04.なにかが変わる
「…………はい?」
ラルはとてもあたたかくて、優しくて。
あのときの温もりと全然変わっていない。
けれどその腕も胸もあのときとは比べものにならないほどたくましくなっていて、彼がもう大人の男性だということを物語っていた。
「僕と結婚しよう」
「……え」
私を抱きしめていたラルはそっと身体を離すと、いつも通りの優しい笑顔をにこりと浮かべて、もう一度その言葉を繰り返した。
どうやら聞き間違いではないらしい。
血の繋がりはないとはいえ、この義兄は十三歳から十八歳までの思春期の五年間を兄妹として一緒に過ごしてきた妹と、結婚すると言い出したようだ。
「……お兄様、ご冗談を」
「なんだい急によそよそしい。いつものようにラルと呼んでくれ」
「あはは、面白いわ、ラル……うふふ」
「一応言っておくが、冗談ではないよ?」
「…………熱でもあるの?」
目の前で笑っているのはいつもの爽やかでやわらかみのある笑顔の兄だ。
「……熱はないようね」
美しいゴールドベージュの前髪の下に手を入れ、ぴとりと額に触れてみるけど熱くない。平熱だ。
「それじゃあ、変なものでも食べた?」
「侯爵家のものしか口にしていないよ。あとさっき夜会で出されたワインを少し飲んだかな」
「ああ、きっとそれだわ」
ラルはお酒が強いほうだと思っていたけど。きっと酔っているのね。ああびっくりした。
「お水を飲んで酔いを醒ましましょう」
ほっとしてラルの額から手を離したら、すかさずパッとその手を取られ、意味深に握られた。
「……ラル?」
「うん……そうだね。もっとこうしていたいけど、早く帰ってエレアの肩と背中を主治医に見てもらおう」
私の呼びかけに、微妙に意味をはき違えたラルは名残惜しげに手を離すと、自分の上着を脱いで私の肩にかけてくれた。
「大丈夫かい? すぐに冷やそうね」
「大丈夫よ。放っておいても治まるわ……」
「駄目だよ。君の綺麗な肌に痕でも残ってしまったら、僕は人を殺してしまうかもしれない」
「……」
冗談なのか本気なのかわからない笑顔で(たぶん本気)そう口にするラルに苦笑いを返す。
そのままいつものように過保護な兄に見えなくもないラルに手を引かれ、私たちはキルステン侯爵家の馬車に乗って屋敷へ戻った。
*
キルステン侯爵家は王都にある貴族の邸宅の中でも一際大きく、豪華である。
古く、歴史を感じさせる外装だけど、手入れが行き届いており、庭の木々はもちろん芝生や塀に至るまですべて隙がない。
そんな侯爵家に帰ってきた私は、念のため診てもらおうと言って聞かないラルを断り切れず、主治医に痛めた肩と背中を診てもらった。
けれど、やはり骨に異常はなく、痕も残ることはないだろうとのことだった。ラルはそれを聞いてようやく安堵の息を吐くと、急いで先ほどの話を父に伝えに言った。
それから、ドレスから部屋着に着替えて自室で休んでいると、父との話が終わったラルがやってきた。
「少しいいかな」と言うラルに「どうぞ」と返して部屋に招き入れる。
私たちは兄妹だから、こうして二人きりで同じ部屋で話をすることはよくあるのだ。仲のいい、兄妹だから。
「――結婚はエレアの十八歳の誕生日にしよう」
だけど私の向かいのソファに腰を下ろすと、ラルはいつもの優しい笑顔でそんなことを言い放った。私の誕生日は半年後だ。
まだそんな冗談を言っているのかと、一瞬面食らって返事に詰まる。
「……ラル、まだ酔いが醒めていないの?」
「僕がワインくらいで酔うはずがないだろう? 本当は今すぐにでも結婚したいけど、色々と手続きが必要なんだ」
私の質問はさらりと受け流し、すぐに話を戻してしまったラルは本気で私と結婚する気なのだろうか。
「まずはエレアをキルステン家の籍から抜かなければならない。ああ大丈夫、心配いらないよ。いくつかあてがあるから、信用できる家に君を養子として受け入れてもらったら、すぐ教会で婚約の手続きを行う。その間少し離れて暮らすことになるかもしれないが、そんなのは一瞬だ。なんならこれまで通りうちで暮らせるように計らおう」
私が口を挟む隙を与えないほどペラペラと言葉を続けるラル。
どうやら本気で言っているのだとようやく理解して、彼を止めるように手を前に出して言葉を発する。
「ちょ、ちょっと待って!」
「どうしたんだい? ああ、ドレスの相談かな。エレアの希望はちゃんと聞くよ。何色がいい?」
「違います! そうではなくて……。ラル、本気で言ってるの……?」
おそるおそる、窺うようにそっとラルの碧眼を見つめて問えば、彼は「なんのことだい?」と言うように眉を持ち上げた。
「そこまでしていただくわけには参りません」
「何に対して? ドレス?」
「そうではなくて……! ラルと結婚するために私を養子として受け入れてくれる家を探すなんて……」
きっとキルステン侯爵家の娘を養子になんて言われたら、どの家も喜んで受け入れてくれるだろう。キルステン侯爵家と繋がりを持ちたいと思っている家はとても多いのだ。
けれど、その裏ではお金が動くに違いない。この家にそんな迷惑はかけられない。
だいたい、私が変な男と結婚しないで済むためにラルはそう言ってくれているのだろうけど、ラルだっていずれは誰かと結婚して跡継ぎを作らなければならないのだ。たとえば国王の末娘のフランカ王女とか。
とにかくいくらラルが優しい義兄だとしても、これはやりすぎだ。
私はいつもいつもラルに助けられてきた。もうこれ以上迷惑はかけたくない。
「……エレアは僕と結婚するのが嫌なのかな?」
「それは……。とにかく、少し落ち着いて」
「嫌なのか聞いているんだけど、答えたくない?」
悲しげに瞳を細めるラルに、私はうっと言葉を詰まらせる。
「……嫌じゃないわ」
「よかった」
そして呟くように一言だけ否定の言葉を口にすると、ラルはとても嬉しそうに笑ってくれた。
ラルと結婚するのが嫌かって?
まさか。ラルは私の初恋の人だ。ラルと一生を添い遂げたいと初めて願ったのは私がまだ少女だった頃。
ラルが兄になった日の衝撃は今でも覚えている。
でもラルは……、キルステン侯爵家の人たちは、私を救い出すためにこの道を選んでくれたのだ。
だから私にこれ以上の贅沢は望めない。
ただ心から感謝するだけだ。
私はこの家の子になったあの日、誓ったのだから。
ラルの妹として、キルステン家のよき娘として、生きていくと。
これ以上ラルや両親に迷惑はかけないと。
「まぁ、焦ることはないよね。とにかく安心してほしい。もうエレアはどこにもやらないから」
立ち上がって私のもとまで歩いてくると、ラルはそう言っていつものように前髪の上から私の額に口づけてくれた。
「今夜はゆっくりおやすみ、エレア」
「……はい。おやすみなさい、ラル」
その口づけは、いつもの〝家族〟としての挨拶と何かが違ったような気がした。
けれどいつもと同じ、穏やかで癒やされる笑みを浮かべたラルを見送って、私は寝台にぽすんと腰を下ろした。
「……」
嘘でも冗談でも嬉しかった。ラルの口から「結婚しよう」という言葉を聞けて。
「私は世界一の幸せ者ね」
一人でそう呟いて、ラルの髪と同じゴールドベージュの毛並みをしたくまのぬいぐるみを、ぎゅっと胸に抱きしめた。




