51.元義兄、ツィロ・ホルト
お父様とお母様が、しばらく領地に戻って家を空けている。
その間、次期侯爵であるラルが王都にあるこの別邸の指揮を任されていて、私ももうすぐ侯爵夫人になるのだという自覚がふつふつと湧いてきていた。
「もっと勉強も頑張らないと」
その日休みだった私は、侯爵夫人になるのだから、これまで以上に気を引き締め直そうと自室で机に向かって勉強していた。すると、扉をノックする音が聞こえた。
「――はい?」
誰だろう。メアリでもラルでも、すぐ私に声をかけるはずだ。
けれど、聞こえたのは扉を叩く音だけ。
不思議に思って立上がり、扉に向かうと、カチャリとゆっくり開かれた扉の向こうから、白金色の髪を後ろで結った、見覚えのある男の顔が現れた。
「エレア、元気かい?」
「……え?」
その不気味な笑みと声を聞いて、私の身体は硬直する。
忘れもしない。この男は私が元いた伯爵家の、ツィロ・ホルトだ。
どうして彼がここに……?
バタン――と、後ろ手に扉を閉めたツィロに、私の頭は混乱と恐怖で覆われ、声が出せなくなる。
「どうして俺がここにいるんだって顔だな」
「……っ」
そしたら私の心を読むみたいにそう言って鼻で笑ったツィロの顔は、五年前と全然変わっていなかった。
性格の悪さが顔に出ている。あの頃の、嫌な記憶が蘇る。
「うちとキルステン家は取り引きをしているのだから、俺がいたって何も不思議じゃないだろう?」
取り引き? キルステン家が、ホルト家と……?
「あれ? まさか君は知らなかったのか? 酷いな、ここの人間は君に黙ってうちと取り引きしていたのか」
「……」
確かに、知らなかった。でもそれはきっと、父もラルも私のためを思ってのことなのだろう。
もしかしたら、それが私を養子に出す条件のひとつだったのかもしれない。
それにしても、いくら取引先だからって、当主自ら来るなんて……。
今まで一度もこの屋敷で彼の姿を見たことがないのに。
それに、
「どうして、私の部屋に……何の用?」
「久しぶりに会うのに冷たい言い方だな。元気にしてたか? 俺はずっとお前のことが心配だったんだ」
つらりと口にされた言葉には、感情がまるで乗っていない。
嘘をおっしゃい。貴方が私の心配なんかするはずがない。
そう言ってやりたかったけど、残念ながらそんな言葉は喉につかえて出てこない。
「しかしお前、随分綺麗になったな」
「……」
一歩、また一歩私に歩み寄ってくるツィロに合わせるように、私の身体は一歩ずつ後退する。
「いいもん食って、いい服を着て、極上の扱いを受けているんだろう? いいよな、お前は。妹のレーナが可哀想だとは思わないのか? お前とひとつしか変わらないのに、あいつは未だに子供っぽいぞ」
子供っぽいのは、彼女にも問題があるように思うけど……。
昔、ほんの数年一緒に過ごした義妹のレーナを思い出す。あの子はいつも我儘ばかり言って、よく泣いていた。
「しかもお前、ラルフレット様と婚約したらしいな。ハッ、兄妹だったくせに、やるよな」
何が言いたいのだろう。そもそも、何をしに来たのだろう。
ホルト家の話はあまり聞いていないけど、事業がうまくいっていないことだけは知っている。あの頃から、そうだったけど。
「……それで、なんの用?」
距離を詰めてくるツィロを警戒しつつ、平静を装って問う。
勉強に集中したいからと、使用人は払ってしまった。
ちらりと、ベッドの上に座っているくまのラディに目を向けた。
ラディのベストについているブローチを握ってラルを思えば、私が呼んでいることがラルに伝わるのだ。
ラルも今日は、仕事が休みで家にいるはずだ。
「可愛い義妹に婚約祝いを贈ってやりたいと思っているんだが……少しだけ金が必要でね。お前からラルフレット様に頼んでくれないかな? ああ、必ず返すし、お祝いも贈るから」
「……無理よ」
どうやらツィロの目的はお金らしい。もしかしたら、直接ラルに頼みに来たのかもしれない。それで断られて、私の部屋を探り当てたの? でも、この家の使用人が彼から目を離すとは思えないけど……。
「どうしてだよ? ラルフレット様に溺愛されているんだろう? 俺のところまで噂が届いたぞ。お前の頼みなら、あの人もきっと聞いてくれるさ」
「そんなこと、私は頼まないわ」
私はもう、あの頃と違う。あの頃は何もできない子供だったけど、今はもうこの男とも対等に話せる大人になったのよ。
そう自分に言い聞かせて、強気に言葉を返したら、ツィロから痛烈な舌打ちが聞こえた。
「使えない妹だな」
「貴方なんて、兄じゃないわ」
「……そうか。そうだな、俺たちも血は繋がっていないもんな」
苛ついた態度をまるで隠さずに、ツィロがそう吐き捨てると、いきなり距離を詰めて襲いかかってきた。




