剣が消えたこの世界で。
「忌まわしい……」
「貴女なんて産むんじゃなかった……」
またこの夢だ。もういつだったのかさえも定かでない、記憶の欠片。
幼い私が両親に虐げられ、忌み嫌われる光景をまた私は見ていた。
もう触れられないことはわかっている。幼い私の口を塞ごうとしても、その身体に触れることはできない。
もうすぐ、幼い私はその言葉を言ってしまうだろう。私は目を背けることなく、その言葉を聞いた。
「おとうさん……おかあさん……っ!」
突然静かになった部屋に、幼い私の嗚咽が響いた。
××××
「…………」
枕がひんやりと冷たい。いつの間にか夢から醒めたらしくいつも通り涙で濡れた顔を拭う。
親の最期を何度も見てしまうのは最初こそ耐え難い苦痛であったが、今となっては慣れてしまった。
それに、慣れずには生きられないのだから。
きっかり7時。家の外も人の声がちらほら聞こえる。すると1階から慣れ親しんだ足音が聞こえてきた。
「アリア、起きたか。朝食持ってきてやったから一緒に食うか?」
「あなた……ありがとう。」
私を起こしに来てくれたその男は、私の恋人であった。ただ、名前は知らない。
「また、同じ夢を見たのか?……ほら、飯食わないと元気も出ないぞ。」
そう言って彼は私の部屋のテーブルに食事を置いた。温かいスープの匂いが、私をベッドからテーブルへと誘った。
「ふふ、ありがとう。あなたのご飯はいつも美味しいわ。」
「まあ料理が仕事だからな。沢山食って今日も働くぞ。」
「ええ、この……」
パンを褒めようとしたところで、私は慌てて口を閉じる。
彼も察したらしく、
「はは、危なかったな。流石にコレが食えなくなるのは少し寂しいかもな。」
と、冗談交じりに言ってくれた。
私がもしもパンと言ったならば、世の中からパンは消えていたのだろう。
××××
「アリア、そこの鍋洗っておいてくれるか?」
「ええ。」
朝食を済ませ、身支度をした後に彼の店の準備を手伝う。他の店と違い、昼からしか営業しないのは「朝っぱらから起きられない」と言っていた彼らしい理由からだ。
私は人と話すことを避けるため、厨房で料理を作り彼が運んでくれる。注文を取るのも彼であるため、店は少し忙しい。
「アリアのおかげで今日も準備が捗る。いつもありがとうな。」
彼は微笑み、いつも通り私を褒めてくれる。この日常が幸せだ。
しかし彼の頭上の壁に飾っている、剣の装飾が不自然に揺れた。
「ん?」
私の怪訝な表情を見た彼は、振り返った。その時だった。
金属音を立てながら突然剣が外れ、彼の首目掛けて滑り落ちてきたのだ。
迷いはなかった。
「……剣!」
私が声を発した途端、まるでそれは砂のように消滅していった。
幸い、彼は無事なようだ。
「……危なかった、他のオンボロ装飾も外しておくか。」
「ふふ、そうね。」
「……アリア。」
私が呪われた娘であることは彼も知っている。そして彼は口を開いた。
「この世からまた、物が一つ減っちまったな」
「ごめんなさい。この力は使いたくなかったのだけど……」
「はは、まあ俺らは幸い剣なんて使わないからな。ただ兵隊は困るかもな?」
「傷つけるものが無くなれば、平和になるんじゃない?」
「それもそうかもな、アリアはやっぱり頭がいい。」
世の中の人は、物が消えたことには気付かない。彼だけが知っている、私との秘密。
二人の間でしか共有出来ない呪いは、皮肉にも私達との絆を深めたのだ。
××××
その後は特に命の危険がある訳でもなく、適度に忙しい一日が過ぎていった。
「今日もお疲れさん、アリア。もう寝て大丈夫だぞ。」
「ええ。……また明日も頑張りましょう?」
「そうだな。おやすみ、アリア。」
そう言って彼は寝室へと戻っていった。同じベッドで並んで寝ていたこともあったが、あの夢を見るようになってからは別々に寝るようになった。
理由はわからないが、私はそうした方がいい気がしたのだ。
××××
「やっぱり、俺ももう長くはないか……」
薄くなった指先を見ながら、俺はため息をつく。まるで自らの存在が消えていくようだった。
「あなた、でもダメか……アリアともう少し居たかったんだがな……」
彼女の呪いは、ゆっくりと俺の身体を蝕んでいたのだ。
思えば、彼女の近くで暮らし始める前は物が消えても気づかなかったのだ。ただの伝説としか思っていなかった。
だが、俺自身にも物が消えたことが分かるようになったのだ。俺ももう、呪いに飲み込まれているのだろう。
「すまない、アリア。」
聞こえるはずのない声は、冷たい床に吸い込まれていった。
××××
「アリア、起きてるか?飯食うぞ。」
またいつもと変わらない夢を見て、変わらない朝が来る。幸せな一日の始まる合図のようなものに感じられた。
ただ、何かがおかしい。
「どうした、アリア。俺の顔に何か付いているか?」
寝ぼけ眼を擦り、彼を凝視する。彼の後ろの壁が、透けて見えた。
「……嘘、でしょ?」
私の呪いが、最愛の彼のことまで蝕んでいたなんて。何より、前触れなしに彼を奪うなんてなんて残酷なのだろうか。
彼の身体に触れようと、ベッドから立ち上がる。しかしシーツの端が私を邪魔する。
「きゃ……」
倒れる私を、彼は支えてくれなかった。
いや、支えられなかったのだ。よく見ると彼は朝食すら持っていなかった。
「ごめんな、アリア。もう触れもしないみたいだ。ドアが開きっぱなしで助かったよ。」
軽口を叩こうとしている彼の肩は、心なしか震えている。
「私から離れて、あなた。きっとそうすれば消えずに済むから……」
しかし彼は私の手を取るかのように、側を離れない。
「ずっと、子供の頃からお前を守ってやりたかった。親がお前のことを呪われた娘だの何だの言ったとしても、俺はずっとお前のことを最愛の娘だと思っているよ。」
こめかみにピリピリと痛みが走る。パズルのピースが噛み合うような、そんな感覚。
私の失った記憶が徐々に色づいていく。
「アリア、最期に俺の名前を呼んではくれないか?」
彼は光の粒子となり、だんだんと存在が不安定になっていくようだった。
私が彼の名前を呼ぶことは、つまり彼を消してしまうことだ。しかし、彼の目はそれを受け入れるかのように優しく私を見ていた。
私は涙でくしゃくしゃになった顔を無理やり笑顔に作り変え、彼の名前を呼んだ。
××××
「ほんとに、昔から変わらないんだから……」
彼の墓の前で、一人つぶやく。
「……もう少し早く、私が記憶を取り戻していたら……」
そっと墓石に近づき、刻まれた文字を指でそっと撫でる。
「今までありがとう。これからも、ずっと愛しているわ。……お兄さま。」