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ZEROミッシングリンクⅠ【1】ZERO MISSING LINK1  作者: タイニ
第三章 ベガスアーツ

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30 赤い頬、赤い手



ミザルとサルガスの目が合い、サルガスは慌ててミザルに礼をした。コクッと返される。


「…分かった。」

チコの顔も見ずに言った。

「あなたに任せるから。チコ。」

「っ!」

ファクトよりもチコが驚く。


「その代わり週一回はお母さんと食事をする約束をして。」

ファクトは頷いて答える。ミザルは少しだけチコに向き直った。

「その代わり、ファクトの安全は守ってちょうだい。」

「…分かりました。」

「あなたたちもよろしくね。」

サルガスたちに向けても言った。

「あっ、はい…」


「タクシーが待っているから行くから。」

それ以上何も言わずに去っていく。


誰も動かなかった。





「………」

チコがぽかんとしていると、ファクトがチコの叩かれた頬を見た。

「あの、痛かった?」

「あっ、ああ。とくには。」

痛いけれど、そこまででもない。ミザルが研究以外の通常時に自分に触れたことの方が驚く。養子の登録時以来、プライベートでは見るのも嫌そうだったからだ。平手打ちでも触りたくないのかと思っていた。


笑って返す。

「大丈夫だ……」

そう言ってチコの頬に近付けたファクトの手に手を合わせた。


「そうだ!ファクトこそ大丈夫か?!」

「あ、ビンタって打ちようによってはこんなに痛いんだと初めて知った…。舐めてた。でも…もう大丈夫かな?サルガス、鼻曲がってない?」

「あー?大丈夫だ。見た感じ。」

チコも鼻を確認する。

「多分大丈夫だが、一応診てらおう。」



隣でそのやり取りをイライラしながら見ていたムギが、チコを引っ張った。

「チコ!ひやそ!チコだって痛いよ!」

「大丈夫だ。ムギ、痛くない。」

「……。」

チコの胸に飛び込み、そしてファクトに怒り心頭だ。

「お前!」

「そろそろファクトって言ってよ。ずっと「お前」だとへこむ。」

「名前なんてを呼ぶ気にもなれない!チコに謝りもせず!親子そろってバカ!帰れ!チコに触るな!」

「ムギ、博士をそんな風に言うな。」

チコがムギをたしなめた。



アーツの面々が様子を見に来も、実は遠目で全部見ていた野次馬たちもいた。

野次馬組に店から出てきた一人が聞く。

「解決したの?」

「いや、分からないけれど、女の子がファクトを責めている。」

「ホントだ。ミニミザル博士だな。」

先から強烈に女子に責められているファクト。

「いいな。」

「あいつ、女三昧だろ。」

「何がいいんだ。」

下町ズは変態が多いのか。



ボランティアの日にいなかった男子にとって、ムギは初見の人物。ただのかわいらしい女の子である。

「ムギ、やめるんだ。ファクトが困ってる。」

「チコ、こいつ本当に余計な問題ばっかり持ち込む!」

余計な問題とは俺たちのことかと、サルガスは思も、まさにその通りなのだが。それでも、ミザルに許可をもらえたのはチコもサルガスも嬉しかった。


「ムギ、ごめんな。」

近寄ってきたヴァーゴが慰める。

「お前も嫌いだ!なんでまた来たんだ!」

「ムギちゃーん!」

女子たちも来る。

「ムギも一緒に夕食しよ!」

怒ったままのムギを女子たちが食堂に引っ張っていった。



一緒に外に来ていたタウが呆れる。

「初めて見たけど、ファクトってさ、親にもムギにもあそこまで怒鳴られて野次られてよく平気でいるな。少し言い返してもいいのに。」

返したのはサルガス。

「母親がきついからな。慣れてるんじゃないか?あしらい方に。」

「普通グレるよ?俺だったら、ああいう親とは話したくいない。ムギは見てる分には怖くもないけれど、面と向かってあれを言われ続けたらさすがにちょっと。理由も分からないし。」

「…ファクトがのんびりしているのは性格だな。リゲルが言っていたが、父親があんな感じらしい。」

大房の女性も結構気が強いので、慣れていると言えば慣れているのだが、目の前で見るといい気分ではない。



「いいか、ミザル博士のことはお前らがあれこれ言うな。ミザルはただの研究者という立場だけでない。ミザルたちの研究がアジアが未だ経済大国でいられる理由だからな。」

チコは全員を咎めた。

「…でも…」

「ミザルたちがいなかったら、人本国家や独裁国家にアジアも飲み込まれていたんだ。」

「………。」

よく分からないが、なんとなく自分たちの知らない世界があるのだろうと思う。



いつまでも外でだべっているのでムギがまた迎えに来た。

「チコ!おいでよ!ご飯だってば!」

とにかくチコとファクトを引き離したい。


少し待ってと返して、ファクトに向き合った。

「逃げると思っていたのに、まさか親にきちんと意見を言うとは。少し見直した。」

「まあ、女性が叩かれているのに放っておけないでしょ。自分のせいだし。」

原因のくせに偉そうな意見を言う少年を、チコだけが温かく見つめる。

「ファクト、きちんと心を決めるか?」

少し真剣に聞く。


「休学してまで取った時間だ。ミザルの了承まで得たならこんな機会はない。ここでできる限り、たくさんのことをするか?」

それを聴くと、考えながらファクトは拳を出した。


「します。…俺はします!」

チコはその拳に自分の拳を返した。打ち合った拳を見つめてニコッとする。

「うれしい。ポラリスにも報告できる!」


満面の笑みのチコは、今まで見た中で一番弾んでうれしそうな顔をした。


「何がだ!ミザル博士に乗り込まれる前に説得してから来い!」

ちょっと悔しそうに怒ったムギが強引にチコを引っ張るので、外に出たメンバーも食堂に入っていった。




***




気温湿度は快適なはずなのに、冷たい廊下。

研究所に与えられたその奥のヴィラ。



小さめのリビングに置いてあるリクライニングシートを倒して、ミザルは力を抜いた。


目に当てていた左手を離し、写真立てを見つめる。


自分たち夫婦と小さなファクトがいる。

「ポラリス、あなたはいつも余計なことをするのね。」



椅子にうずくまる。

シリウスも世に出た。任せられる後輩もたくさん育った。もうすぐ家に帰れるはずだったのに。


正直夫ポラリスは苦手だ。全然タイプが違うし話も合わない。いい同志だと思うのはラボの中だけだ。でもポラリスがいなかったら、ファクトには会えなかった。もしかしたら、まだ結婚だってしていなかったかもしれない。


彼は、結婚しても研究は捨てないと言った私の意志を全て尊重してくれた。



うまく丸め込まれるようにあっという間に子供もできた。


これもポラリスでなかったら多分無理だっただろう。子供を作る気は全くなかった。子供にも関心がなかった。でも、人生の1、2年を自分に預けてほしいと彼に言われたのだ。絶対に、君と子供を大切にするからと。


出産にリスクがあるのは知っている。ミザルはリスクを負うわけにはいかない。全力で走らなければいけなかったからだ。この研究にはタイムリミットがあり、国や連合国を、しいては世界の方向性を背負っている。


でも少しだけ、自分の中でヒトという生命が育つという妊娠出産に興味を持って、そして同じ研究者なのに全く違う心を持ったその人に関心も生まれた。



人生の少しだけ「私」を捨てようと決めた。

彼の誠実さと優しさ強さがなかったら無理だった。



つわりも心身の変化も考えていたよりひどかったため、丸2年ほど思い通りに進めなかったが、ファクトが生まれて。


こんな風に人生が変わるなんて思ってもいなかった。


体調の揺れに何もできず、自分はきっとお腹のこの子を恨むだろうと思っていたのに。



生まれてみたら生まれたで、全く言う事を聞かなくて。


なのに。


シッターを雇う余裕も十分あったし、研究所の保育でいくらでも見てもらえるのに、できる限り自分で育てたいと思った。子供の輪郭や関節の動きがこんなにもかわいらしいなんて知らなかった。なぜあんな変な口をするのだろう。不細工でもなぜそれがかわいいのだろう。


あれだけイライラしてきた赤ん坊や子供の泣き声が、妊娠中からほとんど気にならなくなった。叩かれてもうんちを触っても平気だった。今までだって乳児や赤ちゃんはたくさん見て来たのに。『ヒト』としてしか興味がなかったのに。


ずっとずっと追いかけたかった。



長い間子供を待ちわびた同じ研究者に「私でもそこまでじゃないわ」と言われて不思議な感じがした。産前後のウツは前時代からたくさん研究されている。男女のホルモンの変化もたくさん研究されている。


私のこの変化は何だろう。ホルモンであることは間違いない。妊娠ハイ、出産ハイというものだろうか。

でも…。


きっと子供が生きるための、人類を残すための母性本能というのもきっとそうであろう。ではなぜ人は生き残ろうとするのか。別に生き残らなくてもいいのに。それが科学で解明できないことでもある。


別にいいのだ。人間以外の生物だって、生まれて全部が生き残らなくていいどころか、大部分淘汰される。そこに憐みもかけられない。


命あるものはみな平等と思っている人々がいるが、そんな訳がない。

人間の体の中でも、踏んだ地面の下でも、大量の生物が生死を繰り返しているが誰も憐れまない。存在すら考えない。


なぜ人間だけが、それに近い状況を与えられた動物だけが、大切な記憶から消えないのか。



ハイハイして、よちよち立って。勝手に手摺にも棚にも上るからハーネスにもつないで。まとめ買いしたベビーローション1箱を研究所の廊下に全部塗りたくって。そんな大変な子供でも、何もかも追いかけたくなって。

研究肌と同じものだろうか。でも、少しだけ違う気がする。


何だろう。




先のチコたちが集まった食堂横で、

『私も今度、家に帰る目途が立ちそうなの。』

と、その一言がファクトに言えなかった。


『一緒に暮らそう。』

それを言えば、ファクトは動揺しただろうか。


あの子が小5で自炊できるようになって、それから中2になってファクトを完全に置いてヴィラに移り、研究所で箱詰めで働いた。今までも週2、3回帰れるのがやっとで。なるべく食事は外でも一緒にとれるようにして。全く帰らない週もあったけれど必死だった。


やっと家に帰れるのに。



さみしい。

「誰かがいなくてさみしい」なんて心が、自分の中にあるなんて思わなかった。


ポラリスとの別居も少し寂しいだけだった。夫婦生活で満たされることを教えてくれたのはあの人だったから、少し肌さみしかった。でも研究には代えられない。研究が上だ。


一人で生きることが苦になるなんて思わなかった。

ファクトは研究所に出入りさせたくなかったから、ヴィラで同居も無理だった。


4年…7年も一人にさせた罰なのか。

それともたくさんの生命に関与した罰なのか。


『今、身勝手に生きるのは許さない。』

まだ未成年だ。自立だってしていない。自分にはそれを言う資格が十分にあったのに。


でも、学校の宿舎に入れても同じだ。一緒に住まなければいけないわけではない。学生だから自分と住むという決まりはない。



二人を張り上げた右手を見つめる。

自分の手のひらもまだ赤い気がする。彼らの痛みを手に感じるようだ。


初めて足のサイズが追い抜かれたのは小3の後半。背は中間程度なのに23センチの靴も小さそうだった。子供はこんなに早く大人を追い越すのか。



いつの間にか私の背丈も追い抜いて。



全く知らない方向を向いて、

あの子はどこに行くのだろうか。




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