序章
序章
……今私こと西野 美玲の目の前には、家の近所ではありえない光景が広がっている。
鉄筋コンクリートではなく、またタイルでそれっぽく仕上げられたものでもない、本物の石造りの家並みが建ち並んでいる。しかもそれは、世界史の教科書でしか見たことのないような、中世ヨーロッパのようで。辺りを見回してみても、さっきまで私がいた、駅の建物はどこにもない。
待て待て。確か私は駅の階段から落っこちて気絶したのよね。そんでもって気がついたらいつの間にやらこんなところにいる。ともかく、状況を整理しよう。今の私の状況は……。
時間は朝……のようだ。腕時計を見ると朝の8:00を指している。携帯電話の時計も同じだ。しかも日にちは今日だ。……ワープですか?もしくは、階段から落っこちて気絶している間に(なぜかは分からないが。ていうか病院に連れていって欲しかった。)中世ヨーロッパ風のテーマパークに連れてこられたのだろうか。ただし、圏外になってしまっている。こんなに開けているのに携帯電話がつながらないところがあるんだ……と、この時はそう思っていたのよ。格好は高校のブレザー制服だ。黒いブレザーなんだけどうつ伏せになっていたせいで茶色っぽくなっている。
そして、さっき病院うんぬんといったが、不思議と階段から落っこちたにしては、痛みはない。体のどこを動かしても、どこかを怪我しているようではなかった。そして、そんな中で、どうやら裏通りっぽいところでぽつんと座りこんでいるというわけだ。
……何で私、こんなところにいるんだろう?きっかけは、もしかしなくても、アレ、よね?
こうなる直前、私は……。
うぁあ~~遅刻遅刻~~!!
私こと西野 美玲は、今、ある危機に陥っている。それは、高校の最寄り駅まで行く電車で、今駅に止まっているものを逃すと、遅刻が確定してしまうということだ。しかも、今日の1時間目の先生は、遅刻にとても厳しいことで校内でも有名だ。よりにもよってそんな日に寝坊するなんてぇ~~!!こんなことになるなら、深夜までアニメを観たり漫画を読んでいるんじゃなかったぁ。
……誰がどう見たって、明らかに私の自業自得だ。……うん、分かってるよ、分かってはいるんだけど、一体なんなのだろう、この認めたくない気持ちは。
……だったらアニメは録っておいて、漫画も読まずにさっさと寝ろや。
なんて自分にツッコミを入れて、それにいやいや、と答えるという1人漫才をしていると、発車ベルが鳴り出す。周りのペースも速くなる。……ヤバッ!
……ドンッ……
私は、かけ降りていく誰かにぶつかられ、バランスを崩した。急いで手すりに手を伸ばすが、ない!うそ、壁近くで降りていたはずなのに、何で!?
そう思っているうちに、私の意識はブラックアウトした。
……というのが、ここに来る直前のできごと。そして気がついて、最初に至るというわけだ。
ともかく、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。裏通りっぽいところから出て、にぎやかな表通りに行こう。
そして、出てみたのだが……。
別世界だった。
石造りの建物が連なり、辺りの店には売っているものを示す看板が下がる。そして、大通りの先には、城が建っている。これも、中世ヨーロッパの城という雰囲気を漂わせている。それも、砦とか、そういったレベルのものではない、どこかの名のある貴族あたりが居城にしていそうな、そんな大きさをもっている。
へぇ~~。階段から落っこちれば、もれなく世界遺産見学ツアーでもやってくれるのかしら……、と思わせるような、威容を誇っている。私は、世界史の図説で見た、某豪華なる祈祷書に出てくる城を連想した。ヨーロッパ中世都市そのまんまの光景が広がっている。そうなのだが……。
道行く人の髪の毛の色が、およそ現実離れしているのだ。金、銀、茶、白、赤などは当たり前にある。黒もそこそこいる。しかし、大部分の髪色は、緑だの青だのと、思わず、アニメかっ!とツッコミたくなってしまうものだ。そんなことを考えている私自身、思い当たることがあり、後ろでまとめている髪をほどいて目の前に持ってくる。すると……
いつの間にか、純日本人的な黒から、藤色に変わっていた。
げぇっ!自分の方がアニメかよっ!
と心の中で突っ込む。
そして、荷物を確認する。今持っているのは、学校指定の2ウェイと、手提げかばんだが、中身はどうなっているのか。確認すると、今日これから受ける授業のもの、それから、放課後の習い事の道具が入っている。どうやらなくなっているものはないらしい。
歩き始めたとき、私はまたも重大な問題に気がついた。
……ここって、どこなんだろう?
これを読んでいるそこのあなた、今更かよなどと突っ込まないでほしい。いきなりこんなところに放り出されて、私だって混乱しているんだから!
私は、通りの奥に見える城に向かって歩くことにした。大きさから見て、ただの防衛用のものではなく、ここら一帯の役所的なものを兼ねているような感じがしたからだ。あそこに行けば、ここがどこかも分かるし、帰り方も分かろうというものだ。向かう間にも、情報を集めるために、行き交う人に話しかける。
しかし、格好だけでも私はかなり浮いているらしい。他の人の格好は、典型的な中世ヨーロッパの一般人の服装といったところ。対して私は、当時の技術では作れないだろう一般的な高校の制服だ。なんか本当にテーマパークだな……。世界史の図説で見た通りの服だ。作るのに相当お金がかかったんだろうな……なんてのんきに考えていた。だってみんな彫りが深いし、外国の人だよね。そんな人たちをこんなに集めるために、どれだけのお金がかかったのか、ちょっと想像がつかない。近くに日本人らしい人はいない。しかたない、外国語は不得意だけど、やるしかない!
「……は、ハロー」
「……?」
うそ……。英語が通じない?いや、決して私の発音がベッタベタのジャパニーズイングリッシュなわけではない……と思う。思うが、21世紀の国際社会での公用語の1つである英語が通じないって、どういうこと?ここは人通りからして、結構栄えているはずだ。それに、みんなヨーロッパ系の顔をしているから、英語くらいは通じるだろうと思っていたのだ。ううむ……他の国の言葉でチャレンジしてみよう。
それから私は、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ロシア語の「こんにちは」を言ってみたのだが、まったく通じない。さらには中国語、韓国語、ヒンディー語、アラビア語までやってみたが、全然通じない。(いや、通じてもその先が続かないんだけど……。)むしろ、訳のわからない言葉をしゃべっていると思われて、避けられてしまう始末だ。ええい!こうなりゃ一か八か、
「こ……こんにちは。」
「!……こんにちは。」
……
通じちゃったよオイ!何だよ、それならさっきまで散々私がうろ覚えの発音でいろいろ言いまくっていたのが馬鹿みたいじゃない!……ていうか日本語でいいのか、みんな明らかに外国人じゃん。
「どうしましたか?」
「少しお聞きしたいことがありまして……。」
「ゴラァ、ふざけんじゃねえぞ、コンガキャア!」
親切そうな30代くらいの役人といったなりの人に、ここはどこなのかを聞こうとした。いきなり聞こえてきた怒号に聞きたかったことが吹っ飛んでしまったのだが。
見ると、6歳くらいの男の子を、3、4人くらいの、いかにもな感じの破落戸が囲んでいる。破落戸は、こん棒や剣、鎖がまをもっている。周りの人も助けたいのだろうが、相手がならず者ということもあって、あまり動けないのだろう。一体全体、どういうことがあってこんなことになっているのかは分からないが、このままじゃ、男の子が危ない!
「おいおい、待ちなよ。あんた、あの男の子を助けようって思ってんじゃねえよな?」
助けに行こうとした私の肩をつかんで引き留めたのは、あの役人風の男の人だった。私のいきなりの行動に、口調が少し崩れている。私は早口で答える。
「もちろんです!あのままじゃ男の子が危ないですから。」
「もう誰かが州都の兵士なり、ギルドの私兵に言っているさ。それに、あいつら、軍隊崩れが多いせいか、手強いぜ。」
「でも!」
「その様子だと、あんた、この町、ネルブースは初めてのようだな。あいつらは、“黒獅子党”っていってな、数ヵ月前にここに来やがったんだ。強盗はする、人を傷つける、通りを我が物顔で歩く、やりたい放題さ。まだ人殺しをしていないだけましなんだが、いつそこまでやるか、住んでる皆は気が気じゃないんだ。」
その人の言葉を聞いて、何となくわかった。あいつらは、人殺しはやらないんだ。むしろ、生かさず殺さずで、自分達のいいようにしているはずだ。
……そこまで考えてみたとき、私はある可能性に行き当たった。
……ひょっとしてここ、テーマパークなんかじゃ……ない?現実?
私はまた男の子の方へ向き直る。それだったらなおのことあの子が危ないじゃない!私は手提げかばんに入っているあるものを出すと、迷いなくそちらに歩いていく(よかった……今日これの習い事の日で……)。
すると、後ろから腕をつかんで止める人がいる。見ると、さっきの破落戸のことを教えてくれた人だ。
「いいか、悪いことは言わねえ。止めようとか思うな。こんな丸腰で一体何ができるっていうんだ?こんなやせっぽちの兄ちゃん1人なんて、簡単に叩きのめされちまうよ。」
さらに止めようとする。周りの人もうなずいている。そんな言葉を、にっこり笑ってとどめる。そして、わざと男のように声を低くして言ってやった(正直ものすごく腹がたったけど……。でもおさえた)。
「大丈夫ですよ。あんなのに負けるような鍛練はしていませんから。その、州都の兵士なり、ギルドの私兵が来るまで、あいつらからあの子を守るくらいはできますよ。」
そして子供を背に、そいつらの前に立ち塞がった。
この地の次期統治者は、自らは馬に乗り、さらに4頭の馬に乗った従者、5人の徒歩従者を引き連れて、今しも狩りから帰ってきたところだった。
「……本日は、よう捕れましたな、ディレイル様。」
従者に声をかけられた男――ディレイル――は、満足そうにうなずいた。
「ああ、最近とみに成果がいい。やはり、春になってからは違うのだろう。……フフフ、今日の夕食が楽しみだな。担当官にも言っておけ。」
と言う。それを聞いた従者たちは、心の中でホッとしていた。この地の支配を、父から代理として任されている彼の仕事が、この後、滞りなく進むだろうことが、容易に予想されたからである。ディレイルは、当代領主の嫡子で、高い政務能力の持ち主ではあるのだが、この点について、悪癖がある。彼は、狩りなどの成果の良し悪しによって、その日その日、またはその後数日間の仕事の効率が大きく変わってしまうのだ。……今日、あまり捕れなかったらどうしたものか……と、従者たちは思っていたのだ。というのも、今日までに、剣術だの槍術だの体術だの兵法だの、そして狩りといったものに時間を割かれまくっていて、未決になっている書類が、補佐たる彼の机にはたくさんたまっているからだ。
満足しているディレイルと、これからのことに安心している従者たちが城に向かっている。すると、誰かが彼らのところまで、何やら慌てたように駆け寄ってくるのが見えた。従者がさっと、ディレイルをかばうように立つ。走ってきたのは、若い女だ。
「ディレイル様。黒獅子党が、男の方と子どもを取り囲んでいます。」
女は、それだけを言った。ディレイルは、それを聞くや否や、すぐに現場へ向かって馬を飛ばそうとしたが、ピタリと思い止まった。……この人通りの中で馬を走らせれば、民も、そしてもちろん馬自身も無傷ではすむまい……。そう思うと、ひらりと馬から降りる。
「――馬と獲物は任せる。城に運んでおけ。手が空いている者は全員、俺に続け。剣もすぐ抜けるようにしておけ。その男と、子どもとやらを助けるのだ。」
「はっ!」
そして、ディレイルと共に行くものがすぐに決まり、ディレイル、女を含めた6人で向かうことになった。
道すがら、案内する女に、ディレイルが聞いた。
「“ギルド”へはどうなっている?」
「もう連絡が入っているのではないでしょうか。そして、兵士の編成をして、もう出発している頃かと思いますが。」
彼は、女の答えに、目を見張った。……この女、できる。じっと見つめていると、それに気づいて、
「あの……ディレイル様。なにかございましたか?」
と、聞いてくる。
「いや……すごく冷静で的確な判断だと思ってな……。そうだ、こんな場でなんだが、お前は州府官になる気はないか?……その気があるなら、この後にでも任命書を作らせるのだが。」
「いいえ。」
女の答えは早かった。「それに、どうして冷静かっていえば、いつもいつもこういうことがあるからです。毎日のように連絡が入るもので。」
「?……ということは?」
「ええ、ネルブース・ギルド総元締、ガブリエル・マルケサスは、アタシの父ですわ」
ディレイルは納得した。
「おい!さっさとそのガキの前からどきな!」
「やだね。」
私はにべもなく返す。「こんな子ども1人に、何だって5人も(いつの間にか数が増えていたのだ)よってたかっていじめている!こんな小さな子が、あんたらに何をしたっていうんだ!こんなことをして、少しは恥ずかしいと思わないのか?」
「何?」
ドスをきかせてすごんでくるけど、はっきり言って全く私には通じていない。さっきから見ていて、あまり大した実力もなさそうなのは、見え見えだった。
多分、身のこなしから見て、教えてくれたような、軍隊崩れではなく、ここにいればいい思いができるということで入ったクチだろう。私は、さらに続ける。
「大体、喧嘩でもなんでも、1対1でやるのが基本だろうが!それを何だ!1人、それも子どもに対して大の大人5人?……ハハハ!呆れて笑いしか出てこないな!」
どんどん挑発しまくっている。そして、さっきから後ろ手で持っていたものを静かに構える。……まあ、もうそろそろ限界にきて、かかってくる頃合いだろうから。私が構えたものを見て、破落戸たちが下卑た笑い声をあげる。
「……ん~?ゲハハハ!こんな扇1つで何をやろうってんだ、この兄ちゃんは?……おい!てめえら、構わねえ、やっちめええい!」
……
……ああ、よく、“堪忍袋の緒が切れる”って言うけど、本当に切れるときには、自分のなかで音がするものなのね……。そう思った次の瞬間には、男の子を脇に突き飛ばしていた(ゴメンね……)。いくらなんでも、子ども1人を背にかばって5人を相手するというのは、いささかきついからだ。……お約束通りというべきか、子どもは私の視界の隅で、見事にすっころんでしまっていた。
さっきの“兄ちゃん”云々のところで完全にキレていたので、手加減などもとよりしていなかった。最初に、棍棒をふりかぶってきたやつの左手に回り込んで扇――実は、ただの扇ではなく、鉄扇だ――でしたたかに殴りつけた。一声呻いたきり何もしなくなったところを見ると、この一撃でそのまま気絶してしまったらしい。倒れないうちに、さらに鎖がまを構えて突進してきたやつに向かって蹴り飛ばす。これで2人ダウンした。残りは3人。
次に仕掛けてきた賊は、剣を持っていた。上段から降り下ろしてきたのを鉄扇で受け、払いのけてがら空きになった脇腹をまた同じように蹴りつけてからさらに頭も殴った。続けて 後ろから来ていた男には、鉄扇でこめかみを殴りつけ、今度は腰を思い切り蹴飛ばした。これで、あと1人になった。
……やりあっていて思ったのだけど……。
こいつら戦い方がヘタクソ過ぎる!仲間がいることの利点を全くといっていいほど活かせていない。バラバラに攻撃をかけたって、各個撃破されるだけなのに……。私は、某歴史SLGの戦争を連想した。
最後の1人は、さっき私を“兄ちゃん”呼ばわりしたやつだ。どうやら彼がリーダー格、なおかつ、最も手練れのようだった。すぐにかかってこないで、さっきまで様子を見ていたのだ。後ろで見ていて、一筋縄ではいかないとでも思ったのだろうか、仲間を見捨てて逃げようとした。私はすぐに鉄扇をブレザーの内ポケットにしまうと、走って間合いを詰める。振り向いたリーダーが驚いている隙に組み手をとり、身を屈めて反転させる。背負い投げをかましてやった。その時に、こう言うのも忘れなかった。
「私は……女だぁ―!!」
――女だったんかい!というのは、このときこの場にいた全員が思ったこと。しかし私にはそんなことは知る由もなかった。
ぶん投げたときに、思わず手を離してしまった(これは本当に本当よ)ので、リーダーっぽい男は、もろに背中を地面にうちつけてしまい、うんうんうなっていた。気絶こそはしていなかったものの、しばらくの間起き上がることはできないだろうな。と、他人事のように思った。
戦いが終わると、それを合図にしたかのように、周りにいた人たちはぱっと活動を再開した。どこからどうみても兵士さんには見えないが、がっしりとした体格の人たちが何人かで、破落戸を連行していく。私はすぐに、戦いが始まったときに突き飛ばしてしまった男の子へと駆け寄る。額に擦り傷ができていた。
「大丈……じゃないか。ゴメンね、痛かったでしょう?」
男の子は首をふって、
「ううん、大丈夫だよ。……お姉ちゃん、強いね。」
と、言ってくれる。……多分この子もさっきの私の叫びで“お兄ちゃん”ではないことに気がついたのだろうな。
「助けてくれて、ありがとね、お姉ちゃん。」
……でもかわいいから許す!(オイ)
「いいのよ、そんなことは。……それよりも、傷の手当てをしなくちゃね。ちょっとしみて痛いかもしれないけど、ほんの少しだから我慢してね。あと、目もつぶっておいてね。」
私はそう言うと、2ウェイのカバンから、日本人なら誰でも知っているだろう消毒薬を出すと、男の子がしっかりと目をつぶっているのを確認して、さらにまぶたにも指をあてて、かける。薬がしみたのか、思ったよりも冷たく感じたのか、わずかに体を震わせた。我慢我慢、と言いながら、母親らしい女の人にきれいな布を借りて、垂れてきている消毒薬をふきとった。あいにくとばんそうこうは持っていなかったので、手当てはここまでだ。
「……よし、これで手当ては終わりね。あとはお母さんにお願いしてね。……でも、よく泣かないで我慢できたね、えらいよボウヤ。」
頭を撫でながら言うと、男の子はにっこり笑って、お母さんらしい人のところへトタトタと走っていった。……ああ……走り方もかわいい。ウフフ……。ハッ!いけないいけない、危うく妄想に入ってしまうところだった。すると、お母さんらしい人が男の子の頭をなでつつ、
「息子を助けてくださいまして、ありがとうございます。……後日お礼にうかがいたいので、お名前を……。」
と、いってくれる。けれども私は、丁重にお断りした。別に、お礼を言われるようなことをしていないし、自分の力でもなんとかできると思ったからこそ、ああいうようにしたのだ。なので、そう言ってくれる気持ちだけで十分だった。それに何より、ここにずっといるわけでもないのだ。なるべく早く、元の日本に戻りたかった。そして、私自身、そのつもり……だったのだが。
いきなり、そのお母さんをはじめとする周りにいた人たちが、一斉にひざまづいた。……いやいや、そこまですることでもないでしょうが……と思った。しかし、すぐ後ろに気配を感じて、振り返った。
ディレイルたちは、女の案内について、現場に到着した。時を同じくするように、ギルドの私兵も着いていたようだ。しかし、彼らは、動くことができなかった。当の“藤色の髪の男(随分と妙ななりをしている)”が、破落戸を華麗に倒していっていたからだ。そして、“彼”が、リーダーをぶん投げたときに時に叫んだこともきっちり聞いていた。それには、他の野次馬と同じように、ディレイルもまた驚いた。その後急に、彼女がまとう空気が変わったのを機に、ギルドの私兵が本来の職務を思い出したのか、破落戸たちをしょっぴいていった。それを横目に見ながら彼は、その女が少年に何やら薬らしいものをつけてあげているのをじっと見ている。その動き、まとっている空気に、何とはなく見覚えがあったような気がしていたのだ。人混みをかきわけ、彼に気がついた領民がひざまづくのを軽く手を挙げて応えながら彼女のところへと歩く。そして、彼女の背後まであと少しというところに立ったとき、今気がついたというように振り返った顔を見た。
……!
まさか……と、思った。
振り返ると、私の目の前わずか1メートルくらいのところに、いつの間に出てきたのだろう、若い男が立っていた。何やら驚いたような顔をしてはいたけど、とても美形だということはすぐにわかった。長身で、ぱっと身で上等品だと分かるが、簡素にまとめられた服と装飾品。その上に着けている軽く、動きやすさを考えられたような鎧、腰の剣……。軍人、それも、結構上の位にある将校……かな、と思った。さらに背にくくりつけられた弓、腰のえびら(ここってヨーロッパみたいな感じのところだけど、矢の入れ物を“えびら”って言っていいのかな……?)でそれを確信していた。私よりも3~4歳くらい年上に思えた。何度もしつこいようだが、整った顔だ。
……でも、その男にいつまでも見とれているわけにもいかなかった。……だってさっきまでこんな人いなかったもん!もしさっきの時点でいたら、私のタイプレーダー(笑)にばっちり反応があったはずだから!……とまあ、これだけで分かるかとは思うが、顔つきなどは割とタイプなのよね。けれども……なのである。何となく危機感を抱いて、ついさっき内ポケットにしまったばかりの鉄扇を出して、構えた。少しばかり周りにいる人たちがザワリとどよめいていたようだけれど、また、周りを固めているらしい従者っぽい人たちが、顔を厳しくさせるが、そんなものに構ってはいられなかった。何といっても今このとき、頼れるのは自分だけだからだ。しかし……。鉄扇を向けられている当の本人は、それに目をやるとまじまじと、興味津々、といった様子でじっと見つめているのだ。何やら、目までキラキラし始めている。後ろには、さっきは厳めしい顔をしていたはずの彼の従者、さらには何人かの兵士さんがいて、この場に入りづらそうに立ち尽くしているのが見えた。
「おい、」
はあ~。人に向かって“おい”ときたよ。この人には人付き合いの常識はないのか……などと、自分のことは棚の一番上にまで上げて思った。そして、右手で鉄扇を構えつつ、左手を腰にあてる。
「……少なくとも初対面の人に向かって、いきなり“おい”はないと思いますが。もっと、いい言い方というものがあるでしょう。」
辺りは急にザワリとした。そしてヒソヒソと、何やら話し合っている声も聞こえてきた。……え?何?私、言っちゃいけないことを、言っちゃいけない人に言ってしまったのかしら?……一方、言われた当の本人は、きょとんとしていたが、すぐに気を取り直して、
「あ、ああ。すまぬ。……では、つかぬことを尋ねるが、お前は……」
と、言ったのだ。……ク、プククク、こ、今度は時代劇口調になっちゃったよ……。さっきはいきなり目の前に現れたり(単に私が気がついていなかっただけとも言う)、なんやかやがあって、少しだけ(本当に少しだけか?)動揺しちゃったけど、今度は笑いをこらえるので必死になっている。……え?何でこんな状況なのに笑いをこらえるので必死なのかって?そりゃあだって、想像してみてよ。明らかに外国人(彫りの深い顔に薄い緑色の髪、そして同色の瞳をしている男)が、“つかぬことを尋ねるが、お前は”って、テレビの時代劇によく出てくる、侍が町人にものを尋ねる常套句を使っているんだよ。これを笑わずにこらえておけっていう方が、無理というものだろう。また、笑わない方が無理だろう。
「さっき……少し見ていたのだが……。その扇で戦っていたのか?」
「は、はい。」
笑いを押さえ込んで答える。聞いてきている男は真面目なので、やっぱり笑ってしまうのはかわいそうだから。
すると、男は片手を出して、
「その……少しだけでいいから、見せてくれぬか?俺には、どうしてもこれで剣を受けたり払いのけたり、また、大の男の気を失わせるほどに殴りつけられるとは思えなくてな。」
私は1つうなずくと、鉄扇をさしだした。彼は一言礼を言ってから受け取り、すぐに意外だ、というようにピクリと眉をはねあげた。
「ん?……いざ持ってみると、案外重いな。」
「はい。その扇は、骨が太くなっていて、鉄でできていますから、その分、重くなっているんです。――鉄扇っていうんです、それ。」
彼はまだ私の鉄扇を子細に、いろいろためすすがめつして見ていたが、やがて、もう1度礼を言ってから返してくれた。私は制服の内ポケットに鉄扇をしまう。……何となく、さっきの破落戸のような危険人物ではないらしいことが分かった。
彼は、しばらくそのままで考え込み、
「……できるな。」
と、ぼそりとつぶやく。私は聞き取れず、
「ほぇ?」
と、何とも間の抜けた声を出してしまう。もう一度言ってもらおうと言うが、それには答えない。どころか、さらに、
「気に入った。……城に来い。」
なんて言われてしまった。
……………………え?
私は一瞬、彼が今何と言ったのか分からなかった。しかし、数秒で言ったことが理解できると、今度はさぁっと青くなっていったのが自分でも分かった。……え?何か、何かやっちゃあいけないことをやらかしちゃったのかしら、私?……だって、あれは明らかにあっちの方が悪者っぽかったけど……。……もしかしたら、男の子の方が……?いやいや、あんなに純真無垢な感じのお子さまが悪漢だったなんてそんなことはない!私はそんなことは信じない!と、思い直す。
あと……“城”って、私の後ろに堂々と建っている、見るからに“これは世界遺産ですよ”というオーラを放ちまくっているあの城のこと?とも思った。それらのことを混乱した頭でぐるぐると考えていると、そのすきに、どんなことになったとしても、一生されないだろうなと思っていたことをされた。視界が90°上向きになり、背とひざの裏に手の感触がある。なんのことはない(え?)お姫様だっこをされたのだ。これには周りで見ていた人たちも驚いていたが、された当人自身は当たり前だがもっと驚いた。
「え?ちょ、あなたね!こんな公衆の面前でなにしてくれちゃってんのよ!」
と言ってはみるが彼自身は全く意に介していない。
あ、あと私の荷物!恥ずかしいやらなんやらで、顔を真っ赤にしながらも、そして、お姫様だっこという態勢になっていながらも、置きっぱなしになっている手提げカバンに手をのばすと、彼は従者らしい人にこう言っていた。
「後は任せる。こいつの荷物も後で運んでおけ。俺は先に城に戻る。」
そう言うが早いか、彼は脱兎のごとく走りだしていた。もちろん、私と、肩にかけている2ウェイバッグを抱えたままで。それにしても、私とバッグを抱えているにしては、しっかりした足取りでなおかつ速かった。
しかし、冷静に分析できたのはここまでだ。なぜかって?当たり前じゃない。
ものっっっっっすごく恥ずかしいことこの上ないからだ。通りを歩く人々の視線が、遠慮なしに私に注がれているのがひしひしと伝わってくる。……ああ~恥ずかしさのあまり気絶できたらどんなにいいか……。
「ちょ、ちょっとお~~~~~~!」
通りに、私の絶叫が響いていた……。