人魚姫と“アリス”⑨
太陽が地平線の彼方に沈み、暗い藍色が広がる空には星が細かな宝石の粒のように散りばめられていた。
人魚姫さんの傷ついた心など、お構いなしに美しい夜空が広がる。
「大丈夫、ですか?」
人魚姫さんと私は、今。海に居た。
二人で会話を弾ませた、海を見渡せる岩の上に居たのだ。
王子様が隣国の王女様にプロポーズをした後、城で結婚を祝した盛大なお祝いが急遽開催されており。城内の人達が協力し合って、皆が心優しい王子様と王女様の祝福をしていたのだ。
最初は、私も人魚姫さんも参加をしていた。ちなみに、私はお祝いの準備の手伝いもしたのだが。そっと、抜け出した人魚姫さんの後を追いかけ此処に二人でやって来てしまったのだ。
先程の私の質問に、人魚姫さんはギコチなく一度笑みを浮かべる。しかし、次の瞬間には大粒の涙を両目から溢す。
……何を言っているんだろう、私は。人間にまでなって会いに来た好きな人が、別の女性と結婚するのに。大丈夫なワケが無い……。
私は立ち上がり、人魚姫さんの頭にそっと触れる。彼女は拭い切れず、絶えず涙を流し続けた顔で一度私を見ると。私の胸へと顔を埋めて抱き着いた。
こんな事しか、私には出来ない……情けない……。
その時、波の音に交じって。歌が聞こえてくる。
その歌声は、何人かの女性の声が重なり合い奏でられていた。
「――私達の可愛い、一番小さな妹」
歌が止まり、今度は声が聞こえて来る。
私と人魚姫さんは声のした方、海面へと顔を向けた。そこには、人魚姫さんと似た色合いをした髪色の女性が五人。美しい相貌を海から覗かせていた。
「この人達は、人魚姫さんのお姉さん達?」
確か、五人居るって言っていたはず。
私の言葉に、人魚姫さんは頷いた。
「私達の一番下の可愛い妹……貴女に、コレを渡しに来たの」
そう言って、一人の人魚のお姉さんが鋭い銀の光を放つ短刀を人魚姫さんへと差し出す。
「これで、王子様を刺してその血を足に浴びれば。貴女は人魚の姿に戻って、私達の所に帰れるわ」
さぁ……と、短刀を人魚姫さんに差し出すお姉さん。しかし人魚姫さんはキュっと唇と瞳を閉じ、頬に涙の軌跡を作りながら首を横に振った。
「どうして!? 早くしないと、貴女は……」
しかし、お姉さんの言葉を最後まで聞かずに。彼女はその場を、足早に駆け出した。
人魚であるお姉さん達が追いかける事の出来ぬ、陸地の方へと。
「早くしないと……夜が明ける前に何とかしないと、あの子が泡になっちゃうのに……」
短刀を握るお姉さんの言葉に、私は目を見開いて顔を向けた。
「あの、それって……どういう事、何ですか?」
岩場に立ち尽くす私を見て、お姉さん達は窺うような視線を送る。
「貴女は……?」
「人魚姫さん……妹さんの、友達です……」
あの……と、私は少し荒い声で続けた。
「泡になっちゃうって、どういう事何ですか!?」
私の質問に、一人のお姉さんは視線を下げながら、か細い声で告げた。
「……人間にして貰う時に、海の魔女と契約をしたの。『声と引き換えに足を与え、恋をしている男性と結婚出来れば永遠に人間になる事が叶う。けど自分以外の別の女性と結婚する事になった時、夜明けと共に泡になって消えてしまう』っていう契約を……」
それって……。
「あの子は……自慢の美しい声まで失って、足だって。歩く度に、酷い痛みを伴う不完全な足なのに!」
耳に入ってくる彼女達の言葉に、私は未だに言葉を発する事が出来ぬまま。でも、一つの合点がいっていた。
人魚姫さんが歩きずらそうにしていたのは、その痛みのせいだったのだと……そして、彼女は激痛を感じながら。ずっと、笑顔で歩いていたのだと。
「こんなの……こんなの、あの子が可哀そ過ぎる……」
「だから、私達。魔女の所にお願いしに行ったの」
「私達の妹の命を、助けて下さいって」
「それで、この短刀を貰ったの」
「私達の髪を対価にね」
確かに、五人の人魚さん達の髪は。肩の少し上くらいの位置で切り揃えられていた。
「……この、短刀で王子様を刺して。血を、浴びないと……」
呼吸が苦しかった。言葉を紡ぐのに、口が動いている感覚が無かった。
「人魚姫、さん……死んじゃうん、ですか……?」
自分で言った言葉に、不快感が喉にせり上がる。
しかし、受け入れ難い真実が。人魚のお姉さん達の頷きと、涙で……現実として目の前に突き付けられる。
信じられない、信じたくなかった……この夜が明けたら、朝が来たら。人魚姫さんは泡になり、二度と会う事が出来ないなんて。
無邪気な笑顔を私に二度と向けてはくれない、優しく温かい手で触れてくれない……。
「あの……」
私は震える唇で、冷たくも激しく脈打つ鼓動を胸に秘めて……短刀を握るお姉さんに声を掛けるのであった。
***
夜が深くなって来た頃。
婚約を祝したパーティーは御開きを迎えており、城の人達は寝静まり。城内は静寂に包まれていた。
静かで暗い、大きな廊下を。私は、ゆっくりと静かに、誰にも気が付かれない事を願いながら歩いていた。そして、奥にある一つの部屋の前まで来て立ち止まる。
初めてお城へとやって来た日に、王子様に「もし、一人で寂しかったら。いつでも僕の寝室に来ても良いからね?」と彼の部屋を教えて貰っていたのだ。
大きく豪華な扉の取っ手に手を掛け、私は音を立てないように神経を注ぎながらそっと開く。そして、体をねじ込んで侵入に成功させると再び静かに扉を閉めた。
胸に、人魚のお姉さんから預かった短刀を握りしめ。私は部屋の真ん中にある、大きなベットへと静かにゆっくりと歩み寄っていく。
息をする音にも細心の注意を払い、ベットの傍らまでやって来るとその中を覗き込む。
美しい相貌で、王子様は後に結婚をする王女様と共に穏やかな寝息を立ててぐっすりと眠りについていた。
私は早鐘を打つ鼓動を必死で沈めようと試みながら、胸の前に握った短刀を汗が滲んできた掌でさらに強く握る。
――殺す必要は無い、腕を少し刺して。人魚姫さんの足に掛ける分だけ、血を貰えば良い。
心の中で、必死で言い聞かせる。
そして、短刀を王子様に向けて振りかざした。
美しい相貌が無垢な寝息を立てている。
隣には、同じく何も知らずに眠る王女様の姿も視界に映った。
二人は……とっても、私に優しくしてくれた。本当に善い人達だ。
きっと、人魚姫さんと出逢って友達になっていなかったら。純粋に二人の結婚を、祝福出来たと思う。
私を心配してくれたり楽しそうに笑って話してくれたり、「妹が出来たようで嬉しい」と本当に嬉しそうに言ってくれた王子様の笑顔が浮かぶ。
続いて、修道院で私に優しくしてくれた時と。本日、嬉しそうに私に声を掛けてくれた王女様の微笑み。
二人共……幸せになって欲しいと、純粋に願う事が出来る。優しい人達だ。
でも、私の脳裏に……人魚姫さんと、出逢って話しをして。先程、岩場で泣いていた彼女との今までの想い出が流れていく。
――私は、あの人にも幸せになって欲しい……。
例え、好きな人と結ばれ無くても……妹の為に美しい自身の髪を渡して、彼女を助けようとしてくれたお姉さん達の元に帰って生きてさえいれば……きっと、いつか別の幸せが、人魚姫さんに訪れるはずだ。
そう、生きてさえいれば……きっと、いつか、必ず……。
私は再び、握っていた短刀に力を込めた。
そして、布団から出た王子様の腕に狙いを定め。勢いに任せて振り下ろす――が、その手は寸での所で止められてしまう。温かくて、優しくて……か細い手で。
「どうして……?」
短刀を握る手を両手で包み、人魚姫さんは穏やかな表情でゆっくり首を横に振った。
震えた手を、温かなぬくもりで包み。まるで、癒そうとしてくれているかのように。




