37.意気地のない私
「彼に酷いことはされなかったかい?」
帰りの馬車の中で、ラルは私の隣に座った。
そして私の手を握ったまま、心配そうに先ほどポールに何もされていないか聞いてくる。
「ええ、指一本触れられていないわ」
「よかった。酷いことも言われていない?」
「大丈夫。キルステン家の娘を裏切ったことをただ後悔して、謝っていたわ」
「キルステンは関係ないよ、エレアが素敵な女性であると、彼はやっと気づいたんだよ」
「……ありがとう、ラル」
愛おしげに私を見つめながら握っていた手を口元に運び、ちゅっと指の付け根辺りに口づけられる。
伏せられたラルの目元から、ゴールドべージュの長いまつげが伸びていて、筋の通った高い鼻と、形のいい唇へと視線が流れていく。
ラルのあたたかい手の温もりと、やわらかい唇の感触を同時に感じてぞくりと身が跳ねる。
「……!」
その美しい顔をじっと見つめてしまっていた私は、まぶたを持ち上げたラルと視線が絡み合う。
ラルの顔に笑みはなくて、その真剣な青い眼差しに射貫かれたように身体が硬直した。
ラルはたまにとても色っぽい表情をする。
いつもはまるでくまのぬいぐるみのように可愛く、癒やされる顔で笑うのに。
「エレア……」
低く、男らしい声で私の名前を呼ぶと、そっと手を引かれて、その胸に抱きしめられた。
とくん、とくん、と力強く音を立てるラルの心音が、どこか心地いい。
何も言わずに、片腕で優しく私を抱きしめて、そっと背中を撫でるラルから、自然とその愛情が伝わってくる。
ポールの浮気現場を目撃して、ラルに「結婚しよう」と言われたあの日から、彼の私に対する態度は変わった。
兄ではなく、一人の男性として、私と接するようになったのだ。
それに、こういうスキンシップも増えた。
私だってラルのことは元々兄妹としての愛情以上に想っていたから、動揺しつつも、とてもドキドキさせられている。
もちろん簡単に慣れることなんてなくて、ラルが〝男〟の顔で私を見つめてくるだけで心臓が高鳴る。
それでも、ラルが私の様子を窺いながらスキンシップを取ってくれているのはわかっている。
これ以上はまだ無理だろうというラインは、決して無理に越えてこない。
私を安心させるように、そっと抱きしめてくれるラルが、大好き。
「エレアは本当に可愛い」
「……ん」
甘く囁きながら、ラルは私の額にそっと口づけると、その唇をゆっくり下へ滑らせていった。
まぶた、頰、鼻の頭へと優しく口づけていくラルに、私の鼓動はうるさいくらいにどくどくと脈を刻んでいる。
「……」
「……」
きっとこの緊張はラルにも伝わってしまっていると思う。
それを思うと恥ずかしいけれど、額と額を合わせて何かを訴えるようにじっと私に視線を向けているラルに、正直それどころではない。
ラルは、どこを見ているの……?
私の目……よりも下な気がする。
……もしかして、唇……?
視線を合わせる勇気がなくて、逃げるように視線を落としてしまっている私に、ラルは何も言わずにただそうしている。
けれど、そこに無言の圧力のようなものも感じた。
私が少し視線を上げたら、それをゴーサインだと受け取って唇を重ねてくるのではないだろうか――。
そう思うと、やっぱり彼と目を合わせられない。
「……もうすぐ着くね」
「え、ええ……」
しばらく沈黙が辺りを包んでいたけれど、諦めたのはラルだった。
最後に私の額に少し長めに口づけると、優しく頭を撫でてて身体を離してくれる。
「今夜は疲れただろう。夕食が済んだら、早めにおやすみ」
「……ええ、そうするわ」
もう先ほどの無言の圧力はなかったかのように、いつもの笑顔で優しくそう言ってくれるラルだけど、窓の外に目を向けたその視線から少しだけ憂いのようなものを感じた。
……ラル、もしかして……、いいえ、もしかしなくても、きっと今、キスしたかったのよね……?
強引なことはもちろん、それを言葉にして聞いてもこないラルに、ぎゅっと胸が締めつけられる。
ああ……っ、ごめんなさい……っ!!
私にもっと勇気があれば……あのとき視線を合わせていれば、ラルは唇に口づけてくれていたかもしれない。
けれど、あと少しの勇気が出なかった。
「――ラル……!」
「着いたよ……エレア、どうかした?」
「あ……ううん、なんでもないわ」
いっそ強引に奪ってくれたら……なんて、ラルに頼ろうとしている自分に心の中でびんたして、もう一度彼と向き合おうとしたけれど……そのときタイミング悪く、馬車はゆっくりと停車してしまった。
「降りようか」
「ええ……」
使用人によって外側から扉が開けられると、流れるように手を差し出してエスコートしてくれるラル。
そのままなんでもないような顔で私の部屋の前まで送ってくれると、「それじゃあ、また後でね」と微笑んでくれた。
ラルは本当に優しい。いつも私のことを守ってくれて、大事にしてくれて、気持ちを尊重してくれている。
でも、私だってラルの気持ちに応えたいし、望みを叶えてあげたい。
……ううん、違う。
本当は、私自身ももっとラルと触れ合いたいと望んでる。
「――はぁ~~~、私ってとっても意気地がないのね……!」
「どうかしましたか? エレア様」
ドレスから部屋着に着替えながら思わず口に出してしまった心の声を聞いて、侍女のメアリが首を傾げた。
「あ……ごめんなさい、なんでもないの……」
「……なんのことかは存じませんが、ラルフレット様はすべてを受け入れてくださると思いますよ。ですからエレア様は、安心してラルフレット様にすべて委ねて構わないと思います」
「……そうね」
なんのことかわかってるでしょ? と言いたくなるようなメアリの言葉に頷いて、私は再び深い溜め息を吐き出した。




