。だから、だからこそ。

 

「近づこうと努力するのです。分かり合うために言葉をぶつけるのです。私もまた、そうしたい。セシル様の隣で生涯を共にしていきたい。妻として、少しでもその想いを手伝いたい」

「ア、リーシャ……」


 セシルの声が震える。信じられないものを見たかのような眼差しに、アリーシャは唇が綻ぶのを感じた。

 

(見なさい、悪魔。私にだってこの方にこんな顔をさせられるのよ。貴女には負けていられないわ)


 東方の言葉に、敵へ塩を送るという言葉があるらしい。イモに塩。最適な組み合わせだ。

 実に美味しそうで、セシルも喜ぶに違いない。

 

「どうか、その夢に私を寄り添わせてくださいませ――あなた」


 メアリやトムが安心して暮らせる時代の為に。

 馬鹿みたいに優しいこの人が、美味しい物を食べ、安心して笑っていられる未来の為に。

 

 アリーシャはスカートを摘まみ、優雅に一礼する。

 

 

 ――――――私はもう一度、人形に戻りましょう。

 

 

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

  

  

 レディースメイドに頼み、コルセットを限界まで絞ってもらう。

 肉が付かない付かないと嘆いていたが、それなりに積み重ねてきたものはあったらしい。

 かつてのそれに近付くまで苦しい想いもしたが、仕方が無い。

 心配するセシルやメアリに微笑みを返し、アリーシャは戦場へと赴く。

 

 伯爵家は名門だ。舞い込む招待状も相応に多い。

 かつてはセシルが疎んで遠ざけていたらしいが、今年はそうはいかない。夫婦で参加だ。

 好都合な事に、『人形令嬢』が美食伯に嫁いでどう変わったかを知りたがる人々も少なくない。

 

 アリーシャは装いを整えて、舞踏会や正餐会、演奏会へと片っ端から参加してゆく。


「見ろ、『人形令嬢』――いや、『人形夫人』か?」

「あの無表情さはどうだ。前と同じ……いや、更に磨きがかかっているな。どうやら、流石の美食伯の食事も人形の心を動かす事は出来なかったらしい」


 囁かれる声にも反応を示さない。表情には何も写さず、所作にも感情を込めない。

 出された軽食も大皿から一口分だけを取り分け、摘まむ程度。

 それを見た人々は更に面白がり、社交界の見世物としてアリーシャを招待してくれた。

 

 顔を歪めるセシルの腕を抑え、時折アリーシャは首を振る。

 これでいいのだと。これがいいのだと。

 

 けれど、結果的に伯爵家の名誉を貶めることになるのは申し訳ない。

 そう謝ると、セシルはアリーシャの手を握って否定する。

 

「そんなものは最初から地の底だ。なにせ当主が私だからな」


 胸を張るセシルに思わず笑いそうになる。

 この方が旦那さまで良かったと、アリーシャは改めて実感した。

 

 そうして数か月。二人が待ち望んだその機会が、遂に訪れる。

 

 

「――来たぞ、アリーシャ。公爵家からの招待状だ。エヴィンが上手くやってくれたらしい。これでようやく、君の苦労が報われる。本当にありがとう」


 誇らしげにその封筒を掲げるセシル。

 あくまでアリーシャへの労いを忘れないその気遣いに、愛しさが募ってゆく。

 

「いいえ、これはひとえにあなたの努力があってばこそ。方々への根回し、そして場を整えてくださったことを心から感謝いたしますわ」

「私の労苦など些少だ。これでようやく、君にあんな顔をさせずに済むな」


 アリーシャにとって、他の誰にどう思われようとも構わない。

 とびきりの笑顔は、自分の大事な人達だけに。特にあなたの前で出来ればそれでいい。

 そう告げると、何故かセシルは顔を赤くして黙り込んでしまう。

 

 ぎくしゃくとした動作で場を辞するその背を、アリーシャは不思議な気持ちで見送った。

 まるで、セシルの方が人形になってしまったみたいだ。

 ここのところの彼の様子がどうもおかしい。けれどメアリやリリアナに相談しても、彼女達は苦笑するばかりだ。

 そうして呆れたような声で、異口同音にこう続けるのだ。


「ようやく春が来ましたか。寝ぼけ花じゃあるまいし、遅咲きにも程がありますよ、まったく」


 もうとっくに春は過ぎているのに。おかしな事を言うものだと、アリーシャは首をひねった。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 ――その日の正餐会は、実に豪奢な物となった。

 家格の大小に関わりなく、主だった貴族や地主、最近台頭してきた有力な中流階級層の紳士たち。

 名門であるレーベンガルド侯爵家に最古の貴族であるハインツ男爵家、果ては宰相――最近では首相と呼ばれ始めたらしい――に、王太子まで。絢爛豪華極まりない面子での会食会。

 世間での注目も否応が無しに高まり、これを報じるニュースペーパーは飛ぶように売れたという。


 提供された場は、王都で最も格式高いとされる屋敷。

 かつて、百年以上前の当時の王太子が使っていた離宮を改装したものだ。

 そして、主宰を務めるのはその子孫。三大公爵家の一角、四代ルスバーグ公爵である。

 

 代々の当主筋が受け継ぐという輝くような金髪をなびかせ、公爵は集まった人々へと挨拶を交わしてゆく。

 

「今宵は、このエルドナークの歴史に新たな食の幕が開くでしょう。どうぞお楽しみあれ」


 そう話す公爵の言葉に、参加者たちの期待が高まる。

 美食を避け、慎ましきを尊ぶとは言え、やはり人間、美味しい物を食べたい欲求には逆らえない。

 財力に溢れた貴族ならば尚の事だ。

 

 皆、目を輝かせてテーブルを見つめる。

 この国ではアストリア式の食事が主流だ。

 コースごとに運ばれ並べられた料理一式に主人がナイフを入れ、そこから思い思いに取り分ける。

 

 フットマンの手で次々と用意される料理の数々に、誰もが皆が目を奪われた。

 温かな湯気があがる、肉の塊のような野菜。プディングらしきものに、ゴロゴロとした野菜や肉が入ったラグー。

 それらは馴染みの薄い、見たこともないものばかりだったからだ。

 注目を十分に浴びたと悟ったか、公爵が手で料理を指す。

 

「では、紹介しましょう。これらはどれも、素晴らしき食材を元にしております。収穫量は小麦の実に三倍。春と秋に収穫でき、痩せて冷えた土地でも実りを結ぶ事が出来る。まさに夢のごとき野菜なのです」


 おぉ、と。参列者たちから感嘆の声があがる。

 彼らの憧憬の視線を集めるように公爵が手のひらを掲げ、そこに在るものを見せつけた。

 

「これがその食材。ご存知の方も居るようですな。麗しき花を咲かせるもの――イモです」


 瞬間、場が一気に冷え込んだ。

 ざわつく声があがり、皆が皆戸惑うように目を彷徨わせ始める。

 

「こ、公爵閣下! まさか、まさかイモとは、あの……?」

「あ、悪魔の実……っ!?」


 恐れおののく声が静かに広がってゆく。

 誰もが背を震わせ、食卓から距離を取っていく。

 波が引くように人の輪が下がり、テーブルの周りにぽっかりとした空間が生じる。

 

「左様。飢饉の救いとなるものです。貧する者たちへの施しともなりうるでしょう。高貴なる者の義務にも適うかと」

「じょ、冗談ではないッ!」

「正気とは思えませんな! 殿下への侮辱とも取れますぞ!」


 悲鳴が怒号に代わり、阿鼻叫喚の有様へと早変わりしてゆく。

 こういった新しき食材・料理の際は主催が安全な物だと先に口へ入れるか、もしくは位の最も高い貴族――今回ならば王族である王太子や首相が皿を手に取るのがマナーだ。

 

 しかし、誰も動かない。ただじっと成り行きを見守るのみ。

 そして、それこそがアリーシャが待ち望んだ機会でもあった。

 

 

 ――――さぁ、今だ。



 ざわめく参列客をセシルが制し、前を掻き分ける。

 そうして出来たその道に滑り込むようにして、アリーシャは進み出た。

 

「な……?」

「あれは、『人形夫人』よ……?」

「一体、なにを――」



『時にはマナーやエチケットよりも優先せねばならないことはあります』



 多少強引にでも、場をねじ伏せろ。今、それが出来るのは自分しか居ない。

 微かに震えそうになる足を叱咤し、アリーシャは人形らしく無機質な足取りで、テーブルへと向かう。

 

 王太子と首相、それに公爵へと目配せをすると、彼らは微かに頷きを返し、『人形夫人』をそっと促してくれる。

 

 選んだのは、イモをふかしバターを和えたもの。最初の一口は出来うるだけ、元の形を保ったものが望ましい。

 そっとナイフを入れると、さくりと刃が沈み、とろけたバターが実に絡んで食欲をそそり立てた。

 

 その一欠けらを口に運び、そっと味わう。

 

 出来たてのイモ料理は未だ冷めてはおらず、ほっこりとした熱さが口内広がる。

 たっぷりと絡んだバターと、『カレー』スパイスのピリッとした辛さが舌の上で絶妙に合いまり、イモの食感を盛り立て一段上の味わいへと進化させてゆく。

 蕩けるような心地に身を委ね、アリーシャは()()()()()()()()()()呟いた。

 

「美味しい……!」


 しばしの沈黙の後、広間に悲鳴の如き叫び声が木霊した。

 

「にに、人形が微笑んだ……!?」

「う、美しい……! なんという、可憐な……! あれが、本当にあの――?」

「まさか、今のイモ料理で!? ど、どれほどに美味だというのだ……!?」


 如何なる場所でも、眉ひとつ動かさない人形令嬢。それが、花咲くような笑みを見せたのだ。

 参列客に走った衝撃は並大抵のものではないだろう。

 

 それを物語るかのように、あれ程に忌避していたイモ料理に、皆の目線が釘付けとなっている。

 ごくり、と。誰かが唾を呑む。不作法なそれを咎める声は上がらず、先ほどまでとは異なる熱気が場を包み始めた。

 

「うむ、美味であるな。流石は公爵。素晴らしき料理を知っているものだ」

「まったく、まったく。同意にございますな、殿下。これは本当に素晴らしい」


 皆の反応を待っていたかのように、王太子と首相がイモ料理を口に運び、賞賛する。

 何代か前の王妃から継いだという銀の髪を揺らしながら、王太子殿下が涼やかに微笑んだ。

 それが禊となり、参列客たちの背を押す。

 彼らは我さきと食卓へ殺到し、プディングやラグー、ふかしイモを自らの元へと取り分けてゆく。

 

「こ、これは素晴らしい……! 何という味わいだ!」

「このスパイスは何だ!? 知らんぞ! こんな複雑な味の香辛料など――」


 貴族の反応に、擦り寄ってきたのは中流階級の紳士層だ。

 シュトラウス伯爵家と取引のある商会の者達や貿易商であり、上流階級ヘの昇格を夢見ていたり、繋がりを得て更なる富を持とうとする野心家たち。

 彼らはこの時を待っていたとばかりに自社の商品を宣伝していく。

 

 会食は、たちまちに社交の場へと早変わりした。

 勿論、富裕層の商人たちもエチケットは弁えている。肝心の商談は場を改めるとして、最小限度の折衝で印象付けを果たす。

 

 美味しい物を食べれば、腹も気も緩む。その機を逃さないのは流石と言えた。

 

「いやはや、流石は公爵! 感服しましたぞ!」

「まったく、これで小麦の倍の収穫が期待できるとは! 早速、我が領地でも栽培を試しましょう!」


 種イモの提供は商人たちの手で果たされる。その大元は、伯爵領で栽培されたあのイモだ。

 興奮の坩堝と化した会場で、セシルとアリーシャは微笑み合う。

 達成感と共に、心の底から喜びが広がっていく。大成功だ。

 

「……やったな、セシル。夫人もお見事。こうも上手く行くとは思わなかったぞ」

「おめでとうございます、お二人とも」


 労いの言葉と共に現れたのは、エヴィンとリリアナの兄妹だ。

 彼らは正装に身を包み、その胸元には『公爵家』の紋章が刻まれている。

 レパシスという木の葉、それが乙女の手に包まれているのを象った、独特の家紋だ。

 

「ありがとうございます、ルスバーグ閣下・・


 この国では、時と場合に応じて呼称が異なる。

 今宵の彼は、名目的爵位を持つメルトルート伯爵では無い。

 ルスバーグ公爵家の嫡男、名代も務めるれっきとした公爵令息エヴィン・ルスバーグなのである。

 

「これもみな、エヴィンが骨を折ってくれたお蔭だとも。それに殿下や首相を始めとするお歴々の尽力だ」


 セシルは料理を楽しむ参加者たちを満足げに見て、微笑んだ。

 

「あの中にも、イモの有用性を知っていた者は少なくあるまい。可能ならば、自領で栽培したいと思っていたはず。けれど、踏ん切りが付かない。その先鞭を取るきっかけが掴めない。建前が必要だったのだな。貴族とはつくづく、面倒なものだ」

「面子を重んずるのが我々の伝統だ。だから、正直なところ気に喰わん。貴様が得る筈だった名誉も賞賛も、我が家が総取りしてしまったではないか」


 苦々しい顔でため息を吐く公爵令息。生真面目な人だと、アリーシャも苦笑してしまう。

 

「お兄様は変な所でお堅いのですから。お義姉さまも苦労なさいますわね。御子も生まれたのですから、もう少し柔軟性をお持ちくださいまし」


 くすくすと笑うリリアナに、エヴィンは渋い表情を返す。

 兄妹間の力関係が垣間見えた気がして、アリーシャは微笑ましい気持ちになった。

 

「だが、イモの産地に適しているのが我が伯爵家の領地とも紹介されてはな。どう喜べばいいというのだ、これは」

「素直じゃないな、エヴィン。この舌で確かめた。お前の領地であるメルトルード西部の農地が比較的に温暖で、イモの栽培に最適だ。ブランドというやつか。高品質の物が取れれば、上流階級層は喜ぶ。競い合って購入するだろうさ」


 冷やかすようなセシルの言葉に、エヴィンはますます難しい顔になる。

 友の功績を奪う形になるのを好ましくないと考えているのだろう。

 何故この二人が親しい友人関係で居られるか、アリーシャはそれが何となく分かった気がした。

 

「気にするなと言っているだろう。料理のレシピは我が家の保証の元で提供されるしな。何が不満だと言うんだ」

「貴様を愚かな食道楽と嘲笑した連中を見返せるだろうに。その機会を棒に振るっていいのか?」

「事実ではあるしな。それに、公爵家の名をお借りしたからこそ良いのではないか。我が家ではこうはいかん。お前にはいつも世話を掛けているのだ。その礼と思ってくれ」

「しかし――」


 尚も言い募るエヴィンを制し、セシルは懐に手をやった。

 

「それに、名誉ならもう頂いている」


 眉を顰める親友にニヤリと笑い、セシルは左手でアリーシャの腕を取り、右手でイモを掲げた。

 

「我が賢妻と、この素晴らしき食材がそれを得た。ならば、他に望む事など何も無い」


 躊躇いもなく言い切ったその言葉に対し、エヴィンが見せた反応は劇的だった。

 

「ハハハ……ハハハハハ!!」


 あの貴公子然としたエヴィンが腹を抱えて笑い出したのだ。

 これにはアリーシャのみならず、リリアナまでもが驚いた顔をしている。

 どこかすっきりとした表情で声をあげる彼を見て、付近の参列客までがぎょっとした顔で振り返る。

 

「馬鹿もそこまで貫けば気持ちが良いな! 貴様たちは本当に似合いの夫婦だ!」


 その言葉が何よりも嬉しい。最高の賛辞だ。

 アリーシャはセシルと顔を見合わせ、ゆっくりと微笑んだ。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

  

  

 公爵家での会食騒動は上流階級層に衝撃と共に伝播し、イモ料理の存在が瞬く間に広がってゆく。

 それを見計らったかのように調和教会が聖典の一部改訂を宣言。かの食材を正式に認定したことにより波は更に広がり、社交の場において提供される料理として、イモは最先端の流行となりつつあった。

 

 上流の情勢に注目し、真似て反映するのが中流階級の常だ。上の流行は下へと伝わり、イモの需要は否応が無しに増す。

 また、王家の意向を受けて議会がイモ栽培を奨励したことでその流れは激化。近年の農業改革による技術の向上も相まり、貴族や地主たちはこぞって自領への『イモ改革』を急速に進め始めた。

 当然、諸外国からの貿易も加熱。多少の反発はあったものの、需要がそれを覆した。

 

 イモ栽培・料理に一日の長があるシュトラウス伯爵家は、舞踏会や正餐会を行う事で人を集め、アリーシャ自らが女主人として料理人たちへと采配を振るった。勿論、セシルも一緒だ。彼の豊富な知識からもたらされる薀蓄は参列者たちを唸らせ、各々の料理人たちに新たな料理を開発させる原動力となった。

 

 リリアナもまた、協力者としてその人たらしの能力を最大限に発揮。上流・中流の令嬢たちのお茶会へ頻繁に顔を出し、イモ料理の喧伝への一助となった。その愛嬌と朗らかさでするりと人の懐に飛び込む力は、アリーシャには無いものだ。彼女の瞳に見つめられると、まるで魔法が掛かったように皆、その話に惹きこまれてしまう。

 娘にねだられる事で親もまたイモ料理を食卓へと上げる。

 

 その循環が予想以上の働きとなってエルドナーク王国を揺り動かしていった。

 

 そして、中流のその下。肝心とも言えるこの国の主流層の労働階級への伝播。これが一番の難題だった。

 特に田舎の人間ほど純朴で信心深い。そう容易く過去の嫌悪を振り払えないと思われた。

 しかし、ここで嬉しい誤算があったのだ。


 社交期が終わり、迎えた秋。

 久しぶりに変装してトム達の村を訪れたアリーシャとセシルは、そこで信じられない光景を目の当たりにする。

 

「これ、は……!?」


 驚きのあまり、アリーシャは息が止まるかと思った。セシルも同様に、目を見開いて『それ』を見つめている。

 見慣れた緑の葉。それが立ち並ぶ畑が、ずらりと広がっていたのだ。

 

 驚愕するアリーシャ達を眺め、トムが得意そうな声を上げた。まるで、悪戯が成功した子供のような笑み。


「言ったろう、あんな実は誰の手にも届かない所に捨てちまったとな! そうしたら何と、芽が生えてきちまったじゃねえか。これじゃあしょうがねえ。生えたんなら売らなきゃ損だし、喰わなきゃもったいねえ」


 しょうがねえ、しょうがねえ! そう、周りの男達も唱和する。


「それに、王さまからのお達しもあったって言うじゃねえか。土地の管理人も喜んで許可を出してくれたぜ。このイモな、俺の蜂蜜と一緒に揚げると中々の味わいだぞ。レシピも添えて売り出したら結構いけるんじゃねえか、って話していたところだ!」

「トムじい……お、まえ……」


 感極まったように、セシルが瞼を押さえる。アリーシャも同じだ。

 家令の元へ上がって来た報告、一部地域でイモの普及率が急上昇しているからくりは、こういうことだったのか。

 胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを抑えきれない。

 

「なんだ、泣いてんのかよウィル!」

「らしくないぜ、ほらメシ喰ってくだろ? 例のハチミツイモ、試食してくれや!」

「ああ、ああ……!」


 男達に押されるようにして、セシルが頷き歩き出す。

 

 その光景を万感の思いで眺めていると、アリーシャの肩を誰かが叩く。

 

「相変わらず泣き虫な小僧だぜ。初めて会った時からちっとも変わってねえ。なぁ、嬢ちゃん。ちゃんとアイツを見張ってろよ。また森を彷徨って腹空かせるような事になんねえように、な」

「え……?」


 ぎょっとして振り向くと、アリーシャのすぐ後ろで、トムが鷲鼻を鳴らして微笑んでいた。

 


『初めて会った時と同じく、ここに来るならメシを喰わせてやるし、あいつの馬鹿話を肴に盛り上がる。それだけだ』



 ああ、そうか。そうだ。彼は以前にも、そう言っていた。

 アリーシャはようやく違和感の正体を悟る。

 セシルから話を聞くに、この村を最初に訪れた時には、食事などご馳走にならなかったはず。

 

 知っていたのだ、気付いていたのだ。そのうえで敢えて黙って、彼を身内として招いてくれたのだ。

 

「お貴族様や商人どもなんて関係ねえさ。庶民の食べ物は、庶民が広げる。美味くて量があるもんなら尚更だ。だからこっちは任せろや、お嬢ちゃん」


 そう言って、トムはぱちんと片目を瞑ってみせる。

 その仕草が何故かとてもチャーミングに見えて、アリーシャの瞳から涙が零れ出した。


 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

「……今日もとてもお綺麗ですよ、奥様」


 メアリが目を細め、ドレス姿のアリーシャを賞賛する。


「メアリがそう言ってくれるなら安心ね。あの方の隣に並んでも恥ずかしくないってわかるもの」

「まぁ、そのような事を仰って。どちらかと言うと、旦那様の方が見劣りしてしまいますよ。最近では少し格好を付けるようになったようですが、まだまだ付け焼刃ですね、あれは」

「もう、メアリったら……」


 鏡台の前に座ったアリーシャの髪を、メアリが梳く。

 こんな風に彼女の手を煩わせるのも久しぶりだ。

 今ではもう、専門のレディースメイドがドレスも髪型も整えてくれる。

 しかし、今朝方になって急にそのメイドが体調を崩したため、メアリが代役を買って出てくれたのだ。

 

「奥様がこのお屋敷にやってきた日のことを、思い出しますねえ。あの時は、この世にこんなに綺麗な髪をした方が居るのかと、目を疑ってしまいましたよ」


 感慨深げにつぶやくその言葉が、妙にくすぐったく感じる。

 あれからもう、一年以上が過ぎた。

 あの時から、自分は成長できているのだろうか? アリーシャは疑問に思う。

 セシルやメアリは見違えたと褒めてくれるが、まだ実感は湧かない。

 

「……本当にお二人とも、立派になられて。もうそろそろ、私もお役御免ですかねえ」


 ここのところ、メアリはそんな事を言い出すようになった。

 イモの普及に伴い、飢えに苦しむ人が少なくなる。その目算が立ちつつあったからだろうか。

 どこか満足したように笑う彼女に、アリーシャは胸が締め付けられるような思いに駆られた。

 

 このカントリーハウスを家令と共に盛り立ててくれているのは、他でも無いメアリだ。

 まだまだ教わりたい事はたくさんある。傍に居て欲しい。でもそれは、アリーシャの我儘なのだろうか。

 

「……メアリの人生だもの。メアリの好きなように生きて欲しいわ」


 でも、と。アリーシャは背中越しに彼女に語り掛ける。

 

「覚えているかしら? 私は素敵なレディになれるって、そう言ってくれたわね」

「ええ、もう十分に素晴らしい――」

「私は、貴女みたいになりたいわ」


 髪を梳く手が止まる。背後から、息を呑むような気配が伝わって来た。


 鏡に映るアリーシャは、本心からの笑みを浮かべている。

 こうやって笑えるようになれたのもセシルと、そしてメアリのお蔭だ。

 

「いつか御子が産まれたら、その子のお世話は貴女に手伝って貰いたいわ。貴族の女性は子育てにあまり携わらないと言うけど、私はそれもしてみたい。セシル様や――貴女と、一緒に」


 きっと、セシルは『英才教育』を施そうとするだろう。それを程々の所で窘め、よりよい未来へ導いていきたい。

 まだ子を授かってもいないのに、気が早いと彼女は笑うだろうか。

 でも、その夢のような光景の中に、メアリが居て欲しいと、アリーシャはそう思うのだ。

 

「メアリのように素敵な年の取り方をして、あの方に相応しい貴婦人で在りつづけたい。それが、今の私の夢よ」

「おく、さま……」

「いつもありがとう、メアリ。貴女の出来うる限りの時間でいいわ、もう少しだけ私に力を貸してくれないかしら? きっと、セシル様もそうお考えだと思うの」


 ――貴女は、私達二人の母親代わりなのだから。


 そう声に出さずに呟く。

 鏡の中のメアリが俯き、体を震わせる。

 真っ白な髪に流れ落ちる水滴、それを見ないふりして、アリーシャは微笑んだ。

 


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

 あのイモ騒動以来、アリーシャは社交界の花になりつつあった。もちろん壁の花、ではない。

 リリアナと同様の、正真正銘の輝く華。

 舞踏会に赴けば紳士達からダンスを請われ、淑女たちに話をせがまれる。

 嫉妬をされたり、火遊びの誘いを受ける事もあるが、その躱し方もリリアナ直伝だ。

 

 アリーシャの心に住む男性はただ一人、セシルのみ。

 例え、彼から愛を返されなくても。

 ただ想い続けているだけで、アリーシャは十分だった。

 

「疲れたろう、少し休んではどうか?」


 その日は、伯爵家主催の舞踏会。

 女主人として最低限の社交とダンスを終えたアリーシャに、セシルがそう提案してくれる。

 確かに、そろそろ夜も更けてきた。参加者たちも思い思いに踊りや食事を楽しんでいる。

 今日はひっきりなしにゲストの相手をしていたせいで、少し疲れた。

 自分も何か、お腹に入れた方が良いかもしれない。

 

「そら、牛のローストを持って来たぞ! とっておきの部位だ。君の為に、そ、その……取っておいたんだ!」

「まぁ」


 その心遣いが嬉しい……嬉しいが、どうしてそんなに顔を背けているのだろう。

 春先辺りから変だと思い始めていたセシルの奇行は、月を跨ぐ毎に加速していった。

 

 こうして、アリーシャには変わらず優しいのだが、その際に顔を赤らめたり手と足が同時に動いたりと、挙動不審になることが多すぎる。

 

(体調を崩されているのではないかしら……)


 今日の昼食時を思い出す。

 彼がなんと、好物であるハッシュドビーフをお代わりしなかったのだ。こんなの、前代未聞である。

 アリーシャが上げた悲鳴に屋敷の者達が総出で駆けつけ、医者まで呼ぶ大騒動になりかけた。

 

 美食も過ぎれば毒だという。セシルは日々美味しい物を食べる為、厳しい運動を自らに課している。

 けれど、彼は悪食だってなんのその。腐りかけた物でも『勿体ない』と口にしかける。

 幾ら鍛えても、内臓までは無理なのではないだろうか。アリーシャは心配でならない。


(もしや、拾い食いをされて、お腹を壊したとか……!)


 あり得る。旦那様ならあり得る。いや、そうとしか思えない。

 アリーシャは顔から血の気が引いていくのを感じた。なんてこと、一大事だ。

 フットマンに命じ、胃に効く生薬を持って来させようとした、その時だった。


「アリー、シャ……?」


 どこか懐かしいその声に、アリーシャは振り向く。

 

「お父様……?」


 茫然と立ち尽くすその男の姿は、見間違えようも無い。

 アリーシャの父。セルデバーグ男爵だ。

 

 一年振りの再会。アリーシャの心に微かな緊張が走る。

 その手から脱したとはいえ、彼の言葉は十九年間にわたって自分を縛り続けてきたのだ。

 

 無意識の内に身構えそうになり――そこで、ふと気付く。

 父の様子が、妙だ。目を剥き、体をわなわなと震わせ、その姿は今にも倒れてしまいそうなほどに頼りない。

 

(……あら? お父様は、もっと背も高くて大きく見えたのだけれど……)


 こんなにも、父は小さかったろうか。

 もしかしたら、大柄なセシルといつも一緒に居たせいなのか。

 記憶にある姿と目の前の父がどうにも一致しない。

 

「なぜだ、こんな、バカな…‥‥お前は、あの時が最高だったのだ。出荷した、あの日が――」


 男爵は、虚ろな目でふらふらとアリーシャ達の方へと近寄って来る。

 その足取りはぎこちない。地に付いていないかの如くふらついていた。

 もしや、こちらも病気なのだろうか。

 

(――どうしよう、部屋で休んでもらうべきかしら)

 

 アリーシャが迷う間に、セシルがその前へと歩み出ていた。

 まるで妻を背に庇うようなその姿に遮られ、男爵が足を止める。

 

「ど、どけ! 貴様、貴様は何をした! な、なぜ! なぜこうも、アリーシャが……! あり得ぬ! こんな筈はない!」

「お、お父様? どうなされたのですか……?」


 アリーシャの声に、しかしセルデバーグ男爵は更なる激情を見せる。

 

「『どうなされたのですか?』だと!? お、お前、お前を! そんな言葉を囀るように作り上げた覚えは――」

「――義父上。子はいつか親の手元から巣立ち、成長するものですよ。それを貴方は自覚すべきだ」


 セシルの口調は淡々としているが、その声は冷ややかだ。

 こんな風に他人と接する夫を見たことが無い。

 戸惑うアリーシャの肩に、セシルの手が触れた。

 

「アリーシャ、君は今幸せかい? もしもそう思ってくれるなら、その証拠を義父上に見せてさしあげて欲しい」


 セシルは、何を言いたいのだろう。その答えなど、決まっている。

 悩むまでも無い。

 

「もちろん、私は幸せですよ。あなたに会えて、この家に嫁げて。心の底からそう言えます」 


 今日までの思い出が頭に浮かぶ。

 それらの記憶を紐解いていくうちに、知らず頬が緩み口元が綻んでいくのが分かった。

 正直、父に対して思う所が無いわけではない。けれど、それはもう過去のこと。

 それにかつて自分が人形であったからこそ、セシルの力になれた。それもまた事実だ。

 

 かつての仕打ちを恨むより、未来に開いた希望を喜びたい。

 父に対して遺恨を持っている所など、セシルに見せたくはないのだ。

 

 アリーシャはスカートをつまみ、優雅に一礼する。

 

「お父様、今まで育てて頂き、ありがとうございました。私は今、本当に幸せですわ」


 にこり、と。今の自分が出来る精一杯の微笑みを浮かべた。

 

「――――――ッ!!」


 しかし、返ってきたのは声にならない悲鳴。

 父の顔は青白さを通り越して土気色に染まっている。

 ただならぬその様子に、アリーシャは人を呼ぼうとするが、それをセシルが制した。

 

「アリーシャは、私の元で花開きました。誰でもない、彼女自身の意志でね。この意味がお分かりでしょう、義父上。あの雪の花を応接間に飾らせていた、貴方になら、ね」

「あ、ひ……寝ぼけ、花……? うそ、だ……うそだ、うそだ、うそだ……」


 セシルの言葉に、父が仰け反る。やがてその足が逆向きに動き出し、アリーシャ達から後ずさり始める。

 その眼は限界までぎょろりと見開かれ、血走っている。まるで、この世ならざる恐ろしいものを見たかのようだ。 


「……義父上がお帰りだ。送ってさしあげてくれ」


 セシルが従者にそう命じる。

 すると、足早に駆け寄ってきた彼に付き添われ、男爵はその場から逃げるように退出してゆく。

 

「えっ、と……? 一体、何があったのでしょう?」

「……前に言ったろう? お義父上は芸術家だと。彼には分かったのさ、己が作り上げた『最高傑作』とやらが未だ成長途中の出世魚、あるいは花の蕾に過ぎなかったことを」


 フロアから出て行く父。それを見送るセシルの声は、どこか憐れんでいるように聞こえた。

 

「咲く前の花莟を見て、これで満開になったと喜んでいた。そう、それこそが自分自身の限界だと、他でも無い愛娘に思い知らされたのだ。半生を費やした結果がそれでは、その事実に耐えられまい。許せはしないが、哀れだと思う」

「は、ぁ……」


 やはり、良くわからない。

 わからないが、しかし。何となく、アリーシャは悟っていた。

 今この時に。父の元から、自分は本当の意味で飛び立ったのだと。

 

「……男爵家の跡取り息子とは会ったことがある。君の兄だったか。父親と同じような気質はあったが、良い方向に向けられていると思った。君のことも、彼なりに気に掛けているようだ。義父上はもう引退をされるだろうから、近いうちに彼が爵位を継ぐだろう」


 君が良ければそのうち、会ってみるといい。そうセシルが勧めてくれる。

 会話を交わしたことも無い兄。姿を見た記憶もおぼろげだ。

 でも、血を分けた兄妹として、話が出来るならしてみたい。

 

 アリーシャが憧れる、リリアナとエヴィンのような関係になれるなら、なってみたいと思うのだ。

 上手く行くかは分からない。けれど、動いて見なくては何も変わらないのだ。

 この家に嫁ぐまでの、アリーシャのように。

 

 妻のやる気を見て取ったか、セシルもまた、発奮されたかのように拳を握りしめる。


「これから、まだまだ忙しくなる。他国とも取引をし、イモの品種改良にも着手せねば。単種では病が流行った時に弱い。連作も問題だな。幾ら優秀とはいえ、一つの作物に全てを頼り切る様ではいかん。何しろ――」

「――全ての食材は等しく尊い、ですものね?」


 その先の言葉を予見し、アリーシャが引き継ぐ。

 お株を奪われた、というようにセシルがきょとんとした顔をする。

 それが何だかおかしくて、アリーシャは笑ってしまった。


「そうだ! 流石は我が妻! イモは小麦の代替ではない! それぞれに得意の分野があるのだ! 良く分かっている! 良くぞそう言ってくれた、アリーシャ!」 

「ありがとうございます、あなた。最高の褒め言葉ですわ」

「う……! い、いや! 礼を言われるようなことではない! お、夫として、当然のことを、だな……!」


 まただ。セシルは目線をあちらこちらに彷徨わせ始めてしまう。


「お気分でも悪いのではないですか? ゲストの方々の対応は私が致しますので、今宵はもう休まれては……」

「い、いや! 君を一人にするわけにはいかない! それは絶対に駄目だ!」


 給仕をする使用人たちも大勢いるのだから、一人ではないのに。

 そうは思うが、セシルは納得してくれない。

 

「す、少し火照っただけだ。バルコニーに出て、風に当たれば治るとも」


 また例のぎくしゃく人形となり、セシルはバルコニーの方へ向かう。

 もちろん、アリーシャも一緒だ。使用人たちに目配せし、夫の腕を取って先導する。

 

「ア、アリーシャ……!?」

「どうか、ご無理をなさらずに。お体を大事にしてくださいませ」


 バルコニーに出ると、ひんやりとした風が肌を撫でる。

 少し寒気を感じる。今のアリーシャは胸元がはだけたナイトドレス姿だ。羽織るものを持って来た方が良かったか。

 そう思っていると、ふわりと肩からショールが掛けられた。


「……ありがとうございます、あなた」

「い、いや! 夫として紳士として当然のことだ!」


 しどろもどろになる夫が、何だかとても可愛らしい。

 そんなことを思ったのは初めてだ。

 今日はとても月が綺麗だからだろうか。

 

 光の中に浮かび上がるセシルの姿は、いつにも増して魅力的に映った。

 

 ずきり、と。胸がまた痛む。

 

 それに気づかないふりをして、アリーシャは首を振った。

 

「あなた、ご覧くださいませ。今宵はとても月が美しゅうございますね……」

「君の方が綺麗だ」

「え……?」


 聞き間違えだろうか。夫が今、あり得ない事を口にした気がする。

 

「い、いや、その……すまない」

「何故、謝るのです?」


 褒められて嬉しいと思うこそあれ、謝罪をされる理由が見当たらない。

 不思議そうに見つめていると、セシルの表情が照れたようなそれから、苦み走ったものへと変わり、やがて一つの決意を固めたものへと移る。

 

「……見かけだけの美しさなど、年を経れば失せるものだ。しかし、人生の末を迎えても、より輝く者も居る。それは、内面から生じる美しさだ」

「内面……?」

「所作や心の在り方。そうして歩み、築きあげてきた人生がその者を美しく彩るのだ」


 何となく、アリーシャにはそれが理解出来た。

 身近に、メアリという最高のお手本が居たから。

 彼女こそ、セシルの言う『美しさ』を体現した女性だろう。

 

「例えば、食物だな。野菜も肉も、やがて朽ちて腐る。しかし、一部の食材は年月を経ても――いや、年月を経るからこそより芳醇な味わいに変わる。百年を過ぎて初めて飲み頃となる酒もあるのだ」

「百年……!」


 それは凄い。人の寿命よりも長く生きるお酒だなんて。

 流石、セシルの知識は深い。こと、飲食に関しては右に出る者は居ないだろう。

 

 だが、感嘆するアリーシャを前に、セシルは何故かがっくりと肩を落としてしまう。

 

「違う。そうではない……! どうして私はこうなのだ! 気が付くといつも食べ物の話ばかりをしてしまう!」


 それは今更ではないのだろうか。落ち込む要素が見当たらず、アリーシャは首を捻るばかりだ。

 

「私が言いたいのは、君はその……美しいということだ。見た目だけではない、心もだ。いや、君は心こそが美しい。老いてもなお、きっと光り輝くのだろう。あの月のようにな」

「あなた……」


 ――どうしよう。旦那様がおかしくなった。

 やはり、拾い食いをしたのだろう。きっとそうだ。アリーシャは確信する。

 

 そうでなくては、いけない。

 アリーシャの胸がこうも弾み、歓喜に震えるのもきっと、気のせいだ。

 

(勘違いしては駄目よ。セシル様は、私を愛せはしないのだから)


「……やはり、似合わぬな。君に礼を言いたいとそう思うのに、どうも上手く言葉が出ない」

「お礼……?」

「そうだ。君は私に気付かせてくれた。誰かを頼るという単純な、しかし大切なことを」


 セシルは眩しそうにアリーシャを見つめる。

 その瞳が情熱に潤んでいるように思えて、どうも落ち着かない。

 

「イモ騒動の手回しをしていて思い知ったよ。宰相殿や殿下――それに国王陛下も、イモが重要な食物であると既にお気づきであらせられたのだ。しかし、決め手が無い。貴族社会の難しい所だな。皆の背を押す何かが、決定的に足りなかったのだ」


 それを、アリーシャが埋める事が出来た。そのことは、彼から既に聞き及んでいる。

 異例な程に早くイモ栽培が奨励され伝播していったのも、あまりにも都合の良い聖典改訂宣言もそうだ。

 この件には、それこそやんごとのなき方々が少なからず関わっていた。

 

 きっと、アリーシャが動かなくてもいつかは、イモはこの国に広がっていただろう。

 それが何年先になるかは分からない。

 けれど、アリーシャよりもずっと頭の良い方々が必死に考えを巡らせていたのだ。

 何より、食に真摯なセシルが居る。実現しないわけがなかった。

 

「……それでも、その数年の間に苦しむ人は増えたろう。種イモを植えてもすぐに実るわけではなく、失われた命は決して戻らない。君はそれを救ったんだ、誇っていい」

「……!」


 アリーシャの考えを読んだように、セシルが微笑む。

 駄目だ、その笑顔はいけない。泣きたいくらいに素敵すぎる。

 

「己の力だけで何とかしようと思いあがっていたのだ、私は。今思えば愚か極まりないな。神から得た『祝福』に思い上がっていたのやもしれん。自分は特別な、選ばれた人間だと。そんなわけはないというのに」


 それは違うと、アリーシャは思う。王国に豊穣をもたらす、その先鞭を付けたのはセシルだ。

 この国の主たる神は調和を尊ぶ。

 建国からこれまで、幾たびも飢えの危機に怯え、苦しみ喘いできたこのエルドナーク。

 それを救い、天秤を保つために彼は選ばれたのではないか。


 けれど、それは口にしない。

 その功績も、アリーシャを目覚めさせてくれた優しさも、全ては彼自身の行動から、信念から生じたもののはず。

 神さまの思惑なんて関係ない。

 

「あなたのお役に立てたのなら、それ以上に望む事などありません。叶うなら、その御傍でずっと夢を見させてくださいませ」


 そう、それで十分。アリーシャの努力は、今の言葉で報われた。

 

「う、む……いや、その……」


 どうしたのだろうか。セシルが急に口ごもり始めた。

 何故、そこで頷いてくれないのだろう。アリーシャを安心させてくれないのだろうか。

 

 ――もしや、もう自分はお役御免なのか。恐ろしい想像によろめきそうになる。

 考えてみれば、そもそもの政略結婚の目的は既に果たされている。

 女主人の役割は、アリーシャでなくともいい。もっと如才のある女性を妻に迎えれば、彼の更なる力に……

 

「待った待った! 何故そこで泣きそうな顔になるのだ!? 誤解だな、君は誤解をしているな!?」

「ご、かいです、か……?」

「あ、あぁ、あぁ! 誤解なんだ、そうだとも! そうに決まっている! 当たり前じゃないか、そうだろう!?」


 セシル自身、己が何を口走っているか分かっていないのだろう。言っている事が支離滅裂だ。

 泡を喰ったように慌ててハンカチを取り出し、アリーシャの目尻を拭ってくれる。

 

「でも、最近のセシル様は、私からお顔を背ける事もおお、く……目も、合わせてくださいません、し……わ、わたしを、お嫌いに、なった、の、かと――」

「違う! そんなわけがあるか!! 君を嫌う事などあり得ない!」


 ――――え。

 

 逞しい両の腕が、アリーシャの体を包み込む。

 何が起きているのか、最初は理解出来なかった。

 

 微かな麝香の匂いが鼻をくすぐる。

 暖かい感触が布越しに伝わり、そこで初めてアリーシャは、自分が抱きしめられているのだと分かった。

 

「あ、なた……?」

「そうだ、君は私の妻だ! 君以外の誰にもその役割は果たせん! ああ、メアリの言う通りだ! 私はどうしようもなく愚かな臆病者だとも! 妻に対する愛の言葉一つ上手く囁けぬのだから……!」

「え……?」


 今、今なんて。彼は何を言ったのか。

 

「すまなかった! もう全てがすまない! 何もかも私が悪い! 取り返しはつかんかもしれんが、君を不安にさせた事をせめて詫びさせてくれ…‥!」

「い、いえ‥…そこまで、大したことでは……」

「だが、君を泣かせた! 愛する君を――」


 もう何度目の衝撃だろう。彼の口からあり得ない言葉がポンと飛び出した。

 びっくりして顔を上げると、火照りを通り越して真っ赤に顔を染めたセシルと目が合う。

 

「ど、どうして良いか分からなかったのだ……! こんな気持ちは初めてで、その……すまない!!」


 慌ててアリーシャの体を離し、彼は勢いよく頭を垂れた。

 

「な、なにを……!? お、お顔をあげてください!」

「あぁ、許しも得ずに君を抱きしめてしまった……! 我慢も効かぬとはもう、本当にもう……!」


 おろおろと慌てるアリーシャを前に、セシルは大きなため息を吐く。

 

「君のいじらしさ、誠実さ。そして私の夢に寄り添ってくれると言う心の優しさと美しさに、そ、その……想いを寄せるように、だな……」


 体を強張らせ、息も絶え絶えというように彼は愛の告白を続ける。

 

(……私、夢を見ているのではないかしら?)


 だって、こんなの。アリーシャに都合が良すぎる。

 叶わないと諦めかけていた想いが、こんな形で果たされるなんて。

 

「何度、この衝動を打ち明けようと思ったか。だが私は、初対面の君に『愛する事は出来ない』とか言い放った男だ。どの面を下げて『やはり君が好きだ愛してる』等と言えるものか。それでは私は恥知らずの外道ではないか……!」

「あ、なた……!」


 アリーシャの全身を歓喜が包み込む。


「恥という概念を、お知りになったのですね……! メアリやリリアナ様もさぞ喜ばれるかと……!」

「く……っ!?」


 がくり、と。セシルが膝を付く。

 しまった。アリーシャは慌てて口を抑える。

 夫の人間的成長に感動してしまい、つい思った事をそのまま喋ってしまった。


「あ、あの! も、もうしわけありませ――」

「いや、いいんだ。私は最低の夫だったと思う。だが、もうここまで恥を晒したのなら何も怖いものは無い。そうだ、その筈だ」


 よろよろと立ち上がり、彼は大きく息を吸う。

 再びその目がアリーシャに向けられた時。その瞳には確かな覚悟と意志が宿っていた。


 とくん、と。胸が震える。

 

「――君を、愛している。どうか、私と共に夢を見て欲しい。未来を共に歩んで欲しい。病める時も、健やかなる時も。老いたる時も……」

 

 ずっと夢見てきた。あの情熱的な瞳で見つめられることを。

 食にかける想いのひとかけらでもいい。自分にそれを傾けてくれることを。

 アリーシャは、ずっと、ずっと――


「……私の、妻として」

「は、い……はい……!」


 涙がとめどもなく溢れてくる。アリーシャの願いは、今ここに叶ったのだ。

 

「お慕いしております……セシル様を、セシル様だけを……わたしの、あなた……」

「アリーシャ……!」


 セシルの手が肩に触れる。

 そっと体が引き寄せられ、互いの想いと共に唇が重なった。

 

「ん、ぐ……!?」

「あ、あなた!? どうなさいました!?」


 ふらり、とセシルの体が揺らぐ。

 その顔は茹でたタコのように真っ赤だ。アリーシャは地中海で取れたという、その珍味を思い出してしまう。

 あれは美味しかった。噛み切りにくいのが難点だけれど。歯ごたえが絶品――

 いけない、どうやら自分も混乱している。頭がふわふわとして、落ち着かない。


「き、君の思いが、その……凄すぎた。こ、こんなにも私に気持ちを寄せてくれていたのか……」

「あ――」


 アリーシャの頬がかあっと頬が熱くなる。

 そうだ。彼の持つ『祝福』は――

 

「そ、そんなつもりではなかったのだ! すまない、君と通じ合えた嬉しさで忘れていた‥‥‥!」


 しどろもどろになる彼が、とても可愛らしい。

 まだまだアリーシャの知らぬ一面がある。そのことが嬉しくて仕方が無かった。


「構いませんよ、あなた。心ゆくまで味わってくださいませ」


 そっと、彼の頬に手を触れる。炎のように熱い。火傷してしまいそうだ。

 でも、これくらいが今の自分達にはちょうど良い火加減だろう。

 アリーシャは目を閉じ、今度は自分から顔を近づけた。

 

 百年の酒には及ばない。

 比べれば短い時間ではあるけれど、大切に熟成させたこの想い。

 

「どうぞ、召し上がれ……」


 月光の下、男女の影が重なる。

 屋敷内から流れてくる輪舞曲を背景に、二人は唇を合わせ至福を味わう。

 やがて夜が明けるその時まで、伯爵とその妻は静かに寄り添い合った――

 

 

 

 シュトラウス伯爵領は美食の聖地として更なる飛躍を遂げ、その後も大勢の人々に親しまれてゆく。

 夫婦仲は大変に睦まじく、これがあの『美食伯』かと目を疑う者も少なくなかった。

 やがて待望の長男が誕生すると、領地をあげてのお祭り騒ぎとなり、祝いの料理が分け隔てなく振るまわれたという。

 

 ――後年、伯爵夫人は一冊の本を出版する。

 古今東西の料理のレシピが描かれたそれは、上流・中流・労働者階級に至るまでのあらゆるものを網羅しており、実際に味わったとしか思えない現実味があったという。

 

 ベストセラーになったそれについて、あらゆる人々が話を聞きたがった。

 しかし、彼女は微笑みながらとぼけるのみ。皺だらけになってなお美しく笑むその姿は、まさに理想の貴婦人だと、各新聞社はこぞって書き立てた。

 その傍らには常に食道楽の夫が寄り添い、支え合う。

 二人をモデルにした絵画は後年においても高い評価を得ているが、若き時のそれよりも晩年の方が傑作であると謳われるのが常だ。

 王国内のレストランにはその格式に関わらず、食の伝道師たる彼らの絵が飾られ、今日も人々の目を愉しませている。

 

 伯爵夫妻の、生の喜びに満ち溢れたその姿。

 特に白い雪の花を身に着け微笑む、その夫人の表情は、どこまでも優しく、美しく――

 


 ――彼女を人形と呼ぶ者は、もう誰もいない。

最後までお読み下さいまして、ありがとうございます!

良ければご評価など頂けたら嬉しいです!


また、作中でエヴィン兄妹が話題に出した公爵家にまつわるアレコレは、以前に書いた↓を元にしております。


「想いの輪廻~馬鹿王子は男爵令嬢を幸せにしたい~」

https://ncode.syosetu.com/n2865hw/


ご興味のある方はこちらもどうぞ!

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[一言] 純愛サイコー そして抑えていた人の想いや気持ちの発露が上手く描かれてて 1人神の力を与えられて美食として飢えを無くそうと自身の能力と経験がある故に孤独に孤高に動いていたのが、1人ではなくなり…
[良い点] ええ話や・・・しかし因果な舌やな(R-18的に)
[一言] 食の文化創造の話と人間の成長と夫婦愛!! 読んでから、最高に満足感と空腹感とじゃがいもバターへの欲望が高まりました(^ ^) とてもまとまってて、中身の充実したお話をありがとうございました…
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