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前編


 スノウ・フラワーという花がある。


 葉から茎、根に至るまでの全てが真っ白く、その花びらが空に舞い散る様は、まるで雪のように美しい。

 相応しき季節に見ればさぞかし趣深いだろうに、と人は言う。

 しかし、この花は遅咲きだ。

 冬の始まりと同時に芽吹きながらも、そのつぼみが開くのは春先をとうに過ぎた頃なのである。


 春の終わりに降る雪、季節外れの寝ぼけ花。

 人々がそう囃し立てる眠り姫が、晩春の風に揺られてようやく目覚める。そして、それが合図だ。

 

 雪の花が咲き乱れ、十一従属神・豊穣神(メイズ)が司る五の月を迎えたと同時に、王都は華やかな賑わいを見せ始める。王国の上流階級層が待ちに待った一大イベント――すなわち、社交シーズンの時機到来となるからだ。

 

 今宵もまた、着飾った紳士淑女たちが列を為し、ある者は堂々と、またある者は楚々とした仕草を崩さず、上品な笑みを浮かべながらタウンハウスの門を潜ってゆく。

 その正門を彩るのは古典様式の円柱に支えられた、三角形のペディメント。古代の神殿を思わせる清廉とした威容は、見る者に感嘆の息を吐かせた。

 

 かつては宰相をも輩出したとされる由緒ある侯爵家、その屋敷での舞踏会ともなれば招待される者も皆、格式高い家の貴族ばかりである。

 相応の装いと気品を持つ優雅な貴人達の表情はしかし、程なくして凍り付いた。

 

 

セルデバーグ卿と(ロード・アンド・)そのご令嬢(ミス・セルデバーグ)、ご到着!」

 

 

 その言葉がエントランスに響くと同時に、ざわついた声があちらこちらから漏れ出し、さざ波のように広がってゆく。

 外套を預けるべく、クローク・ルームに向かおうとしていた紳士・淑女たちは誰もが振り返り、呻きとも感嘆とも付かぬ息を吐き出す。

 

「『人形令嬢』だ……!」


 何十もの視線を受け止めながら、歩み出たのは一人の令嬢。

 腰まで届く、色が抜け落ちたかのような純白の髪に、同じく染み一つない滑らかな白い肌。触れただけで折れてしまいそうほどに腰は細く、居並ぶ令嬢や夫人たちの表情が悔しげに歪む。

 何よりも特徴的なのは彫像の如く整った顔立ちと、磨き抜かれた紅玉を思わせる赤い瞳だ。

 近年、王国内で流行り始めたという怪奇小説。そこに現れる魔性の如き、その風貌。

 

「アレは本当に人なのか……? 見たまえ、今宵も笑みさえ浮かべぬ。血が通っているかも怪しいぞ」

  

 誰かがそう呟いた通り、令嬢の顔は蝋で塗り固めたかのように無表情。ゾッとする程の美貌を湛えたまま、優雅な足取りで広間を歩くその様は、あまりにも無機質過ぎた。ゼンマイ仕掛けの自動人形か何かかと、疑うような目を向ける者も少なくない。

 貴族たるもの、感情に身を委ねる事無かれ。それはこの国の上層上流階級に共通する意識だ。

 しかし、ここまで徹底した者など、現実に二人と存在するはずもなく。誰もが皆、怖気に身を震わせていた。

 

「見ろ、アリーシャ。小心者どもが震えておるわ。お前の『造形』は完璧だ。お前は誰よりも美しい。私も誇らしいぞ」

「はい、お父様」


 エスコートを務める目付け役の父親の賞賛に、令嬢――アリーシャ・セルデバーグは瞬きもせずに応えた。

 

 無機質・無感情・無表情。社交界に知れ渡った仇名の通り、令嬢は衆目の視線を意にも介さない。

 父の自尊心を満たす為、その手によって作り上げられた至高の芸術品にして、生ける彫像。


 ――彼女を人形と呼ばぬ者は、誰も居ない。

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 舞踏会が開かれる頃合いになると、女主人にそれとなく誘導され、アリーシャは『定位置』に着く。

 装飾品が並ぶ華やかなホールの正面に立ち、背筋を伸ばしたまま美術品の一部となるのだ。

 

 いわゆる壁の花。年頃の令嬢たちにとっては恐怖と不安の象徴であるそれを体現しつつも、アリーシャは特に感想を持たない。

 父にもそれでいいと言われているからだ。踊って汗一つ流す事は許されない。それは自身の美を汚す行為になるのだと、そうきつく言い含められていた。

 

 紅い目を通して見る世界は、いつもぼやけたように薄く、現実味が無い。

 目の前に薄い膜でも張られているようだと、そう思ったのは何時からか。

 

(私は人形、皆の目を愉しませ、お父様を喜ばせる為に立つお人形)


 人形はガラスのケースに入れられ、衆目の好奇を集めるもの。

 ならば、これもそうなのだろう。

 当然の如く備わった機能。華やかに踊る紳士や淑女達、彼らの居るあちら側に自分の居場所は無い。

 それを区別させるために、この視界はそうなっているのだと、アリーシャは納得していた。

 

 無論、『人形令嬢』とは仇名に過ぎない。自分は正真正銘の人間だと、それ自体はアリーシャも理解している。

 曽祖父の代に農地改革で財を成し、その功績が認められ叙爵された新興の男爵家の娘。

 体にはオイルでは無く血が流れているし、内臓の代わりに歯車がひしめいているわけでもない。

 

 それでも、父に望まれたのは人の令嬢では無く、美しき人形の娘としての役割。

 幼い頃から徹底されてきたその教育の成果なのか、アリーシャはそれを不思議とも思わない。

 招待状を出したこの家の女主人も、噂の男爵令嬢を見世物の余興代わりに呼んでいるのだろう。


 そして、その効果は確かに有った。

 招待客たちも皆、互いのパートナーと踊りつつもアリーシャの方へと視線を投げる。

 それを見て、父である男爵は満足げに鼻を鳴らす。つまるところの、いつもの光景だった。

 

 時間はそろそろ十二時を回る。喫茶室が閉じられ、夕食室に向かう男女のペアもちらほらと見え始める頃合いだ。

 しかし、アリーシャは眉すら動かさずそれらの客を見送るのみ。

 軽食すらほぼ摂らず、礼儀で一口含めるだけ。それで何時間立ったままでいようとも疲労もせず、空腹さえ覚えない。

 そういう風に父に作られてきたのだ。そして、その事に何の感慨も浮かばない。そんな感情は分からない。

 

 誰も寄り付かず、ダンスに誘われることもなく、ただ人形の務めを全うする。

 今宵もそうだと、アリーシャは信じて疑わなかったが、しかしてどういうわけか、程なくして異変が起こった。

 

「いい加減にしろ! いつまで物を食べているつもりだ貴様! 今宵は舞踏会だぞ! さぁ、来い! いい加減に相手を見付けろ!」

「ああ、離せ、離してくれ! まだ雌鳥のラ・メートルドテル(支配人風)を味わい切ってないんだ! ガランティーヌもだぞ! ヤマウズラのローストが私を待っているのだ! 頼む、一生のお願いだ、手を離してくれぇ……!」

「こんなもので一生の願いを使い果たすな阿呆が!!」


 怒声と共に、金髪の青年がホールに姿を現す。年の頃は二十の半ばくらいだろうか。

 アリーシャよりは年上だろう男性。

 こめかみに青筋を立て怒鳴り散らしながらも、何処となく仕草の一つ一つに気品が漂っているように見える。

 

 そして、その腕に捕まえられているのは、茶色がかった髪を持つ、大柄な体格の青年だ。

 年はそう、彼を掴んでいる金髪の貴公子と同じくらいだろうか。

 アリーシャは父以外の男性――それこそ兄でさえまじまじと見たことはないので、良く分からない。


 取っ組み合いでもしたのか、互いに髪も装いも乱れ、袖口のボタンが丸見えのうえに、そのいくつかは弾け飛んでいる。

 更に信じられないことに、茶髪の青年の手にはフォークが握られており、肉汁が滴るロースト・ビーフがハンカチで抑えられながらその口元に運ばれ――

 

(――食べた) 


 あまりの衝撃に、人形の心も揺れる。アリーシャはその光景に目を疑った。

 そんな令嬢の内心など露知らず、男達の怒鳴り声は更に加熱していく。

 

「信じられない事をするな貴様!? おい、咀嚼するな! 味わうな! 何だその食べ足りないな……? という顔は!? ふざけるな、ふざけるなよ!」

「ふざけてなどいない! お前のせいで、ソースが零れて床を濡らす所だったではないか勿体無い! いいか、この侯爵家の舞踏会はな、かつての王室の正餐! それと同じメニューを用意していると評判なんだぞ! だから来たのに! 近頃では珍しく食に傾倒している偉大な貴族の面目、それを潰す気かエヴィン!」

「面目を今まさに潰しているのは貴様だ!」


 エヴィン、と呼ばれた金髪の青年が泣きそうな顔で叫ぶ。

 突如として巻き起こった喜劇めいたやり取りに、流石のアリーシャも面食らった。

 とはいえ、顔には出さない。僅かにでも表情を動かすのは大罪なのだ。


 もしや、これは舞踏会での余興となる演目か何かなのだろうか。そう分析するも、どうやら違ったようだ。

 何故ならそれは、続いて漏れ聞こえた誰かの声により証明されたから。

 

「『美食伯』だ……」

「セシル・シュトラウス卿か……!」

「珍しく参加したと思ったら、やはり食絡みか。呆れたものだな」

「メルトルード卿も災難だな。あれの御守は大変だろうに」


 口々に交わされるその言葉に、アリーシャは内心で首を傾げた。

 

 ――――誰だ、それは。聞いた事も無い。分からない。

 

 社交界での知識さえ詰め込むのは無駄である。それが父から受けた教育。

 余計な事を一切省いた所にこそ真の美は存在する。

 どうせ、口も開かず言葉も碌に交わさない。主催者の名前だけ教えられたら、後は目付け役の父が導いてくれる。

 そこで握手を交わしておしまいだ。

 

 しかし、これまで参加した幾つもの舞踏会や正餐会、演奏会などでもシュトラウス家など、耳にしたことは無かった。

 ロードであり、美食『伯』というのだから、恐らくは伯爵家。

 社交の場で耳にした知識を頭の中で拾い集め、そう推測する。

 名目的爵位カーテシータイトルとやらなのか、それとも正式に家を継いだのかはわからないが、どちらにせよアリーシャの記憶にはない。

 

 というか、こんなに強烈な人間が居たら流石の人形令嬢も忘れる筈がなかった。

 

 薄く霞んだ世界の中で、青年たちはいつ止むとも知れぬ喧騒を繰り広げている。


(――まぁ、どうでも良いこと)


 漏れ聞こえる会話から察するに、こんな光景を見るのも今宵限りだ。今後も、自分が赴く社交の場で出会う可能性はほぼ無い。そうアリーシャは判断し、再び壁の花に戻る。

 

 一瞬、茶髪の青年と目が合ったように思うが、気のせいだろう。

 僅かに疼いた好奇の気配を努めて追いやり、アリーシャは青年から興味を失くした。

 あんな愚かで醜い行為を行う貴族と接する機会などこれきりだ。醒めた思考でそう断ずる。

 

 自分の人生と関わり合う事などない。あるはずがない。

 

 そう、アリーシャは心から信じていたのだが――――

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

         

「はじめまして、ミス・アリーシャ・セルデバーグ。お目にかかれて光栄です」



 『人形令嬢』を前に、茶髪の青年が紳士の礼を取る。

 何がどうしてこうなったのか。今、この段階においてもアリーシャには信じられなかった。

 どこか呆然とした心持ちで、『彼』を見る。

 

 目の前に居る青年――セシル・シュトラウス伯爵の姿が、十日前のあの舞踏会の醜態と重なった。

 父からの話によると、齢は二十六。アリーシャより七つ年上、らしい。

 三年前に両親が相次いで没し、若くして爵位を継いだのだとか。


 しかし、夜会の時も大柄だと思っていたが、近くで見ると尚更だ。アリーシャは心からそう思う。

 上背もあり、肩幅も広く、体もがっしりとしている。

 さりとて、肥えた印象は無い。筋肉質、というやつだろうか。

 世の令嬢たちが望むような、貴公子然としたスマートさには程遠い。

 

 アリーシャのぼんやりとした思考は、そんなどうでも良い事ばかりを浮かばせる。


 その大きな肩口の向こうに、美しい花を咲かす観葉植物や古典様式の絵画が所狭しと並んでいるのが見える。

 そう、ここは父の自慢の応接室だ。

 部屋を飾り立てるこれら芸術品は、自身のセンスと財力を見せつけるかのように、どこからか掻き集めてきたもの。

 その中に、白く咲き誇る寝ぼけ花を見つけ、アリーシャはそっと目を逸らした。

 

 人形が物の良し悪しを断じたり、好き嫌いを持ってはならない。

 けれど、どうにもあの花はいけない。目にするだけで何処となく落ち着かなくなるのだ。

 

 スノウ・フラワーを視界から遠ざけようとすると、必然的にまた『彼』の姿が目に入る。

 これは困った。アリーシャを動揺させる事に関して、どっちもどっちの良い勝負。視線を逃す隙間が無い。

 固まったまま動かない娘をどう思ったか、男爵がすかさず口を挟んだ。


「いやいや、シュトラウス家といえば、この国にかつて男爵位と伯爵位しか無かった頃からの名門・名家。その当主であらせられる貴方からのご訪問とは、こちらの方こそ光栄の極み! 恐縮してしまいますぞ! なぁ、アリーシャ」

「はい、お父様」


 説明がかった口調でシュトラウス卿を褒め称える父の言葉に、反射的に返事をする。

 

「いえ、男爵家の大事なご令嬢を妻と迎えるのです。これは当然のことですよ、セルデバーグ卿」


 ―― 『妻』。

 そう、アリーシャはシュトラウス伯爵家に嫁入りする事が決定したのだ。これはその、婚約の挨拶の場でもあった。

 

 だが、困惑ばかりしてはいられない。そうと決まったら、受け入れるだけだ。

 人形に買い手が付き、新しい所有者の元に移るだけ。そんな風に思えば、何の感慨も覚える事はない。

 

 目の前で交わされる父と伯爵の言葉も、右から左に聞き流すだけ。

 後は劣化して捨てられるまでの間、精々可愛がってもらえるように『夫』の言葉に従うのみだ。

 

 

『いいか、アリーシャ。お前の美は今ここに完成した。自信を持って『出荷』出来る。年齢、体型、造形の全てが最高だ。私の最高傑作だ! これ以前でもこれ以降でも、こんなにも輝く美しさは永劫にあり得まい。後は醜く衰え劣化するばかり。この時だ。20歳を迎える直前、今のこの19歳という時期が、お前の最盛期なのだ!』



 先日、どこか残念そうな面持ちで結婚の相手が決まったと告げた父。その言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 

『あんな変人にくれてやるのは勿体ないが、まぁ旬を過ぎては元も子もない。そう思えば諦めも付くというものだ。我が手元に置き続け、醜く変化してゆくお前を見るのは耐えられん。時を永遠に留められぬなら、いっそ壊すか手放すか。道は二つに一つだ」


 アリーシャの白い髪を撫でつけ、父はうっとりと笑う。


『それに、相手は腐っても名門貴族。シュトラウス家と婚姻できるのは、かの悪評を差し引いても大きな名誉だからな。ハハハ、我が家を羊飼いの末裔と嘲笑った連中を見返せるぞ! 良くぞ買い手を見つけた、私はお前が誇らしいぞアリーシャ!』



『――――はい、お父様』



 そう答えた心に嘘偽りは無い。父がそう言うのならばそうなのだろう。

 


「さて、セルデバーグ卿。ご息女と二人で話をしても?」

「ふむ……? 同然とはいえ、しかし婚約前の男女が一つの部屋にとは――――」

「誓って名誉を傷つけるような真似はいたしません。我が家の妻と迎える女性に最低限の礼儀を果たしたいのです」


 男爵は髭を撫でつけながら、迷う素振りをするが、シュトラウス伯爵の言葉に誠実さを覚えたか、呼び鈴を鳴らした。

 

「失礼。家令を立ち会わせます。勿論、一切の口は挟みませぬし、壁の彫像と化させます。それでも宜しいか?」

「寛大なお心に感謝いたします」


 一礼する伯爵に満足したか、間もなく現れた老齢の家令と入れ替わるようにして、父が退出する。

 言葉通りに物言わぬ像となった家令に頷き、伯爵がアリーシャに向き合った。

 

「突然の話で驚いたと思う。うむ、驚いたと思いたい。その表情からは伺い知れないが」

「はい」


 とりあえず、思った通り正直に答える。すると、どうしたことか。シュトラウス伯爵は決まり悪げに眉を顰め、目線を下に落としてしまった。

 何か、粗相をしてしまっただろうか。それではいけない、価値が薄れる。しかし、何が気に障ったか分からない……。

 そんなアリーシャの迷いを感じ取ったか、伯爵が顔をあげてこちらを向いた。


「この結婚は、いわゆる政略だ。昨今の令嬢たちが夢見るようなロマンスとは程遠い」

「はい」

「つまり、その……なんだ。私には事情があってだね。大変申し訳ないのだが、君を異性として想う事は難しい……いや、恐らく無いと思う」

「はい」


 躊躇わずに答えるアリーシャをどう思ったか、その大柄な体格を気まずそうに委縮させ、伯爵は息を吐き出した。

 

「当たり前だが妻と迎える以上、可能な限り尊重するし配慮はする。けれど私には、君を女性として愛する事は出来ないのだ。ゆえに、その……そういった恋愛感情は期待しないで欲しい」

「はい」


 間髪入れずに頷く。何を言っているのだろうか。伯爵が申し訳なさそうに体を縮める理由が分からない。

 双方の家の利害が一致して、貴族令嬢が夫の家に嫁ぐ。それはこの世の真理だ。それくらい、アリーシャにだってわかる。

 

 それでも社交の場での会話を聞く限り、普通の貴族令嬢ならば結婚に憧れるらしい。

 素敵な恋に胸をときめかせる彼女達ならば、せめて表面上だけでも言い繕って欲しいと思うのだろうか。

 

 しかし、アリーシャは人形だ。自分を道具として愛でる男は居ても、女として愛する者などおるまい。

 喜びも悲しみも楽しみも何も無い。子を産めたあとは、精々長く愛用してくれれば恩の字というもの。

 

 

『――お前は芸術品だ、アリーシャ。人としての心など必要ない』

 

 

 これまでの人生で無数に繰り返されてきたその言葉に、そのまま従うのみだ。

 

「もちろん、これは事前に父君にお話した。そのうえでこの婚姻は成立している。つまりは、そういうことだ。君には選択の余地もなく、こうして結婚を押し付けてしまった事を心から詫びたいと思う」

「はい」


 変な男だ。妻となる女性をここまで慮るものなのだろうか。それとも貴族としてはこれが一般的なのか。

 アリーシャには分からない。

 

「だが――――」


 伯爵が微かに右手を浮かばせる。その意味を察し、アリーシャは片手を差し出した。

 その手を恭しく取り、そのまま彼は動かなくなる。難しい顔をしたまま、目線をアリーシャの手の甲に落としている。

 

 てっきり口づけでもするのかと思ったが、どうもそうではないらしかった。


「細い手だ。それに青白い。白粉を塗っているわけでもないな。これが地か」

「はい」

「君は普段何を食べている? 何が好きだ? どれほど物を腹に入れるのだ?」

「は、い?」


 そんなことを言われてもわからない。はい、で答えられる言葉じゃ無ければ駄目だ。

 与えられるものをただ口にするだけ、好きな食べ物など、あるはずがない。

 お腹を満たす必要もなく、何なら食べずに済むならそれでいいと思うのに。

 

 答えられずにいるアリーシャを伯爵はどう思ったろう。

 呆れられてしまうだろうか。 

 

(……購入を取りやめられたら、お父様に叱られる)


 珍しく焦りにも似た想いが浮かぶが、アリーシャは言葉に出す事が出来ない。その術を知らない。

 

 しかし、それに対する伯爵の言葉は意外なものだった。

 

「そうか! 答えられないか! なるほど、思った通りだ! ならば、良かった……とは言えないな、すまない失言だ。いつも私はデリカシーが無いと友人にも叱られてだね!」

「はい……?」


 突然前のめりになり、喚き始める伯爵様。後ろで彫像家令が身じろぎする気配がする。

 しかし、そんな事など、どこ吹く風。シュトラウス卿は目をきらきらさせながら、アリーシャの手を握る。

 

「君を愛せないと言ったが、それには理由がある。私が愛してやまぬモノが他にあるからだ」

「はい」


 愛人か、それとも妾か。

 公然と言うのは珍しいらしいけど、それでもそんなにおかしい話では無い――――

 

「私は、食を愛している!」

「は、い……?」


 ――――おかしい話だった。

 

「食材を、調理を、愛している! 育くみ実り料理して、口に運んで舌で味わい、胃に落とす行為! あぁ、心の底から愛おしい! あれはもう、この世の快楽の極みだ! 生きる本懐だ! 私はそれら全てに畏敬と尊敬の念を捧げている! ぶちまけてしまうと、王家への忠誠とかどうでも宜しい。議会の席とか、自由派がどうとか保守派がああだとか、欠片も興味が無い。私の心は一部の隙も無く、食に捧げている……それに悔いはないっ!!」


 不敬。不敬な発言、極まりない。

 政敵とやらに聞かれたら、名門伯爵家でもどうにかなってしまいそうな危うい言葉。

 それは悔いた方が良いのではないだろうか。罪悪感とかせめて持って欲しい。


(――――そう感じるのは違うのかしら、分からないわ)


 アリーシャがそんな事を思ってしまうほどに、伯爵の叫びは過激が過ぎた。

 

「何度も繰り返すが、君を異性としては愛せないだろう。その心は満たせないかもしれない。しれない、が――」


 そこで一瞬言葉を切ったかと思うと、まるで子供のような笑みを浮かべ、伯爵は力強く頷き口を開く。

 

 

「――君のお腹は満足させよう、絶対に!」


 

 楽しみにしていたまえ! そう告げ高らかに笑う伯爵様。

 その言葉に答える術を持たず、アリーシャはただただ、呆然とする他はなかった。


 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴

 

 

 事務弁護士を立てての『交渉』が滞りなく済むと、婚姻にあたっての財産継承設定がアリーシャの父と伯爵の間で取り決められた。 もちろん、その内容をアリーシャ自身が知ることはなく、その必要もない。

 持参金に関しても父の言う通り、持たされる通りに従うだけだ。

 

 やがて数か月に及ぶ婚約期間を経て準備が整い、社交期が過ぎた夏の盛り、八の月の半ばごろ。

 国王と国教会からの承認を戴き、アリーシャとシュトラウス伯爵は『特別結婚許可証』を得て挙式をあげた。

 

 これは財産に富んだ貴族、限られた者達のみが取得できる名誉あるもの、と父が興奮気味に語っていたが、アリーシャにとってはどうでもよいことだ。伯爵と共に登録簿にサインをする時すら、何ら沸き立つ思いも浮かばない。

 

 そも、婚約から結婚に至るまでの期間が早いか遅いか、それすらアリーシャには分からない。

 ただ、父の急いた様子に両家の思惑が一致したのでは、とぼんやりそう感じるだけ。

 

 続く、盛大で豪奢なお披露目の結婚パーティーに飾り立てられて臨んだ時も、同様だ。

 こんな時ですら顔色一つ変えず、微笑みを浮かべない、等という参列者からの密やかな囁き声を聞き流しながら、アリーシャは無表情・無感情を貫き通した。伯爵はそんな花嫁をどう感じたかは判らない。

 彼はただただ、にこやかに挨拶の言葉――というより、提供される料理の解説を延々と喋るだけ。それは参列客の一人であり、彼の友人代表からの『いい加減にしろ』というお言葉が届くまで止まらなかった。つくづく、変わり者の伯爵様だ。

 

 宴の後、家族と共に親類縁者たちの間を練り歩く、伝統の新婚旅行ハネムーンを経てつつがなく『お披露目』が終了し、こうして人形令嬢はシュトラウス伯爵家に嫁入りを果たしたのであった。

 

 日々の暮らしに思う事など無く、ただただ流されるままに物事が運ばれるだけの人生。

 たとえ結婚したとしても、それは変わることもないだろうとアリーシャは思っていた。

 しかし、その認識が間違いであったことを、程なく『人形』は知らされる。

 

 ――――変わり者の美食伯、その名は伊達ではなかったのであった。

 

 

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴

  


「……えっ」


 最初の異変は、新婚旅行後。領地のカントリーハウスに戻ったその翌朝だ。

 

「やあ、おはよう奥さん! 朝の食事だ召し上がれ!」


 朝っぱらから頭に響くような快哉をあげ、シュトラウス伯爵がアリーシャの眼前で満面の笑みを浮かべている。

 その手に持つは、銀で出来た大きな食器皿。その上には幾つかの料理が並べられている。

 

「……えっ」


 思わず、皿と夫を見比べてしまう。一体、何が起こっているのか。

 そんなアリーシャの疑問を見て取ったか、伯爵がぱちり、と片目を瞑った。


「我が家に来てくれたお嫁さんへの給仕さ! 近頃では上流階級の間で流行っているらしい。エヴィンもそう言っていたから、間違いなかろう! 夫が妻に朝の奉仕をする。これは、生きる糧を共に味わう素晴らしい行為だ。我が国の伝統にしてもらいたいね!」


 ぺらぺらと良く回る口だ。どう返事をして良いものか、窮してしまう。

 元々、『はい』しか答える言葉を持たぬのがアリーシャだ。こんな状況は想定の範囲外にも程があった。

 

 まぁ、夫となったその人がそう言うのなら、それに従うだけだ。

 揺らぎかけた心を律し、皿に眼を向け――アリーシャは息を呑んだ。

 

(――料理に、湯気が立っている!?)


 ということは、これは暖かく冷めていない食事ということになる。他家での晩餐ならともかく、『自宅の朝食』でそんな物を見るのは、生まれてこれより初めてであった。

 

「ん、何をそんなに驚いて――ああ、そうか。君のお屋敷は古典の回帰式だったな。やはりキッチンを別棟に分けていたか」


 うん、うんと。伯爵はひとり納得したように頷く。

 

「特にセルデバーグ家のあれは、真横へ伸びに伸びた非効率的な建築方法だな! その端っこに料理場を設けるなど正気とは思えん!タウンハウスであれなのだから、荘園屋敷カントリーなどどれ程の物か想像も付かんな!」


 眉を寄せたかと思えば、妻の実家を批判し始める旦那様。

 聞かされるアリーシャにとってそれは、面食らう、どころの話ではない。

 いきなり何を言い出すのか。意図がまるで掴めない。


「アレでは、どんなに足が長く歩みの速いフットマンでも無理だ。料理が生ぬるくなってしまうではないか! その様子では、どうせ再び温めるなどしてもおらんのだろう。これは料理に対する冒涜以外の何物でも無い!」


(――どうしたらいいの、これ?)


 伯爵の息は荒く、段々と語る口調に熱が籠り、怒りに声が震えてくる。

 許せん、等と息巻くのを見て、アリーシャは絶望的な気持ちになった。


「おっと、すまない興奮してしまった! 料理が冷めては元も子もないというのにな! さぁ、このボウルで手を洗って――そう、そうだ。そうしたら食事の始まりだ。まずはこのお茶で喉を潤し胃を開くといい」


 伯爵の手で椀状のカップから受け皿に茶が注がれる。アリーシャも実家で良く見た貴族のマナーだ。

 しかし、随分と色が濃い。緑茶ではないようだが、ボヘイ茶の一種だろうか。

 

 目が赤茶けた水面に吸い寄せられる。促されるままに受け皿を手に取り、口に含んだ。

 

(なに、これ……?)


 今まで飲んで来た茶とは何かが違う。語彙の乏しいアリーシャにはそうとしか表現できない。

 

「次はスープだ。温かいうちに召し上がれ」


 朝からスープ? 微かな疑問と共に皿を覗き込み……アリーシャは本日、何度目かの驚きに眼を剥きそうになる。

 

「澄んだスープだろう? 新鮮な鶏肉を煮込み、ハーブを濾し取り卵白を加えて作るものさ」


 こんなにも透き通ったスープが存在する物なのか。しかも、肉や野菜が殆ど入っていない。

 スプーンですくいあげると、琥珀色の液体が流れ落ち、皿の上に波紋を作り出す。

 

(……わからない。これは、なに?)


 舌にスープを載せ、臓腑に流し込む感覚の奇妙さに、アリーシャは内心、首をひねった。

 この体験を何と呼べば良いのか。それに値する言葉を知らない。

 

「これは美食の国と言われるアストリア発祥の物さ。あちらの錬金術師を、革命のどさくさ紛れにうちの料理人として引き抜いてね。彼に言わせれば料理の素材、その真髄を抜き出す所に美があるのだとか。素晴らしいね、心から賛同するよ」


 伯爵の語る薀蓄が、耳に染み渡る。

 

 男爵家で口にする、冷たくぼそぼそとしたスープとは全然違う。

 食材の姿がまるで見えないというのに、折り重なるような複雑な味わいが舌の上へと広がっていく。

 未知の食感に、アリーシャの戸惑いが加速する。

 

(わからない、わからない、わからな――)

 

 かつん、と言う甲高い音でアリーシャは我に返る。

 

 それが、()()()をスプーンで叩いた悲鳴だと気付くまで、食器を二度、三度動かしてしまった。

 平時のアリーシャがする筈も無い不作法。

 目の前の光景が信じられない。まさか、これは――

 

(――うそ。からになってる)


 飛沫一つない、綺麗な白い皿を見て、アリーシャは呆然としてしまった。

 いったい、何時の間に、飲み干してしまったのか。


「流石、綺麗な所作だったね。飲みっぷりも上等! 見ていて気持ちが良いな!」


 朗らかに笑う伯爵の言葉が耳に痛い。

 

 料理は補給行為。味など二の次、砂を食むのと変わらない。

 そう、思っていたのに。

 

 人生で初めてともいえる不可思議な体験に、アリーシャはただただ身を震わせることしか出来なかった。

 

 

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴ ∴

   

   

「坊ちゃまのお相手は大変でございましょう。あまりご無理をなさいませぬように」


 正午を回り、アリーシャは使用人の手を借りて午後用のドレスに着替える。

 この辺りは実家と変わらないのだと、何となくホッとしてしまった。

 

 家政婦ハウスキーパーのメアリが労わるように話し掛けてくれたのは、その支度が済んだ直後であった。

 

 伯爵の元乳母でもあるという彼女は、しみじみと語る。

 

「やれ美味しいお肉がどうの、ワインの熟成がどうの。口を開けば食、食、食事のことばかり。女性に対する礼儀や作法など、遠い何処かへ落っことしてしまった次第でして。それでも、根は優しく人情深い方なのです。何卒、見捨てないでやってくださいまし」


 如何に元乳母とはいえ、主人に対してこうもずけずけと物が言えるのか。

 貴族としては珍しく、幼き頃から常に父の監視下で育てられたアリーシャ。

 これが一般的なものなのか、それともこの家だけの事なのか、判別が付かない。分からない。

 

「……ええ」

「本当に? 本当にでございますね? こんな綺麗なご令嬢を奥方様にお迎えしたというのに、坊ちゃまときたら、もう! お昼(ランチ)のお席でもベラベラベラベラ、愛も囁かずに料理の説明ばかりして! 恥ずかしいったらありゃしません!」


 ハンカチで顔を覆うその様は、まるで本当の母親のようだ。そう、アリーシャはぼんやりと思う。

 

 昼食もまた、アリーシャの実家のそれとはかけ離れたものであった。

 狩猟肉のパイにハッシュ、豌豆のバター絡め、そしてあの透き通ったスープなどがテーブルに並ぶ。

 驚いたのは、それらがアリーシャと伯爵の二人で食べ切れるものであったことだ。

 

 隣国・アストリア形式(ビュッフェ)で食卓上に広がる料理を皿に取り分けてゆく。それがこの国の基本だが、多種多様に供される食事を残すのも貴族のステータス。アリーシャも父からそう言われていた。


 なのに、自分は一欠けらも残さず皿を空にしてしまった。

 父と伯爵、どちらのする事が貴族的に正しい行いなのか。

 

(――わからない、何一つわからない……)


 未だ嘆きが止まらぬメアリを余所に、アリーシャは一人悩み続けるのであった。

 


   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴ ∴

   

   

「ああ、セルデバーグ卿から君の食事内容は聞いていたからね。無理せず、消化も良く、食べ切れるに値する量を計算して出した」


 正餐ディナーの席に着くなり、伯爵はそう、至極あっさりとした口調で告げる。


「いくら美味しいものでも、味が濃くて量が多くて脂っこくては今の君の体には毒だ。それは段階的に出していく。今日より明日、明日よりも明後日、今週よりも来週の食事が美味い。その予定だ。楽しみにしてくれたまえ」

「は、はい……?」


 ワクワクとしたその顔は、伯爵自身の方が楽しみにしているように見える。

 いや、違う。聞きたいのはそれじゃない。アリーシャは勇気を振り絞って口を開いた。

 

「あの、かっ、か……」

「おお!?」


 びっくりしたように伯爵閣下が仰け反る。

 

「君から『はい』以外の意味ある言葉を聞けたぞ! やはり食の力は素晴らしいな! 何だね、言ってみなさい!」

「あ、えっと、その……」


 舌が凝り固まったようだ。長年『はい』か『はい、お父様』しか述べてこなかった口だ。

 メアリに『いいえ』を言ったのも、多大な労力を用いたというのに。

 そも、伯爵に対して、今の呼びかけ方で合っているのかさえも危うい。

 

「……ど、して、おしょく、じ、たべきる、です……か?」

「勿体ないからだ!!」


(……言い切った)

 

 たどたどしいアリーシャの言葉と、その意図を完璧に読み切ったか、伯爵はグラスを宙に掲げて微笑む。

 

「見たまえ、アリーシャ。このワインの一杯を作るにも長い時間と職人たちの努力が結集されているのだ」


 なにより、と呟き伯爵はグラスを傾ける。その口元が見る間にだらしなく緩み、至福の表情を象った。

 

「原材料となるブドウの素晴らしさ、愛らしさと言ったらどうだ! 小さな房から育ち我らに恵みを授けてくれる! それを思うと、このワインの一滴たりとも無駄に出来ん。それは、野菜や肉も同様だ」

「むだ、に……?」

「そうだ、それが命を頂戴するということだ、糧にするというものだ。我が血、我が肉と為すこの世の食材全てに、私は敬意を捧げている」


 語るその瞳は真剣そのもの。ウソ偽りなど微塵もない。彼は、本気だ。本気で物を言っている。

 

「それ、すなわち愛だ」

「あい……」


 わからない、もう何もわからない。

 この旦那様は規格外だ。アリーシャの理解の範疇外だ。

 父が変人と呼び、メアリが食の権化呼ばわりしたのも当然である。


(なん、なのこの方……)

 

 気が遠くなっていくのと同時。

 ぴしり、と。何かが割れるような音が微かに響く。

 

 ――その晩餐もまた、不思議で奇妙な食感がした。

 

 

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴ ∴ ∴



(今日のお食事も、変な感覚だったわ……)


 見たことも無い焼き方をしたお肉のローストに、ふわふわのパンやサラダ。それにデザートのプディング。

 夕食に供されたそれらを平らげた後、特にする事もないアリーシャは早々に寝室に戻った。

 最近、変だ。ふわふわして足が地に付いていない気がする。

 軽く頭を振り、気持ちを落ち着けようとしたその時、部屋の中に立てかけられた大きな鏡が目に入った。

 

「ふ、む……?」


 シュトラウス伯爵家に嫁いで早くも、十日が過ぎようとしていた。

 伯爵の宣言通り朝昼晩と毎食料理が変わり、そのどれもが適切な量と絶妙な脂加減のもの。

 ゆえにか、これまでただの一度も食事を残した事が無い。

 ということは、つまり。アリーシャはそっと手を下ろす。

 

(……このままでは、太る、のではないかしら?)


 指先でお腹を摘まんでみる。

 アリーシャは今まで気にしたこともなかったが、心持ち肉付きが良くなっているような気もする。



 『理想的な体格を保て。過食は禁物だ。肉が付くのは罪と思え!』

 


 父の言葉が蘇り、アリーシャの体が知らずと体が震え出す。

 どうしよう、それはいけない。こんなにも早く、体の造形を崩してしまう。

 

「どうなさったのです、奥様!? お風邪でも引かれましたか!?」

「ち、がう……の」


 駆け寄って来たメアリに首を振って答える。

 

「お肉が、ついた、気が……して」

「え? どこにでございますか?」

「ここ、とか」


 横腹を指差すと、途端にメアリの眉がひそまった。

 どことなく呆れたような雰囲気を漂わせ始めたのは、アリーシャの気のせいだろうか。


「そんなことはございませんよ。ええ、まったく。というか、細すぎです奥様。若い娘ならば誰もが羨ましがると思いますよ」

「でも、だめ、よ……このままじゃ、完璧で、なくなって、しまう……」


 もっとコルセットを締めるべきか。そう提案するが、それは逆に家政婦の使命感を燃え上がらせてしまったようだ。


「まあ! 何を仰いますか! コルセットの締めすぎ(タイトレーシング)は悪だと、神さまも仰ってます! 細すぎる腰など不健康ですよ、奥様!」

「かみさま、そんなこと、おっしゃる、の……?」

「ええ、なんたって神さまですから。うら若きご令嬢のお悩みにも答えてくださいますよ、きっと」


 すごい、神さますごい。アリーシャは改めて主たる調和の神への信仰を深めた。

 

「でも、そうする、と、どうしま、しょう……私は他に、なにも、できない、わ。せめて、御子を孕むまで、は、たいけい、保たない、と……出荷された、いみ、がない、のに……」


 シュトラウス家に嫁いでから、今日までアリーシャは寝食を提供されるだけで、他に何もしていなかった。

 いや、何も出来なかったのだ。


 家庭教師ガヴァネスから教えられたのは各種のマナーと所作のみ。

 貴族学院にも通わされず、この十九年間ずっと父の手で『美』を極めよと作り上げられてきた。当然、家政や裁縫・社交など、女主人が為すべき仕事は何一つ知らない、分からない。

 

「奥様……」


 メアリが、痛ましそうな目でこちらを見る。その視線がアリーシャには不思議だった。

 何故そんな、泣きそうな顔をするのだろうか。分からない。


(私は人形なのだから。これは当然の事なのに)


「坊ちゃま――旦那様にご相談なさいまし! あんな食欲魔人でも、貴女様の夫ですから! きっと良い知恵をお出しになりますよ」

「そう、かしら……? でも、お手をわずらわせるのは、いけない、とおもう、の……」

「いえ、喜んでやると思いますよ。あんな坊ちゃまは初めて見ましたもの。なにせ、初日の御朝食も――っと」

「え?」


 慌てたようにメアリが口をつぐむ。朝食?朝食がどうかしたのだろうか。


「なんでもございません! とにかく、余計な事を私が吹き込むわけには参りませんから。後はどうぞ、夫婦間でお話し合いなさいませ」

「……わかった、わ」


 メアリは頼りになる。それはこの十日でようくわかった。

 伯爵曰く、乳母上がりの家政婦は他の使用人と軋轢が生まれ易く、上手く行かないのが常らしい。

 なのに、彼女にはそれは当てはまらないようだ。手足の如くメイド達に指示を飛ばし、あらゆる面で頼られている。

 主に伯爵のご飯とか食事とか料理のことで。


 ……苦労しているのだと、アリーシャにもそれが理解出来た。


「ようございます。何事も、会話が肝心ですから。拗れる前に、胸の内を吐き出してくださいな」

「……いい、のかしら?」

「ええ。……坊ちゃまはね、お寂しい方なのですよ」


それはあり得ない、そんな人では無いだろう。即座にそう断言しようとするも、結局アリーシャは口をつぐんだ。


「――きっと、奥様に頼られるのを喜びます」


何故かひどく優しい声で、メアリがそう言ったから。

その理由もまた、アリーシャには分からなかった。



   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴ ∴ ∴



「では、運動をしてはどうか?」

「うんど、です、か……?」



書類仕事を終えて戻って来た伯爵に、先ほどのメアリとの会話を告げた所、間髪入れずに答えが返ってきた。



「ああ、最近では貴族の令嬢や夫人すら体を動かす事を善とし始めたようだ。もちろん、本格的なものではないがね」

「すぽーつ、という、もの、ですね……」


 聞いた事がある。走ったり飛び跳ねたり、器具を使ったりして他人と速さや力を比べるもの。

 もちろん、アリーシャの父はそんな事を許してはくれなかったから、名前だけだが。


「うむ。だが、今の君ではまだ難しかろう。何事も急では駄目だ。まずは散歩など、歩くことから始めるといい」

「さん、ぽ……」


 何時間立っても揺るがないよう、『調整』は仕込まれたが、歩き続ける行為は未体験だ。

 それは、しても良いものなのだろうか。


「そうだ、丁度良い。来週からひと月ほど領地の視察に赴く。君も着いてきてはどうか? それなりに歩くし、運動になるぞ」

「りょうちの、しさつ……」

「それまで、庭を歩くなりして練習をしておくといい。無理はしないようにな。メアリにもその旨を話しておく」


 これだ、これに戸惑うのだ。選択肢を与えられることなど、これまでなかった。

 なのに何かにつけて、彼は複数の道を示す。強制してくれないのだ。

 そう、伯爵はアリーシャに食事を取らせる以外、本当に何も望んでくれない。

 人形として、愛でる事さえない。

 口を開く度に、彼が告げる言葉はいつも同じ。

 

 

『――君のやりたいことをやるといい、もしそれがないのなら、見つかるまでゆっくり探せばいいさ』

 

 

 そう言ってアリーシャに何かを選ばせようとする。

 

(――困る、わ。そんなの分からない。分からない、のに……)

 

「は、い……」


 どうしてだろうか、アリーシャは頷いていた。躊躇いもせずに、それを選んでいたのだ。


「ああ、そうか! それは良かった! 向こうでも色々な料理が食べられるぞ!」


 楽しみだな、と伯爵が笑う。

 その、あまりにも屈託の無い笑顔に、アリーシャは何とも言えない気持ちになる。

 強いていえばそれは、罪悪感、だろうか。何故か胸の奥がちくりと痛むのだ。


「していただいてばかりで、すみま、せん……」


 これまで、複数の上流家庭に務めた事があるというメアリ。

 その彼女から一般的な貴族女性について聞く度に、アリーシャは自身が何も知らなさすぎる事に違和感を覚え始めていた。

 

 父は何故、アリーシャに何も教え込まなかったのだろう。嫁ぎ先で不自由をするとは思わなかったのか。

 貴族夫人の中には全てを使用人任せの怠惰的日常を送る者もいるらしい。

 けれど、アリーシャは人形。愛でられるだけの存在。劣化すれば処分される。

 

 だから、なのだろうか。それ以外の役割を教えてくれなかったのは、そういうことなのだろうか。

 アリーシャ自身も納得していた筈の答えが、どうしてもしっくりこない。分からない。

 


「……義父上は、芸術家であらせられるだろう。だから、だな」

「――え?」


 天井を見上げながら、伯爵がそう呟く。

 

「わからん話でも無い。セルデバーグ卿は確か、陶芸家や音楽家のパトロンをしていた筈だ。エヴィンに聞いた事があるぞ」

「そう、いえ、ば……」


 父はいつも自慢げに絵画を飾ったり、人を呼びつけてピアノを演奏させたりしていた。

 それが、そうなのだろうか。

 

「往々にして、こだわりが過ぎる者は人の心を失うものさ。目の前の『なにか』に固執するともう、寝ても覚めてもその事しか頭に浮かばなくなる。盲目、という奴だな。そうなるともう、他の領域に考えが及ばない。他者を踏み付けても何も感じなくなるのだ」

「それ、は……」


 実感が籠められたようなその言葉に、アリーシャは首を傾げた。

 

「閣下の、こと、ですか……?」


 アリーシャがそう呟いた瞬間、伯爵は腹を押さえて笑い出した。

 何がそんなにおかしいのか、むせるほどの大爆笑だ。

 こんな所も、彼は貴族らしくない。

 

「そうだ! 私は食に命を捧げた外道さ! そこに何の後悔もありはしない! だから好きな事をするし、好きなように生きる! 高貴なる者の義務など知らん! そうさ、知った事か!」


 だから、と。だ伯爵はアリーシャに笑みを向けた。

 

「君も、私に構わず好きにしたまえ! この変人を利用して、人生を楽しく過ごせばそれでいい!」


 やっぱり彼はおかしい。アリーシャの理解が及ばない、分からない。

 けれど、その言葉に何故か安心感を覚えている自分が居る。

 

 それがどうしてか、何故なのか。やはりアリーシャには分からなかった。


 


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ∴ ∴ ∴ ∴

   

   

 ガタゴトと音が響き、度々体が上下に浮く。

 しかし、思ったよりもその揺れ幅は少ない。道が意外と整備されているのだ。

 そんな事を思う余裕さえあった。

 

 そう、あの夜からきっちり一週間後。アリーシャは領地に向かう馬車の中に居た。

 真向いには伯爵の姿。彼はニコニコしながら窓の外を眺めている。

 つられてそちらを見るも、変わり映えのない風景が流れるだけ。分からない、そんなに楽しいものなのか。

 

「君をね、色々と連れ回してみたかったのさ! 郷土料理は味わい深いぞ! 最初に向かうレヴィアは川沿いの街だ。小魚ホワイトベイトが絶品でね! カリカリになるまで油で揚げ、塩とスパイスを振りかけるともう、たまらんぞ! ハーブを下に敷き、レモンを絞りかけたアスパラガスを添える。これが見た目も美しく、私好みだな!」


 目が輝いている。ギラついている。危険な光を帯びている。

 アリーシャは、自然と腰が引けて行くのがわかった。

 これが恐怖という感覚か。こわい。

 

「そして今回は、南洋の地から仕入れたコレを使う予定なのだ!」


 ガラス瓶を振りながら、ご満悦の伯爵様。

 中には赤やら黄色やらの砂のようなものが敷き詰められている。

 香辛料、というやつだろうか。

 瓶の中で軽やかに舞う、その色とりどりの粉にアリーシャの目が吸い寄せられる。

 

「お、興味があると見た! このスパイスは、私が出資している会社に作らせた新製品! ほの辛さと玄妙な味わいが舌の上で舞い踊るぞ! その感覚といったらあぁもう、どうだ! どう思うね!?」


――――どう、と言われても。


「わ、分かりま、せん……」

「そうか、楽しみだな!」


 人の話をまるで聞かない。

 目の前の何かに固執したらもう、何も見えなくなるのが彼だ。

 伯爵家に嫁いでから既に、半月が過ぎている。そろそろアリーシャもこの奇行に慣れ始めてきた。

 ある種の諦めと共に吐息を吐き出し、何やら語り始めた伯爵の薀蓄に耳を傾けるのだった。

 

 

 そうしてアリーシャは、あちらこちらを文字通りに連れ回され、振り回された。

 河川から捕れるという小魚群のフライに舌を惑わされ、牡蠣の産地でブーシェに目を瞬かせ、エスペランサという国伝来の中に芯が残るくらい固ゆでパスタに大混乱。

 果てには森の恵みの木苺をポタージュにして飲み、捕り立ての小鳥とセージ・月桂樹の葉を巻いた鶏のレバーを合わせ、それと豚肉と脂身を木串で貫き炭火で焼いて食してのけた。

 

(……これ、本当に領地の視察なのかしら?)


 地方美食旅行とか、その類の道楽では?

 アリーシャの疑問は尽きない。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴

   


 視察の後半。伯爵とアリーシャが主屋として暮らす、あのカントリーハウスの丁度反対側。付近の領地に差し掛かったところで、伯爵は従僕たちを遠ざける。不思議に思うアリーシャを促し、彼はとある小さな畑を訪れた。

 

「ここ、は……?」


 野菜が繁る、これまで訪れた畑に比べれば、正に猫の額ほどの土地。

 しかしそこには、何も無い。耕されたであろう土が広がっているだけ。

 目を瞬かせるアリーシャを尻目にその『畑』に跪くと、伯爵は愛おしそうに土を撫でて微笑んだ。

 

「……君を娶った理由の一つがこれさ。セルデバーグ男爵領には、二百年ほど前に遠い異郷から伝わった『野菜』がある」

「や、さい……?」


 なんだろう。そんなものがあったか。元々知識に乏しいアリーシャでは、何も分からない。

 

 

「他国からも仕入れる事は出来たんだがね、意外な事に私にも愛国心があったらしい。この地に根付いたモノを種として育ててみたいと思ったのさ。そうすれば、皆に受け入れやすいとも思ってね」

「……? どういう意味、ですか?」


 これさ、と。伯爵は懐から何かを取り出す。

 黄色がかった石、だろうか。表面はでこぼこしていて不恰好に見えた。

 しかし、何故だろう。アリーシャには見覚えがある。何処かで、目にしたことがある、ような――

 

「イモ、というものだ。聞いた事が無いかな?」

「……悪魔の、実!」


 思い出した。アリーシャの父が育てていた観葉植物・・・・だ。

 異国から取り寄せた物であり、美麗な花を咲かせることから、彼が手づから丹念に世話をしていた記憶がある。


 でも、確か。そう、父親はこう言っていた。

 花は可憐で美しいが、その実は――

 

「毒、だと……英雄殺しの悪魔……」

「そう、この国ではそう言われているな。二百年近く前、英雄王と謳われた当時の国王陛下を中毒で殺しかけたと」


 そう、確か――どこかのお屋敷のパーティーで、デビュタント前の小さな令嬢・子息たちが、背を振るわせながら謳っていた。



 『白くて淡い、綺麗なお花♪ 見るは麗し、嗅ぐは香ばし、この世ならざる美の結晶! しかしその根、地に這い毒を吸い、悪魔となりて王さま殺す~♪ 見るはよいよい、食すは厳禁――』

 


「次代の王が年若くして王位に着く羽目になったのも、この悪魔が原因。そう、永く信じられてきた」

「ちがう、のですか……?」

「文献を私も調べたがね。俗説の一つであるとも言われている。だが、厄介なことにこの実は種から取れるのではない。その実そのものを『種イモ』として地中に埋める事で芽を伸ばし、根付く。これまでに無い特徴を持った『野菜』だ」

「これまでに、無い……」

「そう、ゆえに聖典にも記されていないのさ。『種を持たぬ植物は植物に非ず』とね」


 聖典に記されていない。それは、神の教えから外れたモノであるのと同意義だ。

 メアリから、そう教えてもらったことがある。


「だから、調和神の教えと深く結びついたわが国では、禁忌にも似た食物となっているのだ」


 無念そうに伯爵が呟く。けれど、あれ? とアリーシャは首を捻る。


「でも、おかしいです。今まで食べたものの、中に。聖典にないもの、あったはず。前に、食べたパスタ。あれの材料、東方で発見された、新種。小麦に似た別の物だって。そう閣下も、言ってたのに……」


 麦に似通っているから有りなのだろうか。神さまも意外と融通が利く。

 しかし、アリーシャの疑問に伯爵は首を振って答えた。

 

「確かに今となっては、聖典にそこまでの力は無い。アレは時を経るごとに改竄されてきた歴史がある。新しく許可され、調理に加えられた食材など、枚挙に暇がないさ」

「だったら――」

「だが、根拠にはなる。毒として広まった物はおいそれと口に出来ない」


 イモの表面にある芽が毒であり、それを食すと体に悪いのだという。

 俗説が仮に真実だとしたら、当時の料理人がそれを知らずに調理法を誤った。ただでさえ見てくれが悪いというのに、毒性もあるおぞましきモノ。当時の人々がそれを遠ざけるのも当然の流れではある。

 

 更に悪い事に、その姿形や色合いから、流行する病の原因だと妄想させてしまうのも良くなかった。

 観葉植物として存在が残され、一部の好事家に愛でられただけでも奇跡に等しい。

 それらの要素が諸々と複合し、この国ではイモが遠ざけられてしまったのだ、と。

 そう、伯爵が説明してくれた。

 

「だが、そんなイモも他国では便利な食料として広まりを見せている。寒冷に強く、痩せた土地でも栽培可能。しかも、小麦の三倍の量が取れるのだ」

「す、すごい。この国、さむい、から。ぴったり、です」


 朝は暖炉に火を灯さないと体が凍えそうになる。

 冷たくなったベッドから降り、絨毯に足を置いた時の温かな心地は、人形と呼ばれたアリーシャだって分かるのだ。

 

「それに、メアリが言ってました。飢饉、続いてるって。ここ数十年の間でも、何度も、何度も。寒くて食物が育たず、飢えに、苦しんでいる人、多いって」


 その救世主になり得る食物なのでは。それは、ちょっと聞きかじったアリーシャだって理解できるのに。


「伝統という言葉も邪魔になるし、何より皆、度胸が無い。食して良いと思えるきっかけが無いのだ。栄養も豊富であるのに……」


 伯爵はイモの効用を、まるでそれを実感しているかのように話す。不思議な口調だった。


「イモのある無しで戦争の行く末が決まった国も存在するそうだ。戦いになると、まず互いのイモ畑を狙うらしいぞ。この国は技術の革命と『選ばれし者』による神の威光、兵の粘り強さで国力を保っているものの、その内に限界が来る」


 現に、と。伯爵は手に取った()()()()()

 

「か、閣下……?」

「かつて、神から得られたとされる加護の力は貧弱となり、その存在を知る者も少なくなった。英雄王が培った畏れも遥か過去。技術の発展は、人から神を遠ざけたのだ。それを知るからこそ、聖典を根拠にしたい連中も多い」


 いつもの伯爵と、様子がまるで違う。

 理知的に淡々と話すその様は、まさに人ならざる神が降りたようにも見え――――

 

「こんなにも美味い食べ物なのに!! 何故、どうして喰わんのだ! おかしいぞ! おかしいだろう!? 貴族連中も悠長な! 自分らが飢えぬからといって、民もそうとは限らぬと、どうして思わぬ! 国が滅んだらどうするのだ! ローストビーフもプディングも、タラの頭と肩肉も食えなくなるだろうに、愚か者どもがぁぁぁ!!」


 ――――なかった。いつもの伯爵閣下だ。

 

「長らく自国の土で育ってきたものなら、皆も喰いやすいと思うのだ! 今度こそ、今度こそぉぉぉぉ……!」


 地の底から這い上るような低い怨みの言葉。これは、人間が出せる声なのだろうか。

 アリーシャは彼に対して、先ほどとはまた異なる畏れを抱きつつ――何故かホッとしていた。

 

「これで、視察は終わり、ですか?」

「いや、まだだ。あと一つ、寄らねばならんところがある。すまないが、付き合ってくれるか?」

「はい」


 否定する要素がない。迷わず頷くと、伯爵はニヤリと不気味に笑った。

 

「閣、下……?」

「大丈夫だ、身の安全は保障する」


 大丈夫な様子が欠片も見当たらない。

 これから何が起こるのか、想像もつかない、分からない。

 

 アリーシャは安請け合いをしたことを、早くも後悔し始めたのだった。

  

  

 ◆ ◆ ◆ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴

 


(……これはいったい、どういう状況なの?)


 まるで、悪い夢でも見ているよう。現実とは思えない、気が遠くなりそうだ。

 アリーシャは今、古びた木製の台車――のような何かの上に、腰を下ろしている。

 視界を遮る幌は何もなく、周囲には雑多な物が積まれ、所狭しと押し込められていた。

 

 その台車を牽くのは馬ではなく、見るからに貧相な小柄のロバ。

 そして何よりおかしいのが、その手綱を持つ御者が伯爵閣下なのである。

 ……伯爵閣下、なのである。

 

(なぜ……?)


 極めつけは、アリーシャ達の服装だ。

 伯爵はウール製の編み込み帽子を被り、その大柄な体格にぴたりと合った着古したベストと、ごわごわしたスモックを身に着け、そして下はこれまた古着のズボン。

 アリーシャは長袖のボディスにスカート、そしてその上にエプロンを羽織り、髪を後頭部で結い上げ、編み目の荒い麦わら帽子を乗せている。

 父が収集した絵画で見たことがある。これは農夫という労働従事者の格好だ。

 

(な、ぜ……!?)


 わからないが過ぎる。

 一体、これからアリーシャ達はどこへ向かおうとしているのか。

  

 怖々と後方を振り向くと、少し距離を遠ざけた所に、こちらと同様の――荷馬車というらしい――が付かず離れずを保って同じ道を走っている。

 一応の護衛、らしい。身の安全は保障する、とはこのことなのだろうか。

 

「うん、うん。いつものドレス姿や髪型も良いが、その格好も似合っているではないか。中々のものだぞ、私が保証する」


 それは褒められているのだろうか?

 聞く者が聞けば平手打ちをしかねない賞賛の言葉。もちろん、アリーシャには分からない。

 

「あぁ、そうだ。言い忘れていた。ここから先は、私の名前はウィルだ。君は――アーシャ、とでもしておこうか」

「……はい?」


 何だそれは。どういう意味なのか。アリーシャの脳内で疑問が羅列し、駆け巡る。

 

「お、見えてきたぞ! トムじい達の小屋だ!」


(――誰、トム。それは誰なの!?)

 

 そんな疑問を発する間も無く、荷馬車は『目的地』に辿り着く。

 そこは、雑木林の一角。赤みがかった葉に彩られた木々の向こうに道が伸び、そこに小さな小屋が並んでいる。

 更に奥の方からは煙のような物も幾条か昇っており、遅まきながらアリーシャも、ここは村の入り口なのだと察した。

 

 小屋の手前へ荷馬車を寄せ、アリーシャは伯爵の手を借りて地面に降りる。

 足元がふらり、とぐらつく。普段の馬車とはまた違う乗り心地に眩暈がしそうだった。

 

「また来よったか、小僧!」


 アリーシャが感覚を取り戻すのに四苦八苦していたその時、威勢の良い声が響いた。

 

「トムじい、息災であったか! 何よりだ!」

「おお、おぉ。なんとかかんとか、死にぞこなっておるわい――って、ん?」


 現れたのは、鷲鼻の老人であった。つるりと禿げ上がった頭の下、ギョロついた目がアリーシャの姿を捉える。


「何だ、その娘は。召使でも雇いおったか」

「召使では無い、妻だ」

「妻……妻だと!?」


 途端、天地が裂けたかのように仰け反り、トムは驚愕に体を震わせた。

 

「お、おい! みな、来い! 小僧が……小僧が嫁を連れてきよったぞ!!」


 林中に響き渡るような叫びが響き、それに呼応するように、ざわついた声と足音が近付いて来る。

 

「嘘だろう……嘘だろ!? 何だこの綺麗な子は!?」

「お前に惚れる女がこの世に居るのか!? おいウィル! どうやって騙した、言え!」

「ウィルが嫁……嫁……? しかもこんなに可愛い子を……? 神は一体、何をお考えでいらっしゃるのかチクショウめ!」


 口々に驚きと呪いの言葉を吐き出す男達。服装からして、農夫……という人々だろうか。

 皆、仕事の最中であったのか、薄汚れたシャツやズボンを身に付けている。

 

「見たか、アリ――アーシャ。私は中々に人気者だろう?」

「はい……は、い……?」


 これはそのような語彙で表現されるものなのか。分からない。

 

「アーシャちゃんか……人形みたいに可愛い子だなぁ。こんな食欲の悪魔みてぇな奴の何処が良かったんだ?」

「あ、え、そ、の……」


 答えに窮していると、伯爵がさり気なく前に出てアリーシャを背に庇う。

 

の人間的魅力が物を言ったのだ! 具体的には美味いメシと茶だな!」

「お前の魅力が欠片も含まれてねーじゃねぇか! ふざけんな!」


 ワイワイとはしゃぐ伯爵様と農夫たち。

 伯爵が自らのことを『俺』等と呼び始めたことにも驚くが、何よりその気安さに面食らってしまった。

 

 学の無いアリーシャでも知っている。彼らは、労働階級だ。

 上流の上澄みたる貴族と、こんな風に語らう機会など、滅多にないはず。

 この国では階級と階級の間には隔たりがあると、そうメアリも言っていたのに。

 

「おい、その辺にしておけ。ったく、わけぇ娘さんを放って盛り上がるんじゃねぇよ」


 呆れたようにトムが男達の間へ割って入り、アリーシャを手招く。

 

「小僧の嫁だっつうんなら、俺らの身内も一緒だ。どうせメシをたかりに来たんだろ? お前さんも来な。口に合うかはわからねえがな」


 そう言われても、どうすればいいのか。彼らと食事を共になどして良いものか。

 救いを求めるように伯爵の方へと視線を投げ――アリーシャは即座にそれが無駄な行為だと悟る。

 

 シュトラウス伯爵の目は期待に輝き、その口元は緩みに緩みきった満面の笑み。

 

 つまりはまぁ、いつもの事であった。

 

 

  ◆ ◆ ◆ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴



 青空の下、大きな木製のテーブルを皆で囲む。

 アリーシャは陽光の下での食事など初体験だ。

 

 自分がここに居るのは場違いではないか。そんな居心地の悪さを感じていると、トムが料理を運んでやってきた。

 男性にしては比較的小柄とはいえ、その体がすっぽり入ってしまうほどの大皿。

 そこに乗せられた『物』に、皆の瞳が吸い寄せれられていく。

 

「そら、出来たぞ喰え! 胡桃と松の実の蜂蜜揚げだ!」

 

 でん、と。大盛りの揚げ菓子が、皿の上にこれでもかと盛り付けられている。

 

「おお、トムじい得意の菓子だな! さっそく頂こう!」


 言うが早いか、伯爵は湯気が立つ菓子を手で掴み、ひょいと口に放り込んだ。

 

「うむ、うむ! この雑味! たまらぬな! カ・リィー・スパイスも良く合っている!」


 次から次へと菓子を頬張り、実に美味しそうに食す伯爵様。

 対してアリーシャは、手掴みで物など食べたことがない。どうしてよいものか、固まってしまう。

 

 この国の食文化として、素手での食事行為は普通にあるとは知っている。

 けれどパンすらナイフで切り分け、必ず食器を使ってきた。指に染みを作る事など、父から許されなかったのだ。

 

「ん、フォークを使うか? 持ってきているぞ」


 何処からか取り出したか、鉄製の食器を渡される。


「で、も……これは、手で食べるもの、なのでは?」

「別にそんな細かい事は決まっちゃいねえさ。お貴族さまじゃねえんだ。好きに喰いな」


 アリーシャはそのお貴族様だから困る。

 トムはそう言ってくれるが、自分だけ上品に食べるのも何だか悪い気がしてきた。

 

(メアリが言ってた。東方の言葉に、郷に入れば郷に従えって『ことわざ』があると。なら――)


「おお!?」


 伯爵があげた快哉を背景に、アリーシャは揚げ菓子を手で掴んで、恐る恐ると口に運ぶ。

 

(……不思議。今まで食べた食事とも違う。変な、感覚)


 特に優れた味というわけではないのだろう。口の中に広がる食感からして、決して洗練された物ではない。

 けれど、なんだろう。どう言っていいのか分からないが、それは決して不快な感覚ではなかった。

 口の中でホクホクと崩れるそれを、アリーシャは一生懸命に噛み、飲みこんでいく。

 

「これは、この村伝統の料理だ。古代リルーサ文明期の流民から伝播したものと思われるな。松や胡桃の実を茹でた小麦と共に磨り潰し、蜂の蜜とスパイスを加えて練って、こう……丸めるのだ」


手に持った菓子をクルクル回し、伯爵が薀蓄を語る。


「後は表面に塩をまぶし、油で揚げたら、最後にあく取り後の蜂蜜をたっぷり……ここが重要だぞ? たっぷりと振りかけて終了だ!」


 やった! と手を鳴らして喜ぶ伯爵。

 子供みたいなその仕草に、付近の男達が苦笑する。


「トムじいの家業は養蜂なんだよ、アーシャちゃん。取れる蜂蜜も評判いいんだぜ? 余所の地主もわざわざ買い付けにくるくらいだからな」

「そうそう、ここいらの男はみな、これを喰って育つのさ」


 男達が口々に蜂蜜の素晴らしさを物語る。

 トムはその賞賛に鷲鼻を鳴らして応え、得意そうに片目を瞑った。

 

「だが、このスパイスも中々だ。使えというから試してみたが、悪くない。新製品か?」

「あぁ、そうだ。知り合いからの試供品でね。方々で使い歩いているのさ」


 なにせ、と伯爵が肩を竦める。

 

「近頃は、スパイスを使う料理が極端に減って来たろう? アストリアからの新技術で、それらを最小限に抑え、食材の持ち味を生かす調理法が確立されたからな。それまでの料理とはまさに別格。貴族様方も密かに絶賛しているらしい。それは確かに素晴らしいが……困ったことでもある」


 何故だろうか。いつもの伯爵ならば、手放しで喜びそうなものなのに。アリーシャは分からない。


 「新しい物が広まれば、古きそれは過去の遺物として撤廃される。世の常だな。それまで、親の仇の如く無心に振りかけてきたスパイス。その使用量が、軒並みガタ落ちだ。業者も悲鳴を上げていてね」


 アリーシャの疑問を察したか、伯爵がそう言い添えてくれた。

 それは知らなかった。世の中はそうそう単純なものではないのか。

  

「何でもそうだが、新しければそれで良いと言うものでもない。その過程で失われてしまう、良きものも少なくないからだ。特にこの分野は、技術やそれに伴う調理器具が根こそぎ無くなってしまうため、過去の再現も難しい。ゆえに料理はよく、滅びゆく芸術――と評している」

「そう、なんですか……知らなかった、です……」

「ああ、俺の中ではな」


 まさかの造語だった。アリーシャは何だか騙されたような気持ちになる。

 

「食物は平等。料理に貴賤は無い」


 そんな妻の様子を気にもせず、伯爵は断言する。


「人類の歴史を通して育まれ、衰退と進歩を繰り返して来た調理技術。それらは全てが素晴らしく、愛おしいものだ。古い新しいで価値が左右されてはならない」


 彼の信念、なのだろう。そう語る瞳に一切の迷いはない。

 

「小難しい話をしやがるぜ、全く。けど、このスパイスは良いな。色々使えそうだ。慣れねえと、ちっとかれぇがな」

「本当だ、こいつは辛い。舌にぴりっと来やがるぜ、この粉! 甘辛い……とでも言えばいいのか、なんだこれ」

「辛い……かれぇ、か。カ・リィー・スパイスが、かれぇ――」


 ぶつぶつと何やら呟く伯爵閣下。


「うむ? 良い名前が浮かびそうだな……」


 まさか、今の駄洒落めいた語呂合わせから思い付いたのではないか。

 アリーシャの不安はしかし、どうにも的中しそうであった。

 伯爵は何やら腕を組んで熟考し始めている。付近の男達も首を竦め、そんな彼の肩を叩いた。

 

「お前は本当にメシに関しちゃ真面目だよなぁ。どうでもいいだろ、名前なんて」

「そうはいかん! 意外と大事なものだぞ、これは。名前だけでは無い、見た目もそうだ。馴染みの無い食べ物を食すにあたって、その心理的障壁を取っ払うことも重要でな。これが中々に馬鹿に出来ぬ」

「そんなご大層なものか? たかが食う物ひとつにさぁ」

「例えば、宮廷料理で一時期、色彩や見た目に凝った時期がある。動物の首を刎ねて飾り立てたり、大きなパイ生地の中にホールボーイを潜ませて、参列客がいざ食そうと近づいた時に中から子供が現れ踊り出した、なんて余興めいた事もしたらしい。人を驚かせ、その目を愉しませること。それも一つの料理だ。そうそう、こんな話もな――」


 段々と話の方向性がずれていく。これもまた、いつものこと。彼は一度喋り出すと止まらないのだ。

 けれど、薀蓄を語る伯爵の目はキラキラと輝き実に楽しそうで、アリーシャは菓子を口に含みながら、そんな彼の様子をぼんやりと見守る。


「なあ、嬢ちゃん」


 トムがこっそりと耳打ちをしてきたのは、そんな時だった。


「正直なところ、アンタも小僧も良い所の坊ちゃん達だろ?」

「え、っと……」

「隠さんでもええぞ。喋り方や仕草に癖がありすぎる。なんだ、その……気品ってやつか? そんな農婦の格好をしているのに、肌も異様に生白いしな」

「……あ」

「おまけにいつも、護衛みてぇに着いて来る荷馬車がいるだろ? 察するな、って方が無理だ。無理がありすぎる」


 言われてみればその通りである。文句のつけようがない。

 

「まぁ、それはどうでもいい。今さら、俺達も素性を探ろうとは思わんよ。初めて会った時と同じく、ここに来るならメシを喰わせてやるし、あいつの馬鹿話を肴に盛り上がる。それだけだ」

 

 何でもなさそうにそう答えるトム。

 その表情には何の打算も下心も見当たらない。少なくとも、アリーシャにはそう見えた。

 

「……あの小僧にゃ、返しきれねえ恩があるからな」


 戸惑うアリーシャにそう言って、トムは乱喰歯を剥き出し笑った。

 

 

 ◆ ◆ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴

 

 

 「……トムじいめ、イモを捨てる等と勿体ない真似を……」

 

 村からの帰り道。ロバを繰りながら、伯爵はぶつくさと文句を言う。

 どうも、以前に他国からの種イモ栽培を勧めたらしいのだが、にべもなく撥ね付けられてしまったらしい。

 悪魔の実なんて育ててると知られたら信用に関わると、誰の手にも届かない所に捨てた、とそう言われてしまったのだ。

 

 いつになく肩を落とす伯爵様。その後姿を眺めつつ、アリーシャは後方を振り仰いだ、

 既に、陽は傾き始めている。うっすらと赤みがかった雲が森に霞み、その色合いが不可思議な感情を呼び起こす。

 

 

『俺ぁな、ちっと前に病を患ってな。小飢饉の時に、木の皮を食べちまったのが良くなかったらしいや。そいで胃をすっかりやられちまってなぁ……何を喰っても吐き戻すようになった事があるんだよ』



 あの時、あの食卓で。

 過去を懐かしむように、そう言ってトムは微笑んでいた。

 

『食べる物がねぇのも苦しいもんだが、アレはまた別の地獄だな。喉から上は物を喰いてぇって叫んでんのに、そこから下は何も受付けねえんだ。胃と頭が、まるで別の生き物になっちまったみてぇだったぜ。味も何もねえ、ドロドロの粥とも言えねえ代物を無理矢理流し込むしか、どうにもできなかった』


 何で生きてるのか、こうまでして人は生き続けなくてはならないのか。

 一時は死ぬことすら考えたと、彼はそれほどに追い詰められていた、らしい。

 

『そこにやってきたのが、あの小僧だった。こんな老いぼれの死にぞこないに、わざわざ付きっきりで世話を焼いてな。これは消化にいい、あれは胃を整える、なんて言いながらハーブやら何やらをどっさり持ってきて、だ。そうして料理を作り、喰わせてくれた。いや、無理やり喰わせやがった、に近いか。食べ方もゆっくり少量ずつ食べろ、良く噛め、なんて文句を付けてきてさぁ」


 ひでえもんだったぜ、そう言ってトムはまた笑う。

 

『それがな、どれもこれもうめぇんだ。びっくりしたよ、『食べる』ってあんなに気持ちが良いものだったんだな。忘れてたぜ』


 ――アレは嬉しかった、本当に嬉しかったんだ。

 その言葉には、体験したものでしか分からないであろう、実感が込められていて。

 アリーシャはどう答えて良いものか、分からない。

 

『明日はまた、ウマいモンを喰えるかもしれない。そう思えただけで、不思議と朝を迎えるのが楽しみになった。食べるって行為は喜びなんだと、俺はあの時に思い知ったよ。それを教えてくれた小僧には、感謝してもしきれねえ』


 それが例えお貴族様の道楽だとしても、構わない。

 あの日、確かに自分は救われたのだと。トムは伯爵へ視線を向けた。

 未だスパイスの名前を決めかねているのか、彼はうんうんと唸ったままだ。



『――馬鹿な奴だよな、本当に。あんなメシ馬鹿、今まで見たこともねえよ』


 

 そう言って彼を見るトムの瞳は、何処までも優しくて。

 アリーシャは胸の内に、得体のしれない衝動がせり上がって来るのを感じていた。

 


「……-シャ、アリーシャ」

「え……あ、はいっ」


 その呼び声を耳にして、アリーシャは飛び上がりそうになる。

 あの村に、トムとの会話に想いを馳せていたせいか、気付かなかった。

 

「申し訳ありません、閣下……」

「いや、いいさ。初めてのことで疲れたであろう。だが、すまないついでにもう一つだ。少し寄り道をしても良いかな?」


 そう問われても、アリーシャが是以外を返せるわけもなく。

 暮れなずみ始めたその道を、荷馬車の上で揺らされ続けた。

 

 

◆ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴



「ここ、は……」

 

 そこは、小高い丘の上だった。眼下には、深い森が広がっている。

 少し遠くに、上り立つ幾条もの煙が見えた。

 トム達の住む村から少し離れた場所であるとは察せたが、どうしてここに連れてきたのだろう。

 アリーシャには、どうにも分からなかった。

 

「ああ、用意ご苦労! もう少しだけここに滞在する。ああ、すぐだ。もうすぐ。宿は向こうのハウスで取ろう。お前もそうだが、皆たっぷりと飲み食いするよう伝えてくれ」


 従者にあれこれ命じると、伯爵は地面にしゃがみこむ。

 そこには既に『準備』がされていた。円状に配置された木片のようなものと、何かの器具。

 彼は器用な手つきでそこに火を灯し、その篝火をじっと見つめる。

 

 その瞳が炎に照らされ揺らめくのを見て、アリーシャはハッと胸を押さえた。

 まただ、また。変な気持ちが沸いて来る。これは一体、何だろう。分からない。

 

「……気持ちの良い連中であったろう。トム達は昔から、ああなのだ。愉快で人情深い男達さ」


 どう答えて良いのか、やはりアリーシャには分からない。

 必死に答えを探そうとするが、やはりそれが口から出る事はなく、もどかしさに体が震えてしまった。

 

「……この国は階級社会だ。貴族も商人も労働者も、それぞれに領分を持ち、それを侵すのはタブーともされているな」


 だが、と伯爵は静かに微笑む。

 

「貴族は昔から傲慢なものさ。己の欲のためなら、それらを容易く飛び越える。私もそうだ」


 彼は頃合いを見てやかんを手にし、それを火にかけた。

 鉄製のそれが熱され、やがてコトコトと揺れながら湯気を吐き出してゆく。

 

「かつて、食は万民に平等だった。王も貴族も平民も、みな同じ食材を、同じ料理を口にしていた時代がある。違いは量の多寡だけだ。今では信じられまい」


 伯爵の語る言葉は、いつもアリーシャには分からない。理解できない。

 ただ、聞き逃すまいと耳を傾けるだけ。それしか人形には適わない。

 

「ほんの百年前ほど前まで、貴族の令嬢とて軽食を作っていた。学院の昼食時など、好いた男にサンドイッチを振る舞っていたらしいな」

「貴族が、料理、を……?」

「さして珍しい事ではなかった。しかし、今はそれらが料理人の職域と区切られ、それは更に洗練されて平民の食卓に上るそれとは比較にならなくなってしまった。隣国の方では、革命を経て高級料理がその他の階級でも口に出来るようになったそうだが……この国では、まだそうもいくまい」


 聞いた事も無い話だ。伯爵の語り口は淡々としているがゆえに、妙に人を惹きつけるものがある。

 

「もちろん、今でも調理法に関してなら、ある程度の把握はしているだろうさ。そうでないと、女主人が使用人にメニューの差配もできまい。だが、それだけだ。自分の手で料理をすることも無ければ、それが平民の口に入るなど、とんでもないと考える」


 それは……当たり前のことのはず。

 蒼き血を持つ者と、それ以外では食するものから違うのは当然。……では、ないのか。

 そも、豪華な料理などここに来るまで食べたことも無いアリーシャだ。

 分からない、分からない。

 

「これからはそうも言ってはいられない。時代は変わる。既に中層階級の者達が技術と智慧を武器にのし上がってきている。新たな食の歴史が開かれ始めている……はず、なのに」

「……ちがう、のですか?」

「国の方針が変わりつつある。私にとっては良くない流れだ。清貧たれ、質素たれ。華美な食事は厳禁。まるで、上流以外の者達が領分を飛び越えてしまうことを恐れるが如く。自分達はそれを建前として、アストリアからの料理人たちを招いたりしているのにな」


 歪なものだ、そう自嘲気味に伯爵は笑う。

 まるでそれは、その言葉は。彼自身に向けられているように、アリーシャには思えた。

 

「政など分からん、理解したくもない。けれど、食に関する未来が閉ざされるなら、苦手とも言ってはいられまい。何としても対抗せねば。あのイモもそうだ。悪魔の実等と蔑まされてはならんのに。貧しい者たちのパンともなり得る存在、なのに……」

「何、故……」


 そこまでして、美食に……『食事』に狂うのか。

 どうしてこんなにも情熱を注げられるのか、アリーシャには分からない。

 

「……私はね、アリーシャ。子供の頃は食事が好きではなかったんだ。いや、むしろ大嫌いだった。私にとって食べる事は苦痛。拷問以外の何物でもなかったのだ」


 雷に打たれたような衝撃が、アリーシャに走る。

 まさか、そんな、バカなことが。

 

「……君には話そう。妻になった女性にはやはり、隠し事をしたくない。私は、生まれた時から不思議な力を持っているのだ」

「不思議な、力……?」

「舌に載せ味わったあらゆる物の姿が効力が、成分が頭に浮かぶのだ。『解析』とでも呼ぼうか。肉を食べる度に、その生前の姿がありありと映るのだから、たまらなかったな。任意で切ることも出来ん。幾度となく吐き出しそうになったよ」


 信じられない言葉だ。

 けれど、アリーシャは思い出す。前に、伯爵はこう言っていた。


 

『かつて、神から得られたとされる加護の力は貧弱となり、その存在を知る者も少なくなった』



 ――神に選ばれし者。

 それは、まさか。おとぎ話では、無かったのか。

 

 

「これは本当に神からの贈り物なのだろうか。私には呪いとしか思えなかったよ。けれど、ある日。12歳の頃か――転機が訪れた。領地の視察へ同行した際、嵐にあってね。そこの――」


 伯爵が来た道を振り返り、一点を指差した。切り立った小高い場所。

 

「――崖から、落ちた」

「な……っ!?」

「森の葉が衝撃を和らげてくれたのだろう。幸い、足を挫く程度で済んだが、前もロクに見えず土地勘もない。迷い迷って彷徨ったよ。その内、腹が空いてきてね。歩き詰めだから当然か。だが、食べられそうな物は何も無かった」


 その光景を想像して、アリーシャは背筋が震えた。

 まだ幼い少年がひとり、雨に吹かれた暗い森に取り残される。食べる物も無く、頼れる者も居ず。

 それは、どれほどに絶望的な体験だったのか。

 

「腹と背中がくっつくとは、ああいう事を言うのだろうな。三日ばかり……いや、もっとか? 時間の感覚も良く分からなかったからな。飢えというものをこの体で味わったよ。飢饉で苦しむ民の気持ちが、ほんの少しだが理解出来た。あれは……恐怖以外の何物でもない」


 彼は寒さに体を凍えさせ、雨を啜って生き延びた。しかし、やがてはそれも止み。

 舌が毒と言っていても、泥水を飲む事でしか生きられなかった。

 当然の如く腹を下し、水分を出しつくし、瀕死の状態に陥ってしまったのだという。

 遠くから聞こえる獣の遠吠えに不安を抱き、もう自分は遠からず死ぬのだと、そう覚悟したらしい。

 

「そんな時だ。日が沈む寸前、ちょうど今くらいの頃合いだな、一人の男が現れた。仕留めたらしい獣を背負った彼は、死に際した私を介抱し、その獲物を使って料理を振る舞ってくれたのだ」


 ――あれは人生を変えた体験だった。

 伯爵はそう、懐かしそうに話す。

 

「蜂蜜を塗った串肉と、温かいスープ。それを口にした瞬間、私の心が弾けた。比喩でなく、脳が焼き切れるかと思うほどの衝撃に、目が眩むようだったよ。あれが――食事を『美味い』と思った、人生初の体験だった」


 やかんからポットへ熱湯を移しつつ、伯爵はアリーシャに語り続ける。

 

「知ったのだ、私は。生きる事は命を取り込み糧とすること。植物も動物も変わらない。食べる事はそれらへの感謝であり、喜びなのだ。『ウマい物を喰えば、元気になる。難しい事じゃねえ』そう、彼は言っていたな」


 後から知ったが、と。伯爵は視線を落とす。

 

「その時は、何年かに一度訪れる不作、不猟の時期を終えた頃だった。想像が付くか、アリーシャ。そんな体験を経た彼は、その獲物を本当は独り占めにしたかったろう。なのに、薄汚れて死に掛けた見知らぬ子供に、それを分け与えたのだ。誇りもせず、恩に着せようともせず。正しく無償の善意。それがこの世に存在する事を、私は初めて実感した」


 その後、気を失った彼は捜索隊に引き渡され、目覚めた時はカントリーハウスのベッドの上だったという。

 自分を助けてくれた者達は、と問う息子に対し、褒賞は与えたと父親は告げたが、それ以外の話は聞かされず。

 方々に手を尽くして、ようやく再会出来た時は、それからまた何年も過ぎ去った頃だったそうだ。

 

「見る影もなく、彼は痩せ衰えていたよ。聞けば、胃を酷く傷めて物を食べられなくなったそうだ。私は、己が授かった力を最大限に使い、あらゆるハーブ、薬草、食材を喰い漁って料理を作り、消化の良く療養に効く物を彼へ提供した」

「まさか、その『彼』って……!」

「そう、トムじいさ。彼は私のことを忘れていたようだがね。前にそれとなく話を振った事があるが、全く覚えていなかったよ」


 生きる喜びを伯爵から教えられたというトム。

 まさか、彼自身がそれを既に伝えていたとは。

 

「それから頻繁にトムじいの家を訪れるようになって、あの男達とも知り合った。何回かの訪問後には彼も元気になってね。それから料理をご馳走になるようになったのさ」


 その言葉に、アリーシャは引っ掛かるものを感じた。

 しかし、その正体が何だか分からない。

 

「私の食道楽が始まったのは、まぁそれからだな。父にも母にも呆れられ、貴族としての誇りと慎みを持てと何度叱られたか。結局流行病で二人とも他界するまで、それは続いたものだ。だが、やめられん。これは、私が生きる意味だからだ。たとえ、誰に理解されなくても良い。それが私だ。セシル・シュトラウスという男なのだ」


 そこで、伯爵はアリーシャの方を振り返り、目線を合わせてじっと見つめてきた。

 ざわり、と。胸がさざめく。

 

「君は、それをどう思うかね?」

「そんな、の……私には――」


 そう、アリーシャの答えはいつも同じ。自分には、そんなこと、わか――


「――『分からない』。君の口ぐせだな」

「……っ!」


 アリーシャの言葉を予見したかのように、伯爵は告げる。

 

「だが、それは違うのではないかな? 思い返してみたまえ、アリーシャ。君が分からない、理解できないと思い、告げる。それはどんな場面であったか」

「な、にを……?」


 そんなの、決まってる。

 アリーシャが知ってはならないこと、理解の外にあるもの。

 それらを目の当たりにし、感じること。そうだ、人形が抱いてはならない感覚なのだ。

 そう、思ったから――

 

「逆、ではないのかな。君の分からない、は『分かりたい』『知りたい』という気持ちの発露なのだと私は思う」

「――ッ!?」


 ――そんな、そんなこと。ある筈が、ない。

 


 【軽食すらほぼ摂らず、礼儀で一口含めるだけ。それで何時間立ったままでいようとも疲労もせず、空腹さえ覚えない。そういう風に父に作られてきたのだ。そして、その事に何の感慨も浮かばない。そんな感情は分からない】

 

 【錬金術? そんな物が料理に役立つというのか。わからない、わからない、わからな――】


 記憶が、思い出が。ぐるぐると頭に巡り、その場面をありありと映し出す。

 

 ――メアリが自分に向ける、痛ましげな視線。それを分からない、と思ったあの日。

 

 ――スパイスに興味があるのかと言われ、咄嗟に言い放った言葉。

 

 伯爵の言葉は、何故かひどくしっくりきた。

 浮かんだ疑問に対する答え。

 全てはそれで、説明がつく。ついて、しまう。

 

「君が本当に感情も、何事にも興味がない人形であったなら、『分からない』ではなく、『必要ない』と、そう思うのではないかな。だが、君はそうは言わなかったし、考えもしなかったろう?」

「なぜ、そんな、こと、が――」

「分かるんだよ、アリーシャ。その、気を悪くしないでもらいたいんだが。私には、不思議な力があると言ったろう? 結婚宣誓の口づけをした時、そして初夜の時。君の感情が、想いが、唇を通じて流れ込んで来た。いや、不可抗力ではある。人相手にも通じるとは知らなかったのだ、信じて欲しい」


 少し焦ったように早口になる伯爵様。

 だが、アリーシャはそれを不快に思う余裕さえなかった。


「だ、から……?」

「そう――だから、知ったのだ。()()()()()()()と」


 その言葉は、深く、深く。アリーシャの胸に突き刺さる。

 

「人はどんな力を授かろうとも、それ以外にはなれない。神にも悪魔にも獣にも――そして、人形にも。君は、叫び続けていた筈だ。気持ちを圧され、新しい物と出会うたびに。知りたい、わかりたい、理解したい……と」

「そんな、の……」


(――わからない、わからない、わからない!!)


 アリーシャは耳を覆ってしまいたくなった。

 だって、自分は人形だ。そうでなければ、生きる意味が無い。

 そう、育てられた。そう、躾けられた。そう、作り上げられたのだ。

 今更、それ以外の生き方なんて――

 

「出来るさ、アリーシャ。だってその答えはもう、君の中にある筈だから」


 伯爵が、取っ手付きのカップに茶を注ぐ。

 湯気がたったそれを差し出しながら、彼は優しく笑う。

 あの時見た、トムのそれと同じように。

 

「さあ、ティータイムだ。丁度良い頃合いだろう。後ろを振り返って、それを味わってみてはどうかな?」

「うし、ろ……?」


 ――それは、圧倒的な光景だった。

 

 大きな陽の光が天に輝き、薄紅色の衣をまといながら沈んでゆく。

 まるで、世界を焼き尽くすかのようなその炎に、目がくらみそうになる。

 

「選ぶんだ、アリーシャ。君のその感情をここで解放させるか否か。君が、選ぶんだ」


 言われて、カップに目を移す。

 風に揺られて波打つ水面。その紅が、徐々に輪郭をはっきりとさせてゆく。

 灰色がかった視界。現実味のなかった光景。

 いつもアリーシャが感じていたその世界が、ガラスのショーケースが。

 

 ぴしり、と。ヒビが入り広がってゆく。

 

 ――いや、本当は聞こえていた。知っていた。いつも、いつも。

 伯爵の手で新たな知見が開かれる度に。

 この音が、世界が崩れるその響きが、耳に届いていた。

 それを聞かないふりをしていたのは、他でもないアリーシャ。

 自分自身だ。

 

「えら、ぶ……わたしが、えらんで、いいの……?」

「もちろんだ。誰が許さなくても、夫である私が許す。言ったろう、アリーシャ。君のしたいように生き、幸せを掴みたまえ」


 知らない、分からない、知らない、分からない。

 その言葉が頭に反響する。

 


『お前は知るな、覚えるな。最低限の事以外は、何も知らず思わぬ芸術品、私の人形たれ』



 父の言葉が、鎖となって絡みつく。

 これまで、アリーシャの人生をきつく縛りつけていたそれが、何故だろう。

 この夕焼けの光の中では、まるで紙のように儚く、脆く感じる。

 

 自分は、自分は――

 

「――知り、たい。――わかり、たい」


 この感情を、彼と出会ってから得た思い、その全てを。

 

 震える手でカップを受け取り、口元に運ぶ。

 熱い液体が舌を焼き、喉を通って胃に辿り着いた、その、瞬間だった。

 

「――――っ!!」


 全ての点が、集まり届いて一つの線になる。

 透明なスープ、肉汁滴るロースト、新鮮な牡蠣や串肉、そしてあの揚げ菓子。

 それらの思い出が、実感となって舌に蘇る。

 

 目の前の世界を閉ざすガラスの世界。

 ヒビは瞬く間に広がり、それはやがて大きなうねりとなって、灰色を覆す。

 

「料理の味わいとは、五感の味わいだ。目で見て耳で聞き匂いを嗅いで、その舌触りを愉しむ。この夕日は、最高のシチュエーションだ」


 伯爵の言葉が、静かに心へ染み渡る。

 

「義父上から聞いていたよ、今日がそうだってね。ハッピーバースディ・アリーシャ」


 気取った仕草で帽子を脱ぎ、彼は恭しく紳士の礼を取った。

 

「――これが、私からの誕生プレゼントさ」


 その一言を、皮切りに。

 

 がしゃん、と。ガラスが砕け散り、霞みがかった世界が崩れ去る。

 

「あ、ああ……ああぁぁぁ……っ」


 押し寄せてきたのは、色・色・色の洪水。

 鮮やかすぎる色彩の波に、足が竦んで崩れ落ちそうになる。

 

 歯を食いしばり、地面に縫い付けるようにして堪えると、アリーシャはガタガタと震える指先に力を込めて、再びカップを口へと運ぶ。

 

 ひんやりとした冷気を遮る、臓腑を燃やすような熱さ。

 透き通るような甘味が舌を痺れさせ、やがてそれは脳に心臓、全身に達してうねりを生む!

 

 ――叫べ、叫べ、叫べ!

 

 何を言うべきか、この衝動をどう表現すべきか。

 その答えをアリーシャは、知っていた。

 

「……し、い」


 頬が熱い。視界が潤み、夕日の朱がぼやけてゆく。

 うねる世界の中で浮かび上がる、優しい笑顔。

 伯爵の微笑みが、アリーシャの胸を打つ。


 

「おい、しい……!」



 ボロボロと、涙が零れ落ちてゆく。

 それを拭う暇さえ惜しいと、アリーシャは紅茶を飲み続ける。

 

「ああ、良かった。君にそう言って貰えて、本当に良かった」

「か、っか‥…」


 どうして、こんなにまで自分に尽くしてくれたのか。

 物も知らない人形に、何故こんなにも良くしてくれるのか。

 

「私は飢えを知っていると言ったろう、アリーシャ。だから放っておけなかったのさ」

「え……」

「前に一度、君のデビュタントの日に見かけたことがあってね。あの時は大人しくしていたから目立たなかったろう。君はあの日も、侯爵家での舞踏会の日も、何処か食い入るような目つきをしていたよ」


 伯爵の言葉に、声を失う。

 そんなこと、思いもしなかった。

 

「同情と受け取ってくれても構わない。これも貴族らしい傲慢さ。私は、飢える者を許さない。まして、自分の妻にと選んだ女性だ。見過ごせる筈も無いだろう?」

「でも、わたし、なにも、なにも出来ないのに……なにも、しらないのに……なにも、おかえし、できないの、に……」

「知ればいい、学べばいい。無知は罪では無い。その機会が広がる楽しみが出来たと思えばいいさ」


 ――でも、そうだな、と。伯爵はそこで初めて、照れ臭そうに笑った。

 

「ならば、私のことを名前で呼んでくれ、アリーシャ」

「……え?」

「妻にいつまでも『閣下』と呼ばれていては、格好が付かないだろう?」


 夕日に溶けてしまいそうなその微笑みに、アリーシャは一も二も無く頷いていた。

 

「は、い……はい……! セ、セシル……さま……!」

「ああ――ありがとう、アリーシャ」


 冬ほどではないにせよ、秋の夕暮れ時は、いつも凍えるような寒さを伴う。

 しかし肌に吹きつけるような冷風も、今はまるで気にならない。

 伯爵が――セシルがくれた全てのものが、心を暖めてくれる。


 胸の内で鮮やかに脈動する、生への実感。

 アリーシャは生まれて初めてともいえるその衝動を、瞳で、舌で、全身で――――


 ――――心ゆくまで、味わい続けた。

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