10.私の過去3
〝あの日〟は唐突に訪れた。
私が十二歳になったある日、寝る前にホットミルクが飲みたいとサラにお願いして、部屋でラルからもらったくまのラディを抱きながら待っていたことがある。
けれどサラがなかなか戻ってこないのが心配になった私は、様子を見に食堂へ向かうことにした。
食堂の扉はうっすらと開いていて、そこから明かりが漏れていた。
ああ、よかった。サラはちゃんといるわね。
胸を撫で下ろして中へ入ろうと足を進めたら、サラの焦ったような声が耳について、私の足はピタリと止まった。
サラ……? なにかあったの?
子供ながらにその声色に不安を感じて、抱いてきたラディをぎゅっと抱きしめ直し、足音を消して扉にそっと近づいた。
「――今日はもう、これ以上はいけません。エレア様がお待ちですから、後でお部屋に伺います」
「大丈夫だよ、あいつは待たせておけばいい。すぐ済むから、そこに手をついて」
「ああ、ツィロ様……っ」
聞こえてきたのは、義兄、ツィロの声だった。
サラの震えた艶のある声と、ツィロのヤケに優しい声に、私はその中を見てはいけないと瞬時に悟り、すぐにその場から走り去った。
部屋に戻り、ベッドに潜り込むと、ドクドクと変に脈打つ鼓動を抑えるようにラディを抱きしめて、頭から布団を被った。
大人のことはまだ詳しくはわからない。だけど、なんだかとても気分が悪くなった。
ツィロはサラに何をしたのだろうか。
嫌がるようなことをしていたのなら、止めに入ったほうがよかったのではないだろうか……?
けれど、直感で子供は見てはいけない気がしたのだ。
ぐるぐると不安が頭を巡って、その恐怖で心臓がバクバクと高く脈を刻む。
それからどのくらいそうしていたのかわからないけど、そのうちサラがいつもと同じ声でホットミルクを持ってきてくれた時には、寝たふりを決め込んでいた。
サラは嫌がっているように聞こえたけど、私の部屋に普通にやってきたのだ。
先ほどツィロの前で発していた高い声と違い、ちゃんといつもの穏やかな声で「エレア様? もう寝てしまいました?」と言ったのだ。
よくわからなかった。
ただただ恐怖が心を埋め尽くした。
ツィロも怖い。使用人も怖い。母も、妹も、サラでさえ――。
もうわからなくなった。私が誰で、どこにいて、なんで生きているのかも、わからなくなった。
ただ、もうここにはいたくないと、強く思った。
もう、このまま消えてしまいたい――。
その日はもう眠れそうになくて、私はラディを強く抱きしめながら、ラルのことを思い出していた。
ラルはあの日言っていた。
〝もし今後何かとても辛いことがあったら、このブローチを握って僕のことを呼んでほしい。このブローチに僕が魔法をかけた。だから、必ず駆けつけてあげるからね〟
そう言って小指と小指を結んだあの日を、昨日のことのように覚えている。
けれどその約束をしたのはもう一年以上前のこと。
ラルとはそれ以来一度も会っていないけど、あの約束を今でも覚えてくれているのだろか。そもそもあれは本気で言ってくれたのだろうか。
そんな不安もあったけど、〝約束だよ〟と言って微笑んでくれたときのラルの顔を鮮明に覚えていたから、私はもう寝ていると思って油断している使用人の目を盗み、ラディを抱えて部屋の窓から外へと抜け出した。
ラディだけを抱きかかえて強くラルを想いながら、私はキルステン侯爵邸へ向かってひたすら走った。
もちろん子供の足で辿り着けるわけがないし、すぐに足が痛くて歩けなくなってしまい、途中何度も転んだ。
それでも必死であの家から離れようと一歩ずつでも足を進めて、とうとう立ち上がれなくなってしまったとき、
「――エレア!」
気づけば朝日が昇り始めていた。
ゴールドベージュの美しい髪に朝日を浴びながら、叫ぶように私の名前を呼んだラルは、私の王子様に見えた。
王様の息子という意味ではない。物語の中に登場する王子様は、いつだって少女を悪い奴から救い、守ってくれるのだ。
ラルは、私のヒーローだった。
「ラル……、助けて……」
そのとき初めて「助けて」という言葉を口にした。
今までどんなに辛くても笑って乗り越えてきたのに、私はまだまだ強い人にはなれていなかったみたい。
私に駆け寄って身体を抱き起こしてくれたラルはただ一言「もう大丈夫だよ」と言って優しく抱きしめてくれた。
一年前より少しだけ大きくなったラルは、とてもあたたかくて、優しくて。
そして、そんなラルの温もりに安心した私は、スッと意識を手放したのだ。
――その後目を覚ましたのは、キルステン侯爵家の豪華なベッドの上でだった。
もう外はすっかり明るくなっていて、ちょうどいい温度のホットミルクと、バターの香る柔らかなパンが用意されていた。
私の隣にはくまのラディがいて、キルステン侯爵夫人が目を覚ました私をすぐに抱きしめてくれた。
こんなふうに母親の愛情がある人の温もりを感じたのは、とても久しぶりだった。
キルステン侯爵家の人は、誰一人として私に何があったのか聞いてくることはなかった。
使用人は皆私に優しくて、大きな声を出す人は一人もいなくて。
ただ一言「うちの子になるかい?」とキルステン侯爵夫妻に聞かれた私は、静かにこくりと頷いていた。
それから一度もあの家には戻っていない。
ツィロにも、サラにも、実母にも会っていない。
いきなりあの家を飛び出してきてしまったのに、キルステン侯爵夫妻はなんと言って私を養女にしてくれたのだろうか。どうやってあの家の人たちを納得させたのだろうか。
子供だった私にははっきりとはわからなかったけど、問いかけると皆一様に笑顔で「気にしなくていいんだよ」と答えた。
やっぱり私は邪魔で、いらない子だったのかもしれないと思ったけれど、今になって思うと、おそらくキルステン侯爵が大金をホルト家に支払ってくれたのだろうと思う。
侯爵夫妻は「娘がほしかったのだよ」と言い、私を本当の娘のように可愛がってくれたし、新しく義兄となったラルは昔と変わらず優しかった。
私の兄は最低のツィロから、大好きなラルに変わったのだ。
私の初恋の人は、兄になった。
とても嬉しかったけど、兄妹は結婚できないから少し複雑で。
だけどそれからの日々は本当に幸せだった。
このままずっとこの家で、この家族と皆で暮らしていきたいと思った。
でもやっぱりラルのことは大好きで、兄になったと言われてもその気持ちだけは変わるどころか、大人になるに連れてどんどん恋であることを自覚していった。
それでもこの素敵な家族に心から感謝し、どうかいつまでもこの人たちの笑顔が絶えませんように――。
私は毎日、心からそう祈った。
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