時の間に
「……困ったなぁ」
溢した言葉通り、帽子屋は困っていた。
真っ暗な空間に、楕円形の大きな鏡が一つ宙を浮いている。その鏡の中に、彼の姿が映っていた。
しかし、それは鏡の前に居る帽子屋の姿を反射して映しているものではなく。鏡の中にのみ、彼の姿があったのだ。
「お困りかにゃ~?」
すると、鏡の前。帽子屋の目の前に、チェシャ猫が現れる。
「うん、すっごくお困り中だよ」
「そりゃ、大変にゃ~」
チェシャ猫の言葉に、帽子屋は貼り付けたような笑みを少し陰らせる。
「見物しに来ただけなら、消えてくれ」
「ニャニャニャっ! “アリス”が居ない所では、ぶりっ子する気もにゃいのにゃにぇ~」
特殊な笑い声を響かせるチェシャ猫。
「これも、“アリス”から記憶を盗った報いにゃ~」
「……君は、反対だったのかい?」
「どうかにゃ~」
空中をフヨフヨ漂いながら、チェシャ猫は一度くるりと転がる。
「みゃーは、こっちでもあっちでも。一緒に居られるにゃら、文句はにゃいにゃ~」
そう言い、再び笑い出す。
「おみゃーと違ってにゃ!」
「……相変わらずムカつく猫だな」
少し眉間を寄せ、帽子屋は鏡へと両手をついた。
「……ボクはただ、彼女と一緒に居たかった。最初はただ、本当にそれだけだった」
でも……と、言葉を小さく溢してから。彼はその先の想いを飲み込んだ。
「伝いたい事があるにゃら、本人に口で言えにゃ」
帽子屋はチェシャ猫へと、顔を上げる。
「みゃーは、言いたい事全部いつもあの子に言ってたにゃ。全然、伝わってにゃかったけど」
再び笑い出すチェシャ猫。
「おみゃーは、ちゃんと言ったかにゃ? 伝わらにゃいとしても、ちゃんとはっきりと」
チェシャ猫の金の瞳が、帽子屋と交わる。
少し見つめ合ってから、帽子屋は再び視線を俯かせた。
「まっ、どうするか決めるにょはおみゃーにゃ」
言いながらチェシャ猫はフヨフヨと上空へと上がっていき、鏡の淵に前足を掛ける。
「何をしてるんだい?」
「みゃーは、おみゃーと違って此処の本当の住人じゃにゃーから。おみゃーを鏡から出してやる事は出来にゃーにゃ」
けど……と、チェシャ猫は宙に浮く鏡を移動させながら続けた。
「鏡ごとにゃら、“アリス”にょ所に連れて行けるにゃ」
姿の確認出来ないチェシャ猫が居ると思われる方向へと、帽子屋は視線を向ける。
「君は……」
「急がにゃいと、今度こそ取り返しのつかにゃい事ににゃるにゃ」
そう言うチェシャ猫の口調からは、少しいつもの愉快そうな色が抜けていた。
「今、“アリス”と一緒に居るにょは。彼女の事を世界で一番、嫌いにゃ人にゃ」
***
私と全く同じ顔を持つ人物を前に、私は硬直していた。
いや、でも……ただの他人の空似かもしれないし、ただの偶然という可能性の方が……。
――本当に、そう信じてんの?
すると、頭に響くように声が聞こえた。私は辺りを見回す。
見ると、先程まで涙を流していた王子様も七人の小人達も動物達も。皆、全ての時を止めていた。
意思ではどうする事も出来ない涙の流れも、ほんの僅かな動きも無く。ピタリと銅像のように完全に停止していたのだ。
それだけでは無く、周りの景色や王子様達は皆。先程よりも少しモノクロに色褪せている。
――前に、貴女が知りたがってた事。教えてあげようか?
ねっとりとした、男か女か判別が出来ない……その声は、以前出逢った青虫だった。
――覚えててくれたんだ。
忘れるものか……。
――妙に苛ついた相手だもんね?
そして、帽子屋以外で私の心の中を覗くただ一人の人物。
――そんな事より、どうするの?
何を?
――教えてあげるよ、貴女の知りたい事。
なんで、あなたが?
――それは、重要な事じゃない。
そう、なのだろうか……。
――さっさと決めて。知りたいの? 知りたくないの?
それは……。
その時、白雪姫に覆い被さり彼女の亡骸を守護していたガラスの棺が色彩を取り戻し輝きを放つ。
――知りたいなら。
私は、そこに向かって手を伸ばす。
――こっちへおいで。
深く考える事は出来なかった。殆ど無意識に、私は反射するガラスへと警戒も忘れて手を伸ばしていく。
――さぁ。
そっと、指先がガラスに触れる。
――貴女の真実の姿を。
ゆっくりと、私の身体がガラスへと吸い込まれていく。
――見せてあげる。
そして、私は帽子屋ではない人物の導きで。通り慣れてしまった鏡の中へと潜っていくのであった。




