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おとぎ世界のアリス  作者: 志帆梨
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私と“アリス”


「覆すって」


呆れた表情で、ハートの女王は言う。


「そんな簡単に言うけれど、私は何を言われても(ゆる)す気は無いわよ」


薄い笑みを浮かべるハートの女王様。


「だって、此処は私の世界なんだから。誰の言う事を聞く必要なんて無いし」


此処は……と、言葉を続けた。


「私の為の、私だけの世界なんだから」


自信に満ちた表情で、彼女は言い放つ。


「うん、そうだね」


だが、それに対し。帽子屋は相変わらずの笑顔で答えた。


「此処は、君の為の君の世界。だからこそ、ボクも猫も辿り着くのに苦労したよ」


帽子屋がそう言うと、チェシャ猫が「ニャッニャッニャッ」と特殊な嗤い声を響かせる。


「未だに女王様に閉じ込められて、その鏡から出られないヤツが良く言うにゃ~」

「うるさいっ!」


大きな鏡の中から、帽子屋がチェシャ猫を睨んだ。


「それに、私を説得出来た所で。彼女にも、これからを生きて行く気力なんてあるとは思えないけど?」


私は顔を上げる事が出来なかった。

そう……私には居場所なんて、帰る場所なんてなかったのだ。自分を必要としてくれている人も居ない、私は要らない存在だったのだ……。


「違うよ、“アリス”」


鏡の中で膝を着き、帽子屋が私の顔を覗き込む。


「ボクはずっと言っているじゃないか、君が大好きだって」


それにね……と、彼は続ける。


「君は、沢山の人を幸せにしてきたじゃあないか!」


そう言うと、彼の居る鏡に映像が映った。

そこには、幸せそうに微笑むエラさんと王子様。それに、楽しそうにチーズを食べる三匹のネズミが居た。


「灰かぶりの彼女だけじゃないよ!」


続いて、懐かしさを感じるジェペットさんの家。そして、そこには穏やかに笑うジェペットさんとピノキオの姿が映った。

しかし、ピノキオの容姿は以前と変わっており。木の体躯から、生身の人間の身体で楽しそうに笑顔を咲かせていたのだ。


「操り人形君は、優しさも勉強も一生懸命学んで。人間になれたようだね」


それは、本当に良かった……でも、私じゃなくて。それは皆がそれぞれ自分で頑張ったからで……。


「――それに、この人達は実際に存在してなんかいないじゃない」


冷たい声が、届いて来る。


「此処は、眠り続ける私の夢の中。シンデレラもピノキオも、人魚姫も雪の女王だって……実在なんてしないのよ」


これは、私の頭の中で繰り広げられている出来事……と、ハートの女王はそう言った。


「じゃあ、今までのは全部……」


偽物の出来事……。


「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


帽子屋の声が響く。

視線を向けると、彼はニッコリと笑みを浮かべながら私を見ていた。


「確かに、彼等は皆。実在しないのかもしれない。けれどね、“アリス”……」


帽子屋の手が、私へと伸びて来る。

しかし鏡に隔たれて、その手が私に触れる事は叶わなかった。


「君が彼等にしてきた事は、“偽物”だったの?」


私は思わず、帽子屋へと顔を上げる。


「例え、全てが偽物で空想であったとしても。君の優しさそのものは、本物だったはずだ」


心の読めない、貼り付けたような微笑み。でも、私に心からの優しさが向けられている……そう、感じた。


「それを、一番。君が分かっているはずだよ」


その言葉が温かくて、優しくて……私の目頭は熱くなり、涙が自然と溢れてきてしまった。

エラさんやピノキオ、それに。


――アリス、また。いつでも遊びにいらっしゃい。また、貴女と話をしたいわ。


雪の女王様も。


――ありがとう、アリスちゃん。大好きよ、ずっと……。


人魚姫さんも……。


「ただ、幸せになって欲しいって……本当に願ってた……」


皆、優しくて善い人達で。それが、偽物だったとしても。私は、皆と話したり関われた事。それは今でも嬉しく思う、大切な思い出だった。


「そんなの!」


すると、ハートの女王の声が弾ける。


「“私”が、都合良く思い描いた。ただの幻想と願望でしょ!」


彼女がそう言うと、チェシャ猫がクルリと鏡を持ちながら体の向きを変えた。

そして、ハートの女王に近づくと。頭部を彼女の頬へと擦り付ける。


「ちょっ……」

「ミャーは、ねぇーねに会えにゃくて。とっても寂しかったにゃ」


チェシャ猫の言葉に、ハートの女王の表情は驚愕に染まった。


「ねぇーね、ミャーはにゃ。ねぇーねがこっちに居ても、あっちに居てもどっちでも良いにゃ。ただ、ミャーと一緒に居てくれたら、それで良いのにゃ」

「……小太郎」


ハートの女王が呟いたのは、“私”の記憶に居た猫の名前。


「此処では、ねぇーねにミャーの言いたい事が伝わって嬉しいにゃ!」


ニタニタとでは無く、本当に嬉しそうに笑うチェシャ猫の頭を。ハートの女王は、そっと触れて撫でる。


「ごめんね……」


今度は、鏡の中の帽子屋が言葉を紡ぐ。


「君を、苦しめたかったワケじゃないんだ」


真面目な声で、彼は続けた。


「ただ、君に楽しんで……笑って欲しかっただけなんだ」


“物語”の大好きな君が、また“物語”で笑えるように……と、か細い声が聞こえる。


「記憶を盗って、夢を見せた……記憶を持っている君が、こんなに苦しむなんて。思いもしないで……」


そうだったんだ……。


「私はね……“私”が、羨ましかっただけなの」


彼女は、少し苦しそうに続けた。


「楽しそうな“私”が、羨ましくて……そう思ってしまう自分が、醜くて。嫌で嫌で堪らなくって――」

「君は」


帽子屋の声が、彼女の言葉を遮る。


「ボクの世界で一番、美しいよ」


そう言った帽子屋に、彼女は困惑の表情で。


「何、それ」


と、少し笑った。

そして、帽子屋の入った鏡に触れる。すると、鏡から帽子屋が現れて。チェシャ猫の手から、静かに大きな鏡が消えて行く。


「ごめんなさい……」


泣きそうな声で、彼女が言う。


「そんな風に感じるのも、考えるのも嫌で……それで……」


私を処断して、自分自身の存在を消し去りたかった……と、私へと告げた。


「私の方こそ……何も知らないで、ごめんなさい……」


自分の掌に力を込めて、顔を濡らす涙を拭い。私はしっかりと顔を上げて、“私”へと歩みを踏み出す。


「私達、お互いにもっと。自分に優しくならなきゃダメだったね」


苦笑しながら、そう言うと。“私”もハニカミながら。


「甘やかしすぎても、ダメだけどね」


と、言った。


「さてと……」


“私”は肩を竦めながら。


「ラスボスも倒した事だし、これで物語は完結かな?」


と、言う。すると、帽子屋が。


「いいや」


と、明るい口調で言った。


「これから、もっと面白くって楽しい事が君を待ってるんだから。終わったりなんかしないさ」

「……そういう事言わないで。期待するだけ、疲れるだけだから」

「大丈夫」


“私”に、帽子屋が続ける。


「君は、この物語の主人公で。まだまだ、これから。見た事も無い出来事が、君を待ってるよ!」


そんなの……。


「「確証無いじゃん」」


私と“私”の声が重なる。


「だから、良いんじゃないか!」


元気に両手を広げながら、帽子屋が言う。


「“予想”の出来る出来事なんて詰まらないだろ? “予想出来ない事”があるから、世界は面白いんじゃあないか!」


何それ……と、思ったら。無意識に、口元に笑みが零れた。

“私”の口元にも、同じように孤が描かれていた。


「じゃあ、まぁ、とりあえず……」


“私”が、私へと顔を向ける。


「そろそろ、ややこしいこの状況を何とかしようか」


それって……。


記憶わたしは、貴女わたしに戻るね」


“私”は帽子屋に「良いでしょ?」と尋ねる。彼は、「もちろん」と笑顔で答えた。


記憶わたしが戻る事で、きっと……辛くて苦しくなると思う……でも――」

「大丈夫」


私は“私”に続ける。


「すぐに、受け入れるとか……そういうのは、無理かもしれないけど……でも、きっと。あの時の私よりは、大丈夫だと思うから」


あの時……苦しくて逃げたくて、薬を飲んだ私より。きっと少しだけ、私は私に優しく出来るかもしれない。


「うん……そうだね」


穏やかな表情で、“私”はそう言うと。ハートの女王の姿から、青虫になり。そして、その身体は光に包まれ。やがて、一羽の蝶が飛び出して来た。

様々な幻想的な青色を放つその蝶は、私の眼前を少し舞い踊ってから。私の唇へと、そっと触れる。

すると、先程。青虫が見せた映像が、再び頭の中へと流れてきた。けれど、先程とは違い。映像と共に、様々な感情も流れ込んできたのだ。


物語を見て読んで。楽しくて、面白くって、感動した事。

優しくて綺麗な姉が、大好きで大好きで堪らないのに。自分の中に垣間見せる劣等感に、自己嫌悪に……自分を責め立てた事。

初めて好きになった男性への嬉しさにはしゃぐ気持ちと、身の丈に合わない憧れを抱いて。一人で羞恥していた事。

他人と自分の差異に悩み、誰にも自分を見て貰えないと。勝手に一人で苦しみ、自分から人を理解するのを逃げ続けていた事。

勝手に、自分を責め立てては。勝手に独りぼっちになっていた事。


その時に心に生まれ、明確に全てを言い表す事の出来ない色々な感情が思い出されていく。

時には、一つの種類の感情が様々に。時には、全く正反対の感情が同時に生まれ。頭でも心でも、自分で処理する事が追い付かなくって。苦しくなって、涙が溢れそうになった。


――大丈夫


温かい、声と手が私に触れる。


――泣いて良いよ。苦しくて辛いなら、立ち止まって、椅子に座って休憩をしよう! ボクが美味しい紅茶を淹れるから!


見慣れてしまった笑顔が浮かぶ。嬉しくなって、涙が溢れた。


「飲みたいな……」


視界を阻む涙を拭い、顔を上げる。


「貴方の紅茶」


飛び込んできたのは、帽子屋の顔だった。

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