人魚姫と“アリス”⑩
私と人魚姫さんは、少し藍が薄らいできた海へと再びやって来ていた。
「人魚姫さん、戻って、王子様に本当の事話しましょう! 結婚は叶わなくっても、せめて血を頂いて人魚に戻れば……」
あの優しい王子様なら、正直に話せば。きっと、人魚姫さんを助ける為に協力してくれるはず……しかし、人魚姫さんは口元に笑みを描きながらゆっくりと首を振った。
「……どうして」
零れた言葉に、人魚姫さんは眉だけで困った表情をする。
そして、私の手を引き。先程の岩場へとやって来た。その時、私の手から抜き取っていた短刀を海へと放る。これで、彼女を助ける術は完全に無くなってしまった。
岩場へと腰を降ろし、座った状態で人魚姫さんは大きく息を吸い込んで伸びをする。
……もうすぐ、彼女は泡になって消えてしまう。
何も、悪い事なんてしていない。ただ、人を好きになっただけの彼女が。残酷な運命に飲み込まれてしまう。
彼女の隣に腰掛けながら、私は人魚姫さんが助かる方法が他に無いかと考えた。
そういえば、ここ最近。私は帽子屋に会っていない。
彼が今、魔法使いとして現れてくれたら……もし、それが叶うなら。私があげられるものは、何でもあげるから……思わず、私は心の中で叫んで胸の前に両手を合わせた。
何でもする……彼女が助かるなら、私の命でも何でも差し出して――
その時、再び。私が痛いくらいに強く握った掌を、人魚姫さんが優しく触れる。
涙が出る程、切なく穏やかな微笑みを浮かべて。
「……なんで、貴女が死んじゃうんですか」
瞳から雫が一粒零れた。それと、同時に。私の想いが、口から言葉になって零れ落ちる。
「何も悪い事してないのに……ヤダ、死んじゃヤダ……」
ただの、私の我儘だ。人魚姫さんの為というより、私が彼女を失いたくないだけなんだ……一筋差し込んできた朝日の光に、私の本性が浮き彫りになっていく。
涙が、とめどなく流れて頬を伝って、落ちて行く。
すると、私の身体を温かなぬくもりが包み込んだ。優しく抱きしめてくれた彼女の服を、私はギュっと握って抱き着く。
――行かないで、行かないで……例え、朝が来ても。このまま……。
でも、そのぬくもりは。私のそんな想いを打ち砕くように、そっと離れて行く。
顔を上げて、彼女を見た。
地平線から差し込む朝日を背景に、彼女は嬉しそうに笑っていた。その笑顔に見惚れていると、力の抜けた私の手をすり抜け。人魚姫さんは背中から、海の中へと落ちて行く。
私は思わず、咄嗟に。後を追って飛び込んだ。
最初に海に入った時、覚悟をしなければ開く事が出来なかった両目は自然と開いており。彼女の姿を探していた。
――どこ? 行かないで……一人で、行かないで……。
そう、心の中で叫びながら。海の底へと深く泳いで行く。
―――…
その時、歌が聞こえた。
そして、小さな泡が。私の横を通り過ぎ、海面に向かって上がっていく。
――ありがとう、アリスちゃん。私の為に、泣いてくれて……最後まで、傍に居てくれて。
懐かしい声が聞こえた。
久しく、聞く事の叶わなかった。人魚姫さんの、美しい声が、私の耳へとしっかり届く。
――私ね、人間になれた事。ちっとも後悔してないのよ。
再び、一つ。泡が私の横を上がっていく。続いて、もう一つ。
――だって、人魚だったら出来ない事。いっぱい出来たんだもの!
また、泡が通り過ぎる。
――見ているだけだった王子様と、二人で街にお出かけしたり。一緒に食事をしたり。
泡が海面に向かって上がってくる数は、一つから二つ、三つ……と。多くなり、連なっていく。
――とっても楽しくて、最高だった!
――近くで見ても、すごくカッコイイんですもの!
――すっごくすっごく優しいし!
楽しそうな人魚姫さんの声が聞こえた。岩場で言葉を交わした、あの日と同じような楽しそうな声だ。
――あの人を好きになって、本当に良かった……。
綺麗な空気の玉が、海上へと昇っていく。
――貴女とも、お友達になれたし……。
先程よりも落ち着いた、優しい声が届いた。
その時、無数の泡の群れが私に向かって上がって来る。顔に、体に、泡達がぶつかっていく。
すると、歌が聞こえてきた。
穏やかでゆったりとした旋律で、でも感情が大きく揺らされる……美しい歌と声だった。
そして、私の頭の中に。鮮明な映像が流れ込んでくる。
荒れる海の中に沈んでいく、小さな女の子……私の姿。
浜辺で目を閉じている私を見下ろし、目が覚めるまで見つめている光景。
夜の海で、浜辺で歩く私。岩場に座って何かを話している私。視線を下げると、胸に抱かれた状態で海面を驚いた表情で見つめる私の顔……全部、人魚姫さんの記憶だった。
彼女の目で見た、私の姿が。泡を通じて、歌と共に私の中に流れ込んで来るのだ。
王女様と並んで、嬉しそうな表情の王子様が頭に浮かぶ。きっと、結婚が決まったお祝いのパーティーの風景だ……。
そして、海へと抜け出した彼女の後を追いかけてきた私の暗い表情が映る。
それから、苦しく凄まじい形相で王子様へと短刀の切っ先を向ける私と。泣きじゃくる私の顔が、続けて流れ込んできた。
つい、さっきの光景だ……。
――私のせいで、いっぱい苦しませちゃって、本当にごめんね……。
――でも、私。アリスちゃんに会えて、本当に嬉しかった。
――貴女みたいな優しくて可愛い娘が、お友達になってくれて幸せだった……。
そんなの……私だって、そうだよ……。
――ありがとう、アリスちゃん。大好きよ、ずっと……。
最後の一つの泡が、私の目の前で弾けて消えた。
人魚姫さんの美しい声と、笑顔を私の記憶に残して。
少し息苦しさを感じて海上を見上げると、泡達に大分押し上げられたのか。私の身体は、海面の直ぐ傍までやって来ていた。
酸素を求めて海水から顔を出す。大きく息を吸い込んで、呼吸を整える。
濡れた顔に、涙が伝った。頭の中は混乱で真っ白で、何も言葉も感情も明確に浮かんで来なかった。
私の想いは、瞳から零れる海水と混じったしょっぱい水滴となって流れて行く……ただ、それだけだった。




