憶えなき記し
私の身体は、水の中へと沈んでいくみたいに。ゆっくりと、落ちて行った。
しかし、水中と違って息苦しさは感じない。ただただ、重力には引き寄せられながらも。スローモーションで、底の見えない夜色の世界へと沈んでいく。
『おねーちゃん!』
声が聞こえた。幼い少女の声だ。
『ねぇ、おねーちゃん! これ、よんで!』
前方の景色が変わっていく。
まるでスクリーンに映し出すように、何かの映像が広がっていった。
「 は、本当に本が好きなのね!」
今度は違う声。優しい気な、先程の少女よりも少しばかり年上の少女の声だった。
“――むかしむかし、あるところに。物語の大好きな、幼い女の子がおりました”
「でも、『白雪姫』って怖いお話じゃない? 本当のお母さんじゃないとはいえ、三回も娘のこと殺そうとするんだし……」
そう言う少女は、しっかりとした口調で話すが。まだ幼さを感じる相貌であった。
『でも、さいごには王子様がむかえに来て、起こしてくれるんだよ!』
心配気な声の後に、明るい声が弾ける。
『だから良いの!』
そう声が再び弾けると、映し出された少女は少し仕方の無さそうな笑みを浮かべて。手に持っていた本を捲った。
“――幼い頃から、「白雪姫」だけではなく。色々な物語が大好きだった女の子は、それからも沢山の物語を見たり読んだり聞いたりしました”
映り出されたスクリーンには、ガラスの靴が落ちた階段を駆け下りる美しい金の髪の女性の絵に、大きめなひらがなの文章が綴られていた本の一ページや。大きな電子画面に映される、木の人形が喋ったり歩いたりする映像。
“――それはどれも、一生懸命に頑張って。正しく優しく生きて行けば、運命の恋人が迎えに来てくれたり。願いが叶うという、幸せが溢れた物語ばかりでした”
その時、ゆっくりと落ちていた私の身体は急降下を始める。
“――だから、彼女は勘違いしてしまったのです”
そして、少し強めの衝撃と共に黒い地面へと到着する。
“――自分が物語の主人公である……と”
痛いという衝撃はあったが、特に動けないという程ではなさそうで。私はうつ伏せの状態から肘を立て、両手をつき上半身を起こした。
“――何年か経ち、彼女はそれはそれは空想好きな少女へと成長しました。そして、同じ年の年齢の子供達と共に、「学校」という場所で勉強を始めます”
すると、私の目の前に扉が現れる。私は無意識に自然に、ドアノブへと手を伸ばし。扉の向こうへと足を踏み入れた。
そこには、一人一人に与えられた小さな椅子と机に座り。濃緑の長方形の板を見つめる、子供達の後頭部と背中。そして、板に何かを書き込む大人の姿があった。
“――それから彼女は、普通の少年少女達が魔法や機械で変身して人々を救う物語が大好きになりました。幼い彼女は何の疑いも無く信じてしまいました。自分の「これから」に、きっとこんな風にとっても素敵で面白い事が待っているのだと”
ふいに、目の前の景色が動き。鉄枠の窓ガラスが映し出される。
そこには、高く生えた桜の花が風に揺れ。花弁を儚くも美しく散らせていた。
“――でも……”
突然、一つだった景色が複数に増え始め。私の前方だけでなく、上や左右へと広がっていく。
その数は、見た瞬間から数を数えるのを諦めさせてしまう程のおびただしい数であった。
“――そんなものは、何日を過ぎようとも。やって来る事はありませんでした”
そこに映っていたのは、先程の桜の木の景色。明るい青を背景に、緑葉を輝かせる木の光景。水で溶かした青と灰色を広げた空の前に立つ、葉の枯れ落ちた木など。
少しだけ、アングルは違っていたが。どうやら、全部同じ桜の木のようだ。
“いつまで、待っても。素敵な王子様が白馬に乗ってやって来る事も、カッコイイ魔法使いになって魔法で戦う事も。何も無かったのです”
映し出される景色は突如、コマ送りのようにその速度を速めだす。
窓を見ていた景色から、再び深緑の板を眺め。暫く、その景色が続いたかと思うと視点は再び動き始め。突然、ぷっつりと全てが消え去り。真っ暗な中に、引き戸式の扉だけが寂し気に現れた。
私は引き戸式の扉を潜り、滑らかで少しくすんだ白の床が伸びる廊下を歩いて行く。
“――繰り返される毎日に、彼女は知らず知らずの内に退屈で心を蝕まれていきます”
「 ちゃんって、話しかけても変な事ばかっり言うんだよね」
「 ちゃんが好きなアニメ、私全然知らない~」
「私も」
「すごく変わってるよね」
“――同じ年の子達が、ひっそりと聞こえるようにそんな会話をし。彼女が話し掛けられて言葉を返すと、皆は困ったような表情を向けました”
「 さん、どうして皆と同じように出来ないの? グループを作る時、いつも一人なのは貴女だけよ」
“――教育をする大人からは、怒りと呆れが混じったような声で嗜められました”
「 、どうして……」
“――母親までもが、困った様子で彼女に言うのです”
「お姉ちゃんや皆みたいに、普通に出来ないの?」
“――彼女には、自分の「普通」と他者の「普通」の違いが分かりませんでした。でも、そんな中で彼女にも安らげる居場所がありました”
「 は確かに観るアニメも本も、ちょっと変わってるけど良いじゃない。悪い事してるワケじゃないんだから」
“それは、彼女の姉と”
「そうそう。 ちゃんの年齢の女の子が見たり知ってたりするのが珍しいだけで、俺も好きだよ。コレ」
“――姉の友人で、近所に住む青年でした”
新たに現れた扉を開け、現れたのは。優しそうな表情で微笑む美しい少女と、爽やかな笑顔を向ける青年であった。
“――彼女は、二人がとっても大好きでした。学校に友達が居なくても、両親や大人に理解されなくても。姉が優しくしてくれて、青年と会話が出来る……それだけが、安らげる居場所だったのです”
その二人は、一目見ただけで。優しさと安心感を覚える温かな雰囲気を放っていた。
“――それからも、彼女は息を潜めるように。億劫に感じる学校生活を過ごしました。退屈な六年間が終わった時、彼女が感じたのは寂しさや悲しみではなく。安堵と新しい環境への期待でした”
再び、桜の花が。眼前に現れる。
“――もしかしたら……新たな場所でなら、何か新しい変化があるのかもしれない。再び、そんな夢のような期待に胸を膨らませてしまったのです”
そして、紺色のセーラー服や。黒い学ランを纏った少年少女達が行き交う景色が広がった。
“――そんな事、あるはずもないのに”
私は再び現れた扉を開ける。
“――それは、たまたま。トイレに入った時でした”
四つ並んだ扉。その一つに、三人程の少女がたむろしており。嘲笑いの声を響かせていた。
少女たちは、一瞬。私の方へと視線を向けると。眉を寄せてから、さっさと横を通り過ぎてその場を後にしていく。
すると、少女達がたむろし。閉じられていた個室のドアが開いた。
そこには、ずぶ濡れになった綺麗な少女の姿があったのだ。その相貌は、かなり幼いが。どこかエラさんの面影を感じ、私は息を飲むのであった。
視界の端に、淡いピンクのハンカチが映り。ずぶ濡れの少女へと差し出される。
“――しかし、少女はハンカチを差し出した彼女の手を振り払いました”
「ほっといてよ!!」
“――その声には、苦しい感情が心にパンパンに詰まり。少女の気持ちが、いっぱいいっぱいだったのを感じました”
「貴女なんか、イジめられる価値も無い癖に!!」
“――彼女の心に、鋭いナイフが刺さりました。しかし、彼女は少女を責める事は出来ませんでした。少女が言っている事は、本当だったからです”
私は、先程の女子達の。無関心な気持ちを体現する、冷たい視線を思い出す。
“――彼女には、嫌がらせを与える程の価値も無かったのですから”
すると、私の耳に。誰かの話し声が聞こえてくる。この場には居ない人達の声が私に、先程のエラさんに似た少女の事を教えてくれた。
“――聞いた噂では、ずぶ濡れだった少女は。男子から人気があるという理由で、同性から日々イジメを受けているという話でした。かたや、彼女は変人扱いを学校中で受けており。生徒も教員も含めて、必要な事以外では彼女と会話をしようともしませんでした”
差し出したハンカチを持つ手が、宙に留まっていた。濡れた少女は、画面の端に体をぶつけてその場を駆けて行く。
“――彼女はこの日、初めてきちんと突き付けられたのです。「自分の存在価値の無さ」……を”
「 、ただいまー! 久しぶりの実家は落ち着くね~」
『大学は変わらず楽しい? お姉ちゃん』
「楽しいよー! 勉強や授業は大変だけど、やっぱ高校の時と違って自由に出来る事も増えたしね」
『そうなんだ』
「 ちゃん、コイツ。一人暮らし始めてからまだそんなに経ってないのに、もう部屋が惨事に……」
「ちょっと、言わないでよー!」
『……二人ってさ』
彼女が発した言葉に、彼女の姉と彼が振り返る。
『付き合ってる、よね?』
重々しく尋ねられた質問に、二人の表情は分かり易い反応を返した。
『昔から良く一緒だったけど、なんか前より距離が近くなった気がするし』
「いや、あの……」
「 ちゃん、それはね……」
『別に隠す必要ないよ』
少しギコちなさを垣間見せた、明るい声を出す彼女。
『二人、お似合いだと思うし』
「実は、高校卒業の時にね……」
「でも、今さら付き合うって改めて言うのもなんか恥ずかしくて……」
気恥ずかしそうに言う二人。
“その時の彼女の表情には笑みが象られていましたが、心の中は穏やかではありませんでした。彼に淡い憧れを抱き、身勝手な甘い妄想を過去にしていた自分を思い出し。羞恥でいっぱいだったからです”
「そういえば、秋兎が ちゃんに会いたがってたよ」
「彼の従弟の秋兎君! 憶えて無い? あの、泣き虫の」
「そう、御盆に多分。遊びに来るんじゃないかな?」
「アラ、それは楽しみね! ねっ、 !」
『……そうだね』
“――彼女の耳には、二人の会話があまり入ってきませんでした。並んで、楽しそうに話す二人があまりにお似合いだったからです”
「あっ、小太郎!」
「お前、久しぶりだな!」
二人の声の先を追いかけて、景色が揺れる。すると、そこには淡い金色の毛並みの猫がゆったりとした歩調で歩いて来ていた。
「小太郎は、相変わらず にばっかり懐いてるわね」
「お前が家に居ないから、忘れられてるだけじゃね?」
「うっさい!」
二人の声を耳に通しながら、画面を見上げて座る小太郎という金の瞳の猫を見る。彼はニタニタと笑みを浮かべて嗤う様子は無いが、どこかチェシャ猫に似ていた。
“――大丈夫、悲しいワケじゃないよ……彼女はそう思いながら、愛猫の頭を撫でました”
画面の端から伸びた手が、猫の頭に触れる。
“――優しく美しい自分の姉が、裏表の無い本当に優しい人である事を彼女は知っていました。なので、自分には無い色んなものを持っている姉に。嫉妬も恨みの感情も抱きませんでした”
『お姉ちゃんは、優しくて素敵な人だからしょうがない。寧ろ、恵まれて当然の人なのだ。お姉ちゃんが持っていた方が皆、幸せに決まってる』
“――言い訳でも何でも無く、彼女はそう思っていました。それだけ姉に優しさを貰っており、姉のことが大好きだったからです。例え、好意を持った男性が姉を選んだとしても。彼女は当然の事と、当たり前に思いました。
ただ一つ、彼女の中に生まれた黒い感情は……二人の中で、自分の存在が特別に大切ではないという事を感じとってしまった事です。
きっと、二人は。互いが一番特別で大切な存在で、自分の存在は居ても居なくても。あまり二人の世界に影響は無いだろう……彼女はそう、考えました”
そして、再び。私の目の間に扉が現れる。私は一度、少し躊躇ってから。扉を開く。
そこには、一人の老人が白い着物を着て。木製の棺の中に横になっていた。その顔は、ジェペットさんに良く似ていた。
“――そんなある日、彼女は昔。とても良く可愛がってくれた、とても優しいおじいさんを亡くしてしまいました”
棺の上空部分に、映像が映し出される。
ジェペットさんに良く似た老人が、優しい笑顔を向けながら。木材を彫っている様子であった。
“――幼い頃、彼女の為に。可愛い人形や動物を彫ってくれていたおじいさんは、彼女が成長してあまり会いに行かなくなってから亡くなってしまったのです”
老人の手元に視点が近づくと、そこには可愛らしい丸みを帯びたフォルムの男の子の木彫り人形――そのデザインはピノキオを彷彿とさせた――が作られている途中であったのだ。
“――彼女は、取り返しが出来なくなってから気が付きました。『何故、もっとおじいさんを大切にすることが出来なかったんだろう……』と”
『もう、二度と会えなくなってから……こんなに大切に思っていたって、気が付くなんて……』
“――けれど、どんなに後悔しても。もう、彼女にはどうする事も出来ません”
『私は役立たずで、何の価値も無い……』
“――そして、純然たる事実だけが彼女に提示されました”
『私には、何も無くて誰も居ない……』
“――「おはよう」「バイバイ」と言い合え、「また明日ね」と明日を楽しみに出来る友人も。好きな人もおりません”
『だって、私自身が。誰の事も大切にすることが出来ないんだから……おじいちゃんみたいに……』
“――なので、この事実は当然の結果でした”
『けど……今さら、何をどうしたら良いのかなんて分からない……』
“――何故なら、彼女には「普通」が分からないからです”
『自分自身を見せれる居場所も、居心地の良い場所も何処にも無い……』
“決して環境が悪い訳でも無く、理不尽に悪意をぶつけて攻撃して来る人も居ません。きっと彼女は、シンデレラや白雪姫に比べたら、とても恵まれた幸せな環境にいました。
それでも……いえ、それだからでしょうか。学校にも家に居ても、いつも不安と罪悪感がありました。自分が本当に、此処に居ても良いのか……と”
『私なんて、要らないんじゃないかな……』
“そう思った日から、その思考が頭から離れなくなりました。それから、彼女の中で徐々に徐々に。目に見えない何かが壊れ始めてしまったのです。
好きだったアニメや漫画を見ていても、楽しさを感じられなくなりました。本を読んでいても、その内容が頭の中に入って来なくなりました。
同時に、勉強をしても何も覚える事も出来ず。成績はどんどん悪くなっていきました。
外出したり、周囲に人が居る状況に動悸が止まらなくなり。吐き気が常にあり、休み時間には吐く物も大して無いのにトイレで吐いていました”
「自分を甘やかしたいだけでしょ?」
「もう小さな子供じゃないんだから、しっかりしなさい」
“――自分の状況を上手く説明する事も出来ず、成績が落ち。起床も難しくなり、直ぐに行動に移せなくなった彼女を両親は怒りました。姉も青年も居ない彼女は、本当に……自分に何も無い事を実感したのです”
『別に、誰にも相手にされてないし。私が居なくなっても、誰も困る事は無い……』
“――そう考えてから、今までの自分の思い出を脳裏で遡りました。彼女を引き留めるものは、何もありませんでした”
『もう、色々考えてしまうのは疲れた……』
“――最初は、衝動的に自室の窓から飛び降りようとしましたが。窓の下にあった障害物が多すぎて、痛そうなので思い留まってしまいました。さらに、彼女は自分が情けなく思いました”
『自殺も出来ない根性無しだな……』
“――そう自分を責めました”
『眠りたい……永遠に……』
“――そう思ったら、彼女はいつの間にか。家にあった薬箱に入っていた眠り薬を手にしていました。そして、その日の夜。冷蔵庫にあった飲料酒で、全てを飲み干したのです”
スクリーンに、電気も点いてない暗い部屋の景色が映る。それでも、真っ暗になっている訳では無いので。辺りの家具等は確認する事が出来た。
『これで、もう。要らない“私”は消えてあげれる……』
“――不安と恐怖で激しくなる胸の鼓動を、そう言い聞かせて説得をしながら”
画面に、一つの鏡が映った。その中に、一人の少女の姿が映る。
“――彼女は一度、部屋にあった鏡へと視線を向けました”
その少女の顔は、帽子屋に魔法を掛けて貰った時の……大きくなった私と、瓜二つだった。




