帽子屋とお茶会Ⅰ
花弁の嵐が吹き付けた時に目を瞑り、それから目を開いた景色は再び暗闇であった。
「また、此処か……」
私は思わず溢してしまう。
もう少し、エラさんの結婚式に参加していたかったのだが……あと、花束も出来れば自分で渡したかったな……。
「ごめんね、“アリス”。今度、ボクが貰ってあげるから!」
「そんな予定は無いので大丈夫です」
しかも、あの花束は私からではなくて。お義母さんから頼まれた物だし。
「久しぶりに来たんだし、お菓子でもどう?」
「……いえ、さっき結構食べてきたので」
「じゃあ、紅茶は如何?」
「うーん……それは貰おうかな」
でわ、こちらに……と、帽子屋――いつの間にやら、服は“帽子屋”の服装になっていた――が誘った所には。先程迄無かった、テーブルとティーセットが準備されていた。
それは以前、エラさんと寝食を共にしてた際に夢の中で見た物と一緒だ。
三つある椅子の一つには、前と同じように間抜けな顔した茶色いウサギのぬいぐるみが鎮座しており。テーブルの上のティーポットの傍には、眠ったヤマネのぬいぐるみが飾られている。
未だに彼に抱えられていた私は、空いている椅子へと座らされて降ろされた。
「やあ、久しぶりだにゃ。“アリス”」
突然、膝に訪れた温もりと声に。私は驚いて短い悲鳴を上げる。
現れたのは淡い金色の毛並みに、大きな二つの瞳を黄金に光らせてニタニタと口元を三日月にして嗤う猫であった。
「貴方は……」
「チェシャ猫だにゃ。この前は、ちゃんと挨拶出来なくってごめんにゃ」
人を小馬鹿にしたような表情を浮かべつつ、意外とちゃんとした猫だ。
「ちょっと! 何、勝手にボクの“アリス”の膝の上に乗ってるの!?」
「温かそうだったからにゃー」
「私も温かいから、全然良いよ」
毛並みも気持ちいし……と、チェシャ猫の背中や頭を撫でると。気持ち良さそうに、ゴロゴロと喉を鳴らす声が聞こえて来る。
「羨ましいー! “アリス”、次はボクの番ね!」
「しません」
てか、猫相手に嫉妬されても……。
「それは、君がボクに冷たいからだよ!」
と、帽子屋は眉だけを吊り上げて怒った様子を見せる。
「そんにゃ事より、早くお茶を頂戴にゃー」
「君の分なんか無いよ」
子供か。
「イジワルしにゃいでにゃー」
チェシャ猫は気にした風も無く。ニャッニャッと、ちょっと特殊な嗤い声を上げる。
「はい、“アリス”! ボクの愛情のたっぷり入った、ダージリンティーだよ!」
「ミャーのは?」
「だから無いよ」
「イジワルにゃ~」
言いながら、チェシャ猫は再び嗤い出す。
「そんなイジワルしないで、チェシャさんにもあげて下さいよ」
「……君のお願いなら、仕方ないなあ」
「ニャッニャッ! いつもヘラヘラした“帽子屋”が、悔しそうな顔してるにゃ!」
「君にヘラヘラしてるにゃんて、言われたくないにゃ!」
あっ、語尾うつってる。
帽子屋は言いながら、少々乱暴にダージリンティーの注がれたティーカップをチェシャ猫の前に置いた。
「ありがとにゃ。あっ、チョコレート貰うにゃ~」
「ちょっと! 全部、“アリス”の為に用意したんだから君が勝手に食べないでよね!」
「“アリス”も一緒に食べようにゃ!」
「フン、彼女は今。お腹がいっぱいで――」
「一枚頂こうかな」
「ねえ、ボクと扱い違くない!?」
だから、猫と張り合われても。
「じゃあ、ボクも猫耳と尻尾を生やせば優しくしてくれる?」
「……どうしてそういう発想になるか分かりませんし、もし実行された場合は私に近寄らないで下さい」
心底呆れと嫌悪を混ぜ合わせた表情で告げると、帽子屋は流石に落ち込んだように肩を落とした。私の膝の上では、チェシャ猫がお腹を抱えて嗤っている。
「ひっ、酷いよ“アリスぅ~”……」
ちょっと言い過ぎちゃったかな……と、思いつつ。彼には私の心の中が筒抜けな事を思い出し。気にしない事を心に誓って――「酷いよ“アリスー”!!」と言う帽子屋の声が聞こえたが、聞こえないフリを決め込んだ――チェシャ猫から貰ったチョコレートを口へと放る。
小さな四角い正方形のチョコレートは、パキっと心地良い音を立ててから、段々私の口の中で溶けて行く。
先程、帽子屋に告げた通り。エラさんの結婚式で沢山ご馳走やお菓子を頂いた為、お腹はいっぱいだったが。小さなチョコレートならばお腹の隙間に丁度入りそうで、甘い誘惑に敗北する事を受け入れる。
「ミャー的には。さっきから、ちょいちょい“アリス”の心読んでる方がずっとズルいにゃー」
「えっ?」
チェシャ猫の言葉に、私は疑問の声を溢す。
「そりゃあ、だって! “アリス”はボ――」
「貴方には、私の心の声聞こえてないの?」
帽子屋の言葉を遮って、私はチェシャ猫に尋ねた。
「ミャーには聞こえにゃいよー。だって、ミャーは此処の――」
「チェシャ猫君」
鋭い声が、チェシャ猫の声を遮った。
それは、今まで帽子屋から聞いたことのない刃物のように鋭利な色を放っていた。
だが、視線を覗かせた彼の顔は。変わらない笑顔が浮かべられている。
「あんまり、お喋り過ぎるのは良くないよ? ホラ、『口は禍の元』って言うでしょ?」
いつもと違う……そう感じさせる笑顔だった。
内心凍り付く私とは対照的に、チェシャ猫は愉しそうに嗤っている。
「ほら~! 君のせいで、“アリス”が怖がっちゃったじゃないか!」
「ミャーのせいじゃにゃいにゃ、おみゃーにビビったんだにゃ~」
ニャッニャッ、と嗤い声を響かせ。チェシャ猫は段々、私の膝の上から姿を消していく。
「そろそろ時間じゃにゃいのかにゃ?」
次にチェシャ猫が姿を見せたのは、帽子屋の肩口。しかも、頭部だけ。
「おみゃーは“アリス”と永遠にお茶会してたいだろうけど、そうはいかにゃいにゃ~」
眉だけ怪訝そうに寄せる帽子屋の傍から、再び姿を消すチェシャ猫。
ちょっとして、次にチェシャ猫は私の肩へと姿を現した。
「これは、次の“世界”への鍵だにゃ」
と、少しくすんだ金色の鍵を私の掌に落とす。
そして、宙に逆さまに浮き上がり。私の眼前へとやって来ると、視線を合わせて続ける。
「自分の事を知りたいにゃら、此処でジッとしてても無駄だにゃ」
そうだ……私は、自分が誰なのかを分かっていない。
“アリス”という名前も、彼等がそう呼んでいるだけで本名かどうかも分からないのだ。
「……知って、傷つく事もあるかもしれないよ?」
帽子屋の声が私の耳へと届く。
今度は、どこか心配そうで不安そうな色が見えた。
「それでも……」
自分の事ならば、自分が一番知っていなくてはいけないのではないだろうか?
「まあ、お茶会以外だと。他にする事も無いですし」
私の言葉に、チェシャ猫が空中で嗤い出す。
帽子屋が淹れてくれたダージリンティーを飲み干し、ティーカップの中を空にしてから私は席を立ち上がる。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「“アリス”」
彼が私の事を呼ぶ。優しい声音で。
「その鍵の扉は、こっちだ」
帽子屋に誘われ、私は足を進める。
「此処だよ」
示されたのは、二十センチちょっと程の高さしかない小さな扉であった。
「あの、これは流石に通れないのでは……」
「大丈夫。鍵を扉に差してみて」
疑問を浮かべつつ、私は言われた通り屈み込んで扉の鍵穴にチェシャ猫がくれた鍵を差し込む。
鍵穴はピッタリ一致し、半回転させるとカチャリと音を立てて施錠が外れる。
その時、私の視界がガクンと大きく下降する。見ると、見下ろさなければ視界に収める事が出来なかった小さな扉が私の目の前に聳えていたのだ。私は扉を潜るにピッタリのサイズへと変化していた。
「さっきの紅茶に、小さくなれる薬を入れといたんだ!」
帽子屋が言う。私がこの扉の向こうに行くのは、決定事項だったらしい……。
「行ってらっしゃい、“アリス”。きっと、また後で!」
でしょうね……。
「気を付けて行ってくるにゃ!」
「うん、ありがとうチェシャ猫さん」
「ねえ、“アリス”! どうしてボクには返事くれないの!?」
「行ってきます」
「ちょっと、待ってよ“アリスー”!!」
悲鳴にも似た帽子屋の声を背中に受け、私は小さな扉を開き。その中へと、足を踏み入れて行くのであった。




