序章
「さあ、“アリス”! この物語は君のもの。その優しい手で、受け取って!」
“私”は見知らぬ場所で目を覚ます。
そこは、場所というより空間だった。
見回してみても、広がっているのは黒い景色だけ。
足元を見てみる。
そこはただ暗闇が広がってるだけで、私が立っている床や地面には踏みしめているという感覚が無い。
黒く爪先に丸みのあるパンプスと、白のレースのソックスの足を眺めながら現在よりも前の記憶を自身の頭の中で遡る。
しかし、手繰った記憶はこの黒い空間よりも深い闇に包まれていた。
「“アリス”!」
自分の思考の中で立ち止まっていると、耳を貫かんばかりの大きな声が響き渡る。
「“アリス”! 時間だよ! “アリス”!!」
声のする方へと視線を移す。
そこには、白い毛並みを携えた長い耳の小動物――白いウサギが、私に向かって仁王立ちで叫んでいた。彼は自分の小さな体躯には少々大きな時計を抱え、お洒落なチョッキをその体に着用している。
「“アリス”! いつまでこんな所にいるの!? 早く行こう!」
“アリス”って、私の事?
“こんな所って”……此処は何処?
私の手を、フワフワとした前足で掴みながら強い口調で言う白いウサギに私は疑問を募らせる。
「――そんなに彼女を困らせちゃあ駄目だよ、白兎君」
また別の声が聞こえて来た。
私、そして白いウサギは声の主を探して視線をさ迷わせる。
「此処だよ、此処」
私は顔を左へ向ける。
「違う違う、こっちこっち!」
今度は右へと向けた。
「ぜーんぜん違う! こっちだよー!」
眉を寄せながら、後ろへ首を捻る。
「違うよ、此処だよ!」
至近距離から耳へと送られた声に、首を正面へと戻す。
すると、ニコニコと笑顔を携えた青年の顔が視界いっぱいに飛び込んで来た。
短い悲鳴と共に、私は一歩後退る。
「さっきまで……」
「さっきまで、此処に居なかったのに? いやいや、ボクはずーっと此処に居たよ」
いや、さっきまでこんな派手な帽子を被った男の姿など。視界の端にも掠めてはいなかった。
「それは君が、“ボク”の存在を認識してくれた上で探してくれたから、見えるようになったんじゃあないかな?」
どういう事? そして、私が思った事。全部筒抜け?
「その通り! 君の考えてる事は全て、ボクにはお見通し!」
私はげんなりと溜息を溢した。その事実は、あまり私にとって、気分の良い事ではない。
「まあまあ、そう言わないで――」
「誰だよ、お前!!」
すると、私と帽子の青年の間に小さな体躯の白いウサギが割り込んでくる。
「“アリス”はもう此処から出るんだ! あっちへ行け!」
「やあ、ボクの事は“帽子屋”とでも呼んでくれたまえ。白兎君!」
帽子屋――と、名乗った端正な顔立ちの青年は。「10/6」と書かれたカードをリボンに挟む黒いシルクハットを紳士然りという動作で一度頭から外すと、胸の前に置いてお辞儀をする。
「帽子屋?」
「うん! そうだよ、“アリス”!」
私が告げると、帽子屋は嬉しそうな笑顔を向けた。
「そんな事より、早く帰ろうよ! “アリス”!」
しかし、帽子屋を遮るように。白いウサギは、再び私の手を掴んで言う。
「いや、でも……」
必死な彼には申し訳が無いが、私は妙に冷静な頭と声で続けた。
「帰るって、何処へ?」
その瞬間、白いウサギが驚いた表情でその手を止める。
「“アリス”、忘れちゃったの? だよ!」
白いウサギが叫ぶ。でも、大切な言葉にだけ。ノイズが入ったように、聞き取るのを邪魔して耳に入ってこない。
「どこ、なの……?」
「――思い出せにゃいにゃら、無理する必要にゃいんじゃにゃーい?」
再び、新たな声がやって来る。
その声は私達の前に姿を見せないまま、愉快そうな笑い声を響かせた。
「わっ!?」
すると、私の手を掴んでいた白いウサギの体が宙へと上昇していく。
驚く当人に対し、私も驚きの気持ちを抱きつつ黙って空中を高く上昇していく白い小動物を見つめ。隣の帽子屋は、姿の見えない笑い声と重なるように愉しそうに笑っていた。
「なっ、何なんだっ!?」
空中で前足と後ろ足をジタバタとさせながら、慌て戸惑う白いウサギ。
「そんにゃに暴れると」
その時、声と共に白いウサギの背後に別の毛並みを持った小動物が徐々に姿を見せ始める。
「手が滑って、落としちゃうにゃあ」
それは猫であった。
淡い金色の毛並みに、大きな二つの瞳を黄金に光らせる猫は。ウサギの体を抱えながら、ニタニタと口元を三日月にして嗤っている。
「さて、邪魔者は天へと昇っていった所で」
帽子屋が言う。その天上では「誰が邪魔者だー!!」という声が降って来た。
「そろそろ、行こうか。“アリス”」
「行くって……どこへ?」
「何処だろうね?」
質問を質問で返されてしまい、私は困惑の表情を浮かべる。
「君にとっての“夢”かもしれないし、“現実”かもしれないし。あるいは“願望”であり“欲望”かもしれない」
帽子屋は、口角をさらに吊り上げて続けた。
「君が、自分の目で確かめて。君自身で決めれば善い」
彼の言葉に、私がさらなる疑問を脳裏に過らせた刹那。
「行ってらっしゃい、ボクの“アリス”」
額に帽子屋の唇が落とされる。
驚愕と戸惑いを混濁させていると、突如、彼の顔が遥か上空へと離れていく。否、私の体が急降下して帽子屋との距離が離れていたのだ。
先程まで、重力など存在しなかった空間に。狙いを定めたように、私の体だけを何処かへ誘って行く。
“私”――アリス、というらしい――は、これから“何処”へ行き。“何”を見るのか……考えたり不安になっている余裕も時間も与えてくれぬまま、私は底の見えない空間を落ちていくのだった。