第3章 仕事始め まごつきながらも やれている
「黒獅子党、ですか……。」
ミレイが来た翌日の早朝、ネルブース城の会議室で、州高官達がうちそろい、話し合いをしていた。話題はもっぱら、辺境伯補佐のラウラ・セルディが言った、冒頭の言葉……であった。
「あの“大内乱”以来2年間、州都民は、彼らの横暴に悩まされてきています。しかも、毎日ではなく、何日か空けつつやってくる。まるで、忘れたころにやってくる旱魃のように。これも、手出しができない原因ですね。」
州都長官のアマンダ・ローリアが、厳しい声で言った。「それに、ギルドや州都兵が巡回している時、場所では、狼藉を働かないという知恵もありますからね。」
皆はうなずいている。副兵士長のジェラルド・ウルジーが言う。
「州都兵もギルドの衛兵も、何とか捕縛しようとしているのですがね……。昔からの線引きもありますし、なかなか踏み込めないでいるのですよ。」
「そういえば……。」
州将軍、ヴィルヘルム・レックサンがポツリと言う。「……昨日この城に来た、ミレイという娘が、黒獅子党の破落戸を1人で5人を倒したそうですね。」
「ええ?」
一同は驚いた顔をしている。中でも、文官長、武官長である、キース・ハーラント、ハインリッヒ・オイゲンのそれは段違いだった。兵士長のレオポルド・ベルトランが、驚きつつも言う。
「しかし……、黒獅子党の連中は、軍隊崩れが多く、一筋縄ではいかない者ばかりですぞ。それを……。」
「恐らく」
ウルジーが低い声を響かせつつ言う。「彼女はあまり手練れではない者を相手にしていたか、手練れでも統率のとれていなかったかのどちらかでしょう。そこのところをうまく突けたのかもしれません。」
この言葉に、全員がうなずく。
「さっきの“線引き”のことですが……。」
ハインリッヒ・オイゲン武官長が、重々しく言う。「そろそろ、取り払うべき時では、ありませんかな?」
全員がまたもうなずく。「そして、ギルドと共闘して、黒獅子党を潰す時も来ています。その後は、州都の治安は、完全に州府の権にすることにした方がいいのではないでしょうか。」
…………………。
さて、一夜明けて――
「おはようございます、ミレイ様。」
「……んぁ?」
……ああ、我ながらひどく間抜けな声を出してしまった。すると、声をかけてきた当人が、クスクスと笑う気配がする。しばらく上掛けの中でもぞもぞしてから、起きる。と、そこにいたのは、シエラだった。彼女は口元に手を当てて微笑みながら、昨日と同じような服を着ている。
「あ、おはよう、シエラ。」
それから急いで、シエラにも手伝ってもらいながら着替える。もう今日からは、あのブレザーは着ないのだ。それは、クローゼットの奥にしまいこんだ。シエラが用意した衣は、長い上衣(前にボタンがずらりと並んでいる)と、脇が大きく開いた上衣、手袋、後は種々雑多な髪飾りだった。私は、シエラに教えてもらいながら身に着けていく。まず、白い肌着(シュミーズ、ドロワーズみたいなものだ)を着て、ボタンの並んだドレスを着る。ここで腰にベルトを結び、脇が大きく開いた上衣を着た。そうすると、ちょうどシエラと同じような感じになった。しかし、聞くところによると、これは平服ということだが、どうにも動きやすそうには思えない。隣の芝生は青いのか、はたまた私がまだ着なれていないせいなのか、シエラの方がよほど動きやすそうだった。
「ねえ……、これを着なくちゃいけないの?毎日?」
「はい。……まあ、毎日の仕事の時の服と思ってもらっていいよ。仕事がなければ、もう少し崩しても構わないんだけどね。あ、そうそう、今日の朝一番に州議がありますが、そこにミレイも来るように、とのディレイル様からの伝言です。多分、ミレイをそこで紹介するんだと思います。……まあ、主要官と、ミレイとで互いに顔と名前を覚えるため、ということね。」
「この服は、その時にも着ていけるの?」
「いいえ、それはあくまでも日常の仕事用のものです。……儀式用の正装は、また別にあるんです。今回は正装でいくことになっています。」
私はよっぽどこの時げんなりした顔をしていたのだろう。後半のセリフを言ったシエラの声は、とりなすような、はげますような、そんな感じだった。
そこで朝食を運んできてくれた人が、ドアをたたく音がした。部屋のテーブルに運んでもらってから朝食となる。朝食はそれぞれの部屋でとる、というのが最近のウェルディ辺境伯家の習慣なんだそうだ。シエラも私の部屋で一緒に朝食をとった。
そして食べ終えて、最終的な身支度になったのだが……。
「……これなの?」
それを見て、私はそう言うしかなかった。
「我慢してください。州議が終われば、簡素なものにしてくださっても構いませんから……。」
「シエラ、敬語、敬語。」
「あ……。とりあえず州議だけだから、終わるまでは我慢して。」
うん、シエラから敬語が抜けたことに免じて、恐らく1度しか着ないであろう最上級(と思われる)の正装に袖を通した。しかし、やたらと豪華な布だな……、と思った。手触りからして、なんとなく絹のようだし。しかも色は赤、やっぱりこれを染めるのに、カイガラムシを使っているのだろうか……。それに、前には金糸で、獅子の縫いとりがしてある。これを着ると、中に着ているものはドレスの下の部分以外は完全に隠れてしまう。さらにここにもベルトをする。こっちの場合は、ただ結ぶのではなく、きちんとバックルがある。見た感じは、黒曜石をくりぬいて作ったもののようだ。けれども、かなりこの衣が長いのだ。あの、平安時代の貴族男女が来ていたような、下襲の裾だとか、裳裾ほどではないけれども、床につく長さで、少しばかり引きずるのだ。……まあ、下のところは閉じずに開いているから、見た感じよりは歩きにくくはないのだけれども。
さらに私を閉口させたのは、頭までいろいろと飾り立てようとしたことだった。それを私は必死になって止めた。目の前の机には、さまざまな石、ガラス付きのリボンだの、かんざしだの華美な髪留だの、歩瑤のようなものまで入った箱が3つもある。他にもよくわからない装身具がごちゃごちゃと雑多に並べられているのだ。そして、いろいろと手に取り、あーだこーだとシエラも含めた3人の女官さんで話し込んでいる。
「ですから、ミレイ殿のお髪ですと、このようなピンク系の髪飾りが映えるかと思います!」
「いえいえ、服が赤ですから、それほど髪飾りは映えないでしょう。ですからここは、このエメラルドをはめこんだ髪ひもでまとめるのがよいでしょう。」
「いーえ!ここは髪をまとめてそこにかんざしで決まりです!」
……何やら白熱している。……もちろんのこと私は、こんなに髪飾りで飾ったことはない。というか、今まで、髪飾りができるくらいに伸ばしたこともない。いつも、世界史の図表だとか、ファッションの歴史を扱った本のイラストを見ていて、昔の人は大変だったんだな……、とかそんなことをつらつらと思っていた。その後には決まって、今の世でよかった……、なんていうことを考えていたりしたクチなのだ。
……そういえば……、今は私は完全に蚊帳の外だな……。……あ、今ならそっと出ていけるのではないだろうか……?そう思って、言いあいをしている3人に気づかれないように忍び足で出て行こうとする。と……
「ミレイ(様)!」
3人同時に気づかれてしまった。……ていうか、ここの人たちって、女官たちを含めて、全員が武術の心得でもあるのか、と思ってしまう。
「~~~~~~~~ご、ごめんなさいごめんなさい!もう何を“飾った”っていいから、背後で殺気をビシバシ飛ばさないで~~~~~~!」
「かしこまりました!」
3人の喜色満面な声がした。ぱっと振り向くと、やたらとニコニコしている。
……やっちゃった……。泣きたくなった。もしも泣くだけで髪飾り地獄から解放されるなら、身も世もなく泣きわめきたかった。3人のうちの2人に、両肩をガシッとつかまれる。……ああ~、さようなら、Simple is the bestの暮らし。そしてこんにちは、Complex is the worstの暮らし……。
20分後……。
私の髪の毛は、一体どうやってやったのか分からないくらいに複雑に編みこまれ、すでにいろいろな髪飾りがところ狭し……というにはいささか大げさだが、たくさんついている、ということになってしまった。もう頭上の飾り物を落っことしてしまうのではないかと心配になるくらいだった。しかし、かざりつけた3人は、そんな私の気持ちを知ることもなく満足そうにしている。まったく……、こっちの気も知らないで……。2人は部屋を出て行き、シエラだけが残った。私は、恨みがましい目つき、声で、彼女を見、こう言った。
「……この裏切り者め~~。」
少し違うけど、そう言いたくなってしまう。言われたシエラはカラカラと笑うと、
「まあいいじゃないですか、似合ってますし。」
と、何のこともなさそうに言った。……ていうか、似合ってさえいれば、本人の気持ちを確かめることもなくごてごてと飾り立ててもいいのかと思う。なんだか頭が重かった。つけているだけで、首の筋肉が鍛えられそうだった。18世紀のフランスの貴婦人や、中国の貴婦人といった連中は、みんな首がたくましかったか、肩こりに悩まされていたに違いない。
「……さ、ミレイ。もうすぐ州議が始まるから行きましょう。」
と、シエラが言った。
昨日、シエラと会った時に、私はああ言ったが、どうしても彼女は時折敬語が出てきてしまうらしい。けれども、それは特に私の耳につくことはなかった。なんだか、もうそのように言うことに慣れきってしまっていて、自然にポロポロ出てきている、そういう感じなのだ。と、そう大広間に案内されながら私は思った。聞くと、さっきまで私とシエラがいた建物は、この城に住む人たち(つまり、ウェルディ辺境伯家や、家人たちということだ)の生活のためのものであって、州議が行われたり、辺境伯の執務室や、各長官たちの執務室があるのは、政のための建物にあるので、建物自体が違っているのだそうだ。
「ふーん、表と中奥みたいなものね。」
そのことを聞いた時、思わず口に出してしまった。シエラが聞いて?マークを頭の上に浮かべている。私は説明する。
「あのね、私が前に住んでいたところで、ずうっと昔に政権を握っていた人が住んでいたお城の構造のことよ。表って言うのが政治をしていたり、会議をやっていたところで、中奥って言うのが、その人の住まいだったところよ。」
「へえ~~~~~~。」
「ちなみにね、もう1つ、その城には区画があったの。男性ではその政治を執っていた人ただ1人しか入れなかったところがあるの。大奥っていってね。そこは……いわゆる侍女たちしかいなかったのよ。あとはその人たちの妻や母といった人たちね。」
「え?すごいわね、それって。ていうかさ、その、“大奥”だっけ?それって何だかドロドロしてそうよね。女の嫉妬みたいね感じで。」
そう言ったシエラの言葉があまりにも(テレビ的な意味で)正鵠を射ていたので、私はアハハと乾いた笑いを浮かべる。
「あと、その人の家って、今でも政治をしているの?」
「ううん……。今から――もちろん、私のいたところでよ――150年くらい前に、その人の家から政権を奪うためのクーデターみたいなものが起こって、結局政権を元首に返したのよ。でも、まだ末裔がいるわよ。別に、武力衝突に発展したわけではないから、処刑されなかったから。」
などと話しているうちに、大広間のドアの前についていた。それは、大きな両開きのドアで、表面には左右に1つずつ、獅子が片足を上げて向かい合わせになり、互いに今にも躍りかかりそうな様を見せている。ここにも、兵士さんが2人立っている。
ここまで来た時に、シエラがとんでもないことを言った。
「それじゃあミレイ、私はここで待っていますから。」
「え?一緒に来てくれるんじゃないの?……ちょっと心細いんだけど……。」
私はそう言う。ひらめいた。「そうだ!今日だけ特別にシエラも一緒に入らせてもらうってことはできないかな?」
と、言ってみる。しかしシエラは、
「私は、大広間に入れるほど州での地位は高くないから……。」
と言うだけだった。その言葉、顔は悲しそうだった。……でも、ディレイル付きになっていたということだから、そう低くないんじゃないかな……、と思う。それを言うと、
「あくまでもこの中には入れるのは、この州の政治に関わる人か、呼ばれた人だけなのよ。……だから、ミレイも多分、今日だから、こういうことだから入れると思うの。」
と言う。そんな私たちの様子を見かねてか兵士さんが1人中に入って聞いてきてくれる。ほどなくして戻ってくると、心なしか申し訳なさそうな顔をしつつ、
「ディレイル様は、“ミレイ殿お1人だけ”入れるようにとのことでした。」
と、言ったのだった。
「……」
シエラの顔がまたさらに、悲しげなものになる。けれども、打ち消すようにニコリ笑って、
「それじゃあ頑張ってきてくださいね、ミレイ。」
と言って、背を向けた。
私は兵士さんに向き直ると、
「今日の州議で、ディレイル様が私を手伝い人として雇われたことをお話になるということで参上しました。」
と言う。兵士さんはさっと槍のクロスを解いて、ドアを開けてくれる。私は1度頭を下げてから入った。
大広間は、このネルブース城の中で、最も広い部屋なのだそうだ。入った正面に玉座があるが、空いている。おやと思って見ると、その脇に椅子があって、そこにディレイルが座っていた。……ということは、今日はアルフレッド閣下はいらっしゃるのかな……、と思った。と、彼が私に気づいたのか、目配せをしてきた。私はうなずいて返事にする。彼もうなずき返して、椅子から立ち上がる。
「……皆のもの、これより州議を行う。今日も例によって、父辺境伯は体調が優れないとのことで、参加できない。母もその付き添いということで参加できない。そのことをまず謝罪する。許してくれ。」
そう言って、頭を下げる。「……さて、まず皆に言っておくことがある。俺は昨日、専属の雑用係のものを1人、雇い入れた。名は、ミレイという。書類の受け渡しの関係で、否が応にも顔を合わせることになるだろうから、ミレイに、皆の顔を覚えてもらう、また皆も、ミレイの顔を覚えてもらいたいがため、ここに呼んである。……ミレイ!ここへ!」
「はい」
ディレイルへの返事のために発した声は、震えてはいなかっただろうか……。けれども、そんなことは気にしてはいられなかった。ディレイルの声に合わせて、州官たちが一斉にこちらへ振り返った。そしてぱっと見で中堅以上に見える人たちが、一斉にはっとした顔になる。小声でなにやら話をする声も聞こえる。私はそれに耳を傾けることなく、ひたすら前に進み出た。そして全官吏の前に立つと、彼らの方に振り返る。
「……皆様、お初にお目にかかります。昨日ディレイル様に雇われました、ミレイ・イェツェール・ジェンティラス・ニシノと申します。このような場に参りますのも、このような仕事も初めてですので、至らないところも多々あるかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って頭を下げる。ディレイルが少し笑んだ。
「……最初に会った時には、どうなるかと不安だったが、うまくできて安心したぞ。さっき彼女からの自己紹介にもあったように、ミレイには、我が家の姓を与えてある。……州議にも参加できるようなお前たちならば、この意味、俺が言わないでもわかるだろう。……次に、ウェルディ州における主要官――長官、副官クラスだな――に1人1人、ミレイは挨拶していくように。」
「はい。」
それから、1人1人、順繰りに挨拶していく。まずは辺境伯補佐のラウラ・セルディさん。歳はぱっと見で40代くらいかな、ちょっとぽっちゃりめの体格をしている。見た目は完全に市場の女店主みたい。低音の穏やかな声だ。次に、州将軍のヴィルヘルム・レックサンさん。こちらは50代半ばくらい。いかにも歴戦の軍人といった感じで、がっしりとした体格、短いあごひげを生やしている。軍人らしく、結構声は大きかった。その次は、州都長官の、アマンダ・ローリアさんと、その副官2人だ。アマンダさんは、30代初めくらいに見える。結構ほんわりとした声だった。その後は、城主総代、副総代、兵士長、財務局長に州務局長、修築局長と3人の副官2人ずつ、文官長、武官長と続いていって、覚えられなかった(ごめんなさい……。でもいつかきっと覚えますから)。そして最後に、副兵士長2人になる。
こうしてみると、かなり女性の官吏さんが多いな、と思った。ここに出てきている中でも、3割は女性だろう。さらに言うと、辺境伯補佐、州都長官、副城主総代、州務局長が女性だった。
集まっている中にはもちろん、シエラのお父さんもいる。彼は、まだ40代初めくらいだった。チェーンメイルと金属板を継ぎ合わせた鎧を着ていて、その上に緑色のサーコートを着ていた。さらに背には、緋色のマントを着けている。娘と同じ金髪を後ろでくくっていて、余ったリボンを背に垂らしている。戦傷を隠すためか、右目から鼻にかけて大きな眼帯をつけている。また、声はものすごく渋いバリトンで、気を張ってこの場に臨んでいなかったら、腰が砕けてしまいそうだった。
「――ミレイ殿、娘のシエラがお世話になっているそうですね。シエラの父で、このウェルディ州副兵士長を務めています、ジェラルド・ウルジーと申します。」
……ああ……、眼福という言葉はあるが、“耳福”という言葉はあるのだろうか……。そんなことを思えるくらいに渋い美声だ。ああ……何でこんな声を持っている人がこの世界の人なんだろ……。向こうだったら間違いなく声優になれているだろうに……・もったいない(オイ)。
「いえ……むしろお世話になっているのは私の方で……。昨日いきなり、どこの誰ともわからないような私にここのことを教えてくれましたし、それに、フラウト・トラヴェルソを教えてほしいとも言ってしまいましたし……。」
「まあ、娘の場合、それが仕事ですからな。しかし……、フラウト・トラヴェルソですか。娘は、あれを教えられるくらい、うまかったですかな?」
「い、いやあ、その、私もよくはわからないんですけど、とてもきれいな音だったものですから……。」
言っていてわかったけれどまるで答えになっていなかった。けれどもジェラルドさんはにこりとうなずいた。やっぱり、娘のことをよく言われて、うれしいのだろう。
ちょうど、2人の副兵士長で最後だったので、私は元の位置に戻ると、ほかの人たちに失礼にならない程度にディレイルに向き直った。ディレイルはずっと、椅子に座ってじっとこちらを見ていたが、終わったのを見てとると、1つ軽くうなずいて、言った。
「よし、終わったようだな、ミレイ。それではお前は、すぐに俺の執務室に行き、州議が終わって俺が行くまで、書類の整理をしていろ。方法はお前に任せる。すぐに行って、取りかかってほしい。場所は、外で待っているシエラに案内してもらえ。」
私は、跪拝の礼をとって、踵を返した。歩いていきながら、彼の声が背後で響いているのを聞いていた。
「それから、ミレイの机を執務室に用意させた。皆は、これから先は書類を俺の執務室に持ってくる際には、ミレイの机に置くようにしろ。これは命令だ。そこで、喫緊のものかどうかを見て、俺が見ることとする。下官たちにもそのように申し伝えておけ。」
私はここで大広間を出たので、この後の州議がどうなったのかは知らない。大広間を出ると、そこにはさっき言っていたように、シエラが待っていてくれていた。彼女がいつも浮かべている柔らかな笑みを見たとたん、私の中で張り詰めていたものが一気に緩んでいくのを感じた。そうして、絨毯の敷かれた床に、へなへなとへたりこんでしまった。
「ちょ、ちょっと、ど、どうしたの、ミレイ!」
慌てた様子で聞いてくる。私はまだへたりこんだままで、こう言った。
「あ~、緊張したあ……。」
と。それから、シエラと兵士さんの助けを借りて、なんとか立ち上がることができた。「……だ、だってさあ……、州のお偉方全員がこのドアの向こうに勢揃いしているんだよ。その中に私1人で……。心細かったったらなかったわよ。ライオンの群れの中に1頭紛れ込んだインパラの気分だったわよ。虚勢張っているのが精一杯で、全員と主要官の人たちに挨拶したけど、もう何を話したかも忘れちゃったわよ。……それに、シエラのお父さんって、ものっすごい渋~~~~~~い美声しているんだもん。」
「あ、ああ……、父さんの声に聞き惚れちゃったのね……。」
まったく……罪な声なんだから……、と続けて彼女はぼやいた。執務室に案内されながらも、まだ私はジェラルドさんの話をやめられなかった。
「ねえシエラ、よく平気だったよね、あの声を聞いていて。」
「うん、まあ……、伊達に17年間、あの父の娘をやっていないから……ね。」
あっさりとそう答えた彼女を、私はほとんど尊敬せんばかりに見つめていた。
そうして、ディレイルの執務室に着いた……のだが。
「うっわ……、すご……。」
これは、私の執務室に入っての第一声だった。というか、その部屋の様子を見て、これ以外に言うことができなかった。シエラもまた、盛大に顔を引きつらせている。
私たちがこうなってしまったのも、無理のないことなのだ。というのも、ものすごく書類などで部屋が散らかっていたからなのだ。まず、正面奥にあるディレイルの執務机には、書類がいくつもの山を作っている。そして、重なりすぎてバランスがとれなくなったいくつかの山は、なだれを起こして崩壊していた。そのなだれが、ほかの山にも被害をもたらしている……、といった感じなのだ。机の上に乗りきらなかったものは、床にまでその占領地を広げていた。……こんなんでよく決済期限だとか、そういうものに間に合わせていたな……と思うしかなかった。
「この服じゃあ、とてもじゃないけどできないね、シエラ。」
「……ええ。」
弱々しく、シエラが答える。
「とりあえず、男物でもいいから、動きやすそうな服を2着、持ってきてくれないかしら?……もう部屋に戻っている時間もないでしょうし、ここで着替えるしかないわ、急いでね。」
と、私は言った。シエラは1つうなずいて、すぐに出て行った。一方の私は、一応、このかっこうのままで、できる限り書類を片付けていくことにした。数分で、シエラが戻ってきた。持ってきたのは、やはり、簡素な男物の服だった。私はドアの鍵をかけると、豪華な上衣を脱いで、さっさとそれを着た。ついでごてごてとした髪飾りを外して、髪をほどくと後ろで1つくくりにした。シエラも同じようにする。脱いだ服は、隅の方にたたんで置いておいた。
着替え終わってから互いの様を見てみると、シエラはなんとなく、男装の麗人、といった感じの風体になっていて、私の方は、そのままの、女顔の優男、と言われてもうなずかれてしまうようなものになっていた(うううう……同い年だっていうのに、何なんだよこの差はァーーーーー!!!!)
それから2人してまず書類を1カ所に集める。書類は机の下、椅子の下にも散らばっていて、何度も何度も探さなくてはならなかった。
20分くらいかけてすべての書類をかき集めると、半分に分ける。それから、私はさっきディレイルが“用意させた”と言っていた自分の机で、シエラはどこかから机を引っ張り出してきて、それぞれ分けた書類を、期限から近い順に積み替えていったのだ。
さっき感じたことにもつながるのだけど、整理していて1つ、気がついたことがある。1つとして、期限が書かれているもので、遅れているものがないということだ。……一応、こういう状況下でも、どれが期限に近いものかわかっているのだろうか、それとも、期限近くになって血相変えて決済如何を聞きに来た官吏さんが部屋中探しまくって、その場で認否を聞いたのだろうか……。うん、多分、後者だろう。
この作業は、私とシエラの2人でやっているにもかかわらず、1時間くらいかかってしまった。そのことだけでも、いかに書類が多かったか、わかってもらえるかと思う。けれども、整理が終わってもなお、まだ州議は終わっていないようだ。外の様子に耳をこらしてみても、官吏さんが歩いている足音もまばらだし……。ここで私たちは、元の服に着替えて、ディレイルが戻ってくるまでのあいだ、今日が期限になっているものだけでも、私の見る限りで重要だと思うものを上へと積み変えていった。そうして、ディレイルの執務机に乗せていっても、すべては乗せきれなかったので、脇へと次々と積んでいった。そしてさらに、翌日期限のものも同じようにしてとうとう終えた。
「はあ~~~~~~~。終わったわね……。」
床にへたりこんで、私が言った。
「はい……。フフフ……、ディレイル様にはきつーく申し上げておきませんと……ね。」
同じく床にへたりこんでいるシエラが、微笑を浮かべながら静かに言った。……な、何かシエラが怖い。いつもと変わらない柔らかい笑みのはずなんだけど……、ま、まさかシエラに限ってそんなはずは……。これが誤解だとわかるまでには、長い時間はかからなかった。
結局、ディレイルが戻ってきたのは、昼頃だった。
「どうだ、ミレイ、終わ……!」
まだ床にへたりこんでいる私たちを見て、言葉が止まった。シエラは立ち上がると、にっこりと、いつもよりも笑顔の純度(?)を上げた。そして、それはそれはきれいな笑顔をひらめかせて、こう言った。
「……ディレイル様、今度からはもっときれいにしておいて、私たちをあまり困らせないでくださいませね?」
と。ディレイルはぐっと詰まった。なんだか、シエラがぐんと大きくなったような気がした。……く……黒い……、と、私は思った。これにはさすがのディレイルも、
「す、すまぬ。」
と、言うしかなかった。このとき私は、どんなことがあっても、シエラだけは決して怒らせないようにしよう……、と、心密かに決心したのだった。
整理後にディレイルに残された書類は、昼をもうすでに過ぎてしまっていることもあり、決裁は、とりあえず昼食をとってから、ということになった。そこで、ディレイルとシエラ、そして私とで、食堂に行く。廊下にはほかにも、食堂に行こうとしている官吏さんや兵士さんがいるのだけれど、なぜか一様に表情がさえない人が多かった。私は訳が分からないなりに、今まで根を詰めて仕事をしてきて、疲れちゃっているのかな……としか思わなかった。ちなみに、今行こうとしている食堂は、私たちの生活のためにある棟のそれではなくて、政のための建物にあるものだ。こちらは生活棟(後で聞いたところでは、生活のための棟は主宮殿、または辺境伯宮殿というそうだ)の食堂とは比べものにならないほどの広さを持っているのだそうだ。それも無理はない。何しろ、この城で働いている州官、州武官が使うのだから。
ちなみにメニューは日替わり(またはトップの料理担当官長の気まぐれとも言う……)らしい。それを聞いてから、
「どんなのが出るか楽しみね。」
と、まことに万年欠食児童のようなことを言ってしまった。……実は、これでシエラから、
「もう……ミレイってばいつもお腹すかしているみたい。」
というツッコミを(いや、べつにディレイルからでもいいんだけど)期待していたのだけれど……。しかし、それを期待していた当人はおろか、ディレイルでさえも、どことなく複雑そうな顔をしていた。なぜか視線をあらぬ方向にやっている。私は何でそんな表情をするのか分からなかったので、ディレイルに聞いてみた。
「あの……ディレイル様、どうなさったんですか?食堂に何かあるんですか?」
「シエラの前でも、“様”付けはしなくてよい。」
しかし、私の問いにディレイルが答えたのは、これだけだった。それに、この台詞に続けて説明してくれそうなそぶりもない。シエラにしても視線をあらぬ方にやるばかりで説明してくれそうにない。……まったく……、私は心の中で盛大にため息をつきながら、敬語を交えずに、完全なタメ口でもう1回同じことを聞いた。すると、今度は説明してくれた(ああ……とっても面倒くさい)。
「うーん……前宮殿(領主家の人々、家人の生活のための主宮殿に対して、政のためのものだと聞いた)の料理担当官の今のトップはなあ……。腕はさして悪くはないのだが、うまい時とまずい時の当たり外れがとても激しいんだ。時々であればまあいいのだが、同じ日に同じ人が作った、同じ料理の中でも当たり外れがあるものだから、始末が悪いのだ。……まあ、うまいものに当たっていたら、天国を見るだろうし、最悪、まずいものに当たってしまっていたら、地獄を見てしまうことになるな。」
と。それから、「そろそろ、“犠牲者”が見られる頃だ。」
そう、続けていった。……ていうか、“犠牲者”って、ずいぶんと物騒な物言いだなあ……、と思って隣を歩くシエラを見ると、ディレイルの言い分がよく分かる、というようにコクコクとうなずいている。そんな2人の様子に首をかしげていた私だったが、食堂に近づくにつれてその疑問は、熱湯につけた氷のように瞬く間に消えていった。
というのは、食堂前の廊下にはたくさんの官吏さんや武官さんが倒れていたからだ。どの人にも共通しているのは、苦悶の表情を浮かべているということだ。ちょうど私たちの見ている前で、さっき食べ終えたのだろう、よろよろと歩いてきた官吏さんが(どうやらディレイルには気がついていないらしい……。まあ、仕方のないことか)、力尽きたようにバタリ、と倒れ伏してしまった。その脇を、気の毒そうな顔をした官吏さんや武官さんが通っていく。どうやら、こうなってしまった人は、そのまま隅にでも転がしておくらしい。……というか、医務室のようなものもあるだろうに、連れて行かないのだろうか……。まさか、もうそこもベッドが満杯で入りきらないのだろうか……。
私は口をパクパクさせて、ディレイルとシエラを見る。2人はそれぞれ、
「……俺は、今のトップになってから、14回ほど気を失った。」
「……私も、23回ほどなりました。」
と、遠い目をして言ったのだ。おいおいおいおい!こんなの、テレビでやっているような罰ゲームのロシアンルーレットよりもタチ悪いだろ!……ていうか、そんなに不具合が出てしまうのなら、そんなやつは辞めさせればいいのではないのだろうか?と私は思った。そんな私の気持ちが通じたのか、ディレイルが、
「うん……。辞めさせて、さっさとウェルディ州追放くらいにしたいのはやまやまなんだがな……。いかんせん、あれに代わる者がいないんだ。あれは、料理に当たり外れがあるものの、部下への采配の腕は悪くないんだ。だから、やつには指示だけで、部下のみでやらせようとしているんだが、いつの間にか、分からぬ間に作ってしまっているんだ。しかもそれがほかの者が作ったものと一緒くたにして置かれているものだから、分からぬまま出してしまうことがよくあってな。……それに、もしもそういうものを作ってしまう者を民の下に出してしまいでもしたら、この州都の機能は、1週間で全停止してしまうだろうな……。」
と、言ったのだ。……そこまでして州で背負い込むこたないだろ!と思う。そんなの、ディレイルの命令か何かで手配書回して、そいつに料理を作らせないようにすることはできないのだろうか……。というか、そんな人を州で抱え込んで、よく機能停止しないものね……。
とまあ、そんな話をしながらも食堂に入ったわけだが……。
食堂は、確かに全官吏、全武官が食事をするだけあって、広かった。そこは、主宮殿の食堂に比べると豪華さでは劣るが、しっかりとしたテーブル、椅子がきちんと並べられ、壁にはところどころ絵が飾られているのも、私としてはポイントが高かった。
けれども、そんな私の好感度を台無しにするような光景が広がっていた。
そんな広い食堂内は、テーブルに突っ伏して気絶している人、何事もなかったかのように普通に食べ、ほっとした表情で出て行く人、そして、浮き足だって、気持ち悪いくらいに笑み崩れた人でいっぱいだったのだから。……まあもっとも、2番目の人たちが1番多いのだけれども、それでも、前後者が醸し出す異様さは、どうやってもぬぐい去ることができなかった。
「……あ、あの、これって……。」
「ああ、気を失っている者は、地獄を見てしまった者。何事もなかったのは、そいつの料理を食わなかったか、まあ、食ったとしても、幸運にも地獄も天国も見なかった者。そして、あのやたらと笑み崩れている、気色悪いことこの上ない者たちは、天国を見てしまった者だ。……まあ、前後者については、これからしばらくの間、使い物にならなくなっちまうがな。」
私が訳も分からず、目の前の光景について聞くと、ディレイルが真顔で解説してくれた。……とは言っても、真顔で解説されたとしても、こっちはどう答えたらいいのかが分からないのだけれど……。といか、“天国”の説明がかなり投げやりというか、ぞんざいだったな……、とも思う。
「それに、今は何事もなさそうに見える者たちでも、後になってだいたい半分はぶっ倒れる。だから、今から3時間くらいの間は、この当たるか当たらないか分からない食事のおかげで、まともに使えるやつは、いつもの半分くらいになってしまうんだ。……もし、ネルブースを攻めるとしたら、今だろうな。」
と、最後にかなり恐ろしいことをサラリと言ってのけた。……だ、だからこんなにここで食べている人が少ないのかなあ……と思った。広さ、テーブルの数の割に、かなりまばらだったからだ。それに、食堂に行く人たちの表情の理由も、これでようやく分かったのだった。
……というか即効性のものばかりではないのか。そう思うと、さらに恐ろしさが増す。すると、外から、
「ぐあああーー!」
とか、「ぎぃやああーーー!」
とか、「げぐぁあああーーーー!」
とか、「ぐふっ……」
といったような、RPGでは“死ぬことが前提になっている仲間キャラ”、あるいは、ボスキャラクターの断末魔のような悲鳴が聞こえてきた。しかも辺り一帯の廊下からだ。……ああ……ご愁傷様ですと、私は思うしかなかった。
今日の昼食のメニューは、豚肉ソテーのオニオンソース、ゆでた野菜のスープ、パン、それに、果実をシロップにつけてできたジュースだった。ぱっと見だけではとてもおいしそうで、とてもこれであんなにもたくさんの官吏さんや兵士さんたちを使い物にならなくさせられるんだろう……?と思えるほどにその内容はシンプルなものだった。そして、3人が同じテーブルにつくと、私たちに気がついた人たちがわっと集まってきて、
「でぃ、ディレイル様!今日ばかりは、今日ばかりはおやめくだされええええええ!」
「今日の食事はとてもやばいものですから!!!」
「今までで、全州都文武官2万人のうち、もう800人も倒れているんですぞ!」
「それに、新入り!ミレイ殿!こんなもの人の食べるものではないぞ!」
「シエラも!これからの州務はどうなるのだ!」
などと、口々に言ってくる。……そ、そんなにひどいのか……。ていうか、“人の食べるものではない”って、あまりにもひどすぎやしないか……。作ったのはその担当官長だけではないわけだし……。ほかの担当官に失礼じゃないかな……と思いながら、とりあえずスプーンにスープをすくい、一口飲んだ。
……次の瞬間、まずっ!と思う間もなく、気が遠くなってしまった。遠くで、私の名を必死に呼ぶディレイルの声を聞いた……ような気がした。
私は、夢の中でかなりうなされていた。とはいっても、いったいどんな夢を見ていたのか、よくは覚えていないのだけれど。そんな状態でも、何らかの夢を見ていたことは覚えているのだから不思議なものだ。自分が寝ていると気がついた瞬間、ぱっと跳ね起きた。……見覚えのない部屋だ。多分どこかの仮眠室か何かだろう……と思った。
「え?あれ?私どうしたんだろう。」
少しばかり混乱していると、
「気がついたか。」
と言う、男の声がした。ぱっと見ると、いかにも中世ヨーロッパの貴族のなりだという若い男がいて、一瞬驚く。そして、ここはネルブースの城の中だということを思い出した。ディレイルが続ける。
「ここは、ネルブース城内の医務室だ。あの時、一口食うなり、すぐに倒れたんだ。いきなりな。……ああ、でも気がつくのは早いほうだぞ。というのも、あれから1時間もたっていないからな。たいていは、短くとも、1時間と少し、くらいは復活までかかってしまうんだが。」
「そ、そうなんですか。」
そして、「あの、シエラはどこにいるんです?」
聞いてみた。すると、
「横にいる。」
ディレイルの簡単な答えを聞いて見ると、シエラも私の隣の寝台で横になっていて、うんうんうなっていた。
「……どうも、シエラもまずい料理にあたっていたようでな。お前をここに運んできて、食堂に戻って、一口食った瞬間にこうなってしまったんだ。」
「それでは、ディレイル様は大丈夫なんですか?」
「あ」
急に思い出したようにディレイルは言う。「ミレイ、2人だけで話している時には、敬語も、様付けも禁止だと言っておいたはずだぞ。……俺も、うっかり忘れていたが。」
「そうなんですけど、ここには気を失っているとはいえ、官吏さんや武官さんもいることですから。」
「……そうか?」
それだけ言う。どことなく不満そうだ。何か、扱いづらいな(オイ)。けれども答えてくれる。
「ああ、俺はなんとかうまくもまずくもないものになっていたようでな、あるいは、ほかの担当官が作ったものだったのだろう。全くなんともない。これで執務室に戻れるというもんだ。それと、ほとんど何も食べられていないだろうから、担当官に言って、何か簡単なものを作らせてここに持ってこさせるから、ここで食べておけ。」
私は、さっきのあの料理を思い出してしまった。食堂に着く前のディレイルのあの言葉が真実だったことを、身をもって知ってしまった。今となっては、しばらく料理自体を見たい気分ではなかった。首を振り、いらないと伝える。
「い、いいえ!もう大丈夫です!」
と、言った。ディレイルは少し呆れていたが、
「安心しろ。前宮殿ではなく、辺境伯宮殿の料理担当官に言っておくから。……それに、もうこういうことを見越して、作り出しているかもしれんな。……と、そういうわけだから、そんなにビクビクするな。それに、今食っておかないと、夜まで持たないぞ。それを食って、休んで、出られるようになったら、執務室まで来い。……あ、ここから執務室までは分かるか?」
と、聞いてくれる。分からなかったので私は首を振る。と、彼は軽くうなずいた。「うん、そうか。ならば、シエラが気がつくまで待っているがいい。で、シエラが気がついたら、前宮殿からの食事をとって、彼女に案内してもらって、執務室まで来い。それから午後の仕事をしてもらう。……まあ、昨日の疲れも出たことだろうから、ゆっくりしておけ。……俺はその間に、できるだけ未決書類を減らしておくから。」
そう言って、出て行った。
それから約30分後、壁の時計を見ると、1時くらいになっていた。だんだんと気がついていく官吏さんや兵士さんが増えてきた。そして、とうとうシエラも気がついた。
「ここは!?」
はね起きるなり焦ったように言う彼女に、私は答える。
「ああ、気がついたみたいね。」
と。それから、「前宮殿の医務室よ。これから、辺境伯宮殿の料理担当官の人が、簡単な食事を持ってきてくれるんだって。で、それを食べてから、執務室にシエラに案内してもらって来てほしい、そう、ディレイル様がおっしゃっていたわ。」
シエラがそれを聞いて、1つ息をついた。
「そうなんだ……。……ふう~~~~……。それにしても、何事もなさそうでよかったわよ。だってミレイったら、いきなり倒れるんだもん。」
「ごめん、シエラ。心配かけちゃったね。まあでも、あれだけ言われていても、まさか一口で意識が吹っ飛ぶなんて思いもしていなかったもんだから。」
そう私が言うと、シエラも乾いた笑いを浮かべてうなずいた。
「まあ……。それは、そう思うのも当然よね。だって、あれで気絶したのが初めてだったのよ。……別に毒を混ぜるのではなしに、料理で人が殺せるかもって思ったのは……。」
その言葉には、私もうんうん、と力をこめてうなずく。と、ちょうどその時、辺境伯宮殿の料理担当官らしい人が入ってきた。どうやら、気絶して昼ご飯をとれなかった人のための食事を持ってきてくれたようだ。ワゴンのようなものを押していて、そこにはいくつものサンドイッチがのっていた。……あ、あれ~~~~~、サンドイッチって、近世か近代くらいの食べ物じゃあなかったっけ……。なんて、1人で思う私にはお構いなく、担当官の人はどんどん気がついている人たちに配っていく。私に渡された時、ちょっと彼に言ってみることにした。
「あの……、何とかならないんですか、前宮殿の?」
40代半ばくらいの担当官さんは、困ったような顔をした。
「うーん……。前宮殿の厨房と、辺境伯宮殿のそれとでは、性格が全く異なっていますし、また、距離もありますからな……。それに、料理人はプロ集団です。向こうには向こうの意地というものがあるんですよ。……今でこそ、私たちがこうして簡単なものを作って運んでいますが、こうなるまでには、いろいろと大変だったんですよ。」
そう言う担当官さんに、シエラがコクコクとうなずいている。疑問に思って聞くと、答えてくれる。
「あったのよ、いろいろとね。まず、役人たち、兵士たちが辺境伯宮殿の人に簡単な食事を作ってほしいと閣下に嘆願したら、前宮殿の担当官長が、そんなものは必要ない、そういった食事もこちらで用意するって言っていたのよ。でも、それじゃあ以前と何も変わらないわよね。それに、気絶して気がついたのに、また同じ憂き目を見たくない私たちが猛反対したの。」
私は、彼女の台詞の一部分が気になった。
「“私たち”ってことは、シエラも?」
「そうよ。それに、ディレイル様もやっていたわね。というよりも、普段からあの大食堂を使っている役人や武官は全員加わっていたわよ。中には、対策をとってくれなければ、職を辞めるとまで言い出した高官もいたから。で、それらのことを重く見られた閣下が命じられて、今のようになったってわけ。……それまで、3ヶ月くらいかかったかな。始まって半年くらいになるけど、まあうまくいっているのかしらね?」
へえ……。どれだけあの食事に辟易していた人が多かったのかが、分かった気がした。それにしても、“職を辞める”と言った高官って、誰なんだろう?
担当官さんがうなずく。
「今となっては、互いに切磋琢磨するようになりましたからな。料理の質、種類が広がって、よいことですな。」
と言う。「しかし、官長については難しいと思いますよ。自身で作るだけではなく、ほかの担当官に采配もしなくてはなりませんからね。まあ、今はこちらも、こういうことに備えて、準備はしていますからね。」
そう言うと、配り終えたほかの担当官さんと一緒に、一礼して戻っていく。追加分を作るのだろう。ともかく、ディレイルに言われたように、食べなきゃ、夜まで持たない。私とシエラは、ベッドの上でサンドイッチを食べた。……うん……おいしい。こういうものだったら、食べた瞬間、そして、食後少したったころに気を失うこともないんだろうけどな……。なんて、私は思ってしまった。その後、ベッドからおり、シエラに案内してもらって、さっきの執務室まで向かおうとした。
廊下に出てみると、何やら官吏さんや兵士さんが慌ただしく走り回っているのだ。何か、妙に気になる。一体何があったんだろう?……まさか敵襲が?そう思って隣を歩くシエラに聞くと、彼女は首を振って言う。
「敵襲ではないわね。それだったらもっと物々しくなっているはずだし、外から怒声か何かが聞こえてくるはずだから。それに何より、敵を知らせるラッパか何かが盛大に鳴っているはずだもの。」
と。……ああ、ここが日本じゃない……、とつくづく感じさせる一言だった。いつでも戦時にもなり得る可能性をサラリと言えてしまうところに、私はまたシエラを少し遠くに感じた。
とここで、敵襲ではないと分かったところで、じゃあ何なのかと思って、2人で顔を見合わせてみても、そうしたところで分かるわけもなかった。そんなこんなで歩いて行くと。人だかりができていた。そこは――
ディレイルの執務室だった。
「……ミレイ……まさかとは思うけど……。」
シエラが言う。私は、ほおを引きつらせながら、さっきのディレイルの言葉を思い出していた。“……今は何事もなさそうに見える者たちでも、後になってだいたい半分はぶっ倒れる”。……ま、まさかね……、ハハハ……。
なんて思っている間に、担架に寝かされたディレイルが出てくる。そして、そのまま彼の部屋行きとなる。私たちの予感は、的中してしまったのだった。
「どうしようか、シエラ。」
「いや、どうしよう、って言われても……。」
主がいなくなってしまった執務室に入っての、私たちの第一声だ。シエラも困り顔になってしまっている。まあ、それも無理のないことだ。何しろ、この部屋に散らばっていた書類の整理は、昼食の前にやってしまっていたし、決裁書類を見て、裁可してもらおうにも、そういうことをいつもしている人は、部屋行きになってしまっている。……いや、ここは、“連れていかれてしまっている”とした方がいいかもしれない。また、領主たるアルフレッド辺境伯閣下は病身であり、ここまでいらしていただけそうもないし、代わりに意を仰ぐこともできなさそうだ。さらに、ディレイルが倒れる前に処理したものも、ただの1つとしてないのだ。……どうやら、やろうとしたところで、“地獄”を見てしまったのだろう。……今は1時30分くらいだから、早くても3時くらいまではここには戻ってこられないだろうな、と思う。それから、今日までのものだけ片付けたとしても、かなり遅くまでかかってしまいそうだ。
「……執務室付きの兵士さんには言っておくから、この間に前宮殿を一通り案内しようか?」
シエラの提案に、私はこくりとうなずいていた。