35.元婚約者
あの日のことを思い出して、身体に緊張が走る。
でも、大丈夫よ。ラルはいないけど、周りにはたくさん人がいるし、気丈にしていなければ。
「お久しぶりです」
伯爵家の息子であるポールを前に、私は貴族令嬢として申し分のない礼をして見せた。
彼が他の女性と浮気していた日のことを思い出すと気分が悪くなるけれど、彼はあの後一晩軟禁され、伯爵家を継ぐ権利は弟に渡ったようだ。
キルステン侯爵家の娘と婚約していたにもかかわらず、他の女性に手を出したという話もあっという間に社交界に知れ渡ったので、もう彼と結婚したいと思ってくれる高位貴族の女性はいないだろう。
彼の父であるヘルテン伯爵からも、たっぷりお仕置きを受けたはずだ。
それにしても、どうして今更私に話しかけてくるのだろうか。
「エレア……今更謝っても遅いのはわかっているが……あのときは本当に申し訳ないことをした」
本当に、その通り。もう終わったことなのだから、別に謝罪は結構よ。
心の中でそう返事をしつつ、怒りの感情を抑えて「フローラさんはお元気?」と聞いてみる。
「ああ……彼女とはあれ以来会っていないよ。僕に本気じゃなかったようだ」
「そうですか」
ふぅん……。やっぱり遊ばれていたのね。なんとなくだけど、そういう気はしていた。
まぁ、それはどちらでもいいのだけど。それより、フローラさんがあの日ラルになんの話をしに来たのか、そっちのほうが少し気になる。
「エレア……あのときは僕がどうかしていたんだ。君と婚約できたことが嬉しくて、つい舞い上がってしまって……。それなのに、君と全然親しくなれないことに焦ってもいたんだ。もう二度とあんな真似はしないと誓う。だからどうか、僕ともう一度やり直してくれないだろうか」
「……は?」
やり直すって、なにを?
まさか、もう一度婚約したいと言っているの?
「ポール様……あのことはもうよろしいので、どうか私のことはお忘れください」
「忘れることなんてできないよ。僕は君を……君だけを愛している。君がお兄さんとばかり一緒にいるから、寂しかったんだ。どうかこの僕を許してほしい」
私を愛してる……?
嘘。愛しているのは自分のことと、キルステン家のお金でしょう?
「私にはもう関係のないことですから」
「そう言わず、どうか許して……!」
一定の距離を保って話してくれていたことだけが唯一の救いだったのに、彼はぐっと一歩近づいてきた。
「私にはもう、別の婚約者がいます!」
あのときのように、身体を壁に押し付けられてしまうのではないかと、一瞬恐怖が脳裏をよぎった。それで思わず口にしてしまった言葉を聞いて、ポールはピタリと足を止めて目を見開く。
「え……誰だい、それは」
「それは――」
言ってしまおうか。ラルと婚約したと。そうすれば、さすがに諦めてくれるだろう。次期キルステン侯爵であるラルに敵うほどの男性は、そういない。
「エレア!」
けれど、私が彼の名前を口にする前に、その人の声が聞こえた。
「ラル……」
「ラルフレット様! あのときは本当に申し訳ございませんでした。僕が間違っていました。こんなに素敵な人を傷つけてしまうなんて、僕は本当に愚かでした。僕には彼女が必要です。どうか許していただけませんか?」
ポールと一緒にいた私に気づいて、駆け寄ってきてくれたのだろうラルが、息を整えながら私を守るようにポールの前に立つ。
「それはそうでしょうね。あの件でお父上はお怒りでしょうし、貴方自身の評判も地に落ちた」
ラルの声からは、怒りの色が窺える。それを抑えて話しているのが、わかる。
「……本当に、僕はとんでもないことを……」
「では、しっかり反省して、これからはまっとうに生きてください」
スパッと彼の言葉を遮るように言い切ると、ラルは私に向き直って「遅くなってごめんね。帰ろうか」と、優しい笑みを浮かべてくれた。
「待ってください……! あの、これからはまっとうに生きます。ですから、どうか許していただけないでしょうか……!!」
ポールに背を向けて歩き出した私たちに、彼は尚も食い下がってきた。
「僕が許しても許さなくても、もうエレアと貴方が婚約することは二度とあり得ませんよ」
そんなポールに足を止めて、ラルはもう一度向き直る。
「……やはり許してはいただけませんか?」
「そうではなく、エレアは僕と結婚するのです」
「…………はい? 誰と、誰が結婚するのですか……?」
はぁ、と溜め息をついて、ラルはまっすぐにポールを見据えた。
「聞こえませんでしたか? この僕、ラルフレット・キルステンと、エレア・ハイン伯爵令嬢が結婚するのです。すでに正式に婚約の手続きは済んでおります」
「ハイン伯爵令嬢……?」
「ええ」
それ以上詳しい説明をすることすら面倒だと態度で語るラルの手を、私はぎゅっと握った。
ポールはラルの言葉が理解出来ていないような顔で唖然としている。
「では、失礼します」
ラルは私の手を優しく握り返して、情けない顔で佇んでいるポールに一言告げると、踵を返した。




