人魚姫と“アリス”①
たまに水面へと顔を上げる事が出来た際に、空気を補給しようと息を吸うが。それよりも、荒れ狂う波の邪魔が激しく、私も段々と苦しさが増していく。
いつもは「君の為ならなんでもするよ」とか、調子の良い事を言って。何故、あの帽子屋は今、助けてくれないのだろう。
このままだと、流石に死――そう思って、ふと。私の頭は、走っていた足を止めたように妙に冷静になった。
……別に、私が死んだ所で。誰も困る事は無いのではないだろうか?
どこの誰かも分からない。私の事を知っているのは、訳の分からない帽子屋と、嗤う猫と白い泣き虫ウサギだけ。
エラさんやピノキオと一緒に居て感じていた違和感。私の居るべき場所ではない、というのは……二人が居た世界だけじゃなくて、本当は世界のどこにも私の居場所なんて存在しないって事なんじゃ……。
そんな事を考えているうちに、私の身体は海の底の方へとゆっくりと沈んで行くのであった。
―――…
身体と一緒に沈んでいく意識を、何かが揺さぶる。
―――…
全身を包み込む水の激しい音だけが頭に響いていたはずなのに、透き通るような綺麗な旋律がかすかに耳に触れている気がした。
―――…
意識をその旋律へと、集中させてみる。
それは、女性の美しい声が奏でる歌だった。少しの淀みも感じない透き通るような声に、穏やかで温かな音が流れている。
こんな素敵な歌を聴きながら死ねるなら、私、幸せなんじゃないかな……と、満更でもない気持ちになる私は今度こそ。自身の意識の奥へと沈んで行くのであった。
――アレ? 私、まだ死んでない?
覚醒し始めた意識に、疑問を抱いていると。口を開く度に味わっていたしょっぱい水――もはや白ウサギの涙なのか何なのか判別不能――を感じていない事に気が付いた。
―――…
そして、再び耳に届くあの美しい歌声。
徐々に力が籠っていく瞼が開き、私は眼前へと目を向ける。
そこには、一人の少女――私よりは年上で、エラさんよりは幼く見える――が歌を歌っていたのだ。
少し光の角度で薄いピンクにも見える、淡い金糸のたおやかな長い髪を流した彼女は人間ではなかった。
彼女の下半身には、私が移動するのに使う足では無く。瑠璃色に光を散らす鱗に覆われた、魚のヒレが生えていた。
「アラ? 起きた?」
私が上半身を起こすと、彼女は歌うの止め。やっぱり、透き通るような声でニコリと笑みを浮かべながらそう言った。
「無事で良かったわ! 貴女も彼も、なかなか目を覚まさなくてどうしようかと思っていたの」
貴女も“彼”も?
貴女というのは、私の事で間違いはなかろう。私は自身の周りを見回した。
すると、青年が一人。私の隣で横たわっていたのだ。
「彼、嵐のせいで大きな船から落ちてしまって。彼を岸まで連れて泳いでる最中に、貴女も溺れていたのを見つけたの」
ついでに、一緒に助けてくれたのか。
「……それは、危ないところをありがとうございました」
頭の中で、このまま死んでも構わないと思っていたとは……口が裂けても言えないなあ。
「いいえ! 無事で良かったわ! あと、貴女が小さくて軽くて助かったわ」
無邪気な笑顔を咲かせながら、人魚の彼女は続けた。
「だって、そうじゃなかったら。さすがに人間を二人運ぶなんて、できなかったもの!」
確かに、その細腕では無理であろう。
「ねえ、貴女――」
明るい笑顔で、私へと顔を寄せてきた刹那。砂が踏まれる音が聞こえて来る。
私達は丁度、岩場の陰に居る為に確認が出来ないが。どうやら、近くに人が居るようだ。
「いけない! 私、あんまり、人間に見られちゃいけないの!」
えっ、私は!?
「じゃあ、またね! 小さくて可愛いお嬢さん!」
それだけ言い、彼女はさっさと海の中へと去って行ってしまう。
ポカーン、と彼女が消えて行った方を眺めていると。砂を踏む音が、直ぐ近くまでやって来る。
「……誰か、居るの?」
すると、岩から一人の少女が私達を覗き込む。
「まぁ、大変!」
少女――先程の人魚さんと同じくらいの年齢に見える――は、私と隣に倒れる青年を見て慌てて駆け寄って来る。
「どうしたの!?」
砂で膝が汚れるのも構わず、私の肩にそっと触れ。焦燥した声で私に尋ねた。
「その……海で溺れて……」
「大丈夫!?」
「はっ、はい、私は……でも……」
と、青年へ視線を向ける私。
彼女はすぐさま、青年の傍へとやって来る。身体を抱き起し、呼吸を確かめた。すると、青年から息と一緒に声が微かに漏れてくる。
彼女の腕に抱かれる青年の顔を、私も覗き込む。
青年はシュッとした輪郭に、高く長い鼻筋。右の口元に一つ、少し目立つ黒子があった。未だに双眸は閉じられているとはいえ、それだけで端正な顔立ちである事を思わせる。
「……ここは……?」
紡がれる声と共に、開かれる大きな瞳。それが、さらに彼の美貌を際立たせる。
「良かった……目を覚まされて」
ホッとしたように笑った少女の顔を、青年は眩しそうに見上げる。
「さぁ、お二人共。近くに、修道院がございますので。一旦、そちらでお休み下さい」
優しい微笑みを浮かべ、彼女は私達をその修道院まで連れて行ってくれるのであった。




